そして果たされる約束(2)

 ほぼ毎日後ろをくっついては、遊んで欲しいとせがんだりしたものだ。今思えば、子どもながら結構、いや相当、鬱陶しい存在だったはず。お隣のディランは、さぞ迷惑だった事だろう。それなのに彼は、よく駆け寄ってきたを無碍に扱わず隣へ置いてくれた。チビで子どものの手は、あのふかふかな白い手にいつも繋がれていた。

 少女の、幻想だ。あれがずっと続くと、思っていた。

「お、お兄ちゃんとずっと、いっしょにいる……ッ! いっしょにいるのぉ!」

 引っ越しをすると聞いた時、両親どころか隣のディランと、に良くしてくれた獣人のご両親をも巻き込んで、大層泣きわめいた。その記憶だけは、にはっきりと残っている。その時、ディランはどんな顔をしていただろうか。の手を困ったように握って、何を告げただろうか。

――――」

 今よりもずっと、ずうっと幼く若い少年の声での名を告げる声しか、思い出せない。あの時確かに彼は、何かを言ったのだ。何て。彼は、何を言ってくれた。




 翌日になり、久しく迎えた故郷の朝は、田舎の町らしく長閑な空気漂い、朝日も爽やかそのものであったのだが。
 宿屋の借りた部屋で朝食を食らうの姿は、それらに似つかわしくない影があった。眉は顰めているが、既に眠気は吹っ飛んでいるし、朝食は勿論美味しい。ただを朝から悩ませているのは、この町の事である。友人シャーリーから聞かされた昨日の話が、のすっかり忘れた記憶を思い出させた。町は今、どういう時期を迎えているのか。
 スプーンを空になった皿へ置いて、小さく息を吐き出す。確かに、凄い時に戻って来てしまったと、は眉間のしわを揉み解す。

「都市の方は獣人率が低かったしなあ……忘れてた」

 獣人という種族は、文字の通りに人と獣の混ざり合った姿を持つ種族。野で生きる獣たちとは違い、二本の足で立ち、知性もあり、独自の文化も持つ。世界の共通言語も操るし、文字だって書く。肉体や独自文化の差異は多少有ろうとも、人間という種族と優劣を付けるべくもなく、対等な一つの種族だ。ただ如何せん、獣。自然の摂理に対する本能的な行動と思考については、此方が上である。
 要するに。今は寒さを乗り越えた暖かい季節、草花の芽吹く命の季節。獣たちにとっては、柔らかく言えば、恋の季節。つまり。

 ――――繁殖期。

 獣人たちも例外でなく、若い獣人にとっては成人の儀式であり、番のない獣人にとっては最も伴侶を得られる可能性の高い大切な季節。番探しに躍起になる、時期であった。
 シャーリーが大丈夫なのかと心配する所以は、正しくこれだ。獣人たちの多くは、自らの集落で番を探すのだけれど、この町は御覧の通りどういう訳か獣人たちの集落に囲まれている為そこかしこに彼らが歩き、暮らしていたりする。となれば必然的に、この番探しに人間は巻き込まれる。巻き込まれる、という言い方は語弊があるか。獣人と人間がペアとなる事は、此処では珍しくない。現に、シャーリーは鳥人と結婚して幸せな家庭を築いている。ちなみに彼女、この番探しの季節に鳥人と結ばれた。

 問題は、暗黙の内に、誰もが知る掟。
 繰り返す月の満ち欠けが満月になった日の夜に、男性は伴侶にと求める女性のもとへ向かう。其処で受け入れられれば、晴れて夫婦となる。

 ……半ば夜這いの習性が、あったりするのだ。

 がすっかりそれを忘れていたのは、引っ越し先の都市は人間がほとんどだったからで、獣人の番探しの習性を目の当たりにする事が無くなったからだ。シャーリーに教えて貰った時、なるほどだから獣人が多いのかと納得し、同時に頭を抱えた。別にへ直接の接触は無いだろうが、そんな事情を思い出すと引きこもりたくもなるのが普通だろう。この時期の獣人は気が落ち着かなくなるから、稀にちょっかいを出すようになる者が現れるのが通例で、だから自警団なんてものがある。シャーリーのように結婚している場合はほぼ無関係だが(ああ、獣人の男性はこの時期伴侶を取られないかと本能的にピリピリするらしい)、は何の手も付いていない女。……怖くも、なるではないか。
 いや、気を付ければ良いんだ。自分に目を付ける男性なんか居ないだろうし、自意識過剰になる必要はないだろう。
 は自らへ言い聞かせ、一人そうだそうだと頷いた。
 ただ、気がかりなのは、が一週間くらいは滞在する予定であった事と、懐かしい幼馴染みから早く戻れと促された事だった。ディラン。もしかして迷惑だったのだろうか。それもそうかもしれない、ディランだって……もしかしたらこの季節に。いや既に伴侶くらい。彼が戻れと言ったのは、邪魔だったからかもしれないのだ。
 懐かしいばかりでは、駄目らしい。時間の現実は少しだけ残酷だと、は一人苦く笑った。まあ、町を見て回ったら帰ろうかな。折角の滞在日数は短くなるけれど、それも仕方のない事だ。元々の目的は、両親を故郷の大地へきちんと埋める事だった。そういう点では、目的は果たしたと言えよう。

「……」

 ふと、思った。もう、一人きりになったんだなあ。
 は少し息を吐き出し、空になった朝食の膳を宿屋の女将さんへと返した。後でまたシャーリーに会いに行くとして、少し町に出てみよう。は昨日の、白いワンピースと藍色のカーディガンに着替えた。



 特にあてもないが、何となしに市場の通りをは進んだ。覚えのある店から記憶にない店まで軒を並べ、の事を覚えている人ともすれ違った。ただ、が町へ戻って来たという意味を、旅行ではなく移住という意味で捉えている人が多かったので、一応の訂正はしておく。時期が時期なだけに、まるでが婚活をしにきているようでもあるが、それは本当に忘れていたので全く無関係である事を間違えないで頂きたい。そう何度も言ったのだけれど、あらそう、うふふ、というパン屋の女性の笑みが凄く気がかりだ。本当に分かって貰えたのか、怪しいところである。
 その時についでに買った二つのパンを、は近くのベンチに座り千切って口へ運ぶ。の目の前を行く人影も、獣人の比率が高い。今は番の季節。伴侶を得る季節。はてさてには無縁なところだが、独り身のもいずれは家庭を作るべきかとこの時ふと思った。生前の両親は、直接言葉にはしなかったけれど孫の顔が見たいという一般的な親の心情は滲んでいた気がするし、最後の親孝行はそれだとも思えた。真面目なところ、今後も一人で過ごすというのは中々厳しいところだ。都市に戻ったら、人生設計を改めよう。はわりと本気にそう考えた。
 ……まあ、貰ってくれる男性が居るなんて、あんまり思えないけれど。

 さて行こうか、とが中腰にベンチから立ち上がった時であった。

「……無防備だな」

 背後から掛けられた低い声に、ぐるりと見渡すようには振り返った。陽の下に佇んだ銀色の狼の獣人が、を見ている。呆れるように、獣の目を半眼にさせて。

「大丈夫よ、それに万が一の場合の自警団でしょ?」
「……昨日、シャーリーから聞いただろう。頼って貰うのはありがたいが、危機感は持っていろ」

 ディランの声は、怒っている、という訳ではないのだろうけれど、そうとも取れる声音を響かせていた。怖くはないが、気まずい。素直に頷いて、すみませんと謝る。

「……いや、別に、責めている訳じゃない。どうも久しぶり過ぎて、距離感が分からん」
「ううん、別に良いよ。本当の事だし」

 すっかり年上の男性になった幼馴染みだが、子どもの頃の記憶をふと思い出させる仕草が見えて、は安心した。「座る?」と尋ねると、ディランは少し考え、狼の顔を横へ振った。「午前の見回り担当だ」と返ってきた言葉に、そうだ彼は自警団に所属していたと思い出す。そういえば身なりも、恐らく制服だろう昨日の恰好をしていた。

「そっか……忙しい?」
「普段と比べれば、な。季節に浮かれる獣人も多い」
「……それはディランも?」

 ベンチから立ち上がって、見上げた。ディランは特に表情を変えず、ただ「さあな」と呟く。も返事が欲しかった訳ではないから、それ以上さらに尋ねるような事はしない。昨晩の言葉――――早く戻れが、もう答えだろう。其処まで野暮じゃない。

「……それよりも、昨日は、言えなかったが」
「うん?」
「小父さんと小母さんの事は、聞いた。残念だった」

 は、小さく笑う。「綺麗な顔だったよ」と告げれば、彼はどう言おうか考えあぐねている様子を見せた。

「良いよ、もう平気」
「……
「墓地にね、町長さんがお墓を用意してくれたから、後で顔を見せてあげて」

 喜ぶよ、と言えば、ディランは一つ頷いた。
 と、丁度よく其処へ自警団の同僚と思しき獣人と人間の男性たちが、ディランへと声を掛けた。ああ、そうだ、まだ仕事の最中だ。引き留めてはならない。はベンチの後ろにいたディランへと回り込む。そのやけに広くて大きな背中に両手を重ね、ぐいっと押した。見た目の通りに、何て大きくて、硬い背中だろうか。一瞬驚いて息を飲んだのは、辛うじて耐えて隠した。

「仕事中なんでしょ、ごめんね付き合わせて」
「い、いや」
「ほら、気にしないで行って。自警団のお兄さん」

 にっこりと笑って、軽く手を振る。二メートル近い狼の獣人は、少々ぎこちなかったが確かに口角を上げており、小さく手を上げた。同僚のもとへ向かうしなやかな彼を見送って、は再び町の散策を開始した。白いワンピースを翻し、少し色めく田舎の風に髪を泳がせて。
 その背を彼が振り返って見ていた事は、気付かなかった。




 その日の午後。は友人シャーリーの家に居た。
 出迎えたのは彼女と、彼女とその旦那にそっくりな、可愛いらしい子ども二人。在りし日の悪たれ小僧そっくりな男の子に、在りし日のお転婆少女にそっくりな女の子。五歳ほどだろうか、可愛い盛りで、やって来た見知らぬを物珍しそうに眺めている。目が合うと恥ずかしがってママの後ろへ隠れたり、それでも気になって覗いてみたり。胸がキュンとするのは正にこの事だ。
 これが、二人の愛の結晶か。は不思議な気分になる。というより、あの悪たれ小僧が立派な父親になっているのが驚きだ。子ども二人は、その彼の血を見事立派に受け継いで、小さな鳥の翼が生えていた。まだ空も飛べないようなこじんまりした翼、けれど将来はきっと鳥人らしく大きなそれになるのだろうなと、は思った。
 最初は隠れていた子どもであるが、時間が経ち馴れた事と、ママの友達というところに親しみが湧いたのか、の膝を占拠している。ちなみに遠くで父親がしょげているのが見えるが気にしなくて良いだろうか。

「可愛いね、ママそっくり」
「そう?」

 シャーリーは綺麗に微笑んだ。母親の強かな、美しい面持ちだ。

「ママの事、大好き?」
「うん!」
「大好き!」
「そっか、私も大好きなんだよ~」

 きゃっきゃと笑う二人の子どもは、しばらくの膝を堪能した後離れてゆき、直ぐ隣で遊び始めた。

「もうすっかり、大人ね。シャーリーも。時間は経つものだなあ」
「そうね、すっかり。……ねえ、?」

 シャーリーが、ふと声を静かに潜めて呟いた。

「これを機に、さ。町に戻って来ない?」

 は、目を丸くした。シャーリーの笑みは、慈しみや、或いは気遣いがありありと読みとれるほど、微笑みに溢れていた。

「空き家なんてあるし、借家だって。私ね、ずっと思ってたよ、アンタが戻ってくれば良いなーって」
「シャーリー」
「ああ、別に、何も私の願いを押しつける気じゃないわよ? でも少なからずそう思っている事は、伝えたくてね」

 は、どんな顔をしたら良いのか分からなかった。シャーリーの言葉が嬉しくない訳がない。嬉しい、とても。それは、心より真に思う。ただ……。

「……何だか、そんな事、思ってなくて」

 シャーリーは、少しだけ寂しそうに笑った。は慌てて、首を振った。

「違うよ、シャーリー。私ね、町に戻りたくないって訳じゃないの。ただ、ただ……」
「うん」

 シャーリーは、頷いた。彼女はそうだ、お転婆だったけれど、決して人の心を蔑ろにする事は昔からしなかった。
 遠くに居た鳥人の彼が、何かを察してか子ども二人を抱えてリビングから出て行った。トントン、と二階へ上がる音が遠くから聞こえる。

「……一度、出てって。また戻ってきて、め、迷惑かな、とか……。都市に居るなら、都市で、家庭作った方が良いかな、とか……」

 シャーリーが、きょとんとした。そして次いで、声に出して笑った。それこそ、笑いこける勢いで。

「馬鹿、アンタが引っ越ししたのっておばさんおじさんの仕事の関係でしょう? それに、一度町を離れたからって戻って来ちゃいけないなんて、誰が言ったのよ。
……って一人居たわね、戻れなんて言った馬鹿が。まあディランの言葉はこの際置いといて、ねえ、
「う、うん」
「……正直なところ、心配なの。おじさんとおばさん、もう居ないし」

 すす、とシャーリーが机に身を乗り出す。ふわりと近づく友人の気配は、柔らかく優しかった。

「都市の生活もあるし、無理矢理そうさせたい訳じゃないからね。でも、そう思ってる私も居るって事、覚えてね」

 は、こくりと頷いた。困惑したけれど、友人の想いは感じ取れる。少し、落ち着いてきた。

「ありがとう、シャーリー」
「――――それに、ね」

 付け加えるように呟く彼女の声に、は顔を上げる。

「ディランだって、無表情で何も考えていなさそうだけど、本当はそう思ってる。もうずっと、何年も、が居ないこの十年の間、ずっとね」

 え、と。は掠れた声を漏らした。
 目の前でシャーリーは微笑む。呆れるように、困ったように。まるで見守る母親そのもの。

「……ディランは、堅物過ぎるの。分かりやすすぎるのよ。幼馴染みの兄でありたい気持ちと、獣人の男になってしまいたい気持ちがあるってのが」
「え、ちょっと、待って、何の話?」

 どういう事だ、ディランが、何だ。
 は遮って、シャーリーを見た。けれど彼女は、それ以上言わなかった。一番気になるところで止められ、は今度こそ困惑を隠せなかった。何で、其処でディランの名前が出るのだろう。

「……ううん、やっぱり私が言うのは良くないね。今は獣人の華の季節だもの」
「え、え?」
「何でもない、やっぱ忘れて、アイツの事は」
「何それ、気になるわよ!」
「あら、大丈夫よー」

 何が大丈夫なのか、とは友人の顔ばせを見る。彼女は笑みを深め、さらに困惑へ陥れてくれた。

「どうせ自分から言うわ、今のの言葉をアイツが聞けば」

 ますます、分からない。何で。




 ――――結局、先の話は納得のいく答えは貰えなかった。
 友人の妙に晴れやかな笑顔が脳裏に残り、終始首を傾げるままには彼女の家を後にした。さっぱり分からない、何でディランの名前が出るのだろう。だって彼は……。

『……何も覚えていないなら、直ぐに町を出た方が良い』

 ディランの、銀色の狼の顔が浮かんだ。告げた低い声が、鮮明に蘇る。
 思いの外、自分は気にしているらしい。浮かれ過ぎていただろうか、幼馴染みと。は小さく息を吐き出す。昔より賑やかな町、獣人のつがい探しの季節、すっかり大人びた友人たち。都市の方が人口も多くて、規模も大きくて、喧噪の声だって大きいのに、懐かしい故郷の方がずっとには目まぐるしい世界になっていた。

 懐かしい、嬉しい、少し寂しい。
 不思議な感情が、たった二日の間に胸に生まれていた。

 は、花屋でこじんまりした小さな花束を購入した。それを大切に持ち、町から少し離れたところにある公共墓地――――両親の墓石へと向かう。色めく町の空気は、涼やかな静けさを孕む空気に変わった。はたはた、とワンピースの裾が揺れる。カーディガンを胸の前で合わせ、小道に沿って進む。墓地ともなれば空気の変化は言わずもがなだが、其処に見えた姿には何となく胸をざわつかせた。

(ディラン?)

 友人の意味深な言葉もあって、意味もなく身構える。そんな必要ないだろうと言い聞かせ、は近づく。彼はどうやら、の両親の墓石の前に佇んでいるようだ。午前会った際に告げたの言葉を、果たしに来たのだろう。何だかんだ、ディランはディランだ。おじさんおばさんと、の父母を慕ってくれた。きっと二人だって、喜んでいるに違いない。
 ディランの背中を見つめ、少しだけ歩む速度を速めて進む。すると、ふと、声が聞こえてきた。辛うじて聞こえる程度の、独り言だった。

「……あの時の約束は、まだ有効だと思っても良いですか。小父さん、小母さん」

 ひたり、との足が爪先からゆっくりと止まる。
 目の前にある狼の獣人の背は、などよりもずっと大きくて広いのに、まるで懇願しているようで、頼りなさを浮き彫りにしていた。

「……時間が経てば忘れると、貴方たちは言ってくれた。それを信じて忘れようとしましたが、俺は未だ諦めが付かないようです。
貴方たちは……今の俺を見て、何て言ってくれたんですか」

 ディランが、其処で大きく肩を動かして息を吐き出し、振り返った。真後ろに居たは、思い切り彼の目と視線をぶつけ合った。も驚いたものの、それ以上に驚いたのは彼の方だったのだろう。びたりと、大きな獣人の身体が硬直するように止まった。


「お疲れ様、ディラン」

 こっちまで動揺する事じゃない、とは言い聞かせ、ディランへ笑いかける。墓石へ、眠る両親へ話しかけてくれていただけだ、何も気にする事ではない。の立ち止まっていた足は、再び動き出した。

「ありがとう、来てくれたんだ」
「あ、ああ」

 ディランは、横へと数歩下がり、道を譲る。はその隣を通って、両親の墓の前にしゃがんだ。花がたくさん備えられている。見舞ってくれた人が居たのだ、ありがたい話である。も自ら携えた小さな花束を添えた。色とりどりの優しい花弁、小さな花園が目の前にある。

「前にね、話してたんだ。家族でまた、此処に戻って来ようねって」

 の後ろ頭には、ディランの視線が感じられた。

「結局、私だけの一人旅行になっちゃったけど」

 しゃがみ込んだまま、肩越しに振り返り見上げた。彼の狼の顔なんて遥か先で見えやしなかった。

「良いんだ、二人をようやくお墓に埋められたし。私の目的も……きちんと果たせたわ」

 その時、ディランの腰の後ろで垂れていた狼の尻尾が、ぴくりと跳ねた。それに気付かないは、立ち上がりスカートを払って整える。
 一瞬の沈黙の後、ディランがその狼の口を開いて尋ねた。

「……なあ、。これから、どうする気だ」
「え?」
「小父さんと小母さんは、もう居ない。一人で、都市で暮らすのか」

 急にそう尋ねられて、は僅かに困惑する。つい先ほども、シャーリーから同じ事を言われたが、彼女は心底案じてくれているのが分かる声で告げた。だが目の前の狼の獣人は、淡々とし、感情らしいものが見えずにいる。じっと見据える狼の眼には、きっとの姿が映っているが、果たしてこの邂逅は幼馴染み同士にちなんだものなのか。何故かとても肩身の狭くなる感覚が圧し掛かったが、そうだね、と一言置いて。

「戻って来たいとは、思うけどね」
「! そう、か」
「でもまあ、都市には戻らなきゃいけない。直ぐに決められるものじゃないし、向こうに残したものは多いし。それに、今はお邪魔になっちゃうもの」

 目の前にあるディランの眼が、見開く。「どういう、意味だ」と呟いた声は、先ほどよりもさらに低く凄みを増した。は素っ頓狂に、え、と漏らした。

「だって今、ディランだって番探しの季節なんでしょう?」

 が告げると、それまで冷静さを張り付かせた彼の顔に、動揺が走った。それを見て、ああほらやっぱり、とは確信する。直ぐに戻れと言ったのも、きっと彼の意中の相手に良からぬ印象を与えたくないのと、女の幼馴染みの存在が邪魔になるからだ。ふう、と大袈裟に息を吐き、肩を落とす。それに気付かないくらいもう子どもじゃないよ、とディランへさも言うように。

「ほら。邪魔はしないよ、安心して、お嫁さん出来たら紹介してね」
「そうじゃない、お前、壮大な勘違いをしているだろう」
「え? 勘違い?」

 ディランはハッとなって、開いた口を閉じてしまった。横へ逸れた視線は、気まずく泳いでいる。首を傾げて窺うが、彼は言わない。何だろう、此処に来てからディランは、まるでへ隠し事を幾つも抱えているように見える。幼馴染みとしても、友人としても、酷く気がかりであるのにそれ以上聞けない彼女が居た。十年もの空白、すっかり変わった現実、懐かしさの中の躊躇い。ディランの逸らした視線と同じく、もそっと瞼を下ろす。

「幼馴染みのお兄ちゃんとして、心配してくれてるんでしょ? ありがとう、これからの事はちゃんと考えるわ」

 意図せず漂った、息の詰まる重い空気。それを払拭するように、は努めて明るく振る舞った。両親の墓石に背を向け、ディランの横をゆったりした足取りで過ぎ去る。彼の両目が追いかけている事を、ひりつく首筋で理解した。

「そうね、シャーリーも結婚して、ディランもお嫁さん探しなら、私もそうしよっかな。貰ってくれる人が都市に居てくれると良いけど」

 ふふ、とは笑った。にとっては、それは多少色めいた冗談であった。ほんのささやかな、そうするとも限らないある一つの未来とほのめかす冗談。それだけだった。
 けれど、彼は。黒の混じる銀色の毛並みの狼獣人は。の思惑とは大いに懸け離れた受け取り方をしたようだった。
 ふわりと宙で揺れたの手首が、唐突に捕まれたのはその時だった。ぐん、と後ろへ引き寄せられ、の足がもつれる。

「……ちょっと待て、

 捕まれた手首に、力が込められる。走った圧迫感に、の眉が歪む。半ば強引に振り向かせられた彼女の前には、冷徹な光を宿らせた獣にほぼ近い、ディランの顔があった。本当に狼なのだと、この状況で何故か思った。

「お前は、何処までが本当で、何処までが冗談だ」
「何が……ッちょ、ちょっと、痛い」
「人が幼馴染みの兄として振る舞おうとしているってのに、お前は、どうしてそう狙ったような事を口にする。俺がどれだけこの十年間を耐えていたと思ってるんだ。
都市の方に、もう恋人も居るのか、それとも、好きな奴が居るのか」

 徐々に、徐々に。力が増す獣人の手のひらと、激情を湛えた低い声には恐怖を抱く。振り払おうとした腕は動かない、腕一本で万の力が掛けられているようだ。はたまらず、声を上げた。

「ま、待って、ディラン、痛い!」

 その時ようやく、ディランの目から氷の冷たさが引いた。の手首を握る手のひらが、ぎこちなく力を緩める。

「何言ってるの、貴方、少し変。前は……」

 優しかった、と言おうとし、直ぐに止めた。いつの頃の話だ、もう彼にとっても遠い過去じゃないか。は顔を逸らし、掴み上げられた自らの手首を胸へと引き寄せる。だが、ディランの手は離れなかった。獣人特有の、滑らかな肌ではなく毛の覆った柔い感触が手首をしっかりと捕らえる。心なしか、熱かった。
 困り果て、手首とディランを交互に見比べる。彼は大きく溜め息をつくや、独り言のように呟いた。

「そうだな、前はもっと優しかっただろうな。が赤ん坊の頃からの付き合いだし、隣に住む幼馴染みとしても兄貴としても、良い奴だっただろう。そのままで良かったのに、お前ときたら、よりにもよってこの季節に戻って来やがった」

 ディランは、を引っ張り歩き出した。上擦った悲鳴を小さく漏らしたけれど、を連れる彼の背中は振り返らず、立ち止まらなかった。

「それでも、お前は獣人の繁殖期なんかお構いなしだし、その気がない事だって分かっていた。ただでさえ辛いってのに、しかも口にしたのが……都市の方で番を作る、だ。そう言われたら、俺だってさすがに兄貴面は出来なくなる」

 彼は、一体どうしたのだろう。は足をもつれさせ、引っ張られるままディランの後ろをついてゆくしか出来ない。目の前を進んでゆく彼の長い足は、まるで急くようだった。一体何に追われているのか、というくらい、落ち着きのなさが見て取れる。それがを、この上なく困惑させた。

「……、昔話をしよう」

 どう聞いても、思い出を懐かしめるような会話は期待出来そうにない。は本能的に察し、ぐっと声を飲み込む。




 彼にそのまま連れて行かれたのは、一つの民家だった。町の片隅、市場通りからは離れた静かなところで、は中へと入れられる。其処は、ディランが今現在暮らしているという一軒家だった。
 が踏み入れると同時に、玄関の扉が閉ざされる。乱暴な仕草でされたせいか、扉は派手な音を奏でた。流れる空気が重く沈黙を保っている事も、要因なのだろうか。は行き場を失う手のより所に、自らのカーディガンを掴んだ。妙な不安の誤魔化しになればと、日中の灯りに照らされた室内をぐるりと見る。玄関から伺う限り、こざっぱりした印象を受けた。成熟した獣人が暮らす分には恐らく丁度良い程度なのだろうが、人間の女から見るとやはり広さは感じられる。一歩足を進めると、床板の小さな軋みが鳴った。
 背後のディランが、の横を過ぎ、リビングへと進む。

「お、おじさんと、おばさんは、居ないの?」

 そういえば記憶を信じて良いのなら、彼が暮らしていた家はもっと別の所だった気がする。
 の問いかけに、ディランは肩越しに振り返る。表情はないのに、眼の強さだけは雄弁だ。

「……集落へ戻った。丁度、お前が引っ越しをした後くらいだったか」
「え……戻った?」
「ああ、俺もその時一度は戻ったんだが、結局此処に戻ってきたな。……今は別に何もしない、ビクビクしないでこっちへ来い」

 今はって。逆に不安が煽られたが、ディランの眼差しには敵わず、そろりとした足取りでは彼の背を追った。通されたリビングで、椅子に座らせられる。彼はコップを取り出しながら、《昔話》を始めた。

「引っ越しした理由、小父さんと小母さんから聞いたか」
「え、理由?」

 理由も何も、両親の仕事の関係としか……。がそう告げれば、ディランは苦笑いをこぼして「そうだろうな、言える訳がないしな」と一人呟く。その口振りは、まるで理由が他にあるとでも言いたげな。

「どういう事? 引っ越しが、何か……」
「知っていたか? 小父さんと小母さん、確かに仕事の関係で都市に越す事になっていたが、本当はもっと後の話で、あれはかなり急いで準備した事だったんだぞ」

 は、目を見開く。既に此の世に居ない両親の事情を、どうしてディランが知っているのか。あの当時だって、彼はまだ若く十五歳程度の少年だったはずだが。見つめるの眼差しを浴びる彼の背が、静かに振り返る。両手に持ったコップには、果物のジュースが注がれている。それを机に置き、ディランは近くの柱に寄りかかる。

「どうして、急いでなんて……」
「知ってるのか、て言いたげだな。そんなの、理由は簡単だ」

 ディランの獣の目が、を見下ろす。銀色の狼の顔は、不自然な落ち着きを浮かべていた。

「俺が原因だからだ」

 息を飲み込んだの隣、ディランは一気にジュースを口に流し込むと空のコップを流し台へと置きに行く。

「あの時、お前はまだ小さかったし、覚えていないだろう。引っ越しした時期が、獣人の番探しの……丁度今と同じ季節だった事」
「し、知らない」
「だろうな、当然だ。で、その季節は雄の獣人にとっては成人の儀式の意味もある。俺ももう、あの頃は獣人の概念で言えばそれを行う肉体と年齢に達していたし、季節の本能には逆らえなくなる。番を無意識の内に探していたんだが……」

 淡々と告げるディランが、酷く恐ろしい。聞いてはいけないような気もしてを不安にさせたが、塞げない耳からは彼の声が滑り込むように響いている。

「……ずっと身近に居た子を、番だと思ってしまってな。あっちは俺の事を幼馴染みとして慕ってくれていたのに、俺だけが異性として見ていた。
それをうっかり、両親に話して……彼女の両親にも言ってしまった。そうしたら彼女の両親は、酷く狼狽えて、いや怒っていたかな。俺の事を自分の息子のように思ってくれていただけに、年端もいかない娘が異種族の男にそういう意味で見られた事は、親なら狼狽えるところだ」

 の両手のひらで包んだコップが、カタカタと揺れていた。ジュースの鮮やかな水面が震えている。映るの顔は、歪んだ。

「……俺の両親は、分かってはくれたさ、本気でその子を番に欲しかったのを。獣人の雄は、季節に浮かれて辺り構わず雌に手を出すなんて事は滅多にない。一度雌を選んだら、完全に振られるまで追いかける性質がある。
ただ彼女の両親は、俺が繁殖期の季節に当てられているだけか、それとも本気でそう想ってくれているのか、分からなかったんだろうな。引っ越しを、かなり早めた。満月の夜に俺が何時小さな彼女のところへ来るのか、怖かったんだろう」

 ディランが、ため息をつく。

「引っ越すと聞いたその子は、親にも手がつけられないくらいに泣いた。俺は俺で家に籠もってたんだが、兄の性だろうな、その声にはいつも耐えられなくなる。泣き疲れて眠るまで宥めてたよ、引っ越し当日まで。
その時、彼女の両親はな、困ったようにしてはいたが俺に言ったよ」

 震えるへ、ディランが振り返った。

「『君が大人になり、も大人になって、時間が経ってもなおこの子が番に欲しかったら。もう一度話を聞こう』ってな」

 その瞬間、は椅子かた立ち上がった。ガタリ、と椅子の脚が床を蹴り音を鳴らす。

「ま、待って、それ、それって」

「ま、待って、言わないで、お願い」

 それじゃあ、まるで、彼は、自分の事を――――。

 腕を動かした瞬間、コップが倒れる。口にする事の出来なかったジュースが、机の上に広がった。困惑に平常を失った思考が、自らの手の濡れる感触に幾らかの冷静さを得る。あっと声を漏らし、は机を見下ろす。

「や、やだ、ごめんなさ……」

 ハッと、顔を上げる。の側には、ディランが立っていた。目線の高さにある、彼の広い胸が屈む。そうして、ジュースで濡れたの手を取ると、狼の口元へ引き上げた。

「……ただの、口約束だった」

 呟いた狼の口から、鋭い牙が覗く。その間から伸びた赤い獣の下が、の手を舐めた。甘いジュースの雫が伝う、指先を、手の甲を、順番に。その仕草と、熱さが、幼少時によくされた親愛のそれとは全く違う事をは感じ取って、背筋を震わせた。

「子どもを宥める為の言葉なだけであって、諦めさせる意味の方が大きかったと今も思ってる。けどこの十年間、俺も驚いたんだが何度この季節が来ても別の番を探そうという気になれなくて、無理に獣人の女を好こうとしても最初に選んだその子の顔しか浮かばなかった」

 狼の舌が、するりと引っ込む。怖々と見上げたの前には、不自然な落ち着きを払った彼の顔があった。ただこの距離で見て、ようやく気付く。幼馴染みの兄と、獣人の雄の、踏み越える危険な瀬戸際に今立っているのだと。揺れる狼の目は熱く、見据える強さは今までの比でない。逃げられない、見逃してくれそうにない、獣の眼差し。これは彼が、隠していた事の一つなのだろうか。出来るものならば知らない方が良かったと、彼女は思った。

 この空白の時間、確かには彼を想っていた。兄として慕った幼馴染みの存在を懐かしんで。
 けれど、彼は違う風に想っていたのだ。

「……、俺がお前を早く町から出るよう言ったのは、俺が未だお前の事を幼馴染みではなく自分の番の女性だという事を再確認して不味いと思ったからだ」
「ディ、ディラン」
「……獣人の習性は、ちゃんと覚えているな」

 ディランの手が強く、の手首を握った。痛みはない、けれどその予想外の熱さに、胸が苦しくなる。

「満月の夜になると、雄が番として望む雌のところへ向かう。次の満月は明後日の晩だろう。そしてこれが恐らく、今年の繁殖期最後の満月だ。
――――その日、俺はお前のところに行く」

 唐突に宣言され、は声にならない息を吐き出して口を開いた。言葉は、喉の奥に引っかかり出ては来ない。

「お前、本当に運が悪いな。昔からそうだ、気を付けろと言われてゆっくり歩いたら側溝を踏み抜いて転げるし、棚から物を取ろうとして椅子を引っ張り出すとその椅子にぶつかって泣くし、良かれと思ってした事が大抵裏目に出ていた。
……満月の晩になる前に、町を出るか、完全に部屋へ閉じこもる準備しとけ。側に武器になる物も、置いとくように」
「ディラン……」
「番になる意志がないとはっきり分かれば、雄は諦める。中途半端にやるな、拒むなら徹底的にやっとけ。でないと俺は、またこれからも想い続ける」

 ディランは、苦笑いをこぼした。眼差しの熱さに反し、その言葉は在りし日の幼馴染みの兄のものだった。

「……はっきりと振られれば、俺はお前が、例え都市の方で別の良い奴と恋人になっても祝うし、こっちに戻ってきても幼馴染みの兄として接する。獣人はな、そういうところについては後腐れなくはっきりとしているんだ」

 すっかり言葉を無くしたを一度見て、ディランは彼女の手を下ろした。戒めとなっていた彼の手が離れ、自由が戻ってきたが、は動けなかった。

「……もう、振られる覚悟はしている。それでも追いかけるのが獣人だ。久しぶりの再会を素直に喜んでれば良かったのに、全部をお前のせいにしようとしている。みっともない姿見せて悪いな」

 ふと、ディランの背が屈む。瞼を下ろした狼の顔が、の顔へ近づき、額を重ね合わせてきた。銀色の毛の感触が、の額をくすぐる。

「……これで最後にしよう。俺にとっての小父さんと小母さんへの弔いは、残されたままのあの約束を終わらせる事だ」

 ディランの顔が、ゆっくりと離れる。は一度彼を見て、数歩退く。そして、弾けたように駆け出し、玄関の扉まで真っ直ぐと向かう。ディランは、今度はを止めたりなどしなかった。

 とんでもない事になってしまった。は息を乱すまでに全速力で通りを走り抜け、宿屋へ戻る。その道すがら思い出すのは、ディランの浮かべた、見た事のない男性の面持ちと、手のひらの熱さ、そして舌の感触であった。
 顔が、赤く染まる。疾走だけが理由でない事は、が知っている。それでも、町に戻ってきてから起こる目まぐるしさの中で、最も強烈で、最も困惑させるものが我が身に降りかかっているという事実を、はとてもじゃないが信じられなかった。
 最初は、ただ懐かしいだけで終わるはずの里帰りであったはずなのに。それどころで無くなってしまった事が、恨めしいのか、それとも。
 記憶の中の真っ白な犬の獣人が、銀色の狼の獣人と被さってゆく。




 の飛び出して行った玄関には、もう無音が漂っていた。もともと田舎で、家の外にも騒音はない。だからか、余計にディラン自らに宿った熱さが浮き彫りになっていた。

「……あーあ、ついに、言っちまったなあ」

 壁に寄りかかり、重く息を吐く。自嘲気味な声が、次いで喉からこぼれる。
 後悔に似た感情が過ぎったのは、未だ幼馴染みとしての心が一片でも残っているからだろうか。だが、それも直ぐ訪れる満月の夜に、消えるものだという事も分かっていた。獣と人の性質を持つ種族は、この季節は獣の性に殆どを奪われ、そして満月の夜には本能に抗えず獣となる。最も、今のディランはこれまでの姿勢とは打って変わり、本能に従う雄になっていたが。
 今までは、番に欲しいと願ったあの少女が居なかったから、興味がなかった。誘惑する雌にも耐えていた、どうしても彼女の姿が拭えず魘される夜は自らを慰めた。だが、久しく見たその子は当時の面影を少し残しつつもより美しく成長して女の匂いが強くなって、益々欲しくなってしまったのは季節のせいだけでない。約束を信じて待ち続けた彼の我慢が、一気に壊れただけだった。

(……振られても良いか、もう)

 十年、結果としてそんな長い間、狂気じみた片想いに暮れた。いっそ此処で思い切り振られてしまえば、後腐れない。ただ、その後は幼馴染みとしやっていけるかと言えば……本当のところ、自信などない。そう呆気なく諦められるなら、とっくの昔にそうなっていたはずなのだから。
 どちらにしても、ディランは、の近くに居たいと思う。その心については、嘘偽りないものだった。けれど怯えた彼女の目に映る己は、いかなる姿だったのだろうか。見た目に違わず、飢えた狼そのものだったのかもしれない。

 ――――満月の夜は、もう直ぐ其処だ。
 雄の本能が強烈に高ぶるのを、ディランは感じ取り歯を食いしばった。
 の匂いが、まだ鼻に残っている。