そして果たされる約束(1)

 懐かしい故郷への旅路は、思いのほか郷愁の念を霞ませた。
 最初こそはこれから訪れる故郷へ想いを馳せていたのだが、進めば進むほど現実に飲み込まれると言おうか。思い出の中では、もう少しキラキラしていた気がするのだが、実際はただただ豊かな木々が丸太を並べて佇んでおり。整備されていないわけではないが、適当に草を刈っただけのような実に手抜き感漂う野道が敷かれている。いや田舎道と思えば、多少は風情があるだろうか。しかし、地味ながらそこかしこに転がる小石が憎い。数日掛けて移動している、己の足の裏がわりと痛いがこれは。唯一の救いは、今の暖かな季節に咲き乱れる野花の健気な姿だけであった。
 長く故郷の町を離れていたからだろう、あの町はこういう環境にそういえばあったと、荷物抱えたは痛感した。そんなに大荷物を背負ってはいないが、両肩に食い込む鞄の重さが時間を追う毎に増している気がする。

 都市から隣町へ、その町からさらに隣へ、と移動を繰り返す数日間。
 けれど町は、もう少しなのだろう。

 少し首筋に汗が滲んだが、此処に来るまで思ったより馬車などに乗せて貰って楽は出来た。後少しくらい頑張って歩く程度の気概は、田舎育ちの根性に根強く宿っている。それに、文句を言いつつも何やかんや朧気なのに見憶えある景色は、を救った。ぎゅ、と一度頬を拭い、足を踏み出す。
 もう何年と離れていた故郷の気配は、直ぐ其処だった。


 は現在、この地方では知名度の高い都市で暮らしていた。数年前、といっても十歳かその辺りの少女の頃に、故郷の町から両親と共に引っ越しをしたから、実際は十年も前の話なのか。それでも数年前と思うのは、故郷に対しの中で時間の流れが緩慢だからかもしれない。その引っ越しも元々は両親の仕事の関係でそうなったので仕方のない事だったが、都市の生活はそんなに悪いものではなかったと今では思う。最初は故郷や仲の良かった友達、幼馴染みが恋しくて泣いたりもしたが、文通の形で落ち着いたし、現在は無事に成人して働いている。
 いつかはもう一度故郷を見に戻ろう、そう抱くようになった数ヵ月前に両親が他界。また皆で故郷に戻ろうね、と話していた矢先の事だった。
 その里帰りはたった一人のみになってしまったが、両親の灰と骨は町のある大地に埋めてあげようと鞄を背負っている次第だった。
 あれからずっと手紙を交わしている友人は、町で待っていてくれるし。泣くだけ泣いたのだ、いつまでもめそめそしていられない。故郷の環境と、都市でのもみくちゃにされた経験が、を逞しくさせていた。

 それより、友人の存在もそうだが、がこっそり楽しみだったのは幼馴染みの事であった。家が隣同士の、数歳年上の獣人の男の子。彼は、どうなっているだろうか。友人曰く、町の自警団に籍を置いていると言っていた。もうきっと、記憶の中の男の子じゃないのだろうなとは思うが、全く想像のしようがなかった。
 の生まれた町は、世間的には珍しい部類に入る。町自体は田舎のそれで、現時点でもこの農道みたいな道に察する通りであるのだが、ただその町は、獣人たちの幾つかの集落と隣り合わせという珍しい立地環境の町だった。獣人といえば、獣をそのまま二足歩行で歩かせたような種族で、非常に屈強で逞しいのが特徴。が引っ越した先でもたびたび獣人の姿を見たものの、此処ほど交流は盛んでなかった。田舎の人間の町なのに、そういうところは非常にアグレッシブであったと思う。ただ単純に、都会と隔離されてたから独自の環境が出来上がったような気もするが。ちなみに人間と獣人の双方の関係はとても良好、だからもお隣の年上の男の子と幼馴染みで、家族ぐるみで仲良くやっていた。
 そんな幼馴染みは、現在果たしてどんな姿になっているやら。数歳年上で、チビそのものな人間の女の子相手に遊んでくれて、お守りもしてくれて、両親はやけに頼っていたが、それはもそうであったと思う。真っ白の、ふかふかな毛をした犬の獣人。成長していくにつれて体格差は顕著になったが、引っ越すまで仲は良かった、と思う。は。

 うふふ、と思い出に浸っていたが、改めて意識を現実へ戻す。実に緑豊かな野道はまだ続く、もう少しではあると思うのだが……さてこんなに遠かっただろうか。一度地図を開いて、確認する。うーん道は一本、まだ歩かなければならないのか。それを閉じて懐へとしまい、もう一度歩き出そうとした時だ。ありがたい事に、の正面から歩いてくる人影があった。実に運が良い、あの人に聞いてみよう。は掛け足に近付いた。
 距離が縮んでいった事で分かったが、相手は獣人らしい。簡素な身なりのとは異なり、整えたジャケットとズボンを着た人。腰には剣が携えられている。察するに恐らく自警団の隊員だろう、都市の衛兵と同じ空気が漂っている。
 が近付くと、その獣人は歩みを止める。しなやかに伸びた長身の持ち主で、見上げた先の顔は狼のそれだった。灰色、或いは銀色の毛をしており、その中には少し黒色も混ざっている。獣人の区別は一通りつく、妙に貫禄のあるこの人物が男性である事は直ぐに分かった。

「こんにちは、あの、お尋ねしたい事があるんですが」

 ゆさゆさ、と鞄を揺らして微笑む。狼の獣人は、を見下ろしやけに目を真ん丸に見開いた。口も若干呆けて開いている。

「あの……?」

 が声を掛けると、狼の獣人はハッと意識を戻した。何だ、と返す声は低い。若干の威圧を感じて後悔の念が押し寄せてきたものの、は地図を出して尋ねた。

「この町に行きたいんですけど、道、合ってますよね?」

 広げた地図を出すと、狼の顔が下がってきた。まあ、あちらの方が背も格段に高いのだから仕方ない。しばし地図を眺めて、獣人は一言。

「地図が古い」

 はい? の目が、今度は丸くなる。

「地図が古い」

 ご丁寧にも、一字一句間違えずに再度言ってくれた。が、地図が古い、と反芻すると、獣人はこくりと頷く。

「えと、都市の方で買って来た、新しい物のはずなんですが……」
「……じゃあ置いていたものが既に古かったんだろう、田舎だから仕方ない。この道はもう閉鎖して、新しい公道が出来ている。隣町と真っ直ぐ繋がってるやつだ」

 何ですと、じゃあ今歩いてる場所って? がさらに尋ねると、獣人の大きな手が上がり、鋭い爪の伸びる指をとんとんと地図へ乗せる。どう見ても地図から外れたその辺の山道です、ありがとう。じゃあ自分は今まで本当に農道を歩いていたのか、とは愕然とした。ふらりと揺れた足は辛うじて大地を踏んだけれど、この途方もない疲労感。

「……私の今までの苦労は、一体」
「……運動になったと思えば良いんじゃないか。公道は、この先の分かれ道を曲がれば戻れる。そうしたら、今度こそ町が見えるだろう」

 良かったな、そのまま進んでいれば奥地へ迷い込んでいたぞ。などとへ言ってくれたのだが、フォローをする気を感じさせない淡々とした低い声に安堵どころか驚愕を煽ったのは言うまでもない。いっそ笑ってくれれば、まだ救われたとさえ思えたほどだ。

「……でも、ありがとうございます。これでようやく、町へ行けます」

 別の意味で涙が出てきそうだけれど。は今すぐにでも破り捨てたい地図を、ぐっと堪えて懐へと片付ける。この憎き紙きれは町についたら捨ててくれよう、と思っているの正面では、獣人が変わらずじっと見下ろしていた。食い入るような視線、冷徹ではないけれど居心地はあまり良くはない。も見上げると、黒い獣の目とぶつかった。

「あ、あの」
「……いや」

 獣人の男性は、まるで落胆するように首を振った。それから「また後で、気を付けろ」と一言呟いての頭をぽんと撫でた。の頭が、二つ、或いは三つ分ほども空いた遥か先、獣人の彼の顔は見えなかったが、不意に触れられた大きな手は……特別、を不快にさせなかった。

「……ん?」

 また、後で?
 が振り返ると、もうあの狼の獣人はいなかった。



 獣人が言った通りに、少し歩いたところで正面と右方向へ分かれた道があり、はしっかり曲がった。現れた公道は、格段に綺麗な道だった。平らにならされ、凹凸のない……まあそれでも土は出ているが全く気にならない。本当に、私が通った道は一体何だったのか、大体あの隣町も分かりやすくしてくれないか、何だってこんな道に。多少の文句をつきながらも、は無事に故郷の町へ到着した。

 もう十年近く都市で過ごした、実際のところ不安が無かったわけではない。両親の最期の願いを叶えるべくと旅支度をしやって来たが、心躍る中にも不思議な緊張があった。だがいざ踏み入れると、懐かしい記憶が溢れ出た。十年も経ってしまえば町の姿も変わるが、根本的なところは変わっていない。例えばこの行き交う人々の顔に獣人たちのそれが多いところや、親しみやすい建物の古さ。常に女将さんの威勢の良い声が響き渡る数少ない酒場も健在で、公共の井戸だって今日も人々の生活に活躍している。町並みは、記憶よりも整然とし変わっても……の記憶の通りだ。ただ、今は飲食店や食品店が幾つか増えて、町も大きくなった気がする。そういえば人の数も多いし、町自体あれから発展を遂げたのだだろう。獣人や鳥人たちが普通に出入りして、普通に暮らしている数少ない貴重な町だから、全面的に推してゆく事に何の異論もない。異論も、ないが。

「……こんなに、獣人が多かったっけ」

 何て言うか、獣人、獣人、獣人だらけ。幾ら少女時代の記憶しかないとは言え、此処までだったろうかとは首を捻った。まあ後で聞いてみれば良いか、と友人の顔を思い出してまずは彼女のもとへ向かう事にした。市場などの並ぶ区域を外れ、民家の立ち並ぶ居住区域へ。懐かしさに目を細めながら、友人の手紙を取り出して手書きの地図を引っ張り出す。きゃっきゃと笑いながら走り抜ける子どもに頬笑みつつ、一軒の民家の前で立ち止まり呼吸を整える。どんな風にいつも遊びに来ていたっけ、なんて思いながら、玄関の扉を叩く―――よりも早くに扉が勢いよく開いた。
 急に引っ込んだ扉にびっくりしていると、の身体が正面から抱きすくめられた。目の前を泳ぐきめ細かい髪、ふわりとくすぐった香りと柔らかさ。後ろへ倒れそうなところを咄嗟に踏ん張ったは、改めて状況を確認した。そして、は渾身の笑顔を浮かべる。

「シャーリー」

 友人の名を呟いて、ぎゅっと抱きしめ返す。彼女は飛び跳ねるようにぱっと身体を離して、顔を見せてくれた。もう何年と見ていなかった小さな少女は、すっかりもう、美しい人間の女性となっていた。旅の疲れなんて、彼女の笑顔で全部消え去ってしまった。



 そういえば宿に行く前に、荷物も身形もそのままに直で上がり込んでしまった。何だか急に恥ずかしくなったが、シャーリーは全く気にしないで家に招いてくれた。

「本当久しぶり、元気そうで良かった」
「そっちこそ。やだ、シャーリー、写真より美人」
「あったりまえでしょう、誰だと思ってんのよ」

 友人は白い歯を見せて笑った。その飾らない仕草は、お転婆な少女の頃と似ていた。ただこれでも、二児の母。時の流れはとんでもない。何よりも驚いたのは、リビングの窓際には……家族写真が。
 何で彼女が、近所で悪たれ小僧と有名だったあの鳥人の少年(今は立派な成人男性だが)と結婚したのか、本当に謎すぎる。

「……何でシャーリーがアイツと結婚したのやら」
「うふふー本当にねー。まあ、何が起きるか分からないってヤツよ」

 そのわりに、幸せそうだ。出された茶にも、彼女の嬉しそうな空気は溶けているような気がした。甘くて美味しい。

「子どもは? それに旦那さんも」
「貴方がこっちに一度戻ってくるって聞いて、子どもを連れて実家に行ってる。話す事がたくさんあるだろうから、たまにはって」
「あら……気を使わせちゃって」
「いいのよ、子どもたちも旦那の実家の集落、好きみたいだから。鳥人の血かしらね、大人たちが好きなだけ飛ばせてくれるって聞いたら、鞄背負って元気よく出てったもの。お母さんもたまには羽根伸ばさないとねー」

 そう笑い、彼女はの隣へ腰掛けた。茶を一口飲み、少しだけ声を落ち着かせ呟く。

「旦那も、残念だったって、言ってたよ」
「……うん」
「おじさんおばさん、身体があんまり良くなかったって」
「きっと、年のせいもあったね。都市の方で流行った病気に負けて。でも、最期は綺麗な顔だったよ」

 少しだけ鼻をすすると、シャーリーはぎゅっと肩を抱いてくれた。彼女の方からも、ぐすりと鼻を鳴らす音が聞こえる。

「町長さんには、話してあるから。綺麗なお墓、用意してくれてるって」
「うん、ありがとう。シャーリーも」
「直ぐに行く?」
「うん」

 いつまでも鞄の中じゃ、狭いもの。



 町外れの、小高い共同墓地に両親の灰と骨は丁寧に埋葬された。話を聞いていた両親の古い友人であった町長は、今はすっかり細いご老人になっていたけれど、しわくちゃな顔に笑顔と涙を浮かべてを抱きしめた。昔もよく、可愛がって貰ったっけ。手伝ってくれた町長と、友人と、二人の白い墓石のところで少し泣いて、後にした。

 父さん、母さん。
 私、久しぶりに町に戻ってきたよ。

 気付けば、もう太陽は暮れようとしていて、懐かしい町は橙色の斜陽に染められていた。



 はそれから、宿探しに出た。シャーリーが気を利かせて「うちでも良いよ」と言ってくれたが、旦那と子どもたちが戻ってくる場所であるし、流石に厄介になるのは申し訳ない。彼女は不服そうにしたものの、仕方ないと頷き、また後で会いましょうと一度別れた。夜は酒場で食事を一緒に取る事にしたのだ。
 もともと、一週間くらいは町に滞在する予定でもあった。宿は少ないものの、客足は多くないだろうと踏んでいたので、部屋は直ぐに取れた。長期滞在も、すんなり了承を貰え、田舎万歳である。夜はシャーリーと食事を取ると約束をしたので、今の内に宿の浴場で汗と疲れを落とし、身形も旅装束から持ってきた私服へ変える。ゆったりとした白地のワンピースで、膝下まで覆うスカートは緩やかな波を打つ。腕と腰は編み込まれた紐を絞って結び、藍色の毛糸で編んだカーディガンを羽織る。
 借りた部屋から見た町の景色は、少し暗くて、都市ほどの明かりはないが暖かくなる光が浮かんでいる。昔はもっと暗かった気がするが、それでも、あの頃見たきりの町並みがあった。

「……さて、行こっかな」

 はスカートを翻し、宿屋を出た。夜を迎える町の空気は、暖かな季節のせいか、仄かな花の匂いがした。



 酒場の女将さんは、を覚えていた。さすがは田舎と言おうか、既にが訪れている事と、両親が亡くなった事を知っており、を慰めた。
 久しぶりの帰郷だ、たくさん食べていきな。そういってサービスし大盛りにしてくれた食事は、懐かしい味がした。でも多いわ、女将さん。

、格好が変わると見違えるわねえ。都市の服? よく似合ってる」
「ありがとう」
「アンタも、もうそんな年齢だもんねえ。胸大きくなったし」
「シャーリーだってそうじゃない。あと胸はあんまり関係ないよ」

 懐かしい友人と食べる食事は、美味しかった。昔の事、これまでの事、互いに報告をし合い談笑に華やぐ酒場は、時間が進むほどに賑やかになった。

「ねえ、それより、アイツに会った?」
「え?」

 ごくり、とジュースを飲み込んで、は向かいのシャーリーを見た。彼女はニヤニヤと笑って、頬杖をつく。

「アイツよ、アイツ――――ディランよ」

 は一瞬だけ動きを止めた。
 家がお隣だった、幼馴染みの名前。真っ白の、ふわふわの毛をしていた犬の男の子。面倒見の良い、お兄ちゃん。

「いや、会ってないよ。此処に来てから、直ぐにシャーリーのところに来て、お墓に行って、宿に行っただけだもの」
「えー、つまんない」
「つ、つまんないって……」

 まあでも、久しぶりに会って話したいよね、とは笑った。
 十歳そこらの時に別れた時、彼は確か十三歳だったか十四歳だった。獣人は成長が早いらしく、もう既に長身だった記憶があるが、真っ白な毛は今でも覚えてる。
 そういや、私は彼にくっついてばっかりだったかもしれない。だから引っ越しの時には散々泣きわめいて、両親をも困らせたしたなあ。
 全くもって、恥ずかしい少女時代の記憶。これは少し忘れて居たかった。

「いやね、アイツもが引っ越しした時とか凄かったもの」
「凄かったって?」
「それは……ふふ! これは本人から聞いてご覧なさいよ、まあ言わないと思うけど」

 何それ、もったいぶって。が半眼で見るとシャーリーは含み笑いを浮かべるばかり。酒場を照らす角灯の光に映える彼女に、も直ぐに笑みを返した。

「そうだ、あのねシャーリー」
「うん? 何?」
「此処、凄く獣人の人たち増えたよね。やっぱり、十年以上も経っちゃうとそうなるの?」

 今もこうして酒場を見渡すと、改築し広くなった酒場の中に、獣人が所狭し。人と獣人の割合は、ざっと見て3:7といった感じだ。都市の人工の圧迫感よりも、外見的な圧迫感は此方が上である。
 がのんびりと見渡し告げた途端、シャーリーはブフッと音を漏らし咳込んだ。

「ちょっと、アンタ……知らないでこの時期に戻ってきたの?!」
「え、何かあったっけ」

 シャーリーの凄みに、思わず狼狽えた。

「あ、あー……そっか、忘れるよね、そりゃあ。ただでさえ、引っ越したのが子どもの頃だし。私てっきり狙ってたのかとばっかり」
「……何か、あったっけ。本当に分からない」

 友人よ、急に不安を煽る意味深な言葉は言わないで欲しいのだが。
 の目が次第にオロオロと泳ぎ出すが、シャーリーは神妙な顔つきでテーブルに頬杖をつく。「こりゃ危険だわ」などと不安を煽り立てるような言葉まで呟く始末だ。

「シャーリー、言ってよ。今何かの祭りの最中? 私が居ちゃ駄目だったとか?」
「いや、祭りっていうか……獣人の男たちからしてみれば、格好の餌食というか」
「餌食?! 何それ怖いよ!」

 いい加減言いなさいよ、とが正面から腕を掴むと、シャーリーは溜め息を一つこぼした。

「此処は前と同じで、普段から獣人がこんだけ溢れ返ってないわよ。ただ、今の時期は獣人の……」

 そう、シャーリーが話を始めた瞬間だ。彼女の視線が急にから外れ、通り越した向こうへと飛んでいった。何かに気付くや、話を中断しての腕をばしばし叩く。

「おっとラッキーね、向こうから来たわ。昼担当だったのね」
「え、何?」
「ちょっと待ってね、おーい、お疲れー!」

 二児の母よ、呼び止め方がまるで少女だぞ。
 が怪訝に見る友人は、椅子から中腰になって手招きをしている。知り合いでも来たのだろうか、と思っても振り返ると。
 酒場の喧噪をくぐり抜けてくる、長身な獣人が居た。角灯の光に浮かび上がる様は、酒と笑い声から切り取られたような鋭さがあった。は目を丸くし、近づいてくるその姿を見る。

「やーお疲れ様、飲みに来たの?」
「……ああ、お前も、酒場に居るなんて珍しいな。今の時期、アイツが渋るだろう」
「友達が帰ってくるって言ったら、了承してくれたのよ。しょんぼりしたけどね、あの図体で。それに、夫に子どもも居るような女は手を出されないし、平気よ」

 ごつり、と床板を踏む音が、の隣で響く。椅子に座ったの視線が、上がってゆく。ベルトで締めたがっしりとした腰と、豊かな銀色の尻尾。ジャケットに包まれた厚い胸とふかふかの首もと。そして、耳のピンと立つ、狼の顔ばせ。
 果たしてそれは……数時間前に見た、獣人である。
 がひたりと動きを止め見ていると、彼の目はちらりとを見下ろす。妙に迫力のある眼差しに同じ居心地の悪さを抱いたが、昼間の件は礼を言うべきかと椅子から立ち上がった。

「えっと、昼間は、ありがとうございました」

 ぺこり、と頭を下げると。目の前の狼の獣人は肌で分かるくらいに押し黙った。そして、耐えかねたようにシャーリーがブハッと噴き出した。何よ、別に間違った事は言ってないでしょ! 何故笑うのだ、とばかりにがシャーリーをギッと見ると、彼女は頬を膨らませて笑いを堪えていた。

「あ、あんた、本当すっとぼけてる。くく、残念ねー焦がれた彼女がすっかり忘れてるわよ」
「シャーリー」

 強い口調で呟いたそれは、非難めいた響きが滲んでいた。ぱちぱちと瞬きを繰り返し二人を交互に見ていると、不意に狼の獣人が片腕を上げ、の頭へと大きな手を乗っけた。ひえっと、変な悲鳴をはこぼす。

「……酷いもんだな、あれだけ世話してあげたのに」
「え?」
「ちょこちょこ後ろをくっついてきて、引っ越す時も散々泣きわめいて『お兄ちゃんと一緒にいるー』と……」
「ギャァァァ! 止めて昔の事はー!」

 こんなに人が多いところで、恥ずかしい少女時代を暴露されるなんて。公開処刑も良いところだ。
 は女らしかぬ悲鳴を上げ、狼の獣人の胸ぐらを勢いでガッと掴む。むしろ、の騒がしさが酒場の人々の目を集めてしまっているのだが、しかし其処で彼女はようやく気付く。
 昔の、事?
 は、首を目一杯上げて、まじまじと狼の顔を見た。仏頂面、というほどではないが、その声の低さに相応しい落ち着いた静けさはぎこちなく薄い笑みを浮かべている。

「十年も経つと、俺の顔も忘れたか」

 は目を真ん丸に見開く。彼を忘れた事は無かったが、こんな風になっているなんて、思っていなかった。

「……ディ、ディラン?」

 お隣の真っ白な男の子は、すっかり立派な――――狼の獣人になっていた。
 ついに笑いが堪えられなかったのか、シャーリーがゲラゲラと笑い出した。



 時の流れは、かくも残酷なり。
 お隣の男の子は、見る影もなく縦に伸びて実に逞しくなっていた。
 そもそも獣人という種族だから、人間との外見の差異は顕著になるものであるけれど、此処まで変わるかというのがの正直な感想だった。、と手を引っ張って遊んでくれたお兄ちゃんは、真っ白でふわふわの犬の獣人だったが……嗚呼どうやら、狼の獣人だったらしい。これは少女時代の認識を間違えただけだが、黒の混じる銀色の毛は納得のいく貫禄である。
 つまるところ、えらく格好良くなってしまっていた、という事だ。

 狼の獣人、もとい、ディラン曰く、「犬と狼は同じようで全然違うから間違えるな」と怒られた。デリケートな問題だったようだ。申し訳ない。しかし十歳そこらの少女が区別ついたかと言えば……察して貰いたい。というより犬と思っていたから、狼などと認識を改める事がそもそも無かった。
 懐かしくも久しぶりに出会ったディラン(正確には昼間会っているが)は、近くの椅子を引っ張りだしてとシャーリーの机へと加わった。長い足を組み、水を飲み干す。その仕草はすっかりと年上の成人男性のそれだった。

「……真っ白なディランが居なくなった」
「悪かったな、成長期は直ぐに毛色は変わるものなんだよ」
「いやー可笑しい可笑しい。ったら本当に気付いてないんだもの」

 シャーリーは悪びれもなく笑い続けている。そもそもアンタがちゃんと言ってくれれば、とは半眼で見るも、彼女は楽しそうにするばかりでちっとも効かない。

「あー、まあ、何だ。でかくなったな、お前も」

 そう呟いたディランの目は、懐かしそうに細められている。

「そっちは……でかくなり過ぎて」
「普通だ」
「ああッ獣人と人間の顕著な違い……」

 は机に頬杖をつき、溜め息をつく。

「大して変わってないな、お前は」

 見た目が、という事か。それとも、頭が、と言いたいのか。は横目にディランを見る。忙しなく揺れる狼の耳と、ぱたぱた振れる尻尾が映る。こういう分かりやすいところは獣人の特徴だ、声こそは静かでも内心では再会を喜んでくれているらしい。はくすりと微笑む。

「そう言えばね、ディランさん」

 不意にわざとらしく、シャーリーが告げた。

、一週間もこの町に居るって言ってるのよ。今の、この町に。どうする?」

 ニヤニヤと、シャーリーの笑みはやや悪戯めいていた。途端、ディランの様子が一転する。ピタリと動きを止めて、驚愕を露わにする。獣の目が、先ほどののように見開いていた。

「ああ、本人は全く今の時期が何なのか分かってないみたいで。これはこれで危険よねーお兄ちゃん」

 を置いてけぼりに、シャーリーとディランの会話が頭上で飛び交う。そう、そう言えば、その話を聞いてなかった。は思い出して改めて尋ねようとしたが、それよりも先にディランの口が開く。

「……おい、この場でそれは」
「あら良いじゃない、町の人皆が知っている事だわ。……それに本当に忘れてるのよ、この子。友達としての心配と、後は幼馴染みのお兄ちゃんへの忠告よ。貴方だって、忘れていた訳じゃあないでしょう? 【堅物のディラン】」

 ディランの空気が変わったような、気がした。困惑するような、或いは、非常に不味い事を聞かれたような、そんな表情をしていた。はというと、話が分からないのですっとぼけた顔をし二人を眺めていた。あ、この照り焼き美味しい、などと思いながら。
 ただ何かが気まずくなったのか、ディランはその後直ぐに席を立ち、酒場を出て行った。へと、一言残して。

「……何も覚えていないなら、直ぐに町を出た方が良い。此処は都市よりもずっと、奔放的だ」

 せっかく戻ってきたというのに、急に水を差されたような気分になったのは言うまでもない。が眉を顰め、それはどういう意味かと尋ねたが、彼はそれ以上告げなかった。
 シャーリーは苦笑いをこぼし、「早く帰れって意味じゃないよ、」とフォローを入れた。

「ちょっとの心配と、後は大部分の躊躇よ。幼馴染みのお兄ちゃんの」
「え?」
「アンタ忘れてるだろうから、教えるけどね、さっきの話の続き――――」

 シャーリーはこの時ようやく、今の町の事を教えてくれた。その数分後、彼女の言葉に、全てを聞き終えたが絶叫する心境であったのは間違いないが、賑やかな酒場に響く事はなかった。単に驚きすぎた事と、ようやく思い出した事の、二つの衝撃のせいで声が出なかったのもあったが。

 嗚呼、そうだ。ようやく、思い出した。今の季節は――――。




 酒場を後にしたディランは、どうしてくれようかと真っ暗な裏路地で息を潜めた。冷たい煉瓦の壁に身体を預け、仰ぎ見た空は腹立たしい夜空である。吐き出した息と、思考ばかりが荒く、彼の獣の目は数少ない町の灯りから遠い場所でも妙に煌々と輝いていた。いや、煌々というより、正しく獰猛と言うべきか。
 別に、意識していなかったわけではない。シャーリーの言葉も。十年ぶりに見た、の存在も。
 ディランの脳裏に、カッと朱が走った。何を、今更。あれからどれほど経っていると思っている。後ろをついてきた少女が、すっかり肉体も眼差しも声音も女に変わって、向こうが気付かなかったほどにディラン自身も随分外見が変わってしまって。

 もう、少女でも少年でも、なくなっていて。

 これは、彼女が町を去った時の光景の、続きか。終わらせられたはずの獣の夢が、帰結を求めてる。

 憎むべくはあの時、彼女の両親へ《言ってしまった》自身であり、十年も経ってなお捨てていなかった劣情であるが。
 何で今になって、それも、こんな季節に、が戻ってきたのか。このタイミングで戻ってきた彼女に、勝手な責任を押しつけていたのは間違いなくディランであった。

 願わくは、が町を早くに離れてくれるよう。
 大人になって色香を手に入れたくせに、何処か無防備な彼女の前で、まだ《幼馴染みの兄》で居られる内に。

(……それでも、あいつ)

 すっかり、本当に綺麗に――――。

 暖かい空気、花の匂い、腹の奥底で疼く熱さ。もうずっと耐えてきたと言うのに、今夜は何故こんなに耐え難いやら。