16

 陽の当たる自室。
 蓋の開いた箱を置いた机へに向かって、は何度も金銭を数え直していた。
 箱に入れていたのは、針子仕事の給与と、《特別依頼》で得た報酬だった。
 それを机に広げ、何度も何度も繰り返して計算する。納得するまで、飲み込むまで、指先は丁寧に計算を繰り返した。そして、確かな事を確認すると、は何処か呆然とした様子で呟きをこぼした。

「……3000」

 自ら口にして、その事実がじわじわと広がってゆく。

「3000セスタ、ち、ちゃんと」

 呆然とした面持ちが、次第に花を咲かせて明るく染まった。きゅっと拳を握りしめ、ぷるぷるとその喜びに震える。思わず立ち上がって胸の前で拳を強く握ると、ふわりとの金髪が泳いだ。あれから数ヶ月、毛先の伸びた蜂蜜色の髪は、窓辺から差し込む光を受けて輝いた。

「~~~~ッ!!」

 言葉なく歓喜に舞い上がり、そして大きく息を吐き出す。華やいだの面持ちには、安堵と喜びが織り交ぜられた格別の笑顔が浮かんだ。

 シズのもと――正しくは工房――で働くようになってから、三、四ヶ月ほどは経過しているだろう。もっと長い道のりを覚悟していたのに、こうも早く達成出来るなんて。本人にも嬉しい誤算だった。やっぱりあの《特別依頼》のおかげだろう。

 ルシフに助けて貰った、3000セスタの借り。
 無事、達成した瞬間だった。

 心の中にあった最後の重石が、全てなくなったような心地だった。肩が軽くなったのも、床を踊る足が軽快なのも、気のせいではない。
 ルシフへの感謝は勿論あるけれど、何よりもあったのは、やはり不安だった。彼は気にしていないようだったが、3000セスタで買われたなんて、大きな声で語れないのは確かなのだ。事実とはいえそれがあり続けるのは、としては心苦しかった。けれどそれも、この瞬間に全て。

 ああ、良かった!

 そしてこれを渡せば、とルシフの、買われたものと買ったものの関係も無事に果たされた。契約解消、といったところだろうか。そして後に残るのは、何もないとルシフである。
 それがどうしようもなく、嬉しいのだ。

 は3000セスタをきちんと箱にしまうと、喜びに舞いながら、夕食の支度に取りかかる。その軽やかな気分が料理にも入ってしまい、何かの記念日のような食卓になってしまった。ちょっとあからさま過ぎるかとも思ったが、反省はしない。

 そして、陽の光が茜色を帯びて傾いてゆく頃。
 待ち望んだルシフが帰宅した。

「ただい……ッうォお?!」

 彼をびっくりさせたい余裕もなく、は飛びついて出迎えた。ほとんど突進するようだったの抱擁を、ルシフが耐えきったのはさすが獣人と言えるだろう。

 異様に上機嫌なの様子に、ルシフは最初かなり怪訝に首を傾げていた。けれど、導かれたソファーに座って、胡乱げに細めたオッドアイの目の前に箱を差し出された時、何かに気付いたようだ。
 白猫の指先が、そうっと小箱を開いて中を確認する。すると、ルシフも面持ちを和らげて、を静かに見上げた。

「そう……お疲れ様」

 普段は涼しげなその声も、微笑を浮かべ和らいでいた。
 短いけれど、ルシフも喜び労ってくれている事は、外見以上にその声が告げている。は頷いて微笑むと、伸ばされた彼の手を取る。引き寄せられるままにルシフの膝の上へ抱きかかえられると、他よりもふっくらとした毛皮を蓄える喉に額を擦り寄せる。
 耳元には、聞き慣れた猫の喉の音が鳴り響いた。



 しばらくそうして、互いの背を抱き合った後。
 ルシフは疑問を投げかけた。

「ごめん、正直もっと掛かると思ってたんだけど、随分早かったな」

 率直な彼の言葉に、はふふっと含み笑いを返した。

「私も、先だとは思ってたんだけど……実はね、《特別依頼》があったから」

 不思議そうに首を傾げるルシフへと、は語った。これは、ルシフにまだ話していない事だった。


 工房で針子仕事に精を出す日々は、上々だった。元々、長年続けてきた仕事なので、職場に慣れる頃には指先の感覚も取り戻し、僅か数名ではあるけれど朗らかな先輩方とも親しくなった。
 また、シズ自ら認めて声を掛けてくれた趣味の刺繍は、様々なモチーフを見られる環境のおかげでますます勢いづき、あれこれと創作した図案でブック帳は厚くなるほど。勿論、趣味は趣味なので創作モチーフは個人の範囲内だ。だが、それを気に入ってくれた先輩方から、自前のハンカチーフや布袋などを差し出され「此処に小さくて良いから縫って欲しい!」と頼まれるようになった。気恥ずかしさはあったけれど悪い気はしないので、も空き時間にちくちくと縫って差し上げた。そんな事をし続けていたら、いつの間にか刺繍の技術は、本人も驚くほどに伸びていた。
 好きこそものの上手なれ、と何処かの名言を思い出す。

 それがきっと――――転機を招き寄せたのかもしれない。

 それ以降のもとには、じわじわと刺繍入れをしてもらえないかというお願いが増えた。それは、のブック帳のものだったり自ら用意してきたものだったりと様々で、妙な広がりがあるなとも首を傾げたところに、聞き付けたシズのこの言葉である。

「いっそ代行サービス的なのしちゃえば良いんじゃないか?」

 意外と手堅い彼の一言により、こうしては趣味の刺繍を開花させ第二の稼ぎ仕事を得た。


「やれるのは私だけみたいで、簡単なのならまだしも難しいのは時間掛かるから配分は自由にさせて貰って。お店の事業って事で価格とかの方はシズさんにお任せしてたんだけど」

 難しいのを頼まれたり、或いは描き溜めたモチーフが別のところで使われたりして、意外とじわじわ利益があったらしい。その分だけには報酬がついていった。

「あの人、眠くさせる顔してるくせにわりとちゃっかりしてるからな……まあ店の事は自由だし良いんじゃないか」

 ルシフは首肯してみせて言ったけれど、を見下ろす瞳はやや不安げだ。

「無理してないか、
「平気。シズさんが配分任せてくれてるから自由が利くし、何もそんな馬鹿みたいな量を頼まれるわけじゃないから。普段とあんまり変わらないよ。やっぱり楽しいしね」

 刺繍なんか似合わないと笑われてきた趣味だが、そういう評価を受けるのはとても有り難い事でもあるのだ。ふふっと肩を揺らすを見下ろすルシフは、安堵の溜め息を混ぜながら「そうか」と呟きを落とす。
 数ヵ月の間で伸びたの金髪を、ルシフの大きな手が撫でる。感覚など其処にないのに、無造作に梳かれるとを穏やかな心地にさせる。

「……ようやく、これで何にも無くなった」

 買った者と買われた者の関係は、これで終わりだ。いつか望んだ、何にもないまっさらな関係が、これほど嬉しい事もない。
 満ち足りたの吐息が、肌触りの良い、さらさらふかふかな喉の毛に吸い込まれる。その向こうから聞こえる喉の音が深まった気がした。

 、とルシフが呼ぶ。白い毛に埋もれていた顔を起こすと、全身を擦り寄せるようにぐっと膝に抱えられた身体が引き寄せられた。顎を持ち上げ見上げた先から、細いしなやかなひげで頬をくすぐって、白猫の顔が降りてくる。

「此処に居てくれるのであれば、何でも良かったけど。あんたが満足したなら、それで良いよ」

 の唇を、ルシフの舌が撫で上げた。ざりっとした質感にの細い肩が跳ねる。

「嬉しくない?」
「ん? まさか」

 どうしてそういう発想に行くのかと、ルシフはその声に笑みを含ませる。

「これであんたを何の負い目もなく捕まえておけるんだろう? だったら俺も、嬉しいってものだよ」

 そうさらりと言って退けて、ルシフはの唇を食んだ。人と獣人の口の形状は違うので、これが不格好な形なりの口付けである。ほとんど食べられているような気分にさせるけれど、をドキリとさせるのはそういう台詞を挨拶するように躊躇い無く口にする事だ。
 羞恥心を感じるところが、人と獣人では少々違うのだろうか。ことごとくの羞恥心の真ん中を進むくせして全く恥ずかしそうにもしないその余裕を、少々ずるく感じてしまう。
 耳から恥ずかしくなって染まるの顔へと、白猫の口付けが絶え間なく注がれる。言葉こそはからりとしているけれど、喜んでいてくれる本心が窺える温かさ。何だかんだは、それを甘受し頬を緩めていた。

 ……が、それが何かまずかったのだろうか。
 せっかく夕食は出来ているのに、何故かそのままソファーの上で情事になだれ込む事に。

 こうして念願の日は、双方共にぐったりと、余韻の漂う甘い気だるさに包まれた夜を迎えるのであった。
 もうちょっと、こう、想い出に浸るような雰囲気を味わってもよかったのではと、毛艶の良い白猫の毛皮に埋もれながら思うである。


◆◇◆


 それから、幾日後。とルシフは街の外へと出掛けた。
 いつか見た凛々しい商会の馬の背に相乗りをし、カポカポと揺らされながらのんびり進む景色。荷駄を引く馬車などが通る整備された道ではなく、その隣の、緑が大地を覆う丘の上を進んでいた。
 異種族達の行き交う賑やかな街の外は、爽やかな風の吹く草原地帯が広がっていた。街に来る時はひたすらルシフに抱えられ眠っていたので、改めて見るのはこれが初めてである。孤児院のあった故郷も自然に恵まれていたけれど、その風景は甲乙つけがたく美しい。
 ルシフの背にしがみついて馬上から見下ろすは、感心して溜め息をつく。サア、と鳴る風の音は耳に心地よく、伸びた金髪が宙を泳ぐ。

 しばらくそうして丘を進み、馬車の車輪がゴトゴトと鳴る音すらも聞こえなくなった頃、手頃な樹木を見つけて馬上から降り立った。
 馬の腹に括りつけてあった荷物を外し、シートを広げて簡単な軽食を並べれば、気分はすっかりピクニック。絶妙な木漏れ日が、気分を一層爽やかにさせる。

「平和だねえ~」
「機嫌がいいな」
「そりゃそうだよ。たまにはルシフも、気を抜かないとね。忙しいんでしょ? 商人って」
「別に平気だ」

 ルシフは肩を竦めて小さく笑っただけであるけれど、尻尾が楽しそうに踊り、細いひげや瞳が緩んでいるその仕草をは見逃さない。感情によってわりと直ぐに左右される、彼ら獣人のこういうところが好ましい。愛おしくなる。

「目の届くところにあんたが居るし」

 ……そしてこういう、さらっと言って退ける所も、獣人の特徴だろうか。
 人前では足に尻尾を巻き付けるだけにとどまっているものの(それでも同じ獣人族や意味を知る人々には微笑ましく見守られている日々だ)、二人きりの時にはこうである。涼しげな面持ちが急に飛んでったり戻ってきたり、その自由気ままな仕草に相変わらずは翻弄される。

 照れくささを誤魔化すように、は大口でサンドウィッチにかぶりついた。ルシフは不思議そうにしていたものの、彼もサンドイッチを口に運び食べ始めた。尖った歯を隠さずに食べる様は、獣らしく大胆である。



「――――前から気になってたんだけどさ」

 持参してきた軽食がなくなって一息ついている時である。
 ルシフが不意に、そう切り出した。向き直った優雅な白猫を、木漏れ日が照らす。

は何で俺の事を怖がらなかったんだろうな」
「怖がる?」
「そういう見た目だったろ、昔の俺」

 ああ、とはようやくその言葉の意味に気付く。
 今でこそ見事な白猫へと変貌を遂げたルシフは、その昔別の意味でも見事な薄汚い野良猫だった。土なのか泥なのか埃なのか、全く判断の出来ない年季のあった汚れを常に乗っけてごわっごわの毛玉のような猫。いくら子どもとは言え、最初はも仰天していた。孤児院の子達は、そんな少年ルシフを怖がっていたような気もするけれど。

「びっくりしたけど、怖くは無かったね確かに」
「どうして」
「さあ、もう昔の話だもの。ただ」

 身一つで放り投げられ、悲しくて悲しくて泣いてばかりいた少女にとっては、あの汚い毛玉のような野良猫が一つの憧れだったのかもしれない。
 がそう告げると、ルシフはやけに驚いたように目を見開かせた。ぱっちりと丸くなったオッドアイの表情豊かさに、は少しだけ笑う。

「……ちょっとは昔から、成長して一歩進んでるかな」

 囁くようにが呟くと、ルシフは表情を緩やかに戻す。涼しげな美猫の面持ちへ、柔らかな表情を浮かべた。さあどうだろうね、とルシフは曖昧に返すけれど、どちらもその言葉を噛み締めていた。

 は、野良猫の羨ましいほどの強かさが欲しかった。
 ルシフは、雑草ではなく大輪の花のようだった蜂蜜色の少女が欲しかった。
 
 長い月日が間に挟まれたけれど、今もあの頃から延長線上にあり、立っていただけのような気がする。
 互いが口に出せずにいただけで、照らし合わせてみれば爪先は向き合っていた。何の難しさも無かっただろうに、勝手にこじらせて。
 それを思えば少しは――――成長出来ただろうか。

 それをはっきりと断ずる言葉は無い。けれど、とルシフの間に風と共に運ばれた心地よさが、その答えを表しているようだった。


「……あ!」

 はふと声を上げ、自らの脇に置いていた鞄を掴む。背を向けてごそごそと何かを探るを、ルシフは不思議そうに見やる。しばらくして、はそっと身体の向きを再び正して、おずおずと両手を差し出した。其処は丁度、木漏れ日が注いでいた。

「あのね、ルシフ」

 の手には、あるものが持ち上げられていた。
 いつか見た、青いストール。
 ルシフはそれをじっと見下ろした後、へと視線を上げる。は僅かに身動ぎし、躊躇った仕草を見せた。一度は彼の怒りを買った、もはや曰く付きと呼ぶに相応しい代物になってしまったけれど。

「あの、今度は……受け取ってくれる……?」

 おずおずと、が尋ねる。
 ルシフはしばし黙して――――すっと、頷いた。
 の強ばった表情が、途端に華やぐ。いつか見た幼い少女のような、陽の光が似合う大輪の笑顔。ルシフの胸が知らず、満ち足りてゆく。

 ん、と。ルシフは上半身を傾け乗り出した。意図を一瞬図りかねて小首を傾げたであるが、直ぐに察し、その青いストールを首に巻いた。半透明の薄手の生地は、風通しもよく白い毛皮の邪魔をしない。何を身につけても絵になる白猫だ。再びその首に掛けて、は微笑む。

「うん。やっぱり、青が似合う」

 そう、と彼は言葉は素っ気ない。けれど、上機嫌な喉の音や、踊る尻尾は隠せず、ばっちりと窺える。の笑みも深まった。

「あ! それとね」

 はさらに別のものを、ルシフへ手渡した。それは、こっそりと新しく製作していたハンカチーフである。
 悶絶を免れない、超初期に作られたあの何もかも酷い品。てっきりもう既に消えていると思っていたのに、ルシフがずっと持っていたという恐ろしい事実を知ってしまったあの日から、いてもたっても居られなくなって作っていたのだ。
 なにせ、記憶ですら定かでなくなった、初めての品。遙か昔の自作品を引っ張り出された羞恥心は、言葉に表せるものではない。何度も思い出しては、発狂死するかと思ったほどだ。
 これを託すから、是非あれは処分してくれ! はそんな風に必死な形相で告げたけれど、受け取ったルシフはにこりと笑い。

「これはありがたく、大切に使わせて貰う。けど、あれは捨てないから」

 絶対にね、と止めを刺す。
 の叫び声が、静かな草原を震わせたのは言うまでもない。
 悶絶して倒れ込むを見下ろすルシフは、変わらず上機嫌であった。



「――――ああ、そうだ、

 変な顔をしたまま遠くを見るへと、ルシフの声が掛けられる。
 青いストールをはたはたと風に揺らす白猫は、上機嫌だった表情を改めさせ、何かの決意を秘めた真剣な眼差しを向けていた。も釣られて佇まいを直し、ルシフを見つめた。

「……俺からも一つ、渡しておきたいのがある」

 そう言いながら、彼は手のひらを上向かせ、ちょいちょいと指招きをする。手を出せ、という事らしい。

「……あーどっちの手だっけ? 右? 左? 人間の文化って無駄に細かいからな……」
「んんー……?」
「ああ、思い出した、左手だ」

 が差し出すよりも早く、ルシフの大きな手がの左手を取る。人間とは違い、指先にまで毛が覆う獣人の手。獣性を色濃く表すそれは、外見の獣らしさに反し、何処か恭しくの手をそっと指の腹でなぞった。
 ルシフは、もう片方の手で懐を探り、小さな何かを取り出した。白猫の親指と人差し指に慎重に挟まれて、それが握られたの左手へと近付いてゆく。

「……俺からの、これまでのお礼と、これからのお願いだ」

 不意にひそめられた声は、の耳を静かに撫でる。
 そうしての左手の指に、ルシフの指が滑る。離れてゆく代わりに、その指に残ったものは。
 はこれでもかと目を丸く見開かせると、何度も交互にルシフと己の左手を見比べる。激しく首が上下する動きに合わせて、蜂蜜色の金髪が同様の激しさをもって揺れた。そのまま切れてしまいそうだとルシフは小さく笑いつつ、身を寄せるように距離を詰めた。

「……聞くまでもないが、答えは?」

 僅かな緊張と、期待と、懇願。入り交じるオッドアイを見上げるの目にも、様々な感情の色が滲んでいた。何度も言葉を探して、小さな唇を開閉させ、そして。
 泣き笑いを浮かべるように、その頬に笑みがくしゃりと浮かんだ。

「――――決まってるでしょ、馬鹿! 喜んで!」

 悪態まじりに飛び込んだを、ルシフは普段の澄ました涼しさが嘘のような満面の笑みで胸へかき抱く。
 の足には、あの長い尻尾が巻き付き、柔らかく包んでいた。


 木漏れ日の集まる陽だまりのもと、二人の姿が照らされる。
 其処にいるのは、かつて雑草と野良猫と呼び合った子ども達ではなく、新たに踏み出す男女であった。



大手投稿サイト【小説家になろう】の系列【ムーンライトノベルズ】で先行公開した話。
【猫獣人×人間】でした。

ちなみにこちらは名前変換機能を導入しているので、主人公の名前が好きな名前に変わります。
詳しい後書きは、良ければ投稿サイトの活動報告をどうぞ~
(ここと日記にもリンクを繋げてみました)


2015.07.03