そして果たされる約束(3)

 強烈な秘密を明かされてから、一晩を明かした。翌日のは、動けないほどに悩み抜いていた。何故こんな事になっているのかという疑問と、明日本当にディランは来るのだろうかという不安が、何度も交互に押し寄せ食欲も奪う。せっかく用意してくれた宿屋の朝食は、口にする事が出来なかった。

 しかし、だ。ディランがそう思っていてくれたとは、全く予想もしていなかった。腹這いにベッドの上へ横たわるは、シーツに顔を埋める。もう十年前に別れたっきり、時間は止まっていた。に残っている当時の記憶は、少女の頃のものだけ。白い獣人の幼馴染み、兄と慕い付いて回った、大きさも高さも違う手を繋いで帰った道など、懐かしい思い出ばかりだ。だが、ディランは違った。幼馴染みの兄は全く知らないところで自分を異性と認識して、叶う事も破られる事もなくなった本能をくすぶらせて空白の時を想い続けていた。

 あの頃から止まっていたのはお互いであるが、その意味が違うとは。

 ……何時から、一体。どうして自分を。
 は考えた。が、結局まとまる事も解決の糸口も見つからない。時間ばかりが過ぎ去る。沈黙の空気は、一層を焦燥感で煽る。明日の晩に、ディランはきっと来る。いや、絶対に。あの目は……それを物語っていた。
 はしばらくベッドに転がっていたが、おもむろに立ち上がる。白いワンピースは脱ぎ、別の衣服を鞄から出して身に着ける。刺繍のあしらわれた白のチュニックと、足首まで隠すスカート。顔を洗って情けない表情を引き締めて、は宿屋を出た。向かう先は……彼女のところだ。



「――――、どうしたの」

 友人シャーリーは、扉を開けて朗らかに笑うが、の顔を見ると驚いたようにその目を徐々に見開かせた。まあきっと、酷い顔をしているのだと自分でも思った。

「突然、ごめんね」
「ううん、いいのよ。……まあ、聞くまでもなさそうね、その顔の理由は」

 シャーリーは困ったように笑い、腕を伸ばしてきた。抱きすくめられる身体に、友人の柔らかな四肢が重なる。温かく、心地よい感触。は玄関で涙をこぼした。


 運が良かった事に、子どもと旦那は出かけているらしい。突然やって来て、本当に申し訳ないと思うが、町で気心知れた存在は彼女しかいない。幼馴染みのせいで、こうも悩んでいるのだから、彼のところへ行く気になどなれなかった。
 シャーリーは「気にしてないから」と笑い、をリビングに招き入れ涙が止まるまで肩を撫でてくれた。そうしてが落ち着いた頃、彼女は告げた。

「ディラン、でしょう? 言わなくたって分かるわ、あいつもアンタみたいな顔してた」
「会ったの?」
「今朝、少しだけね」

 はぎゅっと眉を寄せる。シャーリーの眼差しに甘え、は全てをぶちまけた。引っ越しの騒動の原因や、ディランが明日の夜にやって来るという事の、全てを。彼女は何も言わずに聞いて、の言葉に耳を傾けた。

「……あのさ、昨日が来た時、私言ったよね。アイツ、堅物すぎるって。分かりやすいって」
「うん」
「昔が引っ越して、しばらくね、野生の獣みたいだった。本当に。苛立って、ピリピリして、出てくる声は狼の鳴き声ばかりで、が居なくなったせいだろうとはずっと思ってたけど、さっきの聞いて分かった。自分が選んだ番が居なくなって不安になったんだね」

 ぐすりと鼻をすすり、は顔を上げた。きっと、間抜けな顔をしていただろう。

「アイツ、十年間もに操立ててたのよ、凄くない? 番探しの季節が何度来てもアイツは耐え抜いて獣人の女の人追い払って、誰とも夫婦になろうとしなかった。そんなだから、町の人たちなんか冗談混じりで【堅物のディラン】なんて言ってたわ。
……でも私は、それをアンタに押しつけようとは思わない。あのお兄ちゃんだって、そうでしょうね」
「シャーリー」
「こればっかりは、自分で決めなくちゃ。ディランは何だかんだアンタを尊重するから、町から早くに出たって怒んないわ。むしろそんな風に言うんだったら、私がぶっ飛ばしてあげる」

 腕を捲って見せる友人に、は噴き出して笑う。それを見て、シャーリーは目尻を緩める。

「……あ、あのさ、シャーリー」
「何?」
「一つ、聞きたいんだけど、シャーリーの時はどうだった?」
「どうって」
「旦那さんと、結婚した時、というか。番探しの時期の、満月の夜に結ばれたんでしょう?」

 シャーリーはきょとりとし、そして何かに閃くと悪戯っぽく口角を上げる。

「何、夫婦の営みがどうだったのか聞きたいの?」
「違うわよ! そうじゃなくて!」

 分かってるわよ、とケタケタと笑い、シャーリーは告げた。

「そうねえ、旦那はディランのように何時来るとは言わなかったわ。言わないでいるのが基本みたいだけど、私は全く来るなんて思ってなくてね。いつものように戸締まり全部して寝てたら、そら派手に窓をぶち破って中に入ってきたの、アイツが」
「不法侵入じゃない!」
「うん、本当に思う。鍵の意味ないじゃないって。獣人の習性って嫌よねー」

 とは言いながらも、笑って許せる辺り、シャーリーは凄い。

「番探しの季節は知ってたけど、まさか来るなんて思わなかったわ。驚いたのと窓を壊されたのとごっちゃになって、真夜中に思い切り怒鳴りつけてぶってやったわよ」

 勿論グーで、とシャーリーは握り拳を作り、自らの頬へ重ねた。

「そしたら旦那も負けじと言ってくるでしょう、喧嘩腰で。でも本人は気付いてなかったみたいだけど、こっちが真っ赤になるような事大声で言うものだからね、分かったから止めろって言った」
「どんな事?」
「ふふ、俺の番はお前しか居ないのに何が悪い、とか。好きな女を他の奴に取られてたまるか、とか」

 ああ、それは真っ赤になる。が頷くと、シャーリーは少し恥ずかしそうにしたが、何だか幸せそうだった。
 しかし、あの近所の悪たれ小僧が、まさかそんな風にシャーリーを一途に追いかけるようになるとは。

「まあ、そんな風に想ってくれてたのは嬉しかったし、色気のない必死な顔してプロポーズしてくるアイツ見てたら、この人が旦那になるのも良いなって。それで、後は……」
「後は?」
「勢いで寝た」

 勢い……。が呆然とすると、シャーリーはやはりケタケタと笑う。

「むしろ大変だったのはその後よ。ガラスはぶち破れて修理費掛かったし、両親は渋ったでしょ、鳥人の一族の事も勉強が必要だったし、最初は本当に勢いで押し切ったって感じね」
「え、ええー……よく、結婚許してくれたね」
「旦那が分かって貰えるまで、足を運んでは本気で好きだってのを言ってたからね。今じゃあ肩組んで酒飲むような間柄よ」

 は、はあ、と溜息のような声を漏らすばかりだった。シャーリーは笑うと、の顔を覗き込み「参考になった?」と尋ねる。正直、参考になったというより……。

「悩んでるのが馬鹿らしくなるくらい、清々しいなと……」
「でしょうねー、私もそう思う。でもね、出だしはあんな感じだったけど」

 するとシャーリーは、声音を改めて告げた。

「喧嘩もよくするけど、子どもたちは可愛いし、旦那は子煩悩になって自らの行いを棚に上げて悪さはするなと説き伏せてるし。異種族同士ながら上手くやってし、うん、幸せかな」

 幸福の満ちた、柔らかな響きがへ届いた。母の慈しみと、女の慕情。友人は羨むほどに美しかった。

「そっかあ、幸せかあ」
「そうよ」
「……何か、本当悩んでるのが馬鹿らしくなってきた」

 先ほどと比べれば、ずっと晴れやかな気分だった。シャーリーは微笑み、そっか、と呟いた。どうするつもりだと尋ねないところが、彼女らしくもある。

「ま、頑張りなさいよ。私はどっちにしても、の味方だもの」
「ありがとう、シャーリー」

 は一度、友人をぎゅっと抱きしめる。自分には少ない、その思い切りの良さと剛胆を分けて貰うように、強く。シャーリーはぽんぽんとの背を叩いた。
 ……何か、だいぶ落ち着いた。今朝に比べれば、ずっと頭も冷静だった。友人の効果なのだろうか。

「さて、もう行くね」
「あら、そう?」
「うん、ありがとう。戻ってきてからシャーリーには助けて貰ってばかりね」
「馬鹿、足りないくらいよ」

 椅子から立ち上がり、玄関へ向かう。見送ってくれる友人へ笑みを見せて、今度はしっかりと地面を踏んだ。

「……あ、そうだ、シャーリー」
「何?」

 扉を開いたところで、くるりと振り返った。

「私ね、小さい頃ディランの事好きだったんだよ」

 幼馴染みの兄としてか、異性としてかは定かでないが。慕っていた事は間違いない。
 シャーリーは一瞬面食らったように瞳を丸くしたが、柔らかく微笑むと一言呟く。

「でしょうね、アンタも分かりやすかった」

 それも、果たしてどちらの意味合いでシャーリーが答えたのかは、定かでなかった。けれど、それは大した問題ではなかった。そっか、知ってたか。はまなじりを緩め、手を振って彼女のもとを離れた。




 行動へ移す前に、は今一度両親の墓石の前に足を運んでいた。
 花が備えられた墓石には、両親の名前と眠りについた日が刻まれている。其処に両親の姿はない、もし見えていないだけで居ると仮定した時、どんな顔をしているのだろうか。
 二人が最期の眠りにつく前、懐かしむようにこの故郷の町の事を話す機会が多くなった。そして、いつか家族みんなで戻ろうと、決めていた。ディランの件を、この時は全く知らなかったけれど、もしかして二人はディランの事を忘れはおらず、十年も前の口約束を果たそうとしていたのかもしれない。今となっては憶測の範囲でしかなく、むしろそんな意図などさらさら無かったかもしれない。単純に望郷の念が募っていて、ディランの事はすっかり忘れていたかもしれない。けれど、或いは――――。

「……私もちゃんと、先の事を考えないとね」

 どうなる事やら分からないけど、あんまり気にしないで眠ってて下さい。はそう思いを伝え、立ち上がる。墓石へ一礼し、町へと戻った。


 両親は、もう居ない。一人だけになった。思い出に懐かしみ、立ち止まるのは、もうこれっきりにする時が来ているのだろう。
 少なくとも、一番近いところに居続けた人は、終わらせようとしている。あの時のまま、立ち止まり続ける事を最早望んではいない。
 ならばも、応じてきちんと終わらせるべきなのだ。

 あれほど困惑し考えなど纏まりそうに無かったのに、今はとても落ち着いている。実際はそう思っているだけで、一線を越えて逆に冷静になってしまっただけかもしれないけれど。
 これまでよりも、ずっと色めいて見える町を見渡して、は自らの両頬をパチリと叩いた。

 その日の夜、宿屋の部屋から見た藍色の空は澄み渡っていた。薄い雲の間に、ほぼ丸い形の月が浮かんでいる。金色の柔らかい月光が降り注ぎ、の寄りかかった窓辺をくっきり照らした。明日もきっと晴れて、今日よりもずっと綺麗な、見事な満月が昇るのだろう。
 明日は早く起きて、荷物も片づけて、準備をしなくては。一人覚悟を決め、ベッドに潜り込んだ。

 ――――でも、少しだけ、怖いかな。

 ディランは今頃、どう思っているのだろうか。そんな事を眠る間際まで考えてしまったせいだろうか、夢に彼が出てきた。懐かしい白い獣人の少年ではなく、すっかり年上の男性になった銀色の狼の顔をした獣人だった。




 故郷へ戻ってきてから、今朝は久しぶりにすっきりと目覚めた。食べ損ねた朝食をはきっちりとお腹に納め、身なりを整えて宿屋のカウンターへ向かう。

「今日は、満月ですか?」

 尋ねると、女将は特に表情を変えずに「そうだね」と頷いた。この町における満月の夜はある意味が含まれている事は彼女も気付いているだろうが、触れないのが暗黙の了解か。は「そうですか」と返し、それから直ぐ様「今日の夜、チャックアウトします」と告げる。彼女はやはり表情を変えずにペンとサイン用紙を取り出してカウンターへ置いた。

「日中は、居るんだね?」
「はい」
「……大丈夫、なのかい?」

 恐らく満月の夜なのに、夜に宿屋を出てしまって大丈夫なのかという事だろう。は笑い、「はい」と頷いた。女将は何も言わなかった、察したのかどうかは敢えて考えない。

「あ、それでですね、先にちょっと言付けだけお願いしたくて」

 別のメモ用紙を貰い、さらさらと手早く文字を書き込んだ。それを折り畳み、女将の方へ机上を滑らせて渡す。

「多分、ばたばたしていると思うから、先に。夜、私……にお客さんが来たら、これを渡して下さい」

 彼女は不思議そうにしたが、「夜までなんて、随分後の話だね」と少し冗談ぽく笑ったが快く引き受けてくれて、メモをしまった。はそれを見て、よし、と改めて気合いを入れ直す。

 夜まで、後数時間。さて、支度に入ろうか。