臆病な魔物がついた嘘

――――― 夢のような人里の社会見学が終わり、帰還した渓流。
そこは何ら変わらず、霧深い山々や大河、豊かな木々と水に恵まれている壮麗な自然が広がっていた。この世界にとって、僅か四日という時間の流れなど然したるものではないのだろう。何時も変わることのない、移ろわざる場所。
人間たちの文明も無ければ、賑やかな声もない。雨風をしのぎ心身ともに安心出来る家屋もない。けれど……懐かしいと思ったのは、この渓流での暮らしを受け入れてきたから、なのだろうか。それとも、感覚は人間を捨ててすっかりアイルーに染まってきたのか。どちらでも良いほど、満面の笑みで帰還した。渓流の入り口付近まで送迎屋に届けてもらい、手を振り見送った後に、ごつい手土産を持ちフラフラと早速向かった場所は、勿論……。


「――――― ただ今帰りました~」

高い岩窟の天井から漏れる、橙色の夕陽に染められた地下水脈。滝の裏側に存在するその洞窟内部からは、変わらず籠った湿気が鼻腔へとぬるりと届く。けれど足は慣れたように進み、折り重なった岩場を下っていく。水脈の縁を注意深く歩き、上からは決して見えない岩壁に窪んで出来上がった洞穴を覗き込んだ。その隣から、カルトもひょっこりと顔を出す。

グルル、と低い重厚な声が発せられ、丸めていた巨大な影がゆっくりと動く。碧色と黄土色の堅殻が光り、太い首がもたげての前に下がった。

「……何だ、もう帰って来たのか」

少し無愛想な、低い男性の声。それが聞こえるのは、この獰猛で、それでいて気高く美しい竜の横顔からだ。

「はい、帰って来ました。ジンオウガさん」

脚に傷を負い、この渓流へやって来たという、流れの王者のジンオウガ。
彼は、数日前と変わらず静かな声で、とカルトを出迎えた。

ユクモ村の思い出話を咲かす前に、貰ってきた手土産の数々を紙袋から取り出して、カルトと共に手分けして並べる。ジンオウガの太い前足の、先に。

「……おい、何でここで披露する」
「貰いすぎたから、ジンオウガさんにも少し渡そうかと……嫌でしたか、やっぱり」

ジンオウガが、困ったように首を下げる。それをカルトが見て、「嫌ならオレが全部食べるニャー」とか言っていたが、はペチリとその手を叩いて阻止する。

「そういうわけではないが……ハア、まあ良い。ところで、何か良い経験は出来たのか」

ジンオウガが、ふと尋ねる。もちろんそれはにしか届かぬ言葉だが、彼女は笑みを深めて語った。

「とても、素敵でした。人の村なんて、人の輪に入るのも久しぶりだったけど、とても……本当に」

いざ口にすると、楽しくて有意義で、貴重な体験もしてと、様々な出来事を全て言葉にすることは難しい。だが、の満面の笑みと、カルトの楽しそうな表情に、ジンオウガは「そうか」と喉を鳴らして頷く。
その横顔は、洞窟の陰りで見え辛かったけれど、寂しげな色が掛かったことを……は気付かなかった。

「このお土産の果物は、その誘ってくれたハンターの女の子のものなんです。こっちのお菓子は、ギルドカウンターの受付嬢や、温泉の番台さんとドリンク屋さんから」
「……そうか、それは良かったな」

は取り出した果物を一つ取り、ジンオウガへ差し出した。彼は、その青い目を少しだけ細めると、慎重に口先で挟み、クシャリと咀嚼する。それを見てから、土産を全て均等に分けた後にも一つ口に含んだ。

「でも、面白かったのはカルトですよ」
「ほう、そのアイルーがか」
「ね、カルト」

猛スピードで土産を平らげていく彼は、口の中に含んでいたものを飲み込み、得意げに話をした。

「オレはそのユクモ村ハンターの、レイリンって女のオトモアイルーと勝負したのニャ。でも最初は負けて……でも、その後ちゃんと勝ってやったのニャ。野生の意地を見せてやったのニャ!」

身振り手振りで熱く語る彼を、ジンオウガの目は何処か微笑ましそうに見つめている。「そうか、勝負したのか。良い経験ではないか」と言ったが、その言葉は恐らく喉を鳴らす声にカルトには聞こえていただろうが、不思議と伝わったのか彼はヒゲを撫でて胸を張る。

「オレのコーチをしてくれた、オトモアイルーが凄く強くて格好良かったのニャ。オレもいつか……ヒゲツの兄貴みたいになるのニャ!」

――――― ピタリ、とジンオウガの動きが、あからさまに止まった。
はそれを視界の片隅で見て、そっとジンオウガを見上げた。
彼は「……ヒゲツ?」と言葉を反芻しており、驚いたような、困惑したような複雑な声音で漏らす。

「……ジンオウガさん?」
「……ヒゲツ……そうか、アイツは……。オトモアイルーに、ヒゲツというのが居たのか」

まるで、懐かしむように。ジンオウガはそう呟いた。

「そうそう、ヒゲツの兄貴が旦那って呼んでるハンターも、結構悪くない感じがしたのニャ。さすがヒゲツの兄貴のハンターニャ、あれくらいじゃないといけないニャ。影丸って言う名前なのニャんだけど、アイツも強そうだったニャ」

カルトは気付かず、うんうんと頷いている。
けれどは、思い出話の楽しさが一瞬で凍り付いてしまうほどの、強張った空気を全身で感じていた。ジンオウガの横顔は、普段と同じように見えるのだが……その眼差しは此処ではなく、遙かな先を見ている。

「あ、あの……ジンオウガさん……?」

が声を掛けた時、ジンオウガの口からようやく声が落ちた。
「……そうか、ユクモ村のハンターとオトモアイルーに、良くして貰ったか」彼は咬みしめるようにゆっくりと呟いた。それは酷く掠れていて、は意味もなくドキリとした。

「……ニャ? 、どうしたのニャ」
「う、ううん、何でもないよ」

は慌てて、食べかけだった果物を全て口の中に放り込んで、一心不乱に咀嚼する。カルトはやはり不思議そうにして、ジンオウガの空気には気付かず、勝負のことやヒゲツへの憧れをしばらく語っていた。その間、ジンオウガはカルトの声に耳を傾け、そして時折溜め息を吐き出した。人が懐かしさに浸るのと、同じような横顔をして。
はそれがどうしても気になって、話そうと思っていた言葉を全て、胸の中にしまい込んでしまった。

それから、数十分とジンオウガの元で話し込んだとカルトは、それぞれの寝床へと戻ることにした。
「……旅で疲れただろう、今日はもう休め」そう小さく言ったジンオウガの言葉に従って。あれはたちを気遣ってのことだろうが、僅かな所で彼女たちを遠ざけたい感情も、あったのだと思う。普段から静かで獰猛な容姿に反し知性ある彼が、いつになく沈黙を保っていたこと。それは、の中の彼に対する違和感を、深めることとなる。
人里見学から帰還して、まさかこのような感情を抱くことになろうとは。
カルトと別れて寝床に戻る途中、それはに絡まっていた。
そのこともあって、はすぐには休まず、近辺を散策することにした。慣れ親しんだ野道を歩いていくと、豊かな森林が少しずつ開けていき、広大な大河のほとりへと到着した。ユクモ村からの移動と、ジンオウガの所で話し込んだこともあり、空は橙色にすっかり染まっている。今頃ユクモ村は、食事時で人々が賑わう頃だ。ポンッと浮かんだ面々に、笑みがこぼれる。
ふと、その広大な風景の中に、懐かしいものを見つけた。青い真ん丸なお尻と、太く短い足の、ずんぐりした身体つき。は、即座に駆け寄った。

「アシラくん!」

呼ぶと、小柄な青い熊――アオアシラが振り返る。赤い目がのそっと見たが、その視界にを映すや否や、踵を返してドスドスと向かってきた。
え、ちょ、とが急停止した時には、既にアオアシラに飛びかかられており。ゴロゴロ、と半ば土を被りながら地面を転がった。回転した衝撃で目を回したが、の身体はぐっと持ち上げられて。次の瞬間には、ギューギューと抱きしめられる。獣の匂いが、鼻腔の奥にまで届く。

さん、やっと戻ってきた! 大丈夫だった?」

凶暴そうな容姿に反して、無邪気な少年の声が聞こえる。グフグフ、と笑うような鳴き声も聞こえてきて、少しの苦しさは気にならなかった。
良かった。元気そうで。
を慕ってくれる小さなアオアシラ。しばしじゃれ合いながら、仰向けになった丸いお腹の上にちょこんと座り、は彼を見下ろしながら話しかける。

「ちょっと長く離れていたけど、アシラくんも何も無かった?」
「うん、ボクはいつも通り」
「そっかそっか、良かった」

モフモフ、と撫で回すと、彼はくすぐったそうに太い手足を揺らした。

「そうだ、アシラくんにね、お土産あるんだよ」
「おみやげ……?」
「出かけて、貰ってきたの。ほら」

は腰に巻いた竹筒から、レイリンが一緒に詰めてくれていた瓶を取り出す。濁りの一切ない、綺麗なハチミツ。はアオアシラのお腹から飛び降りて、地面に座り蓋を開ける。途端に香る甘い匂いに、アオアシラは身体を起こしての隣へとお尻をつける。

「ハチミツ!」
「そう、貰ったの。アシラくんに」

は差し出したが、彼はすぐに飛びつかず、フンフンと鼻を鳴らした。警戒の仕草に、は「あっ」と思い出す。そういえば彼は、レイリンとの初対面の際に強烈な攻撃を受けて、すっかり人間……特にハンターを警戒するようになったのだった。このハチミツも危険なものではないか否か、調べているのだろう。

「大丈夫だよ、このハチミツは」
「でも……」
「じゃあ、私が先に舐めてみるね」

瓶を傾けて、片方の手のひらに垂らす。とろり、と垂れた金色のハチミツをアオアシラはじっと見つめている。それをは、ぺろりと全て舐め取る。うん、美味しい。
しかし本当は欲しいのだろう、アオアシラの目はすっかりハチミツだけを食い入るように見つめている。口の端から、涎が垂れてきている。その様子がおかしくて、は笑みをこぼしたが、「ほら大丈夫」と手のひらを広げてみせた。

「ほら、あーん」

瓶を差し出すと、声に合わせてアオアシラが顔を下げ、「あーん」と口を広げる。ズラリ、と生えた歯の数々はジンオウガ顔負けの鋭さがあるなと思いながら、瓶を傾け長い舌の上に垂らす。ぺろんっと舌は引っ込んで、すぐにまた「あーん」と口を開ける。お気に召したようだ。

「美味しいね」
「うん、美味しいね」

お土産のハチミツは、結局その日の内に全てアオアシラのお腹の中へ収まることになった。相変わらずの、なかなかの食欲である。だがそのコロコロとした可愛らしさも変わらずで、は終始笑顔だった。
人間の村も良いけれど、こういったモンスターとの触れ合いも……良いものだ。それを再確認した後、は数日ぶりの寝床へ戻った。まあこのような大自然であるし、掃除も怠っていたから、案の定虫やら枯れ葉やらで片付けから始まった。

眠ったのは、それから数時間後のことだったのだが、は途中瞳を開けた。新しく新調したガーグァの羽布団から、もぞりと顔を出し、おもむろに外をうかがう。少しの肌寒さに腕を抱きながら、蔦の簾を押し上げると、外は煌々と月光が満ちていた。人の文明の明かりは一切無い、その自然の美しさをしばし眺めていたのだが……ふと、耳に届く掠れた何かの声。
の霞がかった思考が明瞭に晴れ、その声に意識を向けた。
少しの空白を空け、再び聞こえる声。狼、というにはもっと低く重厚で、けれどとても切ない鳴き声。
ああ、これは……。
はボロのワンピースの上に、それと同じボロ生地のカーディガンを羽織って飛び出した。月明かりの差す深い森林を走り抜け、渓流の高地を目指す。猫の目のおかげで転ぶことも迷うこともなく、辿り着いたそこでは、ふわりと蒼い雷光虫が舞っていた。光りの線を残して、幾重にも宙に連なる蒼い残光の中に、は思い描いていた姿を見つけてゆっくりと歩み寄る。

雲のない夜天に浮かぶ、満月。それに向かい吼える、碧色と黄土色の堅殻を纏う四本脚の牙竜に、月影が注いで照らし出す。屈強な身体、太い四肢と鋭利な尖爪、王者の風格を体現した恵まれた竜の横顔が。
とても、悲しそうに低く吼える様は、絵になりながらも胸を穿つ。

蒼い雷光虫をそっと払いながら、は数メートルのところで立ち止まった。

「ジンオウガさん」

ちっぽけなアイルーの身体では、見上げることだって精一杯だが、声だけはしっかりと響かせる。
低い遠吠えが、余韻をもって大気を震わせていく。
夜天に向かい逸らした太い首が、ゆっくりと戻り、へと顔を向ける。彼は驚いた様子などは見せず、ただ小さく「お前か」と呟いた後、再び顔を戻す。大きく、目映いばかりの満月へと。

「――――― お前たちが社会見学に行く前」

ジンオウガは、そう話を切りだした。

「俺が言った言葉を、覚えているか」

は、こくりと頷いた。彼が、行きたい場所があると告げた、あの時のことだ。「明日にでも、行きますか?」はごく自然に尋ねたはずだったが、返ってきたのはジンオウガの沈黙だった。ザア、と吹き上げた夜風が草を揺らし、木々を揺らし、とジンオウガを撫でていく。

「……人の村を見た時、人の輪に戻った時、お前はどう思った」

もともと物静かな声音のジンオウガだが、この時は失墜した口調だった。悲しげな遠吠えの余韻が、彼の声にも残っている。
は、しばし考えた後、素直に話す。

「こんな姿だから、もちろん人間ではなくてアイルーの扱いだったけど、とても暖かくて、何だか懐かしくもありました」

その場に座り込むと、の目の前をお腹の青いオルタロスが長閑に横切っていく。

「やっぱり、人間の姿じゃないんだなって、実感させられましたけど……でも、この姿だからこそ得たものもあるというか」

少し言葉がまとまっていないですね、とは笑ったが、ジンオウガはじっと耳を傾けている。

「……人間に戻りたいなって、改めて思いましたね」

は、ふと隣の彼を見上げる。大きな身体はピクリともせず、その横顔も全く動かずじっと上を見据えている。
彼が何を聞きたかったかは分からないが、はしばしその場に座り脚を抱えた。

「……得たいものほど、今の俺には最もほど遠い」

掠れた声で、彼は言った。

「どんなに願っても、絶対に手で掴むことも出来ないし、掴む手すら失った。無双の狩人だの、王者だの、俺には意味の無い……欲しいものは、名声でも強さでもない」

ジンオウガはその時、ようやくを見下ろした。表情の変化のない竜の顔に、こぼれそうな切なさが滲んでいるのを、は見つけて息を飲んだ。

「欲しいものは今になって理解する。お前……と同じだな」

は、言葉を探した。声が詰まって一瞬喉の奥で怯えて出てこなかったが、絞り出す。

「……ジンオウガさんの欲しいものって、何ですか?」

彼はそれには答えなかった。は別の疑問をそっと渡す。

「明日、連れて行ってくれる場所で、分かるものですか?」

それには答えてくれた。ジンオウガは「ああ」と短く言うと、しかし珍しく気弱な声音で言った。

「……笑ってくれて、構わない。俺は今、酷くそのことが怖くて仕方ないんだ」

は抱えた足に乗せた顔を、少し驚きで崩した。

「ずっと、遠ざかっていた場所だ。足を運ぶのも、見るのも、怖くて仕方ない。俺はずっとそれを求めては何度も諦めたのにな」

ジンオウガは早口で言うと、「モンスターのくせに、と言ってくれても良い」と自嘲的な声音で締めくくった。
は、笑いもしなければ、罵倒もしなかった。ジンオウガはその言葉を発した時、何故かの胸にも染みていった。とても切なく、ゆっくりと。彼とは、まるで違う存在なのに。

……いや、そもそも彼は。
博識なだけの、モンスターなのだろうか。

はそう思ったものの、すぐに振り払い、小さく囁いた。

「ジンオウガさんから、そんなことを言われたのは初めてです」
「……そう、だな」
「悪い意味じゃないですよ、むしろ、とても嬉しいんです」

顔を上げて、ふわりと笑いかける。

「私、自分を人間だなんていう酔狂なアイルーに見えてるでしょうが、ジンオウガさんの言葉を聞くことが許されたようで。嬉しいんです」

ジンオウガが少し、蒼い目を丸くしたが、次の瞬間にはふっと細めた。

「……お前も、変な奴だな」
「ふふ、色んな人に言われました」
「いや、お前が居て良かったと思う」

……あまりにも自然過ぎて、うっかりスルーしかけたが。
よくよく聞けば、まるで異性の告白のようではしばし固まった。
相手はそりゃあ格好良いけれど、何せ雷狼竜だ。何を思ってるんだ、思考を自己完結させる。

「……まあ、良い。これも、忘れてくれて良い」

……お、少し照れたのだろうか。珍しいものを見たとはニコニコ笑う。
すると、唐突に、ジンオウガの四肢が伏せていた身体を持ち上げ、くるりとに向き直った。その振動に、気付いたが反応した時には、ジンオウガの大きな身体が、をぐるりと囲むように横たわった。ちょうどジンオウガのお腹に寄りかかる形で、投げ出された後ろ脚や組んだ前脚、あとゆらゆらと横に振れる太い尻尾が見える。周囲を生きた城塞に囲まれた威圧感だったが、息苦しさはない。むしろ、通りの良かった夜風が遮られ、とても暖かい。
は、恐る恐るとお腹に背を預けてみる。呼吸に合わせて、後ろで上下する腹が不思議と心地よい。

「……少し、時間が掛かるかもしれない。明日は、今朝から此処を発つ」

は、「はい」と頷いて、少し目を閉じる。

「……覚悟は、決めてあるが」

グルル、と唸った低い声が、の耳元で響いた。うっすらと開けた視界には、首を丸めたジンオウガの横顔があった。こんなに近くで見たのは、初めてだったかもしれない。古傷のある顔の堅殻と、反り出た二本の角。勇猛で、王者の言葉が似つかわしいその顔立ちに、今はとても言い表せない陰を感じる。

「……いざ決めてみても、恐ろしいものだ」

彼の呟きの真意を、今はまだ理解出来ない。
ようやく来た、ジンオウガの話。
これを書くと、アイルー編の終演まで一気に駆け上がることが出来ます。

ジンオウガ、大体の予想はついている頃。
さあ、答え合わせを致しましょうか。

2012.01.11