06

 町を賑わせた神田屋の騒動は、数日もすれば落ち着きを見せ始めた。
 標的にされていた伊月屋にも平穏が舞い戻り、滞っていた品物の仕入れなどもこれまで通りに行えるようになった。

 つまり、ようやく――約束していた、念願のかんざしがやって来る!

 ここ最近の一連の出来事のせいで諦めざるを得なかったが、今日ついに店へ届くという。
 盛大に出鼻を挫かれていたけれど、これでようやく果たせそうだ。これまでにない喜びがの中に芽生える。



「……だがな、気持ちは分かるけど、まず落ち着け」
「おお俺は落ち着いてる」
「ブフォッ! うろたえ過ぎだろ。じゃあ何でさっきからウロウロしてんだ」

 ニヤニヤと笑いながら指摘され、はぐっと声を詰まらせた。事実、先ほどから立ったり座ったりを繰り返し、店の入り口をしきりに気にしているので、露骨に目立っている。

「そんな調子じゃあ、千影姐さんにばれてんじゃねえのか」
「い、いや、そんな事はないはずだ。今日だって、いつも通りに颯爽と出てきたし」
「そんな事言ってるうちは、絶対出てきてねえわ」
「どっか躓いてきてんだろ。俺だったら千影姐さんに、もっと漢らしく振る舞うぞ」

 つ、躓いてきてはない。臑はぶつけてきたけど、千影にばれてないはず…………おい、今喋った奴、誰だ。

 同輩の身体を締め上げながら待つ事しばし――何処からともなく吹いた風が、伊月屋の暖簾をふわりと揺らした。

「ごめん下さいよ、伊月屋さん」

 足音もなく、店の入り口に佇んでいたのは、質素な身なりをした小さな老人であった。
 幼子のように小柄な背丈だが、行商などが活用する背負い箪笥を負う背中はしゃんと伸び、独特の泰然とした空気を漂わせている。
 騒動の際に噂を聞きつけ店へやって来た、職人のあやかしだ。
 飄々とした足取りで店の中へと進むと、よっこらせと言いながら小上がりに腰掛け一息つく。我が家に帰ってきたような寛ぎように、さすがだと苦笑する他ない。

「まあまあ、いらっしゃいませ。お疲れでしょう、まずはお茶をどうぞ」
「おお、ありがとうよ。だけどまずは、約束のかんざしを見て貰おうかね」

 老人は背負い箪笥を下ろすと、枝のようなしわがれた指で小さな引き出しを引っ張り出し、中に収めたものを披露した。
 あやかしが手掛けるものは、人里にはない珍しい品である事が多い。それは常人には理解されがたいものであったり、あるいは一国の城主でさえ血眼で得ようとするものであったり、様々だと言われているが……見習いのでも、はっきりと理解する。今回のかんざしは間違いなく、後者のそれである、と。
 丁寧に並ぶ、十数本のかんざし。そのどれもが、彩りも意匠も華やかで、人間の作り出すものとはまた違う情緒に溢れた艶やかさを纏っていた。
 月並みの言葉であるが――美しい。ただただ、そればかりが思い浮かぶ。

「まあ! 今日のかんざしは一段と美しいわ!」
「そうじゃろう、そうじゃろう」
「それに、お約束していた数よりも多いような……」

 老人は愉快そうに呵々と笑い出した。

「神田屋とかいう店に負けなかった、その心意気への礼のようなもんだよ。わしと、他の職人仲間からのね」
「それは……ありがとうございます。良い品だ、頑張らせて頂きますよ」
「ああ、好きなように店に置いとくれ。……ああ、そうだ、その前に」

 不意に老人の顔が、へと向いた。

「そこの若い兄さん」
「俺……あ、いえ、私ですか」
「そうそう、あんただよ。ちょっとこっちに来なさいな」

 鋭い爪の生えるしわがれた指が手招く。は歩み寄ると、老人の側へしゃがんだ。

「お前さん、鬼の姐さんにかんざしを贈るんだろう? 特別に作ってきてやったぞ、これを持って行け」

 唐突にそう言うと、かんざしを一つ摘まみ、へ差し出した。いきなりの事で、はしばし茫然とかんざしと老人を見比べた。

「ああ、風の噂じゃなくて、伊月屋さんから聞いたんだよ。贈り物なんて優しいじゃあないか」
「あ、しかし……」
「なんだい、こういうのは素直に受け取るもんだ。わしらは気まぐれで、次の瞬間には何を言い出すか分からんぞ。やっぱり止めた、なんて折っちまうかもしれんし」
「ちょ、それはご勘弁を!」

 が慌てて詰め寄ると、老人はにんまりと笑みを深める。小さな子どもをからかう好々爺(こうこうや)のような仕草だった。

「だから、気兼ねなく受け取ればいい。鬼の姐さんに合うよう、作ってみたよ」

 差し出されたかんざしを、改めて見つめる。
 すっと伸びた、黒紅の二本軸。それを彩る飾り玉の意匠は、鮮やかな緋(あけ)色の花と、散りばめられた黄金色の花弁。
 たおやかだが不意に妖艶な色香を浮かべる、千影に相応しい美しいかんざしだった。
 きっと、よく似合う。流れるようなあの長い黒髪と、三日月の形をした赤い瞳に、よく映えるだろう。

「気に入ったかい?」
「はい、とても。しかし……その……」
「んん?」
「かなりの値打ちものに、相当するかと……」

 いくら勉強をし始めてまだ日が浅いとはいえ、さすがににだって分かる。これは、庶民が簡単に手を出せるようなものではない。
 やべえ、正直、これいくらだ……。
 顔を強張らせていると、目の前の老人は不思議そうに首を傾げ、やがて大きな口を開け大笑いした。

「金を毟り取ろうなんて思っちゃいないよ、お若いの。これは、人間たちが気軽に買うかんざしの値段でいい」
「しかし、それは」
「作る過程がちょっとばかし珍しいってだけで、後はそう大差ないんだよ。そこまで持ち上げなさんな」

 いや、その制作過程が秘匿されているからこそ、あやかしの工芸品は本来、珍品扱いなのだが……。

 が渋っていると――それまで笑っていた老人が、ふと、表情を変えた。
 使い古された笠の向こうから、真っ直ぐと見つめる老人の眼差しに、不思議な貫禄が滲む。

「あやかしからの感謝って事さ。これは、素直に受け取るべきだ。鬼の女房のため、代わりに矢面に立った色男さんよ」

 は、僅かに目を見開いた。

「……あの姐さんは、そりゃあ綺麗で落ち着いているお人だがね。鬼だ、鬼というあやかしのお人だ。あそこでもしも姐さんが殴られても、あんたが殴られて姐さんが逆上しても、姐さんにとっては不味い事になっていただろうよ」

 ……まさか、そこまで言い当てられるとは思っていなかった。
 驚くであったけれど、よくよく考えてみればそれもそうかと一人納得した。
 何十年、いや、何百年かもしれないが、外見からして長い時を生きているあやかしだ。鬼という一族の事を、よく理解しているのだろう。

 本当に、あやかしの噂は、耳が早いな。

 伊月屋で乱闘騒ぎがあった、あの時。千影に代わって殴られたのは、もちろん彼女を守るためではあったが――彼女の持つ“鬼”としての暴威が、見物客に広まらないためでもあったのだと、既に知られているらしい。

「――最悪、人とあやかしの間に軋轢(あつれき)が生まれるところだった。これは、お前さんが姐さんを見事“守りきった”礼さ」


 ――さんはきっと、鬼の私を留めてくれる、大切な“良心”なんだわ


 は深く頭を下げると、老人の手からかんざしを受け取った。手のひらに乗るかんざしは、とても軽く、重さらしい重さはない。しかし、手のひらに感じるその質感が、少しだけ、誇らしかった。

 別に、誰かのためでも、世間様のでもない。千影のため、ただそれだけの事。けれど、貫けば、いつか本物にもなるかもしれない。子どもの頃の自分が、一丁前に口にした言葉も、いつか――そんな青臭い願望が、少しだけ、叶ったような心地がした。

「……ありがとう、ございます」

 老人は、いつもの飄々とした調子に戻り、呵々と笑っていた。

 すると、それまで黙っていた従業員達が、何故か一斉にわざとらしく咳払いをし始めた。

「うえっほん、おほん!」
「ゴホッゴッ……うえ、ゲホゲホ!」
「ちょ、お前ら! やめろ、頭に向かって咳をすんじゃねえ!」
「うるせえ! ほら、俺達からはこれだ」

 ずい、と目の前に差し出されたのは、綺麗な空の桐箱だった。こじんまりとした大きさで、かんざしなんかを入れるのにちょうど良さそうな――。

「え、これ……」
「まあ、お前が身体張って、代わりにぶん殴られてたしな」
「遅れたけど、礼のようなもんだ。要らねえとか言うなよ、無理やりのし付けるからな」

 呆けるへと、伊月屋の面々が得意げに笑う。

 ああ、もう、本当、この店の人達ときたら……。

 は最大限の感謝を込め、背中を折り曲げ深く礼をした。

「やべえ、泣きそう……」
「ここで泣くのかよ?!」
「止せよ、おめえの泣き顔なんか気持ち悪いわ!」
「どうせなら千影姐さんのかんざし姿を見てから泣け! っつうか俺が見たい!」
「分かる、俺も見たい。、今度、千影姐さんを連れて来い」

 ――感動の涙は……ものの一瞬で引っ込んだ。
 はふっと呼気を漏らし、かんざしと桐箱を丁寧にそっと置くと……猛然と仲間達に突撃し、羽交い絞めを決める。

 結局、いつもの調子となった人とあやかしが集う伊月屋は、夕暮れまで賑やかな笑い声が絶えなかった。


◆◇◆


 その日の夜、小さな桐箱を隠し持ったは、千影を側に呼んだ。

「あら、改まってどうしたの、さん」
「あー……その、な」
「はい」

 気の利いた言葉の一つや二つ、考えていたつもりだったが、いざこの場面になると全て吹き飛んでしまった。
 はまごついた末、結局、無言のまま差し出すしかなかった。阿呆か、子どもか。
 半ば強引に持たされた千影も、不思議そうに首を傾げ、小さな桐箱を眺め見ている。

「これは……?」
「まあ、その、蓋を開けてみてくれ」

 に促されるまま、千影がゆっくりと蓋を外す。そうして、その中に静かに収められた、緋色の花の意匠を施した玉かんざしが、彼女の細い瞳へと映り込んだ。

「これ……」
「その、な」

 ごほんと、は咳払いする。

「今まで、贈り物らしい事も、した事が無かっただろ。伊月屋の人達と、職人さんが、力を貸してくれて」
さん」
「千影に、これを」

 千影の細い瞳が、大きく、本当に大きく見開かれる。常にない驚きが、彼女のかんばせに見る見る広がってゆく。
 千影はしばしの間、何処か感極まったようにかんざしを見下ろしていたけれど、不意にくすりと微笑んだ。

「……最近、何だか楽しそうにしているとは思ってたけれど、これを用意してくれていたのね」
「うぐッ!」

 やはり、顔に出てしまっていたらしい。これでも、完璧に隠していたつもりだったのだが……。
 の肩は、落胆し僅かに下がったが、千影はゆっくりと首を横へ振った。

「でも、こんなに素敵なものを用意してくれてたなんて……知らなかった」

 千影の細い指が、かんざしを丁寧に持ち上げる。月明かりへ透かすようにして見つめる赤い瞳は、嬉しそうに微笑んでいた。
 「とても綺麗」夢心地にあるような甘い声でこぼすその呟きに、は安堵すると同時に、己の心臓がくすぐったい熱を灯すのを感じた。

 らしくない事をしたが、無事に、喜んでもらえたらしい。

「着けてみても、良いかしら」
「ん? ああ、もちろん」

 千影はぱっと表情を咲かせ、鏡の前へと移動した。
 髪紐をシュッと解き、腰の高さにまで届く長い黒髪を、しなやかな背へ流す。慣れた仕草で髪をまとめてゆくと、片手でそれを押さえ、もう片方の手でかんざしを取ろうし……やおら肩越しに振り返った。

「ねえ、さん。かんざし、挿してもらっても良い?」
「え?! お、俺がか?」
「ふふ、はい」

 いや、だけど、絶対に変になるぞ。大体、髪結い師じゃないんだから、やった事なんかありはしないのに。

 狼狽するへ、千影は珍しく「お願い」なんて強請ってくる。細い瞳の艶やかな笑みに、はぐっと声を詰まらせながら、気付けば彼女の後ろで膝立ちになっていた。
 絶対に変になるぞ。いいんだな。ろくな事にならなくても怒るなよ。そう何度も念を押しながら、ぎこちなく受け取ったかんざしを、これまたぎこちなく黒髪へと挿した。
 鏡の中の千影は、終始、ころころと微笑んでいる。くそ、面白がってるなこいつ!

「えーと、こ、こんな感じか?」
「ふ、ふふ……ッちょっと曲がってる」
「だから言ったじゃんか。ろくな事にならないって」
「でも――とっても綺麗」

 鏡に映る千影は、不格好に挿されたかんざしを、蕩けるような眼差しで見つめている。凜とした静かなかんばせが、ほんのりと染まり、歓喜に溢れていた。
 年上の彼女が珍しく見せる、少女のようなあどけない喜びよう。ふて腐れていたも、釣られて笑った。

「うん、よく、似合う」

 本当に、文句なしに、似合っている。

「千影」
「はい?」
「その、俺はこういう事に疎くて、贈り物の一つも出来てなかったような馬鹿だけど……夫婦(めおと)になってくれて、ありがとうな」

 これまでずっと抱いていた想いを、改めて口にする。すると、鏡の中の千影は驚きに染まり、茫然とを見つめてきた。
 な、何だよ、そんなに変な事は言ってないだろ。
 居心地の悪さを覚え、身動ぎをしていると、凜とした面持ちに微笑みが浮かんだ。

「ふふ、そんなの……こちらこそ、ありがとう。こんな五つも年上のおばさんを貰ってくれて」

 って、ここでそれかよ!

「だから、前から言ってるだろッ。五つしか変わんねえし、お前はおばさんじゃなくて美人だし!」

 勢いに任せて言った後、はハッと口を覆う。だが、しっかりと千影の耳には入ってしまったため、彼女は悪戯っぽく笑みを深めている。
 結局、彼女の方が上手なのだ……負けたような気しかしない。

「――さん」

 不意に、千影が囁く。
 下げていた視線を持ち上げると、鏡を見つめていた彼女は、いつの間にかへ身体ごと振り返り、顔を寄せていた。
 三日月に似た赤い瞳が、目と鼻の先で、しとやかに微笑んでいる。
 どきりと跳ねる心臓に手のひらが重なり、静かに近付いた千影の唇が、のそれへふわりと触れる。

「――お礼、しましょうか」
「うえ?! い、いや、別に、俺は」

 たじろいだの唇を、再び千影は柔らかく覆う。無粋な事は言わないでと、告げるように。
 吐息ごと甘く蝕みながら口付けを交わすと、やがての胸をとんっと押し、後ろへと倒した。

「ふ……ッ千影」

 肘をつき仰向けになる腹部の上へ、華奢な身体がゆっくりと跨がる。の肩へ、胸へ、手のひらを滑らせる仕草は蠱惑的で。ゆったりと背を伸ばす姿は、酷く色めいている。

「ねえ、お前様」

 囁いた千影の声が、甘やかに、耳を撫でていった。

「昔から一本筋で曲がらなくて、鬼の私にも良くしてくれる、そういう貴方が慕わしい。だけど、その分は、私にもお返しをさせてね」

 ――ざわりと、千影の纏う空気が変わった。

 が見上げる先で、白い肌が薄紅色へ染まってゆく。すべらかな額に生えた小さな二本の角が、メキメキと長く伸び、凶暴な存在感を滲ませる。色づいた唇から尖った牙が露わになり、そして、白目に当たる部位が全て黒く塗り潰された。

 鬼本来の姿へ戻った彼女は、持って生まれた魔性の色香を、惜しみなく振りまく。先ほどまでは無い、匂い立つような危ういほどの艶やかさを湛え、を見下ろしていた。

「私が、そうしたいの。貴方に、貴方にだけ」

 ――そういうのは、お嫌い、かしら。
 淡い月明かりと、蝋燭の明かりの中、千景が窺うように呟く。
 は小さく笑みを返すと、その身体を引き寄せた。

「――いいや。俺も、そう思ってるよ」

 五つ年上の少女の手を引っ張った、あの頃からずっと、抱いてきたもの。
 たぶんそれは、この先も変わらない。
 目の前で蕩けるように微笑む、美しい鬼を見ていると、本当にそう思うのだ。



和モノで【人間×鬼のあやかし】でした。
人間がヒーローで、人外がヒロインの話は、これが初めてですね。

今までの小説と比べると人外度はだいぶ低めのライトな読み物ですが、たまにはこの親しみやすさを味わうのも乙ですね。楽しんで頂けたら光栄です。

和モノを連続で書いたため、「お前様」呼びが凄くフェチになりました。
和モノで使うべき単語として、個人的にノミネート。この言葉を大切にしたい。

和モノも良くて、人外も良くて、二つ一緒でさらに増すこの良さが、誰かに伝わったら嬉しいです。


2018.08.25