夢の終わりは二人の始まり(4)

 空は清々しく晴れ、豊かな深緑を茂らす木々の隙間からは木漏れ日が落ち、水面には光の反射した煌めきが宿る。そんな自然豊かで美しい景観の渓流であるというのに、響き渡る竜の怒号と猛攻は相反して非常に獰猛で殺気立っていた。吹く風に火の粉が舞い、肌を焦がす熱さ。大地を揺らす《女王》の足音は、渓流の大気を激しく震わせた。
 物言わぬ自然さえも戦慄くのだ、《彼女》よりも小さな生き物など……気を抜けば呆気なく踏み潰される。

 白い滝が轟々と落ちる様と、その音を、感覚の片隅で感じつつも、セルギスの全神経は今、目の前の《彼女》に向けられていた。飛び散る水飛沫に、精悍な横顔が湿る。それでも、冷たさより、肌を焦がす緊張感が覆い被さる。バシャリ、とせせらぎを踏みつけ息を懸命に整える。折り畳み背に負っていた弓を左手に持ち、右手は腰の後ろの矢筒へと回されているが、汗がじっとりと滲んだ。
 はあ、はあ。
 セルギスの繰り返す呼吸は荒く、それが彼の現在の心を表していた。

 セルギスの十数メートル先、《彼女》が大地を蹴り上げ威嚇をしている。はらはらと舞い落ちてくる木の葉よりも色濃い、緑色の鱗と甲殻にその身を包んだ竜。持ち上げた一対の翼には、猛毒を孕むと云う棘が幾重にも生え揃っている。そしてその毒は、太い足の向こうで揺れる太い尾にも蓄えられ、打ち付けられれば身体の内面からも蝕まれ壊される。
 獰猛な顔ばせに浮かぶ炯眼は、セルギスを正面から睨み、牙を覗かせた。狗竜という鳥竜の頭程度、容易く引き裂くその牙を。

 緑に染まった獰猛な竜――――《彼女》は、セルギスにとって珍しい相手では無かった。過去でも、幾度も狩猟を成功させた相手であるし、ジンオウガ時代にも争った相手である。だが、それは現役の頃の話だ。人の身体で久しぶりに相まみえる、《彼女》のその迫力と来たら。セルギスの背が、緊張か、それとも恐怖か、ぶるりと震えた。

「……何が起きるか分からない。本当に、その通りだな」

 セルギスの呟きなど、《彼女》には届かない。理解もしない。ただ、目の前に居る人間は、排除する敵であるとだけ認識している。獰猛な竜の眼 を、セルギスは見つめ返した。

「……カルト、無理に近づこうとするな。退却だけを最優先させ、逃げ道を探すんだ」
「わ、わ、分かったニャ!」

 セルギスの足下で、カルトが頷いた。声と面持ちは強ばっているものの、震えが無いのは大したものだ。ごく最近まで、大型モンスターが闊歩する世界を生きてきた賜物だろう。
 セルギスがふっと息を漏らした――――その時だ。《彼女》は一度吼えると、翼を持ち空を根城にする飛竜でありながら、屈強な太い脚で力強く大地を踏みつけ蹴り上げた。ぐん、と突進してくるその深緑色の巨体を見据え、セルギスは身体を反転させた。

「――――来るぞ、カルト!」

 地面に転がり回避する、それと同時に《彼女》が二人の間を割って過ぎ去り、素早く急停止し身を翻す。直ぐさま踏み込む竜を立て続けに回避し、セルギスは琥珀色の瞳をぐっと細める。
 狩人の界隈では、有名な飛竜種の中でも、特に多くの人間たちから知られ、恐れられる竜――――火竜。《彼女》は、空中での戦いを得意とする雄の火竜の番に当たり、そして……雄とは異なり、陸上での戦いを得意としていた。大地を蹴る太い脚、毒を持つ尻尾、そして一気に大地を焼き払う連続する火球の火力。
 大地に君臨する、雌の火竜。彼女は多くの人間たちに畏怖され、付いた異名は――――《陸の女王》であった。

 やれるかどうかなど、定かでない。退却こそが、今は最優先事項だ。けれど、おめおめと彼女に殺される訳にはいかない理由が、同時に背を向けられない理由が、セルギスにも、カルトにも、存在していた。
 絶対に、死ぬ訳にはいかない。願い続けた世界へ戻り、これからようやく、始まるというところなのだ。深緑の女王に、早々やられてなるものか。
 セルギスは女王の横顔を睨み、矢筒から矢を数本引き抜く。つがえた太い鋭利な矢尻の切っ先が、女王へと狙いを定める。

(……必ず、戻る。俺は、あの場所で、しなければならない事が多くある)

 きつく弓を握りしめ、弦を引き絞る。女王の顔がセルギスを向いた時、限界まで引いた矢が放たれた。




 ――――雌火竜リオレイア。
 この世界では有名な種族である飛竜種の中でも、特に多くの人々から認知されているポピュラーとも言える竜である。番にあたる、空を根城にする雄火竜とは正反対に、彼女は陸上での戦いを得意とし、連続する突進と火球で大地の敵を蹴散らしてきた。
 竜という点から、性別が雌であっても例に漏れず非常に獰猛。多くの狩人たちも、彼女に苦しめられた。
 そうして彼女が冠した異名が、《陸の女王》である。


 末端の大陸にのみ生息するという巨大な獣や竜の種類、名を、は全て把握していない。元の世界でも、タイトルの名と友人が隣でプレイしていたのを眺めていた程度の知識しか知らないのだ。だから、実際にどんなモンスターであるのか、どんな姿をしているのか、どんな大きさをしているのか、あらゆる部分が不透明で漠然としか想像のしようがなかった。従って、突然渓流に出没したというその《陸の女王》と呼ばれる雌火竜リオレイアは、どんな竜であるのか正直分からない。
 けれど、だ。
 現役のハンターである影丸が急遽出動して、レイリンが表情を強ばらせている事を思えば……自ずから、察する。彼らがそんな風になるのだ、それだけの恐ろしい竜なのだ、と。
 は、ぎゅっと耐える。
 見聞きしなければ、その恐怖は知る事は無い。けれど、あの美しく、それでいて残酷な自然という世界で、桜色のアイルーが体験していた事は今も覚えている。十分に、その恐怖を想起させた。
 巨大な竜や獣たち、人間よりも遙かに巨大で、強者に属される彼らに、セルギスとカルトは遭遇しているのだろうか。
 祈るように握りしめ、唇に押し当てたの手は、自らでも分かるほどに震えていた。それは、セルギスたちの安否と、人の暮らしの側には竜が存在するという事実と、綯い交ぜになっている。恐らく、どちらも孕んでおり、だから殊更恐ろしく思っているのだ。
 狗竜ドスジャギィの狩猟、不安でなかった訳ではない。けれど彼らはごく自然であったし、現役のハンターだって大丈夫だと、頷いていた。言っていたではないか。なら、その雌火竜リオレイアなる竜だって大丈夫だと、どうか。どうかその口で、告げて欲しい。そう幼子のように願い、縋り、はただ年下のレイリンの小さな手に肩を預ける。ごめんね、レイリンちゃんだって緊張しているだろうに。そうは胸の中で謝るけれど、そっと撫でてくれる彼女の手のひらから離れられない。

「……ハンターって、こういう恐怖を、感じてるのかな。いつも」

 ぽつり、と独り言のように。は呟く。レイリンはの肩を撫で続け、その言葉に耳を傾ける。

「それでも挑むんだよね、ハンターは。前から知ってる、影丸がジンオウガさんと戦ったように、そうしなきゃならない事は。この世界は、そうなんだよね」
さん……」
「でも……」

 ぎゅ、と唇を噛むのまなじりに、雫が滲む。

「やっぱり、怖い、かもしれない」

 頑張ってと。どうか無事でと。見送ったのは一体誰だ、どの口で。
 は思う。それなのに、同時に、だ。

「……これを越えれば、セルギスさんはずっと望んでたハンターに戻れる。大丈夫、そう思うと……まだ、耐えられるの」

 いつも身に着けている、《あの子》の爪の首飾りを掴み、手のひらに包む。滑らかな鋭い爪の感触に励まされ、は顔を上げ、必死に笑みを作る。それがどれだけ歪んだものであるのか知れないが、懸命に、強がった。それをレイリンも知っている。足下のコウジンも知っている。は芯の強い女性だ、だから、レイリンは励ました。何度も、同じ言葉で。

「大丈夫ですよ、さん。皆、無事に戻ってきますから」
「……うん」

 戻って来なきゃ困る。だって今日は、誰にとっても、大切な日なんだから。
 震えるの肩を、レイリンは強くさすった。それはさながら、姉を守る妹のような光景であった事だろう。

 太陽は未だ暮れず、青い空が広がっている――――。




 木々の群衆に身を潜め、息を押し殺す。小さく身体を屈めて、乱れた呼吸を今のうちに整えておかなくてはと、理性で懸命に働きかけた。だが、そういう時に限って中々、落ち着いてくれない肉体。忌々しく思いつつも、冷静さは失わないよう、セルギスは自らへ言い聞かせた。
 静まり返った周辺には、女王リオレイアの気配は無い。恐らくは距離が空いたのだろう。標的であるセルギスとカルトを見失った事に僅かな安堵を覚えつつも、緊張の糸は途切れないようにする。  セルギスは、一度小さく息を吐き出す。鈍い痛みが走って僅かに呻いたけれど、痛苦の内にはこれしき入らない。セルギスは体勢を変え、矢筒の下、道具を入れるポーチから後ろ手で回復薬を取る。音を立てないよう慎重に蓋を開け、中の薬を半分飲み込む。その残りは、セルギスの隣で同じように身を低くしているカルトへ渡した。

「カルト、飲んでおけ。多少は痛みも引く」
「ニャ……うぶぇぇ、変な味がするニャ……」

 ぺっぺ、と小さな舌を出したが、薬は全て飲み下したようだ。

「さて……リオレイアの注視が一時外れた今の内に、ベースキャンプにまで戻るか」

 とは言え、ベースキャンプに向かうには崖上の台地を通るか、朽ちた家屋の群衆のある平地を通るか、しなければならない。どう足掻いても、遮るもののない場所を突っ切らなければならなかった。すん、とセルギスは鼻を鳴らす。ジンオウガであれば匂いを嗅ぎ分けられたが、人間に其処まで求めてはならない。が、思わずそうしてしまうのは七年間の癖か。自嘲してしまいそうになりながら、剥き出しに敏感になった神経を張り巡らせ立ち上がる。

「行くぞカルト。……? カルト?」

 小さな声で呼びかける。カルトは伏せた身体を起こしたものの、その場から動かなかった。ひたりと止まったままの、小さなアイルーのベージュ色の脚。震えてはいないが、果たして。セルギスが今一度名を呼ぼうとした時、カルトはようやく口を開く。

「あんなにデカイ竜にも、ハンターは挑むのかニャ」

 カルトの顔がくっと上がる。セルギスを見上げるアーモンド型の瞳は、恐怖ではなく、心からの疑問を浮かべていた。

「不思議ニャ、どうして、人間は……ハンターは、わざわざあんなのと戦うニャ」
「……さあ、どうしてだろうな」

 答えようとし、セルギスは答えられなかった。曖昧にぼかして、代わりにカルトの頭を一度ぽんっと撫でた。

「オトモアイルーしていれば、お前なりに分かるんじゃないのか」
「そうかニャ」
「ああ、ヒゲツも……あれで昔はお前と同じように野生のメラルーだった。それが今もオトモを続けているんだ……ハンターと一緒になって戦う事に、あいつも何か思うところでもあるんだろ」

 ほら、行くぞ。セルギスはそう終え、足早にその場を遠ざかる。カルトは頷き、その背を追いかけた。

 理由、か。
 巨大な竜や獣たちが闊歩するこの末端の世界で、人間が生きてゆく為にはハンターという職は必要不可欠であるし、その職を目指す者たちが数多く存在するのも周知の事である。その理由は人の数だけあり、どれが最も立派な理由かなどと比べるものではない。如何なる理由があるにしろ、ハンターになった以上、最終的に物を言わすのは崇高な口先の願いではなく、道を切り開く自らの強靭な実力だけだ。それは、今も昔も変わらず、セルギスにとってはごく普通の認識であるが。
 人間の営みを七年も離れ、文字通りの獣として生きた。戻ってきた人間の世界で、どうしてまたハンターになろうと思ったのか。それについては、セルギスにはあまりに呼吸をするにも等しい決断であって、ただ改めて考えてみれば、確かに。わざわざまた、この忌まわしい地に立っている。もういっそ、退いてしまえば良かっただろうに。七年前のあの時、恨んだのは間違いなくセルギス本人である。
 それでも、あっさりと、ハンターの立場に戻ろうとして、今この瞬間だ。

 ……恐らくはそれが、自らが人か獣か、たまに見失って分からなくなる最たる部分なのだろうが。

 空を遮る木々の群衆を通り抜け、崩れ落ちた廃屋の転がる平地へと踏み入れる。此処を通り抜ければ。セルギスはカルトと一度視線を合わせ、陽の下へと踏み出した。物陰を選び、縫うように平地を進む。大型モンスターが現れる事のないガーグァの生息エリアまで、あと僅かというところであった――――のだけれど。

「! セルギス、上!」

 カルトが脚を止め、見上げて叫んだ。
 やはりと言うか、相当気が立っているらしい。
 重く響く、翼の音。近づく羽音と肌を滑る風の動き。知覚した女王の気配と共に落ちてくる影が、セルギスの視界を横切る。あと僅かであるが、此処で走ったところで、追いつかれるのが関の山だろう。セルギスは息を吐き出し、矢筒に手を掛ける。

「……仕方ない、腹を括るとしよう」


 わざわざ、戦う事もなかった。
 それでも、背を向けられなかったのは、人間の意地か、それとも雷狼竜の殺意か。