03

 虎獣人の男性に導かれ、が向かった先は、病室などの綺麗な場所ではなかった。
 そこは、正しく牢獄だった。
 建物の地下へと伸びる階段を下った先、薄暗く広がった空間。冷え切った空気が漂い、通路の片側に金属の頑丈そうな扉が五つほど並んでいる。広大な空間ではないが、その手狭さが、かえって雰囲気をより重いものにさせている。

 治安を守る組織なのだ。無法者を捕えておく事もあるだろう。
 町のヒーローという一面が強く、見えていなかった側面を初めて目の当たりにした心地だ。カイルがどういう組織に身を置いているのか、今になって痛切に理解する。

「――カイルは、優秀な若手だ。まあ若さゆえの無鉄砲さと軽率さも否めないが、住人を良く守る真面目な隊員だ」
「……」
「だが、あれでも獣人だからな。暴れられたら、普通の部屋など半日と持たず壊し尽くされる。ここに入れるしかない」

 先導していた虎獣人の男性の足が、一枚の扉の前で止まる。反響していた足音が消え、も歩みを止めた。
 無機質な黒い扉。透明な硝子の小窓がはめ込まれている。
 虎獣人の男性は、扉の前からすっと身体をずらした。覗いてみるといい、と告げる眼差しを受けたは、ごくりとつばを飲み込み、恐る恐ると扉に張り付いた。

 小窓から覗き込んだ部屋の中は、小さな明かりが一つ灯っているだけだった。格子が付けられた窓から射し込む月明かりが無ければ、そこはきっと暗闇に包まれる。
 は、薄暗い暗がりに目を凝らす。部屋の片隅で、何かが蹲っている。

 床に爪を立て、身体を激しく戦慄かせ、手負いの獣のように藻掻き苦しんでいるあれが――カイルだと言うのか。

 あまりにも信じがたいが、月明かりに照らされる先端の折れ曲がった三角の耳や毛足の長い尻尾、身体付きなど、覚えのある輪郭をしている。
 可愛い弟分。人懐っこくて、後ろをくっついてきて、へこんでいた時はあっただろうかというほど明るく快活な彼が――まさか、あのような有様になるとは。
 は、言葉を失い、立ち尽くす。想像も出来なかったとはいえ、あれほどまで豹変しているとは、全く考えもしなかった。

 あれが、重度の発情期にあるという、獣人の姿。
 まるで、野生の獣そのものだ。

 人と獣、二つの性質を併せ持つ、獣人という種族。その本質には獣の血が深く関わっているが、あのような状態になる事は恐らく滅多にないだろう。でなければ、はもっと早くに知っていた。
 あれが獣人の本性であり、カイルにも秘めていた側面であるというなら、が一度も目の当たりにしなかったのは……――。

「あいつは……ずっとあれに耐えていたんですか」

 けっして見せないように。
 心配などさせないように。
 傷つける事がないように。
 耐えて、耐え続けて、そうして何事もなく笑っていた。
 ――下手したら、もっと幼い頃から。

 カイルの両親は、知っていただろう。の両親も、もしかしたら知っていたかもしれない。
 ただ一人、だけが、知らなかった。昔から変わらないなんて、のんきに過ごしていた。
 カイルは、これからも隠していくつもりだったのだろう。だが今回、ついに忍耐の限界値を超えた。が知る事になってしまったのは、彼にとっては望まぬ結果であったのかもしれないが――。

 は口元を手のひらで覆い、扉に額を押し付け、凭れ掛かる。しばらくの間、両目を伏せていたが、再び視線を起こした時、その瞳には強い覚悟が宿っていた。

「……少しでも、症状を、よくする方法は?」

 が真っ直ぐと尋ねると、虎獣人の男性は微かにだが驚いたような表情を浮かべる。しかし、多くは言わず、ただ短い言葉をへ告げた。

「――貴女の、想像の通りに」

 冷たい空気が流れる通路で、は場違いにも、安堵する吐息をこぼした。
 それなら、良かった。私にも、してあげられる事がある。

「――隊長さん、一つ、お願い事を聞いてくれませんか?」

 微笑みと共に告げた言葉に、虎獣人の男性は否やとは言わず、静かに頷いた。




 ギイイ、と耳障りな金属質の音を立て、扉が開く。その先へが踏み入れると同時に、扉は再び閉じた。ガシャン、と空気を震わすその音は、扉にはあるまじき重厚さだった。
 息苦しいほどの沈黙が訪れ、の全身に圧し掛かる。冷え切った通路とは違い、部屋の中は生温い空気が満ちていた。片隅で蹲る獣の、荒々しい息づかいと唸り声に染まっているよう。

 部屋の中に誰かが侵入してきたと、気付いているのだろう。カイルの顔は伏せられているが、忙しなく耳は動き、逃げるように身動ぎをしている。グルグルと、低い唸り声が絶えず聞こえる。
 は慎重に、一歩一歩、踏み進む。近付くたびに、カイルは全身の毛を逆立て、唸り声もよりいっそう激しく響いた。

「カイル」

 蹲るカイルとの距離は、あと五歩程度にまで狭まった。
 が声を掛けた瞬間、伏せていた彼の顔は弾かれたように起きる。愕然とした表情が、月明かりに照らされた。

「……、ちゃん?」
「うん、そう」

 途端に、カイルは身這いつくばりながら部屋の隅へと逃げる。

「どうして、ここに」
「カイル」
「来るなよ、何で来たんだよ。誰が……ああ、くそ、そんな事より、何で」
「カイルの具合が悪いって」

 そう言った次の瞬間、カイルの咆哮が響いた。

「馬鹿じゃないのか! なんで放っておかないんだよ!」

 思いもしない大音声を浴びせられ、は驚きのあまり硬直した。

「――こんな俺」

 カイルは、自らの恥を隠すように、身体を丸める。

「こんな俺、ちゃんには、見せたくなかった」

 痛切に絞り出した、掠れた悲鳴。その痛ましさに、の心は抉られる。
 うん、そうだね。分かるよ、本当にごめん。あんた馬鹿だし明るいけど――けっこう、意地が強いから。
 これはきっと、カイルの自尊心を傷つける。申し訳ないと、これでも思っている。
 だが、もうそんな事も言っていられないだろう。
 嘘をつくのが下手くそな子犬が、ここまで完璧に隠し通した。その理由が何でなんであれ、どのような状況にあるのかは、彼が押し込まれたらこの独房が示している。

 私は、そんな彼を救うために、覚悟を決めたのだ。

 は一呼吸を置くと、衣服を掴み、その場に脱ぎ捨てる。胸と下半身のみを隠した下着姿になると、カイルの前に膝をつく。

「隊員の皆さんに、聞いた。発情期、大変だったんでしょう?」

 必死に伏せている、カイルの頭をそっと撫でる。恐る恐ると、カイルの眼差しがへ向く。下着のみの姿になっている事を認めると、全身が激しく硬直した。ぶるぶると戦慄き出す、大きな背。今にも飛びかかりそうになる自身を、必死に抑制しているように見える。

「カイル、辛かったら――いいんだよ」

 びくり、と両肩が飛び跳ねる。唸り声がどんどん厚みを増し、を見つめる獣の眼は暗い熱を帯びてゆく。
 そして次の瞬間、飛び掛かるようにへ腕を伸ばしてきた。

 もしかしたら、噛まれるかもしれない。子どもの頃の甘噛みではなく、皮膚が裂けて血が流れてしまうような、本気の力で。だが、それでもいいかもしれない。傷の一つや二つ、いくらでも受けよう。

 は、覚悟と共に瞼を閉じる。荒い息遣いと唸り声、耳元で感じる獣の気配。すぐに、牙は届くだろう。
 ――だが、いくら待っても、痛みは訪れない。
 恐る恐る、が瞼を開くと、目の前にカイルの大きな身体が迫っていた。痛ましく唸る彼は――自らの腕に噛み付いていた。

「カイル?!」

 ギリギリと、食い千切るような音が聞こえてくる。腕に食い込む牙からは、じわりと血が溢れていた。
 自傷に走るなんて、思ってもいなかった。
 は動揺を露わにしたまま、止めさせようと腕を伸ばす。だが、カイルは自らの腕から口を離さず、噛み締めたままくぐもった唸り声を上げるばかりだ。止めるようにとが促しても、けして従おうとしない。このままでは本当に、腕が千切れてしまう。

 ――そこまで、嫌がらなくても、良いじゃない。

 覚悟を決め、隊長に無理言って入らせてもらったのに、まさかの渾身の拒絶。そこまでされると、結構、悲しいのだが……。

「カイル、お願い……お願い……口を離して」

 どうしようもなく、情けない声をこぼした、その時だった。

「――いつもは、逃げる癖に」

 ボタボタと血が滴る腕を噛んだまま、カイルが呟く。暗がりの中に浮かぶ彼の瞳は、何処か恨めしそうな感情を宿している。

「何で、こんな時ばっかり」
「カイル」
「逃げればいいじゃないか、いつもみたいに」

 そう、そうだよね、本当に。
 曖昧に誤魔化し、逃げ出し、そのたびにカイルを傷つけてきた。素直に好意を寄せてくれて、懐いてくれる彼を、平然と。いつだって残酷だったのは、であった。
 後悔するのも、許しを乞うのも、もうとっくに遅い。それでも、助けてあげたいという気持ちは嘘ではなかった。おこがましいが、その証明として、自らの身体を差し出す覚悟をしていたのだけれど……――。

「私なりに、ちゃんと考えてきたの。そりゃ、五つも年上の姉ちゃんが相手じゃ、嫌だろうけど……」
「――違うよ。ちゃんだから、嫌なんだ」

 カイルは、恥を吐露するように、重く呟いた。

「だって、本当は……ずっと触りたいって、思ってる。今だけじゃない、もっとずっと前から」
「え……」
「押し倒したい。匂いを嗅いで、いっぱい触って、犯し尽くしてやりたい。ちゃんが、泣いて嫌がったって、止まらないくらい――俺、ちゃんに触りたい」

 その声と眼差しには、どろどろと重く、爛れるような欲望の熱が溢れている。そしてそれは、他の誰でもない、へと向けられている。
 まさか明るい弟分の口から、そのような劣情塗れの言葉が飛び出すとは。さすがにも、動揺を抑え切れなかった。目の前にいるのは、小さい頃から後ろにくっ付いてきた可愛い弟ではなく、熱に浮かされた雄の獣そのものだった。の背筋が、ぞくりと震えてしまう。

「でも、違うよ……」

 カイルは重く項垂れる。先端の折れた三角の耳が、弱々しく垂れ下がる。

「俺は、こんな、同情とか仕方なくとか……そういうのは嫌だ。俺、ちゃんが好きなんだ。発情期だからなんて、嫌だ。言い訳に使いたくない」
「カイル……」
「発情期だから良いなんて、許されたくない。そんな格好悪い事、したくない」

 ふと、の脳裏に過ぎったのは、警邏隊員姿のカイルだった。
 が知らないだけで、彼はきっと日常生活の裏側に潜む暗く惨い事件を、幾度も見てきた事だろう。その中には、獣人関連の……正に発情期に纏わる事件が、あったのかもしれない。

「こんな状況で、それ言う?」

 昔から大して言う事は聞かないし、駄目と言ったはずの事はやる。それなのに、良いと言った事は、頑なに拒む。
 本当に、こいつは。こいつときたら。
 は、笑いながら、静かに泣いた。本当に、馬鹿な弟分だ。優しくて、真っ直ぐなままだ。昔から変わらない。だから、もそんなカイルを……――。

「……耐えられそう?」
「……気合で、乗り越える」
「あんたも大概、根性論よね。……私は、帰った方がいい?」
「……帰って欲しいのに……居て欲しい気持ちも、ちょっと、ある。抱きたいとか、そういうのじゃなくて」
「そっか、分かった。なら、ちょっとだけ、ここに居る」

 何もしない。ただ、側に居るだけだ。
 は脱ぎ捨てた服をきちんと身に着けた後、丸まった強張る背に手のひらを乗せる。労りを込めて撫でれば、苦しげな溜め息が僅かながら緩んだ。

「カイルは、昔からこうやって撫でられるのが好きだよね。どんなに元気でも、すぐに寝落ちしたくらいだし」
「……それ、子どもの時の話だろ」
「まあまあ、良いから」

 元気が有り余り眠る気配がなくとも、が撫でてあやしてやれば、彼はたちまち眠ってしまった。きっとこの手には魔法がかかっているのだと、昔はよくはしゃいだものだ。
 とりとめのない思い出話を語る合間には、カイルの微かな笑い声が聞こえる。少しは気が紛れるだろうか。そんな事を思いながら、カイルの背中をとん、とん、と優しく叩く。

「ゆっくり、息を吐いて。ゆっくり、ゆったり……」

 暗がりの中で響く、熱を帯びるカイルの呼吸が、徐々に落ち着きを取り戻す。腕に食い込んでいた鋭い牙からも、力が抜けていた。

「大丈夫。カイルなら、大丈夫だからね」

 伏せた犬の頭が、微かに頷く。
 彼はゆっくりと冷たい床を這い、の足に頭を乗せた。子どもが肉親に甘えるような仕草だった。彼の頭を撫でてあげたかったが、ぐっと耐える。何もせず、ただ膝を差し出し、カイルを見守った。

 ――カイルから寝息が聞こえてきたのは、それから間もなくの事だった。




 真夜中を過ぎ、寝静まり沈黙の漂う町を横切り、自宅へ辿り着いた。
 ここまでわざわざ送り届けてくれたカイルの同僚へ、は感謝を告げる。そして、わがままを聞いてくれたあの虎獣人の隊長にも、どうかありがとうと伝えて欲しいと言葉を重ね、去り行く背を見送った。

 自宅には、薄っすらと明かりが灯っていた。両親は眠らず、を待っていたらしい。心配そうな、気遣うような、あるいは安心したような、不思議な感情が二人の表情に浮かんでいた。
 突然の呼び出しにさては病気かと慌てふためいていたとは違い、やはり二人はその理由を初めから知っていた。カイルの両親から、随分と昔に聞かされていたらしい。人間にはない獣人特有の発情期、年々酷くなるカイルの症状、そしてその最たる原因であるへの恋情についても。
 本人に伝わらなかったのは、カイルが頑なに止めていたからだった。発情期だからを求めているなんて思われたくない。好いているのは発情期のせいだから、などと少しでも思われたくない。そう、言っていたという。
 二人にとっても、カイルは息子のようなものだ。それだけに、複雑だったに違いない。何も言わなかったのも、きっとカイルを慮っての事だった。

 ――もっとも、ここまでが気付かないでいるのは予想外だったと、二人は溜め息をこぼした。

「あんまりにも気付かないから、言ってしまった方が良いのかと、こっちが冷や冷やしたよ」と、二人は呆れている。本当に、今ならそう思うし、心より猛省している。カイルがどのような想いを抱え、発情期を耐えていたのか、は一切気付かず、能天気に接していたのだから。

 ――だが、今夜のおかげで、色々と理解した。

「馬鹿なカイル。私がそれくらいで嫌いになるわけないのにね。本当、いい男に成長しちゃって」

 きょとん、と目を丸く両親の姿に笑いつつ、は自室へ戻った。何やら色々と聞きたそうにしていたが、眠気が限界だ。欠伸をこぼしながら自室へ戻り、ベッドに倒れ込んだ。

 本当に、色々と理解させられる夜だった。

 尻尾を振って追いかけて来たカイルの意地だとか。への恋情の直向きさと、欲望の熱量だとか。可愛い子犬時代はとうに過ぎ、かっこいい一人前の雄になっていた事と――全てひっくるめ、やはり彼からは離れがたいという事実だとか。
 おかげでも腹を決めた。ああだこうだ言うのは、もう止めるのだ。

 カイルが眠った後、は静かに彼の側を離れた。その際、独房の中に散らばっていた洋紙とペンを拾い上げ、走り書きを残してきた。

 短く――私も好きだよ、待っているからね、と。

 思い返すと相当恥ずかしい事を書いたが、あれなら絶対、カイルにも伝わるだろう。
 気合で乗り越え、具合が良くなったら、その時もう一度きちんと向き合おう。今度は、逃げ出さずに。

(よし、とりあえず、寝よう!)

 そういえばあいつ、やっぱり撫でるとすぐに寝落ちしたな――そんな事をふと思い出し、は小さく笑いながら瞼を下ろした。


◆◇◆


 数日後――再び、カイルの同僚がを訪ねてきた。
 カイルの体調は回復し、だいぶ具合が良くなったと、わざわざ教えに来てくれたのだ。

「そうですか、良かった」

 具合が良くなったという事は、あの痛ましい発情期は気合で乗り越えたという事だろうか。無事に復調したのなら一安心だ。
 とはいえ、さすがにしばらくは回復に努めるだろう。独房に走り書きを残したが、元気になった彼と対面するのは、まだ少し先だ……――。

「ところであいつ、今夜貴女のところに向かうと、息巻いていましたよ?」
「――……は??」



2021.04.04