みっともないほど愛してる(3)

 小さな燭台を幾つか引っ張り出し、それに火を灯してゆく。橙色の明かりは、暗かった室内を柔らかく照らし出し、影を生み出す。浮かぶとセルギスの姿は、薄く染まっていた。

 招き入れられたセルギスの家は、静かだった。それもそうか、カルトも居ないし、もう誰もが寝静まっている頃だ。静寂を強く感じるのは当然だ。けれど、二人分の足で軋む床板の音に、つい意識がいちいち過敏に反応してしまうのは。

「あー、其処で待ってくれ。せっかくだし、何か口直しに出そう」

 はあっと声を漏らし、お構いなくと告げる。だがセルギスは小さく笑みを浮かべた横顔を見せると、台所へ向かい戸棚を漁る。そして取り出したのは、果実酒の瓶だった。度数は低いし甘いから、水割りで丁度良いだろうと彼は告げる。陶磁器のコップを取り出して用意するその背をしばしの間見つめ、そして室内を見渡した。
 セルギスが此処で生活するようになってから踏み入れるのは、初めてではなかった。けれど、薄ぼんやりと照らされる生活品と家具は昼間見るよりも何故かとても余所余所しいというか、落ち着かなかった。双方用事があるから立ち寄っただけなのだ、何を勝手に意識しているのだろう。は慌てて振り払う。

「――――

 不意に降りてくる低い声に、顔を上げる。隣にはセルギスが佇んで、果実酒を差し出していた。はそれを両手で受け取り、すん、と香りを嗅ぐ。甘い、桃のような香りがした。

「良い匂い。意外です、セルギスさんもこういうの飲むんですね」
「近所の親父さんから分けて貰ったんだ。奥さんが作りすぎたと」

 彼はまなじりを緩めって告げると、コップを傾けた。は意図を察して、同じようにコップを差し出して傾ける。カチリとコップの縁を鳴らし、揃って口に含んだ。水で割っているから、さらりと果物の甘さが喉を通っていった。
 美味しい、と小さく呟いて少しずつ含むの姿を、セルギスは頭上で見下ろす。幾つかの小さな明かりに照らされる横顔は、少し赤みを帯びて緩んでいる。黒髪が流れて露わになる首筋もほんのり染まり、甘い香りが漂っているように錯覚する。
 簡単に、手が届くこの距離に――――一体、どれくらいの目眩を感じてきたか。
 正直、今もそうだ。酒が入っている分、余計にタチが悪いかもしれない。
 集会浴場の清掃員として働いているは、普段きびきびと真面目に働いている。その姿が、今は少し、いやかなり緩んで、輪に掛けて無防備である。己にも酒が入っているせいか、その隙が、何気ない仕草が、香り立つほどの女らしさを漂わせている。
 ……ザルであると、自負している。だが急に酔いを感じるのは、どうしてだろうか。例えばいつかの晩に、何も言わず口付けた時もそうであったように。果実酒を少しずつ含むの、濡れた赤い唇を、今も彼は見下ろしていた。


 ――――アンタに餞別として――チャンスをくれてやる


 影丸の笑みと邪悪さを含んだ声が、耳元で聞こえる。
 影丸の言葉は、恐らくは、そういう事だ。けれど、何だって今。嬉しいんだか嬉しくないんだか、まるで分からない。
 何度も伸びそうになる手を抑え、セルギスはまだ堪えていた。彼女は気付いていないのだ、セルギスが今も昔も彼女の姿に焦がれて、劣情を抱いてきた事なんて。今もその首筋に、噛みついてしまいたいなどとセルギスが思っている事すら。

「……セルギスさん?」

 小さな呼びかけに、セルギスの意識がハッと戻る。一片の冷静さを取り戻し、彼はを改めて視界に入れた。

「ああ、すまない。美味くてつい黙っていた」
「ふふ、ですね。果物を使った飲み物かあ、こういうのも今度レイリンちゃんに教えて貰おうかな」

 あの子、実家が大家族らしいですよ。台所を手伝っていて、凄く料理上手なんです。上機嫌にそう語るは灯火に照らされ輝いている。そういえば先ほどの祝賀会は、彼女たちが料理の準備をしてくれていた事をセルギスも思い出す。
 あっという間に時間が過ぎて、気持ちが追いつかない。置いていかれるようで、少しだけ寂しい。そんな事を漏らした寂しげなの姿は、もう無かった。
 彼女の生まれた場所はとても遠いところらしいのだが、このユクモ村で、その姿が根付けば良いとセルギスは思う。いつかの夕暮れの渓流で、人に戻りたいと泣き叫んだ桜色のアイルーの願いが叶った通りに。
 セルギスが、を置いてゆくわけがない。今も昔も隣に望む存在が何であるのかを思えばこそ、彼が、そんな事をするわけがないのに。



 果実酒を楽しんだ後、コップを机に置き。
 渡したいものがあるんです――――そう先に話を切り出したのは、であった。少し落ち着きなく佇まいを直しながら、懐を探る。そして取り出したものが、灯された明かりのもと照らし出された。
 包みをそっと外して、はセルギスを見上げる。

「レイリンちゃんや村長さんに、教わったんです。ユクモ地方は魔を祓う朱色を身につけるって。それで、特にこういう首飾りとか贈り物にするって」

 手のひらに乗せた包みの中には――――細い朱色の装飾糸を丁寧に編み、小さな朱い鋼玉を散りばめた首飾り。
 それは、セルギスもユクモ村で生活してきた中で何度も見てきた、伝統的な魔除けの朱い首飾りだ。けれど彼の目を惹いたのは。
 その中央にあしらわれた、透明な大粒の水晶。
 これは、確か。セルギスにも見覚えがある。ハンター生活で、何度も手に取り拾った事があるものだ。
 セルギスの眼差しに、疑問が宿る。は微笑んで、用意した首飾りを見下ろした。


 今日というセルギスのハンター復帰の日よりも以前から、なりに考えていた事でもあった。めでたい事なのだ、彼に何か、お祝いの品を送りたいと。
 といってもハンター稼業の事なんてよく分からないし、何が嬉しいのかも分からない。悩んでいた時に耳にしたのが、先の話だった。
 セルギスにも影丸たちにもばれないよう、こっそりと近所のお母さんに教わりながら魔除けの朱い首飾りを作っていた。そういった物作りなど初めてであるし、一から作り上げる事自体まず体験した記憶もない。胸を張って手先が器用とも言えない程度の腕前しかない素人には、中々骨の折れる作業であったけれど、九割方出来上がった時には感動もひとしおだった。
 あとは結んで完成、というところまでこぎつけた時。ふと、が思い出したのが、《とある物》の存在だった。渓流から持ってきたカルトお手製のアイルーサイズのポーチの中に大事に仕舞ったままだったそれ。はそれを加工屋へ持ち込んで、邪魔にならない大きさにまで削って貰い、首飾りの糸へ通した。
 それは――――。


「渓流で、セルギスさんが――――ジンオウガさんがブルファンゴを裂いた後で拾った涙です」

 の言葉に、セルギスの長躯が薄暗い明かりの中で微かに震えた。
 水晶のように透き通った美しい結晶――――大粒の竜の涙。
 本来ならばそれはギルドへと納品し金銭へと交換されるものだが、それを知らないはずっと大事に手元に残していた。そしてその正体が後になって判明した時、これは絶対に手放せるものではないと、思ったのだ。
 これは手負いのジンオウガが、七年の歳月で吐き出す事さえ許されず抱えてきたものを凝縮した結晶であるのだと。

、あの時は」

 不意に言い募ったセルギスに、は首を振って笑う。もう気にしている事ではないし、何より、だって似たような事をした。本来ならば彼がそうしたかっただろうに、七年の苦痛を味わった事もないアイルーごときがよりにもよってジンオウガに人間に戻りたいなどと言った。
 おあいこだ。きっと。
 がそんな風に告げると、セルギスは少しだけ困ったように視線を逡巡させたが、しばらくの後に頷いた。それを見上げ、は続けて話した。

「ジンオウガさんの時の記憶が、本物である事と。それと、その時の記憶が……守ってくれるように、と」

 なんて、妙にらしくない事を言ってしまっては一人慌てて言葉を変えるけれど、目の前のセルギスは決して馬鹿にする事はなく。静かな微笑みを、その精悍なかんばせへと浮かべる。細めた琥珀色の瞳を、暖かな明かりが照らす。

「……そうか。ありがとう」

 呟いた低い声が、酷く優しくて。何故だかとてもは気恥ずかしくなる。思えば、幾ら伝統品とはいっても、こんな手作りの首飾りなんて重かったかもしれない。邪魔にならないようシンプルを心がけたが、どっちにしろハンターの仕事の時にはつけられないかもしれない。
 自分で出しておきながら「捨ててくれて構いませんから」と付け加えると、ますますセルギスの優しげな微笑が深まる。「絶対に捨てない、付けられる時は絶対に付ける」などと、嬉しいけれど羞恥心が上回る文句をセルギスに掛けられ、は呻き声を漏らす。その恥ずかしさに、はいつの間にやら顔を真っ赤にさせ、表情を伏せていた。
 彼女のそんな様子を、セルギスはしばらく見つめる。きっと懸命に作ってくれたのだろうと、容易に想像がつく。魔を祓う朱色と、過日の記憶、そして未来への祝福。の気遣いが、純粋に嬉しかった。
 セルギスは、ふっと、小さく息を吐き出す。

「……少しだけ、被ってしまったな」
「え?」
「俺からも、お前に渡しておきたいものがあるんだ」

 セルギスはそう告げ、小さな燭台を一つ片手に持って、二階へと上がってゆく。数秒と経たない内に彼は戻ってきて、に何かを差し出した。大きな無骨な手のひらに納まるそれは、綺麗な碧色をした、小さな牙の形をしている。けれど、何処かで見覚えがあった。

「これは……」
「ジンオウガの、碧色の甲殻だ」

 の頭上で、セルギスが笑みをこぼす。

 渓流で過ごした、ジンオウガ最後のあの日。
 七年の間掛かっていた呪いは、渓流で出会った桜色のアイルーと共に祓われた。そしてジンオウガは人に戻り、捨てようと思っても結局捨てられず求め続けた場所へとの帰還を果たした。
 その時、とセルギスはドキドキノコの酷い味と衝撃に気を失っていたので記憶はないのだが、影丸などの話によると二人は共に倒れ、獣の姿から人間の姿へと転変していったと云う。そしてセルギスの周辺には、ジンオウガの甲殻や帯電毛などの部位が散らばっていたそうで、それらを全て抱えて村へ持ち帰ってきたらしい。
 影丸にそう説明を受けながら、かつての己の肉体であったらしい雷狼竜の素材を差し出された。セルギスはそれを何とも不思議な気分で受け取ったものだった。人に戻った身では、これが本当に己の肉体を形成していたのだろうか、分からなかった。
 そしてその素材を、使う気にも売る気にもなれず、ただ大事に保管していた。

「――――アオアシラの首飾り、いつも付けているだろう」

 セルギスは空いているもう片方の手を上げ、己の鎖骨にとんとんと指先を押し付ける。が常に首に下げている、アオアシラの首飾りの位置だ。

「それに丁度合う形に整えてみた。ほら、紐を通せるよう穴を開けてみて」

 言いながら、セルギスの微笑は苦笑いへと変わっていった。

「男の頭ではこれしか思いつかなかったんだが……見事に、被ってしまったな」

 魔除けの首飾りに、アオアシラの首飾り。それらに付ける、ジンオウガの涙と、ジンオウガの甲殻。
 確かに、見事に被っている。
 も己が差し出したものと、セルギスの差し出したそれを見比べ、思わず笑ってしまう。

「セルギスさんは、どうしてこれを私に……?」
「あー……まあ、なんだ、理由はとほぼ一緒だな」

 セルギスは、広い肩を恥ずかしげに竦める。

「七年あった事が現実だったのだと、忘れないように。何だかんだ、今となっては良い経験であったような気がするし」

 あの歳月が無ければ。ただの日常をこれほど愛おしく思う事など、無かっただろう。
 気恥ずかしそうに語る彼を、は静かに見上げる。

「まあ、あとは……覚えていて貰いたかったしな」
「え?」
「これから先誰にも言えないだろう事実を、にだけは、せめて」

 まあ、面倒な話を抜きにして、ただ単純に預けておきたかっただけだが。セルギスはそう言葉を終えると、アオアシラの首飾りを出すよう求める。はそれに応じて、衣服の下に隠していたそれを引っ張り出し、取り外す。どうぞ、と差し出すと、彼は慎重な仕草で受け取り、燭台の明かりのもとへ手元を近づける。牙の形に整えた碧色の甲殻を、首飾りの紐へとゆっくり通した。

「ますます無骨さが際立つ見た目になってしまったな」

 セルギスは小さく笑った。も釣られて吹き出す。確かに見た目は、森の民が身に着けていそうな無骨なデザインだ。けれど、大切なものをくくり付けた、今現在のの一番の宝物でもある。青毛熊の爪と、雷狼竜の甲殻。渓流の記憶とも言えるそれらを下げた首飾りは、今日また決して手放せない宝物へと変わった。

「アシラくんも、ジンオウガさんも、大切にしますよ」

 一瞬だけセルギスが震えた事に気付かず。は柔らかく微笑んだ。

「……そうだな、そうしてくれたら、俺も嬉しい」

 と、セルギスが呟いたところで、は手にずっと持っていた朱色の首飾りを思い出す。それをそっと差し出すと、彼は受け取ろうと手を伸ばすが、何やら思いついたのかそれを引っ込めてしまった。
 「せっかくだ、お前が掛けてくれるか」セルギスにそう言われ、何故だかは酷く驚いてしまい、肩が跳ねてしまった。でも、これは、別に。意味のない単語を連ねたが、セルギスの視線は逸れず、そうする事を目で強く訴えてくる。
 しばらく視線を逡巡させた後、は小さく頷いて、両手で首飾りを持った。セルギスは一度まなじりを緩めると、狩人の風格も十分な屈強な長躯を屈める。薄ぼんやりと照らす橙色の明かりへ溶けるような、彼の赤銅色の髪が毛先を揺らしへと近付いた。
 筋の浮かぶ首筋や、広い肩に胸。鍛えていない女とは異なる、研ぎ澄まされたその身体。意識が奪われそうになるのを懸命に隠しながら、両腕を持ち上げた。朱色の魔除けの首飾りを、慎重に、屈んだセルギスの首に掛ける。やはりとても恥ずかしかったが、セルギスは一度首飾りを見下ろすと、ふっと口元を緩める。ありがとう、と吐息で告げる言葉が、の耳を撫で上げた。
 そして、今度はの番になってしまうらしい。
 セルギスが自ら掛けてくれるらしく、の中に羞恥心の他に焦燥めいたものが微かに浮かぶ。何だか、普段の彼とは少し違うように思いながらも、笑う瞳に滲む真剣さを断りきれず、は彼におずぞずと背を向ける。首筋にかかる黒髪を持ち上げて、うなじを晒した。アオアシラの首飾りを作った時、彼が付けてくれたように。

 その後ろ姿に、セルギスの琥珀色の目が人知れず細められる。明かりの揺れる切れ長な瞳は、の頭から首筋、背中となだらかな腰を眺め見る。この至近距離にある無防備さを、罰か嫌がらせか、もうずっと前から思っていた。そして、それは昼間であるから耐えられたものだった。人の気配が数多く行き交う賑やかな、昼間で、あったならば。

 仄かな明かりに染められた室内の、薄暗い影の中。の背後で、気配が動いた。黒髪を持ち上げ晒した首筋に、触れる間際のくすぐったさが不意に感じられる。そうして、顔の横から延びてくる男性の大きな両手が、首飾りを定位置へと掛ける。何て事ない仕草のはずなのに、胸が逸ってしまう事だけは何とか隠しておきたい。頬に集まる体温にキュッと口を結んでいる事も、どうか彼には見えないようにと。
 そうして俯くと、のもとへ戻ってきた首飾りが視界に映った。幼い青毛獣の爪と、牙の形に整えたジンオウガの甲殻。鎖骨に残る重みは以前と大して変わっていないが、以前よりもずっと、存在感を感じる。の胸が、不思議な温かさで満たされる。
 セルギスの手が離れてゆく。ありがとうございます、とが言おうとした――――時である。

 背後の気配が、の背へと張り付いた。

 重なった他人の温かさに驚いて、はほとんど反射的に振り返る。けれど、の腰と肩周りへ太い両腕が巻き付いて、動いたのは頭だけであった。そして、見上げた先には思っていたよりもずっと近い場所にセルギスの精悍なかんばせがあって。開いた口は、ただ呆然と開き続けるばかりだった。
 セルギスの研ぎ澄まされた長躯が、を背後から覆い被さるように抱きすくめたのだ。
 の硬直した思考が動き出したのは、セルギスの低い声が吐息と共に呟かれた後だった。

「……今日の、リオレイア討伐の時な」

 後ろから響く艶めいた低音に、はどうしようもなく心を跳ねさせる。懸命に落ち着こうとしても、包み込む温かさに冷静になどなれるはずもない。
 そういうの心情をセルギスも少なからず察しているが、言を連ねて強引に空気を飲み込む。彼女の強ばりに、何故か酷く昂揚と歓喜を覚えていた。無防備な彼女も、自分を異性と意識してくれているのかと、どうしようもない期待を抱く。絶対にこの細い身体は離してやらないと、腕に力が入った。

「ずっと、お前の声と姿を思い出してた。桜色のアイルーの姿でも、今の人間の姿でも、どっちでも良い。ずっと頭の中にあったんだ、戦いながらな」

 そうして、助けられ――いや、救われてきた。彼女が思う以上に、己が自覚する以上に、もっと深いところをも拾い上げられながら。

 セルギスの柔らかな拘束を受け、の手がさまよう。何かにしがみつこうとしているのか、突き飛ばそうとしているのか。震えた指先が触れるものは、薄暗い空気だけだ。

「……何だろうな、俺は多分、今も昔も」

 ぐ、と。セルギスの両腕がの身体を抱き込む。顔の隣で動く髪の毛の気配を敏感に察知し、一層強ばる。

「お前の事が――――大事なんだろうな、異性の意味でも」

 深みを増した低音に、はその時ようやく弾けるように動く。柔らかな拘束が一瞬緩み、はその隙に身体を捻って腕の中から逃れた。だが、逃亡が謀れたのはほんの短い時間で、直ぐにはセルギスの手に捕まってしまった。
 腕を掴む大きな手のひらの、予想外な熱さ。伝染するように、の顔も熱くなる。

「セル、ギスさ」

 声が上手く出ないのは、ほんの少しの恐怖と、大部分の困惑や羞恥心のせいだろう。
 向かい合って視線を合わせた時、降り注ぐセルギスの眼差しや、目の前に佇んだ屈強な長躯が、狩人の鋭さではなく異性の艶やかさを滲ませている事にも気付いてしまって、どうしようもなく震える。見慣れた姿が、別のものに見えるのは、一体。

 期待なんて、するな。
 はいつの間にかそう己へ言い聞かせていた。だって、これは、きっと――――。

「――――酒のせい、なんて。もう言い訳は使わない」

 は、びくりと肩を揺らす。緩慢に動き出したセルギスの頭が、の前へと落ちてきた。伸びやかな背を折り曲げて唇が触れてきたのは、鎖骨――首飾りか。目の前にある赤銅色の髪を、はただ驚いて見下ろすだけだった。

 が普段から身に着けているその首飾りは、アオアシラの清らかさ。そして其処に連ねた、ジンオウガとセルギスの願望。彼女への願いはきっと、本音と建て前が入り交じって、生々しく重いものだろう。丁度、今のように。
 己の唇でそれを撫で、セルギスの思考に熱が増す。知っている、身勝手に想い続け、やはり身勝手に押し付けたのは己であると。平素であったなら、確かにセルギスもこうまでしてに触れようとはしなかった。多少は酒のせいで自制心が薄く剥がれ落ちてしまっていて、影丸の言葉だって無きにしも非ずといったところで。
 結局のところ。面倒な理由を取っ払ってしまえば、セルギスの忍耐が限界を迎えただけかもしれない。
 今だって、想像よりも柔く細い腕と腰の感触、夢ではない本物の肌の匂いに、渇きに似た飢えが押し寄せているのだから。
 首飾りから離れ、セルギスはその頭をの肩口へと乗せた。飛び跳ねた細い肩が身体ごと逃げないよう、二の腕を捕らえ呟く。

「……まあ、そりゃあ、今も酒が入っているから説得力はないかもしれないが。あの夜お前にキスしたのも、今こうしてるのも……全部、意識がない中でしている事じゃない」
「じ、じゃあ、気まぐれ、とか……」
「……おい、それは、普段から俺が不誠実な男に見えるって事か」

 それは、さすがにちょっと傷つくんだが。言外にそんな言葉が聞こえたのか、は小さく縮こまる。首を横に振りながら、混乱し、上手く飲み込めないその様子を、セルギスは空気から感じ取っている。
 セルギスは頭を起こし、視線を合わせる。仄かな明かりに照らされたは、やはり困惑していたが、激しく揺れる瞳と染まる頬が普段よりもずっと気弱げで。
 ――――嗚呼、と。セルギスは目眩にも近い吐息を漏らす。

「……出来れば、お前にも、酒のせいでないと思って欲しいが」

 セルギスは屈んだ背をそのままに、額を近づける。「その様子を、そのまま受け取る事にしよう」
 殊更に近付いた彼の精悍な顔が視界を埋め、は声にならない悲鳴を上げる。恐怖や嫌悪の類なんてこれぽっちも感じなかった事に対して、は自分自身を無性に殴りたくなるほどに。

「わ、わた、しは、あう、その」
「嫌か」
「ち、ちが、あの、そうじゃなく、なくて」

 そして無性に泣きたくなってくる。ぐるぐると思考が回り始め、今にも倒れそうになっているを見ながら、セルギスはなお続ける。

「俺は、ハンターに戻っても、隣にお前が隣に居れば良いと思ってる。お前は、どうだ」

 互い額が、いよいよ重なり合う。じわりと伝う温度がくすぐったく、無意識にまた肩が跳ねる。
 以前も、そうした事があった。けれど、あの時とは違う。真正面から見据えてくる瞳も、二の腕を掴む手のひらも、全てが熱を帯びた異性そのもので。
 何よりが震えている理由が、そうされている今――――。

「い、いやじゃ、ないです……ッ」

 泣きそうなくらい、嬉しいと思っているからであった。

 ぎゅう、と眉をしかめ羞恥に染まる先で、セルギスが目を張る。そして急に顔を離すと、首を俯かせてしまった。恐る恐るとが窺うと、彼は、決死の顔つきをしていた。

「……色々と、まずい」
「え……?」

 は、素っ頓狂に声を漏らす。セルギスはその無防備さに、ぐっと奥歯を噛みしめ耐えた。
 主に、安堵して倒れそうになる足だとか、緩んでにやけそうな顔だとか、感情が直結する下半身だとか。
 とは、さすがに酒が入っても口に出来ない。こんな劣情、今は見せたくないと、意地が出ているのだろう。
 けれど、わりと、本当に。
 ここしばらく、特に顕著になって悩ましてきた情欲が、いよいよ露わになりつつあった。至近距離にある、肌の匂いや温もり。思っていたよりも、柔らかく細い体つき。夢想した彼女よりもずっと、現実味があって、生々しい存在感。様々な理由をとってつけても、求めてきたのは今セルギスが掴んでいるものだ。手のひらに捕らえた二の腕を引き寄せ、顔を寄せ、あの晩から苛ませてきた根源は直ぐ目の前にある。恥ずかしげに歪む唇は、色づき薄く開いている。
 見上げてくるを、セルギスはぼうっと見つめ。ほとんど、誘われるままに、彼は動いた。

 は、何度したか分からないが、驚いて目を張った。伏せられていたセルギスの顔が上がったかと思うと、距離を詰めて顔が寄せられていた。そうして逃げる間もなく、唇がセルギスのそれで塞がれる。いつかの夜より何倍にも、熱く、隙間無い口付けに、思考がカッと沸騰するようだった。
 は、咄嗟に二本の腕を目の前の広い胸へとあてがた。けれど、それを押し返されながら、逆にセルギスの腕が背中へと巻き付く。目で見て分かっていたけれど、実際に触れたその胸の広いこと。は何に驚いているのか分からなくなりながら、覆い被さるセルギスの唇の熱さに震える。
 上を向かされ、喉が張る。苦しげに息を吐いていると、その隙間をぬるりと侵入してくるものが。たまらず瞼を閉じて、口内で蠢く感触に呻く。息苦しさと羞恥で、セルギスの舌から逃れようと身体を捻る。足がじりじりと後ずさったけれど、の唇や口内から熱さが離れる事はなく、追い縋る。のお尻に机の縁がぶつかっても、セルギスの口付けは止まなかった。

「ッふゥ、う……ッちょ、うわあ?!」

 の悲鳴が上がったのは、背中が倒れて視界がぐるりと回ったからだった。机の上に倒れ込んだらしく、木の堅さが背中にぶつかっている。けれど、非難の声なんて出てこない。の目の前には、濡れた唇を舌舐めずりして覆い被さる、セルギスの姿がある。影を落とす屈強な肉体が、何故だろうか、壮絶に色っぽく見えた。はカッと頬を染め、両手をもって目の前の胸を押し上げようとする。当然、びくともしないけれど。

「セ、セル、セルギスさん」
「ひっかくなり蹴飛ばすなり、してくれないか。そうしたら、まだ、気合いで何とか我慢出来る」

 が、我慢って、何の! は内心絶叫していたが、降りてきたセルギスの唇は再びのそれを一舐めし、下唇を柔く食む。そのまま上へと上がって、眉間や瞼、こめかみをも啄まれ、もどかしさにゾクゾクと背筋が震えた。
 床から浮いた爪先が、セルギスの腰にぶつかる。足の置き場をどうしようかと空をさまよわせたが、それを脇に挟まれがっしりと固定される始末。言葉とは裏腹に少しずつ逃げ場を奪われてゆくのを、も理解した。
 セルギスの唇が離れる。けれどその距離は未だに、吐息がぶつかり合うほどのところにあった。落とされる影と霞む熱の向こう、琥珀色の瞳がを見下ろしている。

「……嫌でないなら、前向きに受け取って、図に乗る事にするが」

 の身体が、机上で跳ねる。真っ赤に染まって表情を歪ませたところで、劣情が煽られるだけであるのに。セルギスは思いながら、悪戯にその頬や額を唇で掠める。
 譲渡するように尋ねる素振りをしながら、浅ましい懇願もしている。
 セルギスは自覚していながら、それでもなお言を連ねる。手のひらに心地よい温かさが、触れた唇に乗る柔らかさが、あまりにも離れがたく染みるせいだと勝手に思いながら。

 熱を帯びる沈黙の中、燭台の明かりが頼りなく揺れる。机上にもつれあう男女の姿は、影に映し出されていた。

「……い……」

 小さく、は呟く。その声を聞き漏らさぬよう、セルギスの耳は自然とそばだてられた。

「い、いや……」
「嫌?」

 囁かれる低い声に、ギュッと肩が縮こまる。

「――――では、ない、です……ッ」

 薄暗い暗闇の中でもはっきりと分かるほど、の顔は真っ赤だった。滲みそうな気弱なまなじりはきつく閉ざされ、返ってくる言葉を怯えているような。胸を押す女の手のひらはもがき、セルギスの衣服を掴んでいる。

 嫌ではない。
 嫌ではないと、そう言った。

 セルギスは彼女を見下ろして――――これまでの苦悩や諸々の煩悩が、何処かへ吹っ飛んで弾けたのを覚えた。

「わッ?!」

 は小さく声を漏らす。脇に挟まれた己の足に、セルギスの手が這っている。巨大な武器を握る、武骨な長い指が、太股へと柔く埋まり撫でさする感触。

「わ、わ、お、落ち着い、落ち着いて、セルギスさん!」
「俺は至極冷静だ」
「れ、冷静じゃない人は皆そう言うんですよぉ!」

 次第に衣服の内側にまで及びそうになったので、はべちっと目の前の額を叩く。見下ろしてくる琥珀色の瞳は……まなじりを染め、熱っぽさが満ちている。普段の彼からは全く想像もしなかった男の目つきに、ぐっとは息を詰まらせる。
 「何故」問いかけるその声にも、普段とは異なる何かが含まれている。

「だ、だって……わッ!」

 ぐん、と今度は倒れていた身体を起こされた。机に腰掛ける形となって、正面からセルギスが身を寄せる。片手一つで楽々とこなすとはさすが力仕事に従事しているだけはあるのだが、そんな事より、背中や足を這い回る大きな手がくすぐったくて仕方ない。衣服の上からであるのに、感触が強く残っている。
 撫で回されながら、セルギスの顔がの首へと埋まる。うなじの匂いを嗅ぐように押し込まれ、遮るものがない首筋や耳の裏を舐められる。「あッあッ」困惑に喘ぐ己の声にさらに悲鳴が出そうになったが、呼び止めてもセルギスは全然止まってくれない。
 セルギスの事は、嫌じゃない。彼から触れられるのも、嫌じゃない。けど、でも。
 はくすぐったさに抜けてゆく力を必死にかき集め、セルギスの肩を叩く。(実際は揺すった程度のものでしかないだろうが)セルギスは其処でようやく止まってくれて、は荒く息を吐き出す。それでも、正面から覆い被さるように距離を詰める彼は、の顔の至る所に唇を何度も押し当てている。
 い、息づかいが、くすぐったい……!

「嫌だったか」
「嫌じゃない、ないですけど、でも」

 ぐるぐると、思考が回りっぱなしだ。は息を吸い込んで、言葉を叫ぶ。

「こ、此処じゃ、困ります……!」

 言った直後、は自身の顔を想像で殴りつけながら、叫んだ。違う、そういう事でもない。いや、違わないけど、違うのだ。
 セルギスの肩を掴みながら、絶叫するように口を開けた。あの、その、違うんです。違わないけど違うんです。と訳の分からない言い訳を口にして彼を見上げる。
 セルギスは、何故か顔を逸らしていた。だがしかしからも見える。その口元は、笑っている。

「笑わないで下さい! し、しんけ、真剣に……いや違うけど!」
「分かった、分かった。今ので、俺も頭が少し冷えた」

 違うんです、違うんですよ。
 はいはい分かった、分かったから。
 一瞬だけ熱っぽい空気が吹き飛んで普段の調子が戻ってきたけれど、それもほんの少しの間の事であった。セルギスは一度の唇に口付けると、机に座っていたその身体をひょいと軽々抱き上げた。近くに置いてあった燭台をへ一つ持たせ、彼は迷わず歩き出す。横抱きにされているは、高いところで目を丸くしていたけれど、その足が二階へ続く階段を踏んだ時には……さすがに、察した。忙しない階段の板の軋みが、訪れた沈黙を煽るよう。の肩はますます強ばった。セルギスの手のひらは、それをより強く抱く。まるで、逃がさないと言わんばかり。その強さに、は羞恥の中に疑問を見出す。
 どうして私だったのだろう。前からって、何時からなのだろう。
 筋の浮かぶ首の先、精悍な輪郭を持つ彼の横顔は、を見下ろす事は無い。

 そしても、まだ知らないでいる。
 セルギスが今も、以前からも、どれほどの飢えた情欲を身の内に抱えているのか。