05

 ――全てのものが寝静まった、夜更け。

 夜の帳が下り、町は明かりを落として静まり返っているが、大通りの一角に佇む大店(おおだな)は別だった。
 外に明かりが漏れる事のない、店の奥の一室。複数名の男たちが、小さな声で、密談を交わす。燭台に照らされ、壁へと映し出されるその影は――神田屋の主人である男と、雇われた無法者たちである。

 神田屋は溜め息を吐き出し、男達をじろりと睨んだ。

「昼間、随分と情けない失態を見せたそうじゃないか。たかだか小間物屋の従業員などに」
「チッ。あんなのまぐれだ、たまたまだろうが」
「そうであれば良いが、やられたという事実は残るだろう。本当に、仕事をこなせるのか」

 含みを込めて、神田屋は告げる。男達は癪に障ったように舌打ちをしたが、当たり前だと啖呵を切り、手のひらを差し出す。神田屋はしばしそれを眺め、やがて懐から金子の包みを取り出し、男の手のひらに乗せた。

「今晩から、お前たちの好きにしろ」
「へえ、そいつは」
「盗みも犯しも、こっちの自由って事で良いんですかい」
「構わん、足が付くような真似さえしなければな」

 下卑た獰猛な笑みが、蝋燭の明かりに浮かび上がる。男達は立ち上がると、足早に店を去って行った。
 男達の姿が無くなり、一人きりになると、神田屋は忌々しげに表情を歪めた。顔に張り付けている柔和な面持ちが醜悪に歪み、その本性が露わになる。

 ――伊月屋。まったくもって、しつこい店だ。

 表店(おもてだな)ではないが、非常に質の良い品を扱う小間物屋。おおよその想像はついている。十中八九、気難しさと扱いづらさは人間以上と言われている、あやかしの職人が係わっているのだろう。
 あやかしにとっては何の変哲もない日常品だが、人間の観点から見ると、全てがそうとも言い切れない。彼らが手がける品々は、刀であれ陶器であれ、人間にとって美しい工芸品である事が多く、高値で売買されるのも珍しくなかった。特に腕の立つ名匠ともなれば、一国の城主すら欲しがるものを生み出すという。まあ、そんな品を、まだ拝んだ事はないので、嘘か本当かも定かでないのだけれど。
 しかしあやかしの職人は、人里で暮らすあやかし達と異なり、世俗と滅多に係わろうとしない。その技術が秘匿されているからこそ、珍品となっているのである。

 ――だが、まさか拠点を置いたこの町に、そんな希有な店があるとは思わなかった。

 伊月屋は、長くこの地に根付いた店なのだろう。住民たちは、その価値を認識していない。あの何気なさには、純粋に驚かされてた。
 この店を大きくしているのは、表向きの商売のためだけではないが……あれは是非とも手に入れたい。

 しかし、伊月屋は、存外しぶとい。小さな小間物屋のくせして非常に抜かりなく、仕入れ先等の店の命といえる情報はこれといって漏れ出ていない。他の店は早々に暖簾を下げたけれど、あそこだけは未だに変わらない。

 その事を考えると、神田屋の腹の底では、鬱屈とした感情が煮えくり返る。あの小さな店ごときに手こずるなど、何かの間違いだ。神田屋は何度も忌々しく吐き出しながら、店の地下蔵へと向かった。
 蝋燭の火を片手に、階段を慎重に下りていった先には、刀剣や工芸品などが丁寧に保管されている。そのどれもが名品に連なるもので、それらを眺め見ていると、鬱屈とした感情は愉悦に変わる。
 しかし、一番は、やはりこれだ。
 立派な錠前を取り付けた保管箱から、桐箱を取り出し、蓋を開ける。中に収まっている帳簿を、明かりの側で開いた。
 表向きの問屋の帳簿、ではなく、秘密裏に行っている商売を記した裏帳簿である。
 そこに書かれたもの、取引先、そして収入額を見ると、穏やかな心地になる。

 そうだ、私は違う。
 そこいらにいる、ちんけな商人どもとは格が違うのだ。

 くつくつと、神田屋は肩を揺らしほくそ笑んだ。



 ――ガタン



 沈黙の中、確かに聞こえた、その物音。
 びくりと、肩が飛び跳ねた。
 今の音は、何処から聞こえた。まさか、上の店からか。
 今は誰も居ないはずで、物音など聞こえるはずがない。鼠(ねずみ)だろう、きっと。
 そうは思いながらも、神田屋の心臓は僅かに速まっていた。裏帳簿を桐箱に戻し、ゆっくりと地下蔵の階段を昇る。恐る恐ると様子を窺ったが――当然、店の中には、誰の姿もない。

「まったく、私とした事が……」

 何を怯えているのかと笑いながら、鼠の駆除を考えつつ、再び地下蔵へと戻る。
 帳簿を片付け、さっさと寝てしまおう。明日にはいよいよ吉報が入るかもしれないのだから。
 神田屋はいそいそと桐箱に近付き、中を見る。しかしその瞬間、笑みを湛えた面持ちが、ぎょっと歪んだ。


 先ほどまであったはずの裏帳簿が――何処にも、見当たらない。


 全身から、ザアッと、血の気が引く。
 すると、薄暗い地下蔵の空気が突如冷たくなり、重くのし掛かってきた。



 ――クスクス、クスクス!

 ――見ィつけた、見ィつけた!



 幼子たちの無数の声が、一斉に地下蔵へと響き渡った。
 無邪気であどけなく、しかし不気味な笑い声が、至るところでさんざめく。
 飛び出してしまいそうなほど、心臓が激しく鳴る。慌てふためきながら、地下蔵に保管している太刀を手繰り寄せると、まごつきながらも白刃を抜き払った。

 しかし、視線を外していた僅か数秒の間で、無人の地下蔵の風景は変り果てていた。
 無数の魑魅魍魎(ちみもうりょう)の影が、上から、下から、神田屋を睨(ね)め付けていた。

「ひ、ひィッ!!」

 神田屋の引きつった喉から、恐怖に戦く耳障りな悲鳴が上がった。

 人とあやかしが暮らすようになった現在、双方の距離は縮まっているが、異形の姿に未だ慣れない者も多い。特に神田屋は、あやかしを嫌い、財産を増やす手頃な手段と見てきた古い考えを持つ人物。あやかしとの係わりを極力絶ってきた彼にとって、この光景は“地獄”であった。

 その数に恐慌した神田屋は、太刀を投げ捨て、一目散に地下蔵の階段を駆け上がる。背後からは、無数の笑い声と、裾を引っ張る小さな手が追いかけてくる。半狂乱になりながら振り払い、階段にしがみつき、出口を目指した。

 ――もう少し、もう少しだ。もう少しで、抜け出せる!

 あと三段、あと二段と、階段の終わりが間近となる。そして、待ち望んだ最後の一段となり、神田屋は安堵の笑みを浮かべ、勢いよく身を乗り出した。

 だが、顔を上げたその時――目と鼻の先に、音も無く白い被布(かずき)を纏った女が飛び込んだ。

 虚を突かれ茫然とする神田屋に、女は酷く緩慢に被布を捲り、すうっと顔を寄せた。薄暗く陰った視界と、影を落とす被布の奥。だというのに、何故だかはっきりと見えたそのかんばせに――神田屋は、今度こそ悲鳴を上げた。

 足下が滑り、神田屋の恰幅ある身体が大きく揺れる。伸ばした手は何も掴む事はなく空を切り、やっとの思いで這い上がった階段を背中から落ちた。



「――あの店から、いえ、この町から去れ」



 抑揚の欠けた女の声が、落ちてゆく神田屋の耳を撫でる。白い被布の向こうで、血の色の瞳が爛々と輝いていた。

 嘲笑う異形の影が、落ちゆく自分へと群がり、無数の手を伸ばす――最後に神田屋が見たのは、その光景であった。


◆◇◆


 神田屋から請け負った仕事をしに通りを進む男達の誰もが、いつになく上機嫌であった。
 ようやく、依頼主から許可が下りたのだ。今夜から自分たちの手法で存分にやれると思うと、無意識に笑みが浮かんだ。

 もともと町の住民ではなく、余所から追われる形で流れてきた身の彼らにとって、大店の神田屋からの仕事はわりの良い駄賃稼ぎだった。

 ――小間物屋、伊月屋の暖簾を下げさせろ。必ずだ。

 表では繁盛を見せるあの店が、裏で良からぬ事をしている事は、どうしたって勘付いてしまう。しかし、あの店が裏で何をしているのか、何故小さな小間物屋にあれほど執着するか、そんな理由には興味が全くなく、金が貰えるのならば些末な事である。そうして、ちまちまと児戯のような嫌がらせを繰り返してきたが……さすがに連日ともなると、いい加減飽きてきたところだった。

「ようやく雇い主から許可も出たんだ。そろそろ、店に押し入ってもいいんじゃねえか」
「違いねえな、あのでかい店が目ぇつけてんだ。意外と金があるかもしれねえ」
「それに……女も、なかなかいい。あの鬼の女は、上玉だ。店の売り子か?」

 余所から追われるようにやって来た、ろくでもない身。
 自分達には――やはりこちらの方が性に合う。

 夜も更けた通りに、男達の下卑た笑い声がくつくつと響いた。



 しかし、もう間もなく伊月屋というところで、男達はふとその歩みを止める。
 いくつもの視線が、暗がりから向けられている事に気付いたのだ。
 さては、物取りか、夜盗か。各々が得物に手を掛け、暗闇を睨み付ける。荒くれ者にとって、この程度はさほど怯むものではなく、切り捨てる事にも躊躇はなかった。

 ――視線の主が、人であったのならば。

 睨み付ける暗い物陰が、僅かに揺れ動いたように見えた、その刹那。
 夜よりも深い不気味な暗闇が、濁流のように押し寄せた。町並みを塗り潰すように、地面と空の境目すらも染めるように、たちまち周囲に広がる闇を見て、男達はすぐさま理解した。

「あやかしか……!」
「くそが、退くぞ……!」

 その場を立ち去ろうとする男達の退路を、何かが塞いだ。
 それは巨大な、あまりに巨大な、白く筋張った骸骨の手であった。

「な――」
「やめ――」

 肉のない白い骨の手は、男達を一纏めに握り締め、暗闇の中へと引きずり込む。
 そして、放り投げるように解放された時、彼らが居た場所は町中ではなく――四方全てを埋め尽くすように集まった、あやかしたちの真ん中であった。

「くそが……!」
「人間の町でこんな事をして、ただで済むと思ってんのか!」

 得物を握り締め吠えたが、返されたのはさも愉快そうに笑う大音声であった。

「ああ、随分と、おかしな事を言う!」
「夜こそが、我ら隠世(かくりよ)の者たちの世界。我らの縄張りを、近頃荒らして回っているのは、お前達の方だろう!」

 ひとしきり笑い転げた後、無数の異形たちは不気味に沈黙し、ひたりと男達を見つめた。

「……手を出してはならない場所にまで、及ぼうとしたな」
「ならば我々からも、返そうじゃあないか。縄張り荒らしへの礼を」

 ――悪事にも手を染め、怖いものなど何も無いと、横暴に振る舞ってきた無法者たち。
 彼らは、忘れていた恐怖を、目の前に見出した。

「さあ、夜は長い。楽しもうぞ、魑魅魍魎(ちみもうりょう)の宴を――!」

 人とあやかしが共に暮らす現在、それでもなお埋める事の出来ない、異形の者達の恐ろしさ。
 許しを乞う男達の叫びに、この場において、応える者は存在しない。骨の髄に染みるまで、責め苦を受ける事になった。
 いつ訪れるのか分からない夜明けを、ただただ望みながら――。


◆◇◆


「ああ! 久しぶりに悲鳴を聞いたよ! 愉快、愉快」
「でも、もう少し怖がらせても良いかもねえ」
「おい、隣町の百目鬼(とどめき)の親分が面白がって来たぞ、混ぜてやってくれ」

 ――男達が、あの手この手で追い詰められ、半狂乱になっているその間。
 あやかし達はというと、野太い悲鳴を楽しそうに聞きながら、和気藹々と悪戯に興じていた。
 その上、この町に暮らすあやかしどころか、何処から耳にしたのか隣町からも参加しにやって来ている。あやかしの噂は風のように早く、瞬く間に各地へ伝達するというが、気付けばいつの間にやら大変な大所帯だ。

 今も昔も変わらず、あやかしは集まり好きで、喧噪が好き。
 そして、人間が好きで――彼らに悪戯するのが、大好きなのだ。

 人間と共に同じ里で暮らすようになってから、無闇やたらと度が過ぎた悪戯はしないよう、暗黙の掟がいつの間にか生まれていた。普段はそこそこ抑えているが――こういう手合いの輩に対しては、別である。これまでの鬱憤や我慢を解放するように、気兼ねなく、また悔い無きよう、全てぶつけるようになった。
 かつて、あやかしたちが人々から恐れられた頃のように。
 この事は、人間には知られていない。仮に知られていても、証明のしようはないだろう。
 現に今も、男達を拉致したこの場所は、現世から切り離されたところにあるあやかし達の領域である。町はこの喧騒に気付かず寝静まったままで、何か足跡が残っているはずもない。
 ――こういった手管については、人間よりも、あやかし達の方が遙かに得意なのだ。

 まあ、面白がっている部分も大いにあるが、大前提として悪人相手なので、ばれたとしても目を瞑って貰えるだろう。

 ……だが、それにしても。

「まさかこんなに、名乗りを上げる方々がいるとは……」

 さすがに神田屋の行いは目に余ると、町中のあやかし達は影で会談を重ねていた。ついに先日その我慢を超える出来事が起こり、余力のある者は集うべしと発起したのだが……。
 集まるあやかしがこんなにも多いとは、思わなかった。
 無意識にこぼれた呟きへ、あやかし達は「そりゃそうだよ」と息荒く拳を握り締める。

「こっちはいい加減、迷惑こうむってんだ。あいつらとあの店のせいで暖簾を提げざるを得なかった店は、うちらにも良くしてくれる店だったんだからさ」
「そうそう。それでついには伊月屋さんときた。俺らが贔屓にしてる店に手を出したってんだ、そりゃあ怒るってもんだぜ」
「親方のじいさん方も、珍しくえらい剣幕だったな。『殺しは御法度、だが毎夜怯えるくらいしこたま怖がらせてやれ』ときただもんな。まあ、こっちも久しぶりに遊べて面白いから良いんだけどよ」

 親方のじいさん方、というのは、あやかしの熟練職人を指している。
 あの老人たちは、職人としての腕前でも有名だが、それ以上に腕っ節の強さで畏怖されている。基本的にあやかしは、歳月を重ね老いてゆくとその力が増してゆくので、職人たちは外見に反し“化け物”なのだ。もちろん、褒め言葉である。
 そして、彼らにやれと言われたら、俄然力が入るというものだ。

「これで明日から、つまらない嫌がらせはなくなるでしょう。けれど、ゆめゆめ申し上げますが……」
「大丈夫、間違っても殺したりはしないよ。だってあたしらは、人間が“好き”なんだからさ」

 あやかし達の微笑みには、純粋な好意と、だからこそ引き立つ底知れぬ狂気があった。
 それを、おかしいとは思わない。自分にも、それは宿っているのだから。

「十分に脅かしたら、そうさね、取締組の真ん前にでも放り投げとくよ。適当に、あたしらの記憶はねじ曲げといてね」
「ふふ、どうぞ心ゆくまで、お楽しみ下さいな」
「あら、あんたは良いのかい? 鬼の姐さん」

 声をかけられ、にこりと微笑みを返す。

「ええ、私は――本命が落ちる姿を見て、もう満足出来ましたから」

 頭から被っていた白い被布を、はらりと落とす。逃げ惑う男達を眺め見ながら、千影はその場から静かに去った。
 その熱狂を眺めるのも良いけれど、心を埋めるのはいつだって、あの人だけなのだ。

(ああ、さん、僅かでも、心が軽くなるかしら……)

 慕う青年を思い浮かべると、少女のように、心臓が高鳴った。




 ――ちかげは、おれが守ってやる。だから、ずっと、ずっと、となりにいろ

 鬼の里を離れ、家族と共にやって来た小さな人間の里。その隣近所には、小さな男の子が暮らしていた。
 身体つきは、同年代の子たちよりも小柄な部類であったが、曲がった事を嫌う、良くも悪くも真っ直ぐな男子(おのこ)だった。悪い事を見つけると後先考えずに飛び込んでしまうので、いつも生傷は絶えず、おまけ喧嘩に負けて泣いている事も少なくなかった。けれど、必ず、千影の前に立ってくれた。

 小さな身体が大きく育ち、背丈もぐっと立派なものになり、命に溢れるような明るい青年へ成長しても、その真っ直ぐな心根は変わらなかった。

 思えば、あの頃から、慕っていたのだろう。
 守ってやると握ってくれた小さな手と、決まって真っ赤に染まっていた小さな丸い耳に――お姉さん風を吹かせながら、ずうっと恋い焦がれていたのだから。

 私は、鬼。
 八百万(やおよろず)と存在するあやかしの中で、最も残忍で、凶暴なあやかし。

 どんなに上品に振る舞っても、彼に恥じない才媛を演じようとも、身体に流れる魔性の血はけして薄れない。幼い頃は、鬼であるという事を恨み、人であればと願ったりもしたが……鬼で良かったと、今では素直に思える。

「これで、憂いがなくなると良いのだけれど……ああ、お前様……」

 気が昂ぶると、どうしても抑えが効かなくなり、鬼本来の姿に変じてしまう。鋭く尖る爪や牙、額から大きく伸びる二本の角……それを恐れる人は今もなお存在しているのだが、はまったく怯まなかった。こっそり打ち明けた時も、実際にその姿を見せた時も、驚きはしても怯えるような素振りは一度も見せなかった。それどころか、俺にも角があったら最高じゃないか、などと笑う始末だ。変身するのがかっこいいとでも思っているのだろう。まったく、実に可愛いお人である。

 それがあやかしにとって、どれほど嬉しい言葉であるか。は、きっと、知らない。

 本当に……五つ年上の鬼の女が、あんな心根の真っ直ぐな彼と夫婦になれるなんて。
 これほど、幸福な事もあるまい。

 それを守るためならば――私はきっと、いくらでも修羅になれる。

(そんな事をしたら、さんが悲しんでしまうから、もちろん出来ないけれど)

 ただそれも悪くないと、いつも思ってしまうのだから――私はやはり“鬼”なのだろう。

 少女のように恋い焦がれ、身体を熱で疼かせ、千影は微笑んだ。静かな闇夜へ紛れると、愛しい人のもとへと急いだ。


◆◇◆


 ――神田屋との全面戦争を覚悟してから、数日後の事である。
 町中の至る所で、とある話題が持ちきりとなった。

 大通りで大店を商っていた神田屋の主人が、なんと取締組の縄を掛けられたのだ。

 繁盛に相応しい羽振りの良い振る舞いを見せていた主人だが、半ば恫喝じみたやり口で商いを行い、相手方に正しい金子を渡さずに仕入れていた事が判明したのだという。しかもそれだけでなく、役人の目をかいくぐり違法な品々を密売し横流ししていた事も判明したのだとか。
 一体誰が手に入れたのか、取締組の入り口に、神田屋の裏帳簿が置かれていたのが決め手だという。
 かくして、ようやく取締組が出入りする事となり、その僅か数日の内に店は潰えた。

 大店として繁盛し羽振りのいい振る舞いを見せていた、柔和な神田屋。しかし裏では悪どい事を行う盗人だったと、住民たちの話の種になったが、要因はそれだけではない。
 何の因果か神田屋は、地下蔵の階段を踏み外して転げ落ち、したたかに腰を打ち動けなくなっていたのだという。取締組に世話されながら縄を掛けられ連れて行かれるという、どうにも情けない一場面があったらしい。

 悪い事をすれば、相応の天誅が下る。その痛快な皮肉に満ちた神田屋の顛末は、それはもう多くの人々の間で笑い話になっていた。

 ――とはいえ、としては、少々肩すかしと言おうか。

「なんだよ、これからだったのに。夜中に店の奴ら全員で、頭に蝋燭をつけて、木刀持って追いかけ回す予定だったのによ」
「もう、さんたら。お店の人に悪い事が起きる前に捕まって、良かったじゃない」
「それはまあ、そうだけど」

 それに神田屋が去った事で、暖簾を提げざるを得なかった大通りの馴染みの店が、住民たちに後押しされ再びその暖簾を掲げる事を決めたそうだ。今はまだその途中であるが、じきに、これまでの賑やかな大通りへ戻るだろう。

 ……ただ、少し疑問なのは。

「誰が取締組に、裏帳簿とか密売品を置いていったんだろうなあ」

 あんないかにも秘密裏に隠してあるような代物が、忘れ物のようにぽんっと置かれていたというのだから、不思議だ。
 それに、神田屋の主人が捕まる直前。店が雇ったと思われる複数名のならず者――伊月屋を騒がせた連中だ――までも、取締組に捕まった。噂では、何か恐ろしいものを見たのか酷く怯え、それまでに何があったのか記憶も不明瞭な状態だとか。

「変な事もあるもんだな」
「え、ええ……そうね。……まさか本当に、宴のように楽しんでしまったのかしら……」
「ん? 何か言ったか?」
「何でもないわ」

 にこりと微笑む千影は、いつもと変わらないたおやかさを浮かべていた。は首を傾げながらも、それ以上は尋ねなかった。

「ああ、でも……こんなにすっきりした気分は、久しぶりだな」

 ここ最近は、神田屋の事ばかりで頭が重かったから、こんな風に軽い心地で町を歩けてはいなかった。不思議な話であるが、何にせよ、悩みの種が消え去ったのだ。ここは素直に、喜んでおくべきだろう。

「天罰ってのは、あるのかもしれないなあ」

 ぽつりとこぼれた呟きに、隣に並ぶ千影はそっと笑みを深めた。

「――そうかも、しれないわね。きっと」



びっくり要素でもないけれど、ちょっぴりと和風ホラーを意識してみました~。(もちろん怖くはないです)
こういうの、夏っぽくていいですね。


2018.08.25