夢の終わりは二人の始まり(5)

 影丸とヒゲツを乗せたネコタクは、ただでさえ特急便であったと言うのに、其処をさらに無理を押しつけられ超特急最速便となり、ユクモ村と狩場の渓流間を過去最速記録で走り抜けた。その道中は、狂ったように走り回るティガレックスや回って飛んでのドボルベルク並みに酷い運転であったが、影丸とヒゲツは何事も無かったようにネコタクを降りた。
 過去最速記録を計らずも打ち立ててしまったギルドのネコタクが、どれだけ頑張ったのかはその死屍累々と化した光景で察して貰いたい。その偉業が表立って評価される事はないが、屍の如く動けないながらに地面には【マタタビ】と書いている彼らの強さに敬意を。
 最もそうさせたのは、そのマタタビを十個というアイルーメラルーには涎ものの賄賂で買収した、この素知らぬ顔をした影丸であるが。

「悪いな、報酬は此処に置いておく。戻ってくるまで、ゆっくり休んでいてくれ」

 影丸はネコタクを運転したアイルーたちへ、マタタビの束をそっと差し出し地面へ置いた。疲弊を極め喋られなくとも、その手は俊敏にマタタビを取るので、其処については流石と言える。
 マタタビ取る元気あるなら問題ねえわ。影丸は一言呟き、直ぐに立ち上がる。足元のヒゲツを連れ、ベースキャンプから目的の渓流に踏み入れる。
 空気がやはり、違う。これまで何度も味わった、大型モンスター特有の沈黙した緊張感が漂っている。ナルガSヘルムの向こうで、影丸の表情が歪む。雌火竜リオレイアは、彼にとっては珍しくはないしやり慣れた相手とも言える。だが、大型モンスターの空気は今も変わらず肌を刺激し、何より……セルギスの事を思うと余計に焦燥感を強く感じた。

 急がないと。

 影丸は胸中で呟く。ユクモ村へやって来たばかりの新人の頃、美しい紅葉に染まった温泉の村は、既に腕利きのハンター一人によって守り抜かれていた。あの頃も、双方の立場が逆転した今も、セルギスという男は簡単にやられるような柔な人間ではないと影丸こそが思っている。思ってはいるが……。
 過ぎる一抹の不安を振り切り、影丸は進んだ。

「……旦那、ペイントボールの色が」

 アカムトネコヘルムにあしらわれた、一本の羽根がぴょこんと揺れる。
 ペイントボール、ハンター御用達の道具の一つ。手にうっかり付こうものなら小一時間以上洗っても落ちないペイントの実を加工したものだ。大型モンスターにぶつければ簡単に落ちず、何処に行こうと居場所が丸分かりという優れもの。いざという時は、爆弾の起爆にも活用できる道具であるが。
 何処からか漂う、きついピンク色を帯びた風。これは、恐らくセルギスが付けたものだろう。方角を確認し、何処に居るのかは直ぐに分かる。

「……近いな。集落跡のある平地だ」

 ちらっと見たベースキャンプに設置された簡易ベッドも、使われた形跡は無かった。どうやらずっと、リオレイアと追いかけっこをしているらしい。それとも、戦っているか。ともかく、急いで向かわないと。影丸とヒゲツは、急ぎ足に渓流の大地を走り抜けた。
 時折、影丸の耳には、陸に君臨する女王の勇ましい咆哮の余韻が届いた。




 リオレイアの顎から、火の粉が燻ってこぼれる。耳を思わず両手で塞いでしまうほどの、竜の咆哮を聞くのは渓流に来て何度目か。
 興奮し行動が激化する怒り状態は、体感的に短い間隔で訪れているようにも思われるが、彼女は依然退こうとしない。その上、セルギスたちの退路を遮るように、ことごとく邪魔をしてくれる。何を小さな生き物にそういきり立つ、お前も野で生きる獣ならばもっと容易に捕えられる獲物を探せば良いものを。額から頬へと落ち、首筋を湿らす汗を拭わず、セルギスはユクモノガサの向こうで睨む。竜の鱗や甲殻を穿つハンター専用の巨大な矢が、何本も女王の緑色の肉体に突き刺さっているのだから、よほど怒り心頭か、それとも。
 セルギスは、右手を矢筒へ掛ける。指先に当たる矢羽の感触、残り半分といったところか。弓を握る手のひらに、力が増す。

「チッ……鬱陶しい……いい加減、諦めろ」

 最大金冠サイズのジンオウガであったならば。
 首に喰らい付き、厚い甲殻ごと肉と骨を噛み潰す事くらい容易であるが……――――。
 セルギスはそう思ってしまい、堪らず振り払う。これでは本当に、人間であるのか獣のままであるのか、分からない。今セルギスの指先にあるのは、無双の狩人の尖爪ではなく、人間の丸い爪だ。
 ジンオウガ時代の口調へと不意に崩れてしまうのは、セルギスの感情が高ぶっている証拠でもある。それでも一片の落ち着きがあるのは、彼に強く根付いた冷静さのおかげだろう。

 火を吹きこぼすリオレイアが、再び猛然と走り出す。地面に転がるように回避し、振り向きざまに矢をつがえ弦を引き絞る。カルトがポカポカとリオレイアの顔を殴り、煩わしげに彼女が止まったところを狙い澄まし矢を放つ。
 近接武器も含んで、リオレイアの弱点部位は頭部。もう僅かで部位破壊も出来そうであるが……ひび割れてはいるものの、それ以上は未だ叶わない。放った矢は鈍い音を立てて命中はしたが、突き刺さりはしなかった。
 最後にもう一度どんぐりハンマーで横顔を殴りつけ、カルトはセルギスの足元へと戻る。セルギスの見下ろす先にあるベージュ色のアイルーの身体は、疲労が圧し掛かり上下に動いている。度胸はあるが、初めての狩猟でペースは掴みきれていないからだろう。
 依然、リオレイアは怒り心頭でセルギスとカルトを真っ向から見つめ、威嚇の音を鳴らす。
 どうするか、とセルギスはそう思い眉を寄せた――――その時だった。




「――――居たぞ、旦那!」



 聞き覚えのある声が、割り込んで響いた。
 セルギスもハッとなったが、それ以上に反応したのはカルトだった。探すようにキョロキョロと周囲を見渡し、そして、遠くから駆け寄ってくる小さな黒い影と、もう一つ。見慣れた迅竜の防具を着込んだ、ハンターの姿を見止める。

「ニャ! ヒゲツの兄貴ー! 影丸ー!」

 カルトにとっては、オトモアイルーを志すきっかけとなった先輩であり、目指すべき鑑である。セルギスとて、まさか駆け付けてくるとは思っておらず目を見開いたのは事実だ。
 ――――けれど。竜と対峙している時に、その目を逸らしてはならない事を、カルトは勝った歓喜によって忘れてしまった。
 リオレイアの眼光が、鋭く光る。発達した太い脚が、大地に強く踏ん張るのをセルギスは感じ取り、駆け寄ってくる影丸たちを見る暇など無かった。

「目を逸らすな、カルト!!」

 リオレイアが息を吸い込むのと、カルトが驚いて視線を戻すのは、ほぼ同時であった。
 火をこぼした女王の顎の中、煌々とした紅蓮の炎が増す。何が次に来るのか、直ぐに分かった。セルギスは咄嗟に矢筒から右手を離し、驚いたまま硬直するカルトの背後からその首根っこをひったくるように掴み寄せた。変な悲鳴を上げられたが気にも留めず、セルギスは力任せにカルトをぶん投げた。成人男性の、太股辺りに頭の天辺が届く程度の、意外や大きいアイルーという種族だが、その重さは鉄の塊のような大剣に比べれば可愛いもの。思いのほか遠くまで飛んでしまったが、丁度良い。
 セルギスは直ぐに顔を戻し、回避の体勢に入る。
 息を吸い込み、さらに炎が燃え盛るリオレイアの顎から、火竜と呼ばれるに相応しい、火球が吐き出された。正面、向かって右、そして左と、三方向に向かって炎が爆ぜ、セルギスの視界が赤く染まる。

 この界隈では、有名な飛竜である火竜。わざわざ雄火竜リオレウス、雌火竜リオレイアと別けられるくらいであるから、当然その戦い方も雌雄で似て非なるものである。
 空中戦を得意とする《空の王者》ことリオレウスは、ホバリングからの火球や、上空からの急降下、また毒爪による非常に精度の高いキック攻撃と言った、殆ど空中に滞在している面倒な相手である。
 対して、陸上戦を得意とする《陸の女王》ことリオレイアは、空中に殆ど居ない代わりに、突進やサマーソルト等地上での猛攻に特化されている。ゆえに女王の名を冠しているわけだが、彼女が王者と異なるのはそのスタミナ。火球を連続して放ち、目の前を焼き払う火力は通常の雄は持っておらず、地上を駆け抜ける脚力も彼女が勝っている。
 ギルドでは、難易度はリオレウスの方が高いものの。リオレイアとてそれに勝るとも劣らない相手なのである。

 紙一重で、火球の直撃は免れたが、地面で爆ぜた瞬間の熱風にセルギスは腕を掲げ反射的に庇った。風圧の衝撃で、セルギスの身体が一メートルほど後退させられ、彼は手をついた。
 けれど、その後直ぐに感じる悪寒。身体を押す風圧から持ち直し、即座に飛び退く。爆ぜた地面を踏みつけ、猛然と突っ込んでくるリオレイアの牙が真横を過ぎ去る。けれど、リオレイアの武器はそれだけではなく。

「――――セルギス、避けろ!」

 そう叫んだのは、誰であったか。ハッとなってセルギスが振り返った瞬間、リオレイアの巨体が大きく回転した。ヒュウッと、何かが空を切る不気味な音。次いで、セルギスの長身な肉体が真横から打ち据えられ、数メートルと吹き飛ばされた。
 リオレイアの、長い尻尾だった。
 腹部に容赦なく叩き込まれる、重い衝撃。次いで、セルギスの背中に何かがぶつかる。彼が吹き飛ばされた方向にあったのは、朽ちた廃屋だった。地面に叩きつけられるのと、どちらがマシであっただろうか。脆いながら材木の柱に背中からぶつかり、セルギスは痛みに呻く声と共に大きく息を吐き出した。身体がしなったような、嫌な音が身の内から聞こえる。左手に握っていた弓が、耐えかねて足下へ落ちた。
 メキメキ、と廃屋の柱が折れ、セルギスは地面へと倒れ伏した。痛いどころでない衝撃、息が上手く吸い込めない。それでも腕を立てようと、膝をつこうと、微かに動くのはハンターたち特有の鍛えられた頑丈さと精神力の賜物だろう。
 けれど、さすがに直ぐには。
 セルギスの目の前が、チカチカと痛みで点滅する。

 リオレイアの尻尾で、セルギスが吹き飛ばされる光景を影丸は見た。廃屋に叩きつけられ、上がる土煙の中、セルギスが崩れ落ちる。リオレイアの瞳が彼を追いかけるのを見て、影丸は即座に叫んだ。

「こっち見ろや、リオレイア!!」

 緑色の竜が、影丸へと視線を移し替える。耳障りな音を聞き、新たな敵を認知した目つきをした。影丸は駆け寄る速度を落とさず、後ろ手にポーチから道具を一つ取り出す。そしてそれを、全力で振りかぶりリオレイアに向かって放った。

 ――――陽の注ぐ平地の周囲が、さらに真っ白に染まるほどの閃光が弾け飛ぶ。

 視力を奪われ悲鳴を上げるリオレイアは、その場で足踏みをする。閃光玉によって僅かに生まれた空白の隙、影丸は生命の粉塵を振りまき、ヒゲツへ言った。

「怒り状態だと直ぐに解けるが、多少は持つだろ。セルギスとカルトのところへ行け!」

 四つ足で地面を蹴るヒゲツは、その言葉に頷いて影丸から離れていった。それを片隅で見ながら、影丸は急停止しリオレイアと正面から対峙する。丁度、リオレイアとセルギスの間に立ち塞がって、庇うように。
 何だ、これじゃあまるで、本当に七年前のようだな。
 影丸の脳裏に浮かぶ、月夜の美しい渓流の光景。歩く事さえ出来ないほどに覇気を無くした少年と、それを庇う双剣を握る男。全身の甲殻を逆立たせ蒼白い閃光を纏う無双の狩人の勇姿と、直後に訪れたのは別離。
 影丸は小さく笑う。もうあの時とは違う、英雄に憧れた少年は居なくなったのだ。彼の目には、鋭気が浮かんだ。そろそろ、閃光玉の効果も無くなる。しなやかな肉体を構えると、背中に負った断牙刀の柄へ右手を掛ける。

「……ふう、此処からは俺が相手だ、女王様」

 影丸は小さく呟き、視力を取り戻したリオレイアを見据えた。



「セルギス、セルギスー!」

 うわぁぁん、と言わんばかりに。カルトは崩れ落ちた柱の残骸やら木材やらの破片を両手で掻き出していた。急ぎすぎて、カルトの頭からは既にユクモノネコ装備の笠がずり落ちている。そりゃそうだ、自らが無防備にしていたせいで、彼にリオレイアの攻撃を直撃させたのだから。駆け寄ったヒゲツは、今は多くは言わずにその作業に加わり残骸の下敷きになったセルギスを探す。覇剣ネコカムトルムをスコップ代わりにし、古くさい木の臭いをかき分ける様は、思った以上にヒゲツから冷静さが欠けている事を表した。無意識の内に、二度も主人の死を味わうのかと恐怖していた証なのだろう。
 土煙が、作業を邪魔する。ごほり、と何度もせき込んで、カルトとヒゲツは人間の手を見つけた。

「……! セルギス!」

 二匹揃ってその手を掴むと、ぐいっと崩れた廃屋の下から引っ張り出した。うつ伏せになって倒れ伏したセルギスは温かい、けれど、動かない。

「セルギス、セルギス、動けニャ!」

 カルトはその手をぺちぺちと叩き、ずれたユクモノガサの下の赤銅に似た赤髪を叩く。それでも、動かない。

「~~~~ッ!」

 ワナワナと震え、カルトは、バッと両手を上げた。

「動けって言ってるニャ――――ジンオウガ!!」

 アイルーの小さな両手が、振り下ろされた瞬間だ。
 バリリッと、嫌に良い音が響く。
 セルギスの身体に纏った胴着から覗く広い肩に、十本ものひっかき傷が刻まれていた。しかも力が入り過ぎたのか、ミミズ腫れして血がじんわり滲んでいる。
 思いの外激痛を与えるカルト渾身の呼びかけに、セルギスはむくりと上体を起こした。カルトは感激した、けれど。

「……貴様、恨みがあるのか」

 次の瞬間には、ヒゲツのゲンコツにも相当する堅い拳が脳天に落ちてきたので、その時間は早々に終わった。悶絶するカルトの横で、セルギスは立ち上がろうと腕を立てる。けれど、力が抜け、再び倒れる羽目になった。慌てて駆け寄る二匹の足音だけは、耳に届いているのだが。

 ……腹と背中に直撃したのだ、無理もないか。

 セルギスは息を吐き出した。ただ力が入らないだけで、戦えるか否かという点では間違いなく問題はない。ぐっと、うつ伏せから仰向けになる。見上げた先で、カルトと、駆けつけてくれたヒゲツが、セルギスの視界に映った。二匹揃って、泣きそうな顔をしていた。

「ごめんニャ、オレのせいで、ごめんニャ!」
「……いや、火球が直撃するよりは良いだろう。次からは、気を付けろ」

 ふっと笑って見せると、カルトは目元をゴシゴシと擦って。

「はいニャ、セルギス……ううん、旦那さん!」

 セルギスは一瞬目を丸くし、それから「ああ」と呟く。ゲンコツを落としたカルトの頭を一度撫で、そして、その反対側で覗き込むヒゲツへと視線を移す。

「……影丸と、一緒に来てくれたのか。悪いな、ありがとう」

 ヒゲツは何も言わずに、小さく頷いただけだった。けれどその小さな手が、握り拳を作って震わせているのに気付いて、遙か昔のように隠密模様のメラルーの頭をコンッと小突く。
 再び、セルギスは起き上がろうと試みる。途端、ビリッと走った痛みに眉を寄せる。カルトに引っかかれた肩ではない、腕を持ち上げ、仰向けになった自らの顔の前に手をかざす。両の手には擦り傷、皮も剥けて血が滲んでいる。倒れた拍子に、ささくれた部分にでも当てたのだろう。
 ……脆いな、人間の身体は。
 セルギスは自らの手を見上げながら、ふと思った。ただのあれだけで、生身には傷が出来る。ジンオウガの肉体は、滅多な事で無い限り傷など付かなかったのに。
 セルギスの視線が、両の手から外れる。仰向けになった彼の目の前には、青空が広がっていた。何て事はない、雲のない鮮やかな晴天。女王の咆哮が聞こえながらも、普段と変わらぬ美しい渓流の姿を保つ、不偏的で、そして残酷な、大自然の空だ。
 例えば此処で仮にセルギスが死んでも、世界は何一つとして変わらない。それを、セルギスは七年前のあの日、あの夜に、学んだ。捻れた四肢、砕けた肉体、潰れた肺からせり上がる血潮の味。見上げた時、憎らしいくらいに美しい夜空が広がっていて、願ったのはもう一度、立ち上がる奇跡。そして訪れた夜明けは、呪われた生き地獄の始まりだった。
 セルギスは、再び両手を見る。骨張って、筋の浮かぶ手の甲。擦り傷のある指先は汚れ、何度も握っては開く指の関節には切り傷。脆く、呆気なく壊れてしまう人間という脆弱な生き物の手。無双の狩人、ジンオウガのものではない。これを見て、ジンオウガなどと、思うのか。誰が、一体。

 セルギスは、小さく笑った。それから今一度、腕を立て、上体を引き起こす。

「ッぐ……ッ」

 腹と背に響く鈍痛は、神経に喰らいついたまま離れない。全身に軋む痛みが駆け巡ったが、セルギスは構わず動かした。ふらつく足を大地に立たせ、打ち付けられた腹と背を伸ばし、ユクモノガサを被り直す。

「大丈夫かニャ、旦那さん」
「ッああ、平気だ……七年前のあれに比べれば、痛い内には入らん」

 不思議そうにするカルトを片隅に見ながら、自らの気合いも改めて入れ替えるように矢筒を装着し直す。ギュ、とその紐を結び直すと、足下から手放してしまった弓を手渡される。ヒゲツだった。金色の細い目が、じっとセルギスを見ながら、弓を掲げていた。小さく笑い、彼の手から弓を再び取る。左手に持ち直し、顔の前に持ち上げてみた。

 男に比べれば格段に小さな女の手が、ふとその時、透けて見えた。物珍しそうに、ド素人そのものな仕草をして弓を握ってみた、あの白い指先と手の甲。其処には当然、桜色のアイルーの面影などあるわけがない。けれど、唯一獣になった人間の心を理解してくれたあのアイルーは間違いなく彼女で。


 ――――……気を付けて、頑張って下さいね。今も、ハンターになってからも


 置いて行かれるようで寂しいと、彼女は言った。それでも見送ろうとしてくれた彼女に、今一度報いらなければならない。他でもない、人間として。

 彼女が握った場所に、セルギスは自らの左手を重ね、きつく手のひらで握る。一度大きく息を吐き出し、気を落ち着かせる。そして、セルギスの静観な顔には、狩人の鋭気が浮かび上がった。

「……行くぞ、影丸に尻拭いはさせられない」

 これは元々、俺の試験だしな。
 頷いたカルトを連れ、セルギスは影丸の元へ向かった。その背をヒゲツはほんの少しだけ寂しそうに見つめ、けれど大部分は嬉しそうに笑って、同じように彼も駆け寄った。現在の主人である、影丸の元へと。


 相変わらず怒り心頭のリオレイアを見据える影丸のやや後ろに、セルギスは佇んだ。影丸は気付いたのか、ちらりとだけ肩越しに振り返り、普段の憎まれ口を叩いた。

「ベースキャンプに戻ってた方が良いんじゃないのか、おっさん」
「救援は感謝するが、これは俺の狩猟だ。クソガキ」

 ふっと、影丸の背が笑う。何処か安堵の混じる空気が、彼から放たれた。

「……直ぐに帰ろうや、ユクモ村に」

 不器用げに呟いた影丸に、セルギスは小さく笑う。ああ、と呟きを返し、矢筒から矢を数本引き抜きつがえる。練気を高め白く輝く太刀の刀身が、研ぎ澄まされた音色を奏でて弓の向こうで構えられる。

 向かってくるリオレイアを、セルギスは不思議な気分で見つめた。先ほどとは違う、妙に心が落ち着いている。いや、馴染んでいると言おうか。
 突進するリオレイアをかわし、影丸がその足を切りつける。二の足を踏んだリオレイアの翼へと、ギリリ、と弦を引き絞り狙いを定めた。


 ――――憑き物が落ちたような、そんな気がした。


 セルギスは真っ直ぐと見据え、冷静に矢を放つ。バキリ、と翼の甲殻が砕け、毒を孕む棘が抜け落ちる。


 ――――此処までずっと、人間なのか、獣なのか、疑問が付き纏ってふと思い悩んだけれど。どうやらそんな事は、大した問題ではないようだ。


 もう一方の翼も矢で砕き、両翼に痛手を負わせる。怒り狂う女王の火は矢をつがえながらかわし、その獰猛な横顔に向かって放つ。


 ――――七年という歳月中、願い続けた世界でどれだけやれるか否か。それだけだ、結局。そして人間と獣、どちらが良いかと問えば、間違いなく。
 間違いなく人間が良いと、今後も思うだけなのだ。


 二人のハンターの猛攻に、さすがにリオレイアも戦うどころではなくなったようで、獲物から視線を外し、足を引きずりながら後退する。影丸は追撃する為に追いかけたが、一歩遅く、リオレイアは飛び上がった。風圧に押され、影丸は体勢を崩す。ナルガSヘルムの向こうで、その瞳が忌々しそうに細められる。けれど、ふとその背に掛けられたのは、冷静なセルギスの声であった。

「なあ、影丸。あのリオレイアは……緊急依頼とかに認定されている個体か」

 セルギスが尋ねると、影丸は首肯する。そうか、とセルギスは呟いて、矢筒から矢を引き抜いた。ゆっくりと浮上する女王を、太い矢尻が狙う。天へと上向く弓と、矢の先端。正確に、僅かとも外さないように、冷徹に狙い澄ます。

 悪いな、リオレイア。これがハンターという、人間だ。

 届く事のないだろう言葉を告げ、セルギスはその矢を放った――――。