生きた罪を許して欲しいと乞う日(3)

何故、彼は此処にやって来たのだ。
人の目を恐れ身を隠してきた彼が、何故、ユクモ村の近隣の渓流にやって来たのだ。

の困惑は、一向に拭えず、それどころか増す一方だった。ジンオウガの足は、確固たる目的を持って、この地へ赴いた。迷うことなく、真っ直ぐに。が口を閉ざしてしまっても、彼は黙々と山中を進み、ついに麓へと降りた。同じ渓流といえど、やはり空気の質や風景は異なり、見知らぬ土地へ赴いた時と同様の感覚が彼女を包んだ。後ろを着いてきたアオアシラとカルトも、ふんふんと匂いを嗅いで辺りを窺っている。けれどその中でも、やはりジンオウガだけは、空気が変わらず落ち着いている。ゆるりと歩き出した足は、渓流の地をしっかり踏み、進んでいく。あまりに静かすぎて、逆に不安すら抱くほどだ。

まるで。 まるで、この光景を、知っているような。そんな横顔でもあった。

まさか、そんなこと。そう思ったがそれを否定する要素もなければ、の過ぎる思考が意味のない考察でもあると、無理矢理胸の中にしまう他ない。
不意に、の視界が、陽射しで柔らかく染められる。ジンオウガの首の後ろにしがみついたまま空を仰ぐと、天を目指すように高く伸びた樹木の茂みから、その鮮やかな空色が見え、太陽が煌めいた。
不可思議にざわつく心を照らすには、それは眩しすぎた。この景色だけがとても優しくて、美しくて、何とも言い難い気分になる。

静寂に耐えかねたのか、口を開いたのはカルトであった。アオアシラの背中に座ったまま、彼はジンオウガへと言う。

「何で、この渓流ニャー? ここに、何があるのニャー?」

ジンオウガは、やはり口を閉ざしていた。カルトと視線が合い、は首を振った。彼は肩を竦めると、ころりと寝転がって、呟く。

「ユクモ村の近くかー……ヒゲツの兄貴に会いたいニャー」
「もう、カルト。いつでも会えるんだから、今は」

は言ったが、その時黙り通していたジンオウガから、自嘲するような鳴き声が漏れる。

「ふ……いつでも会える、か。羨ましいことだ」
「……ジンオウガさん……?」
「俺は、お前のようになれなかった。なることすら、許されなかった」

ジンオウガは、ふとへ振り返る。

「……いや、気にするな。それより、此処に来た理由だが……まずは、場所を移そう。此処では、目立ちかねない」

彼は言いながら、樹木立ち並ぶ豊かな緑が覆う林へと向かっていく。
一瞬、は息を飲み込んだ。とても冷たい、無感情な声音。普段静かな声が特徴的なジンオウガだが、この時は全く異なるもので、心臓が握り潰されるかと思った。すぐに声音を変えたとはいえ、の鼓膜にその冷たさがまだ残っている。ギュウッと肉球を握りしめると、下の方でカルトとアオアシラの不思議がる言葉が掛けられる。ジンオウガの言葉を説明していると、陽射しは木漏れ日に変わり、一層豊かな草木の自然な匂いが鼻の下を撫でる。穏やかな翳りが頭上へ広がり、獣道は開けた場所へと続いていく。草をくちばしで啄むガーグァの姿だけがあり、人間は居ないようだ。確認すると、ジンオウガはそこで立ち止まる。それに合わせ、アオアシラの足も止まった。

「ジンオウガさん?」が尋ねると、彼は静かに太い首を振り返らす。

「……此処からは、お前だけが来てくれ。アオアシラやカルトは、此処に残ってもらいたい」

え、とが声を漏らす。どうして、と視線で訴えるが、ジンオウガの青い竜の瞳にも、並々ならぬものが浮かんでおり、何も言えなかった。は困惑しながらも、カルトなどにもその旨を伝える。だがやはり、彼らから上がった言葉は「嫌だ」だった。

「嫌ニャ、オレはに着いていくニャ!」
「ボクも、一人はヤダ!」

うーん、これは説得に時間が掛かりそうだ。が唸っていると、ジンオウガから、恐らく初めてであると思うが、獰猛な一喝が放たれる。ガウッと吼えられ、カルトとアオアシラは萎縮する。もちろん、も。

「……ジンオウガさん……?」

はこの時、よくよく彼の様子を窺った。落ち着いていたと思われるその体躯は、微かに震え、横顔も酷く消沈している。落ち着いていたように見えただけで、実際は途方もなく怯えていた。これから彼が足を運ぶ場所は、この王者を怯ませるほどの場所なのだ。
はしばし考え、そっとカルトとアオアシラへ告げる。

「……残っててもらって、良いかな」
「ニャ?!」
「で、でも……」

二匹は戸惑い、声を彷徨わせる。

「……お願い。ね?」

キュウウ、とアオアシラが鳴く。落胆しながら、こくりと頭を揺らした。けれど、その背に乗ったカルトは、しばし唸った。そして、首を横に振る。

「……駄目ニャ、オレは絶対着いていくニャ」
「カルト」

カルトは、腕を組むと、ジンオウガの唸り声へ果敢に睨み返す。

「オレは、ヒゲツの兄貴にも、あのむかつくコウジンにも、ちゃんと守れるだけある力はあるって教わったのニャ。アンタのことを、別に信用してないとかそういう意味じゃないニャ、これはオレの意地ニャ。だから何を言われようと、着いていくニャー!」

ハンマーをぐっと構えたカルトの眼差しは、真っ直ぐとジンオウガへ向かう。彼は、ふいっと一瞥し顔を背ける。「勝手にしろ、お前にはきっと分からないことだろうがな」とも呟いた。
一触即発な空気に、内心ヒヤヒヤしていただが、ほっと安堵し胸を撫で下ろす。

「カルト、良いって」
「やったニャー!」

カルトは打って変わり、歓喜に飛び跳ねると、アオアシラの背を降りジンオウガの背へとよじ登る。
そうすると、ますますアオアシラがしょんぼりと背を丸めて座り込む。その空気に、申し訳なさを感じながら、は一度ジンオウガから降りる。そして、しょぼくれるアオアシラの前へ立ち、そっとその顔を撫でる。

「すぐに、戻ってくるからね」

クルル、とアオアシラは悲しそうに鳴いた。そして、小さな声で呟く。

「……さん、危なくないの?」
「どうして?」
「ハンターに、もしも会ったら、大変だよ」

スリスリと顔を寄せてきた彼から、を心底案じる気持ちが伝わってくる。彼の中で、ハンター……いや人間とは、恐ろしいものだとレイリンの件ですっかり刷り込まれている。は何度もアオアシラを撫でて、そして顔を抱きしめる。

「大丈夫、ちゃんと戻ってくる」
「……本当?」
「ええ、本当。だから、アシラくん、良い子で待っててね」

アオアシラは、やはり腑に落ちた様子は無かったが、先程より幾らか理解したようでコクリと強く頷く。

「あの時は、ボクはさん守れなかったけど、今度は、ちゃんと守るからね」

そう言った彼は、ちゃんとこの林で待っていると、言った。
はジンオウガの背へ再び登り、手を振って離れながら、その姿を見えなくなるまで見つめていた。
ジンオウガの足はその場から離れ、獣道を再び進む。風景も、穏やかな緑に囲まれていたのだが、次第に地面が隆起し険しさが増す。
一体、何処へ向かっているのだろうか。
の疑問を、カルトも抱いていたようで、明るい声で尋ねた。

「で、何処に行くつもりニャー? ユクモ村じゃあ、ニャいよな?」

ジンオウガは、少しの空白を挟んだ。「……行けるわけがない、俺に」そう言った彼の声は、先程よりも増して強張っている。彼の屈強な体躯に跨がっているためか、それがより伝わってきて、はそっと後ろ首を撫でた。

「大丈夫、ですか?」

すると、彼の足が不意に止まった。
変なことを、言ってしまったのかとは口を押さえたが、彼は不機嫌になった様子はなく。ただ、小さく呟いた。

「……来る事は、無いと思っていた。例え来ようが、何も変わらない事は当の昔に理解していた」

ジンオウガは、振り返らなかった。彼の目は、先をじっと見つめる。いや、睨んでいるのかもしれない。起伏した地面は道ならぬ道を作り出し、深く生い茂った樹木と背の高い草が阻む、それとも止めているのか。

「……お前に会わなければ、俺はずっと諦めがついていたのにな」

ぴくり、とは耳を揺らす。私に、会わなければ? 一体、彼は何を言っているのだろう。それを問おうとした時、ジンオウガの太い四肢は再び歩き始める。
流れていく樹木が、次第に少なくなっていく。そして視界は茂みの翳りから開かれ、急に隆起した地面と切り立った崖という壁が、その先で待ち構えていた。高さがどれほどかは、分からない。けれど、剥き出しになっている岩肌とその激しい傾斜は、一種の恐怖を抱かせた。

……あれ?

の胸に、ぞくりと奇妙な悪寒が走った。
崖……? 何故、この場所に?
急に、の胸が激しい鼓動を打ち始めた。

「ジンオウガ、さん……?」

彼は、何も言わなかった。そして、「この先だ」とでも言うように鼻をふっと鳴らし、歩き出す。幾つもの切り立った岩々をすり抜け、地面を軽く飛び越えていく。その足は、確実に、崖下を目指していた。


「……、大丈夫ニャ?」

カルトが、後ろから案じてくる。実際、の身体は何故か震えていた。大丈夫、と言ってみたものの、鼓動が一層速く波打つ。
そうしている内に、ついにジンオウガは天辺の見えぬ崖下へと辿り着き、歩みを止める。立ちはだかるようなその自然の威圧感より、今は言葉を発さぬジンオウガの方がとても、怖かった。どうすれば良いか分からず、ジンオウガの首にしがみついたままであったが。

「……少し、待ってくれ」

ジンオウガは、震えた声で、そう言った。何度も深い呼吸を繰り返すと、ようやく顔を振り向かせた。「降りてくれ」そう短く言った彼の瞳は、やはり強い何かを秘めていて、はすぐに飛び降りた。カルトも降り、その太い前脚の横へと佇む。

「高いニャー。それで、ここがどうしたのニャ?」

ジンオウガは、おもむろに地面を嗅ぐと、何かを探るようにゆるりと歩く。しばらくすると、ある一点で立ち止まり、そしてその前脚で引っかき始める。
ザクリ、ザクリ。
鋭利な爪が、静かに硬い土を掘り返す。その空気が、異様な緊張を増し、を取り囲んでいく。ごくり、と彼女は唾を飲み込む。震えそうになった手をギュッと握りしめると、彼の側へとゆっくり歩み寄り、その行動をじっと見つめる。

「……ずっと、長い間、俺は生きているのか死んでいるのか分からなかった」

ザクリ、ザクリ。
彼の前脚は、地面を掘り返す。

「……これも、因果だな。恐れて、逃げることばかり繰り返していたら、廻り巡って再びこの地に来る事になったのだから」

俺はよほど、過去も現在も未来も、全てから見張られているようだ。
そう吐き出した時、ゴリッと、彼の前脚が《何か》を引っかいた。それは土でも、岩でもない。覗き込んだカルトが、ジンオウガの掘った穴からグイッとそれを持ち上げれる。

「……? これは……?」

防具の一部分、のようだった。破片になって砕かれており、原型は残されていない。カルトがさらに中を引っ張り出していくと、不意に、ひらりと何かがその拍子に落ちた。土で汚れた、名刺のようなものだ。は長方形のそれをそっと取り、見下ろす。
頭上で、ジンオウガが息を飲む振動が、伝わった。
そしてそれは、連鎖的ににも起こる。それを掴んだ手が、カタカタと震え出す。

「……、どうしたニャ?」

カルトが不振がり、パッと取り上げる。
その名刺には、文字が書かれている。もちろんそれは、カルトが読めるものではない。だが、その隣の、人の顔写真を、食い入るように見つめた。

「……ニャー? あれ、これ何処かで……」

唸るカルトの隣で、はジンオウガに歩み寄り、そして前脚に触れて首が痛いほどに見上げた。ジンオウガを―――――いや、その名刺の、彼を。
だって、まさか。
困惑で、震えた声しか出ない。怯えたような面持ちのを、ジンオウガはただ静かに、見下ろす。その鋭い牙の覗く顎は固く閉ざし、感情を湛えた青い竜の目が、ひたすらに彼女を見つめる。
彼が言いたいことは、カルトが握っている《それ》が、全てを告げていた。けれどその事実は、ユイには途方も無い―――――。

「……ああー! 思い出したニャ、これ!」

カルトはバッと飛び跳ねる。

「――――― 影丸とヒゲツの兄貴が言ってた、ハンターの顔ニャ!」

握ったそれ――ハンターの身分を表すギルドカードは、土で汚れていたが、文字を消すことなく、その名をしっかりと刻みつけていた。

ドクリ、ドクリ

の心臓が、かつてないほど鼓動を打つ。

古ぼけて土で汚れたギルドカードには、名と顔写真が刻まれていた。
――――― ユクモ村専属ハンター、セルギス。
過去のジンオウガ討伐狩猟で、姿を消した影丸の友人であり、オトモアイルーのヒゲツのかつての主人の名。ユクモ村の社会見学の最後の夜、影丸とヒゲツが教えてくれた、名だ。

様々な困惑が、一斉にへ押し寄せる。それと同時に、今まで感じてきた違和感の由縁を知り、合点がつく。

彼が、他のモンスターと異なると思ったのは、当然なのだ。
彼が、博識で、人間の世界に精通しているのは、当然なのだ。
彼が、時折寂しそうにしたのも、ユクモ村の名を聞いた時態度を変えたのも、当然なのだ。

言葉を無くしたを、じっと見下ろしていたジンオウガが、ようやく重い口を開く。

「……お前は、信じるか」

怯えながら、けれど縋りながら、彼は言った。

何と言う事だろう。
人の姿を失ってしまったのは、自分だけだと。この気持ちを理解するものは何もいないと、恨んでいた。
だが、こんなにも近くに、同じ境遇の人が居たのだ。

「俺が、ユクモ村のハンターであったと言ったら、信じるか」


――――― この人は、人間だ。


人の姿を失ってしまったジンオウガ――セルギスを、は長いこと見つめていた。
はい、ということで流れのジンオウガは、ユクモ村のハンターでした。
いやまあ、あれらの流れからして気付いていた人は気付いていたでしょうが。
次回で、事の成り行きを明かしたいなあ。

2012.01.15