生きた罪を許して欲しいと乞う日(1)

――――― 今朝の渓流は、雲が多く朝陽に掛かっていた。
雨が降る、とまではいかないものの、僅かな不安を感じさせる空であったのは間違いがない。だが、この日のの心境は、天候の様子が如何なるものであっても、左右されることはない。
小腹を満たして身繕いを済ませた後、彼女はジンオウガの元へと急いだ。彼が行きたいという場所、彼が恐れている場所……それが何処にあるのかなどは聞いていないが、流れの王者が明かした一片の願いは彼女自身興味があった。それに、彼が見せてきた不透明な部分を知ることは、にとって必要なことにも思えるのだ。それこそ、気のせいなのかもしれないが……。
すっかり通い馴れた野道をしばし歩くと、木々の深い茂みから視界が開けて、穏やかなせせらぎが近づく。それを辿るように上流へと向かうと、ジンオウガが普段身を隠している洞窟と幅広な滝と対面する。けれど、今日は洞窟の中へと足を運ぶ必要が無いらしい。豊かな木陰に、ジンオウガが静かに横たわっていたのだ。まだ今朝方で静かな風景に、不思議と溶け込んでいる鮮やかな堅殻の色彩を見ながら、はトコトコと歩み寄る。いつもの調子で「ジンオウガさん」と呼ぶと、彼は木陰に身を置いたまま顔をへ向ける。

「早いな、もう準備出来たのか」
「はい、と言っても持って行くものなんて特に無いんですけどね。ジンオウガさんも、早いですね」

彼はふっと目を細め、「自分で言ったことでもある」と静かにへ言葉を返した。
普段の、彼だ。昨晩の気弱な様子は微塵もない。そのことに安堵しつつ、「すぐに出発しますか?」と尋ねる。彼は、そうするつもりだ、と呟いて草地の茂みに横たえていた身体を起こし、の前へと佇んだ。乗れ、という短い言葉と共に太い前脚を差し出す。が遠慮なくその手に、ペタリと触れた瞬間だろう。

「ニャー! 何処に行くのニャー!」

――――― お馴染みのカルトが、地面を突き破って現れた。
その元気の良さにジンオウガから溜め息が漏れた。彼にも説明をするべきか、とが苦笑いすると、今度はせせらぎの下流から。

さーん!」

――――― 水を豪快に飛ばしながら駆け寄ってくる、小さなアオアシラの姿が現れる。
お約束な光景に一層苦笑いを増したところで、ジンオウガを見上げると。心なしか立派な角の生えた頭が、項垂れている。


そして結局、予定していた静かな旅路は、こうなるのである。

「ニャ、ニャ、ニャー! ニャ、ニャ、ニャー!」

カルトの元気な声が、緑生い茂る山中に響き渡る。そのカルトの変な歌に合わせて、アオアシラの「ブォウ、ブォウ」とリズムを取った鳴き声が続く。
ちなみに何処からか、アオアシラの声はジンオウガの隣より。
カルトの歌は、そのアオアシラの背中より放たれている。
努めて静かに進もうとするジンオウガから、何度目かの溜め息が聞こえてくる。彼の首の後ろにしがみついたは、のしりのしり、と重く歩み振動に揺られながら、下で賑やかな二匹にひたすら笑う他無い。

予定の旅路は、一瞬にして園児の遠足に様変わりする。

「……まあ、お約束と申しますか、こうなりますよね」
「……もう諦めた」

お前たち頼むから、せめて鼻歌にしてくれ。耳が痛い。ジンオウガの言葉をが通訳し彼らに伝えるが、結局大きなハミングにしかならず、遠足風景は変わらず山中を進む。
端から見ると、不気味な光景でもあるだろう。最大金冠サイズのジンオウガの首に、アイルーがしがみつき、その後ろには歌う小さなアオアシラとハンマー抱えたアイルー。一体何という名をつけるべき、御一行だろうか。改めて思うと笑ってしまうので、は別のことを考えるよう専念する。
そう、例えば今現在の居る場所、などだ。
「連れていけ!」「行きたい!」というまさに子どもの我が侭に等しい言葉を言って地団駄を踏んだカルトとアオアシラを、ジンオウガは仕方なく同伴を許可して出発したのだが、彼が進んだ先は人が入らない木々でひしめき合い周囲を緑で覆われた林であった。太い木の根が張り巡らされ、著しい凹凸の傾斜した地面は、にとっては歩くことだって困難な形状だったが、ジンオウガの脚は軽々と登っていく。その後ろを、カルトを乗せたアオアシラも難なく着いてくる。傾いた視界は、ひたすら高みへとのぼっていき、徐々に視界は霧を纏い、空気の冷たさも一層感じる。どうやら、標高の高いところにまでやって来たらしい。はジンオウガの首の後ろから周囲をうかがって、今いる位置が、渓流ではなく切り立って隆起した岩の多い山中であることを知る。
空が高く、そして大地が遠い。が普段眺めていた大河の全貌が伺えるほどだ。
恐らく、人の目を避けてのことだろう。けれど、向かう先が全く分からない。太陽を見上げてみるも、方角云々はさっぱり弱く、やはり行き先は不明だった。けれどジンオウガの脚は、はっきりと、目的を持って進んでいる。

「ボク、ここまで来たことないよ。初めて」

トットッ、とカルトを乗せたアオアシラが隣へ並ぶ。最初はジンオウガを見て怯えていたが、馴れたのだろう接近することも出来るようになった。そうね、と頷き、カルトにもアオアシラの言葉を伝えると、「オレもニャー」と背中のハンマーを直す。

「それにしても、一体何処に向かってるニャー? ずいぶん遠くまで来たみたいだけど」

カルトの言葉は、ジンオウガへと届いただろう。けれど、彼は行き先はやはり言わず、「まだもう少し歩く」とだけ告げた。カルトは「ふーん」と特に気にした様子はないが、は彼の声に僅かな強張りを感じていた。彼の言葉が理解出来るせいだろうが、それはまるで今から緊張しているような、様子でもある。向かう先は、よほど彼にとって重大な、場所なのだろう。
進む獣道は、変わらず空が近く、切り立った岩々が続くばかりだった。時おり休憩を挟んだり、身を隠せないような周囲に何も無い開けた場所ではやカルトが万が一を考え調べたりとしながら、平穏に続いていく。

「――――― ところで、前から思ってたんだけど」

カルトの呟きで、覆っていた静寂が破られる。

「ここに来る前は、ジンオウガは、何処に居たのニャー?」

ジンオウガは、歩調を緩めたり、声を漏らしたり、そういった変化は見せず変わらず淡々と進んだ。
「何か言ったかニャ?」カルトに尋ねられたが、は静かに首を横に振る。言いたくないこと、なのだろうか。
すると、しばらく押し黙っていたジンオウガの口が開き、囁くような声が落ちた。

「――――― この渓流に来る前は、色々な場所を巡っていた」

は、ついジンオウガの声に意識を集中させ、通訳を忘れていた。

「渓流、水没林、砂原、火山、凍土……あらゆる土地を見たが、やはり住める場所は渓流と水没林くらいで、主にその地ばかりを転移していたな。人間に会えば恐れられ、もしくは攻撃され……気を休めるには、隠れることなのだと学んだ」

彼の顔が、不意にを見た。そして彼の声は、カルトではなくへと向いていることを知る。

「……ハンターたちの間では、《下位》依頼と《上位》依頼がある。下位は、採取の依頼だとか比較的に簡単な討伐依頼をそう言う。上位は反対……並大抵の人間やハンターが太刀打ちするには困難な、特に凶暴なモンスター、場合によっては複数のそれが相手になるものばかりがある。
俺はその、《上位》に分類されるモンスターだ」

ハンターには、ハンターランクと呼ばれるいわばハンターの階級が存在する。上位依頼、または特に険しく危険な上位の狩場に向かうには、規定値以上のランクが必要とされる。当然その地位にいるハンターは皆、軒並み常人を超えて恐ろしいまでに腕が立つ。特に最高ランクを得たハンターは、数少ないとはいえ、一人で古の龍をも討つ。
そんなハンターばかり、相手をしてきた。
ジンオウガは淡々と言ったが、にはそれが酷く落胆しているように聞こえてならない。

「……死にそうになったのは、珍しくもない。だがこの渓流に逃れてくる数ヶ月前……その上位の渓流で出会ったハンターには、手酷くやられたものだ。脚の傷など、塞がったとはいえ完治はしていない」

はその言葉に、ぞくりと震えた。ジンオウガが、全身と後脚に重傷を負いやって来たあの日のことは、未だ鮮明に浮かぶ。けれど、その要因となった、ハンターは……。

「……一体、どうしてそのハンターに追われることに……?」

が声を潜めて尋ねると、ジンオウガの青い目がゆっくりと伏せられ、振り返っていた顔が再び前を見据えて戻る。

「……人里に近づきすぎてしまった。村人だろうな、それに見つかってしまって。恐らく付近に滞在していたハンターだろう、討伐依頼が出されたに違いない」

あの恐ろしいハンターは、今頃自分を血眼になって探しているのだろう。彼はそう言い、口を閉ざす。
は、脳裏に浮かぶ、ジンオウガの言うハンター……影丸の姿を思い浮かべる。かつて、友人をジンオウガと共に失ってしまった彼にとって、この同種のジンオウガは憎むべき相手なのかもしれない。レイリンも呟いていた、あの人は恐ろしいと、恐ろしいけれど悲しい人だと。しかしそれは人間の事情であり、このジンオウガには何の関係のないことだ。は口を開きかけたが……すぐに、閉ざす。何を言うつもりだ、彼に。何も言うことは出来ない。

……まるで私は、どっちつかずの曖昧な中間者ね。

人の心であるがため、人の世界を望み。
けれどアイルーの姿であるがため、人の忌むモンスターと触れ合える。

は、思わずジンオウガの首にしがみついた。ギュウ、とその太い首に目一杯腕を回すと、人の感触でも温もりでもない、冷たく堅い甲殻のそれだけが返ってくる。

「そんな中、逃げてきたこの渓流は、悪いことばかりで無かった」

さて、日が暮れる前に、夜が明かせる場所を探そう。彼はそう言って、辺りを散策し始めた。彼はそれっきり、言葉を放つことはなく、太陽がずいぶんと傾いている事実には意識を向けようとした。けれど、上手くも出来ず、ジンオウガの見え隠れする、他のモンスターとは違う何かに一層困惑することになってしまった。

その日は、木の実などで腹を軽く満たした後、背の低い樹木の根本に全員で身を寄せ合い一夜を明かすことになった。丸まったジンオウガの腹部にアオアシラが埋まり、さらにその腹部にカルトとが寝転がる。麓とは異なり、冷たい風が一層吹き抜けていったが、ジンオウガとアオアシラの身体のおかげでとカルトは暖かく眠ることが出来た。すぐに眠ってしまったのは、存外気が張っていたせいなのかもしれない。

翌日になり目が覚めた時、周囲は蒼白く霧で覆われていた。陽が目映く差して来た頃には再び移動を始め、黙々としばし進む。寝ぼけ眼だったアオアシラとカルトだったのだが、霧が晴れて視界が急に鮮やかに風景を映した時。崖の際に立ち、声を上げた。

「わあ~何あれ、何あれ!」
「ニャ……?! 、あれ見るニャ!」

妙に焦った、それでいて歓喜すら混じる、カルトの声は、大きく響いた。少し意識が眠っていた彼女は、それにより飛び起き、ジンオウガの背からアオアシラとカルトを探す。だが、彼らの姿を見つけた途端に、彼女からも、眠気など急に消えていってしまった。

「……嘘、何で」

は、思わず身を乗り出す。
ジンオウガの歩みは止まり、静かに、ただ恐ろしいまでに静かに、切り開かれた崖上から臨む風景を見つめていた。

遙か彼方へ続く、緑の波。その向こうに、紅い色彩が一点浮かんでいる。遠目であるとはいえ、その中にうっすらと見える建造物の輪郭や、白い靄のような湯気の存在が、ますますの目を大きく見開かせる。

先日別れたはずのユクモ村が、彼方に見えたのだ。自分たちは、山を越えてユクモ村付近にやって来ていたのだと、彼女はこの時ようやく知った。

「ジンオウガさん……? 何故」

彼は、やはり口を開くことはなく。
けれどその獰猛な瞳は、何を思っているのか、彼方のユクモ村を一心に見るや小さく鳴いた。とても悲しく、とても美しい、重厚な声で。
ジンオウガの向かいたい場所は、ユクモ村でした。
というシリアスな話は置いといて、管理人はアオアシラと一緒に眠りたいです。(どうでもいい)

2012.01.14