夢の終わりは二人の始まり(3)

 それは、数時間前に遡る。セルギスとカルトが、渓流に到着してからもう間もなくの事であった。


 人間のハンターとしての感覚は、だいぶ鈍ってはいるだろうが。
 ジンオウガと云う獣のハンターとし長年培った感覚は、それを十分に補うものである。
 セルギスは人に戻ってからも、そう理解していた。というのも、医師より問題なしと太鼓判を押して貰った初日から訓練場に通って狩人としてのリハビリをした彼であったが、不思議な違和感があったのだ。人間としての動きは見るに耐えないものではあったが、感覚面では……七年前よりもかなり鋭くなっている気がした。訓練場の中でも、匂いや風の動き、微かな音も、敏感に察したのだ。単に気が昂揚しているせいか、或いは集中力が研ぎ澄まされているのか、セルギスは疑問を抱きつつも、まだ馴染んでいないのだと思っていた。
 けれど、人里を離れ、自然に降りて、ようやく彼は理解した。

 人間に戻ったは良いが、その全身の神経は人ではなく獣の狩人のままなのだと。

 今も時々、不思議になる出来事。七年もの月日を獣として彷徨って生きてきた、地獄と呼ぶに相応しいあの日々。あの頃は人であることを捨てて獣とし振る舞う事でしか、狂おしいほどの孤独と羨望に耐えきれなかった。何の奇跡か再び戻ってきた世界で、夢だったのか現実だったのか意味もなく不意に考えるけれど、間違いなく現実だったらしい。今となってはもう恨みもなく、雷狼竜の頃に培われたこの感覚は、むしろありがたくもあるが……。自分は未だ、あの《無双の狩人》であるのか、それとも人間紛いのものなのか、時々見失うのも一つの事実だった。
 様々な変化が一斉に降りかかったセルギスには、未だ地に足が付いていないのかもしれない。あれだけ願っていたものを手に入れながら、他のものを更に欲しがるのは、あまりに身勝手であるが。

 それは、ひとまずは置いといて、だ。

 ギルドで公式に認定された狩り場――――渓流で、セルギスは腕を組んで立ち止まる。そよ風は張りつめ、緊張が漂っている。慌ただしく逃げまどうケルビやガーグァの後ろ姿が遠ざかる。研ぎ澄まされた感覚が、全てを告げている。

「セルギス、これ……」

 カルトが、怖々として振り返る。カルトの前には、狗竜ドスジャギィが居た。小型鳥竜種のジャギィがいずれは至る、成熟し巨体になった群れを統べる頭、リーダーである。今回、セルギスとカルトが狩猟する対象モンスターだ。だがその群れを率いるはずの偉大なる頭は、今は彼らの足下で、声も物音も立てず冷たく横たわっていた。
 乾いていない、真新しい鮮血の中央。立派なエリマキは千切れ、折れた首が痛々しい方角を向いてひしゃげ、太い胴体は裂かれた――――既に死した状態で、だが。
 それは、セルギスとカルトが狩猟をした結果ではない。彼らが発見した時には、もうこの状態であった。
 セルギスは黙したまま、ユクモノガサを指で押し上げ周囲を窺う。この感覚には覚えがある。彼は今一度、ドスジャギィの骸を見下ろす。明らかに、人為的な傷口ではない。ドスジャギィよりも巨大な、獣によるものだ。

「……さて、これはどうしたもんか」
「ニャ、ニャ、何が、どうしたのニャ」

 不安そうにするカルトの頭を、セルギスはぽんっと撫でた。野生で暮らしていた記憶の新しい彼だ、セルギスが口にしなくとも、もう既に事態を理解しているだろう。

「……幸か不幸か、どちらだろうな」

 人間としてのハンター復帰試験と称した、ドスジャギィ狩猟。それが、一気に難易度を上げた証明に他ならない。

 これだけ晴れ渡っているのに、不気味に沈黙した渓流。其処に佇んだセルギスとカルトのもとへ、何処からか重厚かつ獰猛な咆哮が響き渡った。ハッとしたように頭上を仰ぎ見ると、急降下してくる巨大な陰影が覆い被さる。やけに鮮やかな空の青を遮るように、彼らの高みで広げられたのは――――緑色の、竜の翼だった。




 ハンターズギルドユクモ村支所――――集会浴場。
 その依頼受注カウンターには、ギルド関係者へ詰め寄る影丸とレイリンの姿があった。普段は和やかな温泉施設も、今ばかりは緊張の糸が巡り空気が張りつめていた。その大部分の理由は……影丸の放つ、獣じみた凶暴な感情のせいによるものだが。
 バン、と乱暴な音を立ててカウンターを叩いた影丸の剣幕に、受付嬢たちとレイリンは思わず瞑目し肩を震わせた。けれど、ヒョウタンを小脇に抱えた老年の竜人族――ギルドマネージャーは、影丸の視線を受けてもなおその飄々とした姿勢を崩さない。どうどう、と肩を怒らせる影丸を宥める。

「まあ、まずは落ち着きなさいよ」
「どうして今頃になって認知する、もっと早くに気付くのがギルドの仕事だろうが!」
「落ち着けって言ってるだろ、影丸。アタシの方から詳しく話をするから」

 ギルドマネージャーの瞳が、影丸の動きを縫いつける。たかだか二十年と少ししか生きていない若年の人間如き、百という齢を既に超えたギルドマネージャーには恐れる存在ではないのだろう。真っ直ぐと見据える長命な竜人族を前に、影丸は乱暴に溜め息をつくと、小さな声で謝罪を告げた。カウンターに詰め寄っていた身体を離し、そのしなやかな背を伸ばす。

「……七年前からもそうだが、チミは、セルギスが関わると途端に感情が吹き出すね。今も昔も、チミにとっちゃあセルギスはそういう存在なんだろうがよ、落ち着きなさい。良いかい」
「……はあ……ああ、悪い。で、受付嬢からざっくりと話は聞いたけど、詳しく聞かせてくれ」

 影丸は一度、レイリンの家に慌てて駆け込んできた赤服の受付嬢を見やる。それから再び、ギルドマネージャーを見据えた。小さな竜人族の彼は、ヒョウタンを抱え直し、隣に置いていた紙を一枚持ち上げた。影丸とレイリンは、佇まいを正し彼の言葉を聞いた。

「渓流近郊に居を構える、小さな農村の村人たちからの目撃情報だ。今から数時間前、狗竜ドスジャギィと大きな緑色の竜が争う姿を見たってこっちに連絡があった。その村人たちは直ぐに逃げて怪我はないが、かなり人里に近いところで争っていると考えて良い」

 ギルドマネージャーはその紙を、影丸へ手渡す。レイリンは覗き込み、直ぐに顔を上げる。

「危険な状態、という事ですか……」
「そうなるねえ。しかも目撃されたのが今から数時間前だ、今頃渓流がどうなってるのか、アタシたちも分かったもんじゃない」

 レイリンの細い眉が下がる。影丸はぐっと拳を握り、その紙をカウンターへ置いた。数時間前というと……セルギスが渓流へ起ち、到着したであろう時刻に近い。

「人里に近付いた大型モンスターか」
「ああ。……もう気付いてるだろうが、村人の見た緑色の竜ってのは恐らく、《彼女》だろうよ」

 ぷはあ、とギルドマネージャーは息を吐く。

「空を根城にする飛竜の中でも、この界隈じゃ有名な《陸の女王》。こいつは緊急の狩猟依頼としてギルドが認定した。一番近くに居る村付きのチミたちへ出動を要請するよ、大丈夫だね」
「……分かった、直ぐに用意して、また来る」

 影丸はそう告げると、カウンターへ背を向けた。その後にレイリンも急いで続いたけれど、不意に、ギルドマネージャーの声が呼び止めた。

「影丸、セルギスは、今も昔も柔な男じゃあない」

 ドスジャギィの狩猟に出た事を、ギルドマネージャーや受付嬢たちは知っている。だからこそ、彼らは影丸へ冷静さを求めていた。
 七年前の凶事を今なお恐れ続ける、手練れの狩人の心は、激しく動揺していた。
 影丸は息を吸い込み、肩越しに振り返る。

「……ドスジャギィが相手なら、問題はなかった」

 その言葉は、《女王》相手でセルギスが無事な訳がないと、最悪の意味を内包していた。

 影丸は足早に、集会浴場を後にした。暖簾を潜って去ってゆく彼と、後ろを追いかける少女を一度見送って、ギルドマネージャーは溜息をつく。心配そうに見つめる受付嬢二人へ、彼は笑った。

「影丸はちょいとばかしひねくれ過ぎているだけだ、きっと、大丈夫だよ。アタシもセルギスって男をよく知ってるからね」
「ギルドマネージャー……」
「さ、とにかく急いでネコタクの準備だ。特急便を用意しとこうじゃねえか」

 とは、言ってもだ。リハビリを終えたばかりのセルギスが、《女王》と対面し本当に無事であるのかどうか。それはギルドマネージャーも知る術のない事であった。




 集会浴場の石畳の階段を、影丸とレイリンが駆け下りる。ユクモ村の名物である真っ赤な紅葉が、忙しなく視界を横切る。

「レイリン、お前は村に残れ。俺が渓流に向かう」
「え、師匠?! でも……」

 影丸は振り返る事なく、レイリンへ強い言葉へ言った。

「村つきのハンターが全て居なくなる方がとんでもないだろう。今から急いで出発しても、村へ戻ってくるのは夕方を過ぎる。その間、緊急の依頼が発生しないとも限らない」
「それはそうですけれど」
「それに……」

 石畳の階段を全て降りたところで、影丸はレイリンへ振り返る。

の側に居てやれ、アイツは多分……一人で待つ時間が辛くなる」
「あ……」

 レイリンは察し、こくりと頷いた。それを見て、影丸も小さく息を吐く。

「最悪の想定をするのが俺の癖だが、セルギスは馬鹿じゃないし、手練れだ。それこそ、今も昔も、俺よりも」

 影丸の腕が、不意にニュッと伸びた。レイリンは頭の天辺でその大きな手を受け止め、振動に足をふらつかせる。

「狩猟出来なくても、さっさと逃げ帰ってくる。せっかくの夕飯と酒、無駄にしたくねえしな」

 ひとしきり、小さなレイリンの頭をバッスンバッスンと叩いて、影丸は自らの自宅へと向かう。レイリンは乱れた髪はそのままに、慌てて、影丸の背へ言葉を投げかけた。

「し、師匠も!」

 影丸は、足を止めずに肩越しで振り返る。

「師匠も、気をつけてください! セルギスさんとカルトさんを連れて、戻ってきて下さい!」

 影丸は一瞬目を見開かせたが、ふっと笑みを浮かべて片手をひらりと上げた。レイリンはその背を見送ってから、彼女もぐっと拳を握って、慌てて家へと戻る。一人待っているの姿を思い浮かべ、早く側に居てあげなければと使命感に燃えながら。


 影丸は自宅へ戻ると、既に待機していたヒゲツへ事の顛末を伝えながら、武器と防具の準備をした。影丸にとっては、《女王》は狩り慣れた相手である。けれど、油断ならない竜である事は実力を付けた現在でも変わる事のない現実だ。
 現役の上位ハンターでさえ、そう思うのだ。渓流に居て、恐らく対峙しているであろう、リハビリから復帰したばかりのセルギスは……。
 不安そうにするレイリンの手前、彼まで後ろ暗くなる訳にはいかないと振る舞ったが、果たしてどうなっているかは彼だって知る事は出来ないのだ。
 どうか無事に、隠れていてくれれば。
 そう願う影丸も、セルギスの安否を心底気遣っていた。それにしても、まるでこれは、七年前の凶事……かつて英雄に憧れた馬鹿な少年の愚行が招いたあの出来事を、再び演じているようではないか。あの時のセルギスも、こんな心地がしていたのだろう。ろくな経験のない、馬鹿で思い上がった青二才如きの少年が、単身で《狩人》の異名を取る雷狼竜ジンオウガに挑み、それを聞いて、直ぐに向かわなければと大した装備も道具も用意出来ず。こんな時に思う事ではないかもしれないが、影丸はふと考えた。
 だからこそ、もう同じ轍(てつ)を踏まないようにしなくては。
 着慣れた迅竜ナルガクルガの防具を、抜かりなく纏う。その背には、峯山龍ジエン・モーランの素材から作られた薙刀の形状をした太刀が、キン、と鋭利に輝いた。

「ヒゲツ、行くぞ」
「了解したニャ」

 ヒゲツの面持ちにも、緊張が宿っている。そうだろう、彼にとってもこれは、まるで七年前が再来しているようなものなのだから。あの時は、主人の最期を看取る事さえ叶わず、凶報を受け取るしか無かった。けれど今は、最悪、目の前で二度目の元主人の最期を看取る事になる。
 だが、影丸は、何も言わなかった。何時いかなる時も最悪の想定をし万全で挑むのが狩人だ、けれど……セルギスたちの安否を無意味に信じるくらい、今だけは、許してくれるだろう。

 それに、そうならない可能性を持つのが、セルギスという男であり。
 そうならないよう血反吐を吐いて鍛えてきたのが、影丸という男だ。

(それに連れて帰らねえと……せっかくの祝いの会が、台無しだしな)

 《女王》の横やりが入ったが、今日は、セルギスのハンター復帰という大切な日なのだから。


 予想外の偶然と、其処に集う様々な想いを内包してもなお。空は曇一つさえも無く、蒼く澄み渡っていた。