生きた罪を許して欲しいと乞う日(4)

――――― 人は、《死の》淵に立たされた時、みっともないまでに《生》へ縋りつく。
命を失うかもしれないという危険を、常に覚悟していた誰であっても、だ。

仰向けになって見上げた世界は、虚ろに揺れる視界で残酷なまでに美しかった。藍色の帳に浮かぶ、金色の月影と、星屑の灯りが、夜の翳りを照らし出す。夜風に揺れる木々の茂みも、その音色も、引き立てるようだ。血溜まりの中鍛えてきた身体を投げだしていた、自分を、残酷に取り囲む。
魂を、見送るつもりか。
それとも、鳥竜に喰われるか、あるいは腐り朽ちていくこの身を、見届けるつもりか。

ぼんやりと見た世界は、途方もなく静かで、そして何処までも変わらない。何ら変化のない、残酷な穏やかな風景が広がる。
例え今、崖の上から落ちて骨を砕かれ、内蔵が潰れ、四肢が捻れた人間が居ようと。この自然では、何の影響もないのだ。痛みが通り過ぎ、感覚が無くなってきた思考は、不明瞭な中であっても酷いほど働く。いっそ、意識は手放してしまいたいのに。
ゴフ、と咳込むと、肋骨が折れているのだろう、肺に突き刺さり引っかくのを内側で感じる。鉄の味が広がった喉が、焼け爛れるような全身の熱さに重なる。掠れた呼吸に、声などなく、呻き声も出なかった。

遙か彼方の空に届くような、この崖の上には、友人が居る。どうしているだろう。無事にユクモ村へ戻って行っただろうか。それとも、茫然としているだろうか。ああ、聞こえていたはずの音が、遠ざかる。 

……俺がもしも死んだら、アイツが村を何とかしてくれるだろう。アイツはまだ動きが荒削りだが、良いハンターになる。俺を直ぐに超えて、古龍にも一人で挑めるようになる。

そう思った。けれど同時に、別の言葉が呪いのように思考へ落ちた。

……俺は? 俺はどうなるのだ。

ユクモ村へ近づいたジンオウガと、崖から共に落ちてしまった。華々しくも御伽噺のような物語だが、そうして迎えたのはこの絶望的な痛みだけだ。そう思った途端に、虚無感が襲ってくる。
死ぬつもりはない、けれど、その覚悟は常に抱いて来た。
けれど実際には、何の変化もない世界で、こうして一人だけだ。賛美も無ければ、慟哭も無い。ただ緩やかな死に、近付くだけ。

ふと、赤く塗れた視界の隅で、雷狼竜が横たわっていた。渾身の力で、脳天へ双剣を突き立てた王者の、深紅に染まって黒へと近付く様は、今まで何度も見てきたが、今ほど哀れなものはない。俺は、こうして、アイツらを狩っていたのか。すでに息の途絶えた王者の瞳と、虚ろな視線が交わる。今ああやって横たわるように、俺も、酷い姿で居るのだろう。

( ……死にたくない )

もう、まともに動かすことも出来ないはずの指先が、震えた。

( 俺は、このような事でまだ、死にたくはない )

血溜まりの中に、ポーチの中身が散乱している。押し寄せる激痛を、さらに血反吐を吐きながら堪え、触れたものをたぐり寄せる。赤く濡れてしまった、紫色のキノコ。まだ動く首を横に向け、それへ口を近づけ、鉄の味ごと無理矢理飲み込んだ。
偶然にも、しまい忘れたままポーチへ入れていた、ドキドキノコ。何が起きるか分からない、未だ解明されていない動植物の一つであり、それを食べるという人間はまず極少数だろう。だが、もしも、未だ見放さないというのなら。

……何でも良い、俺にもう一度、立ち上がる力を。

その直後に、意識はついに漆黒に染まる。雷狼竜の亡骸の側で、静かに死んだ。



――――― 場所を移動した、静かな平地。打ち捨てられた古い家屋の点在するその場所で見上げた空は、雲が多く流れ、覆われていた。
セルギス――ジンオウガが、かつて自らが身に纏っていた鎧の残骸と、ギルドカードは、掘り起こしたあの場所から共に運んできて、今はカルトが洗っている。岩の間から何処からか流れている清水を、ボロの布きれにつけギュッギュッと強く擦るが、変色し黒ずんだ錆びになった血は頑固で、容易くは落ちない。けれど、それでも黙々とし、とジンオウガへ背中を向けているのは、彼なりに気を遣っているのかもしれない。

少し離れた場所にいるカルトを見やり、はジンオウガを見上げた。砕けた防具を見つめるその瞳は、虚ろとも取れるほど、気弱であった。
それを慰めるべきか、は考え迷う。
人の姿を失い、ジンオウガとなったその理由。それは未だ聞かされてはいないが、死ぬことを恐れたその心……彼は、間違ってはいない。だが、望んだ形であったのかどうかは……。
アイルーの姿でさえ、私は泣いたのだ。彼の心中は、計り切れない。
彼の職業は、ハンター。モンスターを討つ者。討つ立場から、討ち取られる立場への変化は……。

――――― すると、押し黙っていたジンオウガが、ぽつりと言った。

「……ユクモ村で、聞いたのだろう。俺の話を」
「……」
「そうだろうなとは、思った」

彼は、怒りを見せるわけではない。けれど、「どういう話を聞いた」と尋ねた声は、怯えていて興味もあってと、複雑なものであったのは、間違いがない。
はしばし考え、そしてあるがままを言った。ジンオウガ討伐の時、彼が崖からモンスターと共に落ちたこと。そして英雄と呼ばれるようになったこと。そして……。

「……ユクモ村に居るハンターから、聞きました。その人は、ジンオウガとの戦いで一人で挑んだことで、助けに来てくれた貴方を失ったと。でも今も何処かに居ることを信じて、ハンターを続けていて……今は、女の子のお弟子さんを取ってます」
「……」
「貴方のことを、忘れていませんよ。今もずっと、覚えてます。貴方のオトモアイルーだった、ヒゲツも……そのハンターのオトモになって頑張ってます」

影丸のことも。ヒゲツのことも。
は静かに付け加えて答えた。彼の目が、ギュッと堪えるように細められ、そして静かに立ち上がると、歩き出した。はその後ろを慌てて追いかけ、懸命に隣へ並ぶ。
ジンオウガは、朽ちた家屋の側を横切り、遠くで地面を嗅ぐブルファンゴを見つめる。

「……英雄、か」

この姿の俺では、ないのだろうな。彼は言うと、を見下ろす。

「影丸に、会ったのだろう」
「……はい」
「……そうか」

彼は、多くを言わなかった。言わないように、しているのかもしれない。その静けさが、あらゆる感情を必死に抑えつけているように、には見えてならなかった。
戸惑う彼女を余所に、ジンオウガの言葉は続く。

「……ドキドキノコは、人を毒で犯すこともあれば、肉体を強化することもある。何が起きるか、分からないキノコ。あの時、確かに奇跡は起きた」

……崖から落ち、ドキドキノコを口にした時。
セルギスは、意識を手放した。けれどその意識は、漆黒の中から再び浮上する。ずいぶんと、長い時間を彷徨っていたが、感覚が戻り、無理矢理引き戻されるように現実が彼の前に現れた。彼の前に飛び込んだのは、仄蒼い空だった。夜が明けようとしていたのだ。セルギスは、しばし何が起きていたのか分からず、ぼんやりとしていた。けれど唐突に訪れた記憶が全てを再び理解させ、彼は起き上がった。
身体が、動く。
痛みが、ない。
世界が、赤く染まってはいない。
喜びに打ち震えた。嗚呼、自分はあの死に見事打ち勝ったのだと。奇跡が起きたのだと。歓喜の朝を迎えることに、彼は人生でかつてない喜びを覚えた。
けれど、すぐにその感情も、無くなる。
……どういうことだ、身体が上手く動かない。それに世界が高く、地面が遠い。
その時、再び映るジンオウガの亡骸。流れきった赤い生命を踏みつけた手を見て……言葉を、失う。脚は碧色で、太く獣のそれであった。胸も、腰も、脚も、存在するはずのない尻尾も。全て、人間のものでは無かった。
その時、セルギスは悟った。ドキドキノコは確かに、死を免れる術を与えてくれた。だがそれは、セルギスの望んだ形とは程遠く、奇跡とは言えない最も過酷な呪いであった。

そこに訪れる、朝日。それは、絶望からの夜明けではなく。
――――― 新たな絶望の、訪れであった。


「……俺が望んだ形は、これでは無かった」

ジンオウガは、吐き捨てるように告げた。

彼は直ぐに理解してしまった。口にしたドキドキノコが、何故ジンオウガの姿を選んで新たな肉体と命を与えたのかは定かでない、だがこの姿のために、二度と人の世界へ帰ることは出来ないのだ、と。
なまじハンターをやっていたから、分かっていた。モンスターがどれほど人間から恐れられてきたか。そしてどれだけ、人間と争ってきたか。このような姿になって、人の姿どころか言葉も失った自分に、伝える手立てはないのだ。

一瞬で、逆転した彼の世界。
それを語るジンオウガから、憎しみも、悲しみも、全て感じ取った。

そこからの生活は、まさに地獄であった。四つ足での歩行がどれほど困難であったか思い知り、半ば這い蹲るように、この渓流を遠ざかった。そしてこの自然が如何に厳しいものだったのか、改めて身を持って知った。
生きていく上で必要不可欠な、《食事》。食べるという行為。
今まで調理や煮炊きなどを行う人間の生活とは、程遠いものだった。この大きな身体と手足で、当然高度なことは出来ない。ならばどうするか、この顎で直接、血肉を啜るしかなかった。だが、それは到底出来ることでなかった。あれだけ刃物を振り回していたのに、この牙で噛みつくことを恐れたのだ。それは、彼の心に宿る、人間の理性が主張したためだ。餓えを凌ぐため、木の実などで食い繋いだが、それもこの食欲を抑えるものにはならなかった。
いよいよ、餓えが極限まで到達した時。ジンオウガの姿に恐れジャギィなどは近寄って来なかったが、彼らが捕まえ仕留めたガーグァを食べる光景を見て。
急に、喉が渇いて。狂うような渇望が、奥底から這い上がってきて。
意志に反し肉体が先に、動いた。
気付いた時には、彼は丸々と太ったガーグァに飛びかかり、その羽ごと肉を食いちぎり、狂ったように貪っていた。
彼が理性を取り戻したのは、ガーグァの姿が羽毛と骨を残しやせ細った哀れな姿へ変わっていた時だった。口の中に広がる、生々しい血の味と強烈な臭い。
彼は、また一つ悟った。この世界であらゆる感情は、取るに足らないものなのだと。生きるか死ぬかだけの、本能に従わなければ即座に潰されるこの場所で、セルギスの過去も心も、誰かが聞き届けてくれることはない。

本当の意味でも、俺は人間で無くなった。

彼の目から、涙が溢れる。ハンターとなって数年、流して来なかった涙だった。
押し寄せる孤独と絶望に、叫んだ声は、獣の鳴き声だった。
怯えて逃げ去る、ブルファンゴやジャギィ。応えたのは、セルギスの慟哭などに興味のない、無音の静寂であった。


それからずっと、影丸らの言うセルギスの存在しないおよそ七年間。
彼は、ジンオウガとなり、生活していた。

は、身体を震わせた。彼の抱いてきた感情が、にも伝わり、胸を穿つようだった。そして途端に、悔恨の念が押し寄せる。
私など、ずっと、ずっと、恵まれた立場だった。
不便のないアイルーの身体で、生き物を手で引きちぎることもなければ、人の世界に入れないわけでもない。
彼を思えば、なんて裕福な立場だったのだろう。

「……ご、めんなさい」

の喉の奥から、吐息混じりの声が漏れる。

「ごめんなさい、ごめんなさい、私……。私、貴方に何て事を」

今までの行いが、鮮明に蘇る。
彼とて何度願ったかしれないことを、泣いてひとしきり甘えた事。
彼が焦がれても決して向かう事の出来なかった、人の世界へ悠々と行った挙げ句、楽しかったなどと能弁を垂れた事。
そして、人でありながら、《ジンオウガさん》などと呼んだ事。
彼から幾ら聞かされて居なかったとはいえ、それは、大罪のようにへとのし掛かった。

けれど、彼は。

「……お前が謝る必要はない」

そう言って、項垂れた。
怒りなどは、ない。だがその言葉に含まれた感情は、諦めに近い。
土に埋めた現実を掘り返し、改めて過去と現在を目の当たりにするれば、力を無くそう。けれどその様子は、普段見ていたジンオウガの、静かでありながら堂々としていた風格とはかけ離れ、は一層困惑する。

「俺はもう、人で無くなったのだ。そういった気遣いも、無用だ」

そう言った彼は、との間に徐々に一線を深める。
それは、彼との間に今まで感じていたもの。それを超えることを許されたと、思っていた。だが違う、これは線引いたものを明確にすることで踏み込ませないための牽制だ。
彼は最初から、へ理解を求めてはいないのだ。
突き放されたようにも思え、は縋るように声を絞り出す。

「でも、貴方は、人間で……」


――――― その瞬間、ジンオウガの様子が変わった。
静まり返っていた彼の纏う空気が歪み、嘲るような鳴き声が漏れた。くつくつと揺れる身体は強張っていき、まるで攻撃態勢のように力が巡られていく。

「人間、か。この姿で」
「セルギスさん」

は思わず、短い手を伸ばす。けれど、それを振り払うように、ジンオウガは身体を飛び退かせると、首を下げ獰猛に吼えた。
明らかに敵意を含んだ、静寂を引き裂く、凶暴な竜の鳴き声。ビリリッと、全身が戦慄いた。
今まで聞いたことのない、声だ。怒っているのだろうか、それとも悲しんでいるのだろうか、それすら分からない。

「――――― 人間かそうでないかなど、俺が一番よく知っている!」

見開かれた青い目に、焦炎が宿っている。凶暴な咆哮に当てられたこともあって、は呆然と口を閉ざして彼を見上げた。

「恐れられ、攻撃され、様々な地を巡ってもその扱いは変わらなかった。この姿であるがゆえに、同じ人間からだ。
生きたいと願った、その結果を嘆いたことは多いが、今度死ぬ時は事故でなく人の手にかかることを恨んだ方が圧倒的に多い!」

ジンオウガの叫びは、激しく大気を揺らした。それを聞きつけたようで、カルトが駆け寄ってくる。言葉は分からずとも、その只ならぬ気迫に彼はの腕を掴み引っ張る。

「人に戻りたいと言ったな、。もし戻れるのであれば、当の昔に俺は叶えていただろう。
ドキドキノコを何度食べても、あの呪いは起きなかった、あの変化は二度と起きるものではなかった!」

牙を剥き出し激しく唸る姿に、カルトは怯んだ。びくり、と震えた振動が、の肩にも伝わって来る。
けれど、不思議なことに、彼が激しく叫ぶだけ、の頭はとても冷静になっていった。もちろん心臓はドクドクと飛び跳ねて緊張し、声も出てこない。なのに、頭の芯は、彼を理解していた。

「……それでもお前は、俺が人間であると信じるのか!」

巨大な碧色の身体が、バチリッと電気を爆ぜる。彼の感情の高ぶりに比例し、それは大きくなった。
射殺すように、睨みつける青い竜の目。それは、を真っ直ぐに見据える。まるで、否定しろと、言っているようだ。

( ……いいえ、きっと、違うわね )

彼が唸るたび、凶暴に歪むたび、彼の心が一層浮き彫りになる。
これは、彼の毒だ。明かすことが出来ず、伝えることが出来ず、誰にも理解されず、そうして長い年月溜めこんできた、心を病ませる猛毒。孤高の仮面を張り付け、それをひた隠していたのだろう。けれど、この瞬間に、偽物が崩れ落ちて剥き出しになり、抑え付けていた分だけ、感情は激情になり爆発した。

とても生々しく、それでいて感情的な叫び。
それを見て、何故、モンスターであると言わなければならないのか。
彼は間違いなく、人間だ。

彼は、きっと、今も……―――――。


「……じゃあ、」

の声は、ぽつりと小さく、まるで空気を凪ぐように響いた。

「じゃあ何故、防具とギルドカードを捨てなかったの」

激しく呼吸するジンオウガが、ハッと、息を飲んだ。
手を握りしめる、カルトの小さな手をそっと離し、ジンオウガに少し歩み寄る。

「何故、この場所に来たいと思ったの。貴方にとって、苦痛な場所なんでしょう。諦めた場所なんでしょう。私に、人間に戻ることを諦めさせるためだった、というの?」

ゆっくりと、静かに問う。彼は答えなかった。

「……違いますよね、あの時の貴方は、覚悟を決めたと言った。そして、怖いとも言いました。貴方は、向き合いたいと思ったんでしょ、人の姿を失った事や、ユクモ村のハンターであった事と。……私に、それを伝えるために」

でなければ、私をこの場所へ連れて来る訳がない。
そうが言うと、ジンオウガの目が一層強くぎらついて、「違う」と否定した。はそれを、包むように静かな声で言った。「違う、事はない」ジンオウガが、グウッときつく顎を閉ざす。

「……だって、貴方は人間だもの」

がそう言えば。
途端に、彼は再び感情的に叫んだ。

「――――― なら、これを見ても、お前は俺を人間だと言えるか!」

ジンオウガは、付近に居たブルファンゴへ振り向くと、地を蹴り跳躍する。狙い澄ました前脚の爪が、逃げる暇さえ与えられなかったブルファンゴへ突き立てられ、甲高い切り裂くような悲鳴がブルファンゴより上がる。仰向けに押さえ付けられ、無防備な腹がジンオウガに向けられる。
の小さな身体が、再び震える。彼が何をしようとしているのか、理解した。
ジンオウガは、カルトとを一度眼差しだけ寄越すと、短い手足をばたつかせるブルファンゴを見下ろし、そして。
彼は、鋭い牙を光らせ、獰猛に顎を開いた。
とカルトの前で、彼は躊躇い無く、その腹へ食らいついた。

――――― それからの光景は、目を覆ってしまいたくなるほど、残忍であった。胃の中の物が全てひっくり返って出ても、収まりそうにない。鼓膜に、絶命する獣の鳴き声が、まだこびり付いて脳内で響いている。
いつの間にか、曇天に変わった渓流が、赤く染められたようだった。
すでに事切れた、かつてはブルファンゴであった肉塊から、夥しい血が流れ出て、言い様の無い生臭い死臭が蔓延する。の足下にまで、その血が広がってきて、足先に触れた。まだ、温かいように思える。

バシャリ、バシャリ、と血溜まりを踏みつけて、ジンオウガが歩み寄ってくる。鮮血を纏った体躯は、残忍な赤が飛び散り、力任せにブルファンゴを裂いた顎は生々しく濡れている。
彼の目を見上げると、さあ言ってみろ、人間でないと言ってみろ、と責めて来ている。
の目に映ったものも、カルトの目に映ったものも、命を無碍にした蛮行だろう。残忍以外の、何者でもない。

……けれど。

「……そうやって、諦めてきたの?」

青い目が、見開いたように見える。
の声は細く、目の前で演じられた捕喰の光景に茫然としているのは隠せない。だが、その目は自らを懸命に奮い立たせ、ジンオウガを見つめている。

……何だか、分かってしまったような気がする。
彼が、人の姿を失った後、どうやって自然の中を生きてきたのか。

は、脚を浸す赤い泥濘を、ぐっと堪えて踏み出す。だがその感触は想像以上におぞましく、泣きそうになる程の悪寒が走った。止めるように伸ばされたカルトの手に、すぐにでも縋りたくなったが、それもそっと押さえて、ゆっくりと歩み寄る。
グルル、と頭上で聞こえる唸り声は、まだ凶暴さを滲ませている。それ以上近付くと、今度はお前の腹を引き裂くと、言っているようだった。

「……私だって、アイルーの姿になって、恨んだ。それと同じで、貴方がその姿を恨んだことは、悪い事ではない。そうしなければ、生きられないんだから」

彼が否定して欲しいのは、人間を捨てたことではない。
人間であった時のように、何もかもを上手く出来なくなってしまって、こうやって振る舞うしか許されない事だ。

「……貴方が纏っていた防具と、ギルドカード。捨てなかったのは、忘れたくなかったからでしょう?」

……ジンオウガの唸り声が、不意に止まった。

「自分は人間だったと、モンスターではなく人間だったと、その証拠を残しておきたかった。そうよね、普通。いきなり姿が変わったら、肯定して貰えるものが欲しくなる」

最初私が、そうであったように。
戻れない、覚悟を決めても追い縋り、諦められる事は無い。だからこの人は、怯えながら戻ってきた。捨て去るしか心を保てなくなる、忌まわしい始まりの場所に。その想いは、今も昔も変わらず彼を絡め取っている。言葉で否定すれば、するほど。

だから、は代わりに受け止めて、語りかける。

「……貴方の事、忘れた人はいませんでしたよ。あの村に」

――――― 貴方は人間であるのだ、と。

夥しい赤の世界には、似つかわしくないであろう微笑みを、懸命に浮かべて見せる。ジンオウガは青い目を見開いて、動けないでいた。長い事見つめ合った後、ジンオウガは王者の体躯を静かに、屈めた。近付いた赤く染まった顔は、普段に増し迫力が感じられたが、それを拭ってやりながら、は言った。

「ちゃんと皆、覚えていましたよ。影丸も、ヒゲツも、貴方をちゃんと覚えて、今もずっと探してる」

ギュ、と拭っている内に、ジンオウガの顔が小刻みに微かな震えを起こした。はそれに気付かないフリをし、コツリと額を鼻先に押し当てた。

「……少なくとも私は、貴方と同じこんな姿になった人間ですよ」

足下は真っ赤に染まり、不気味な光景であることは間違いがないが。
初めて触れたかもしれないジンオウガの顔は、冷たくもなく、温かくもなく、ただひたすらに堅い感触がしたのにとても穏やかになった。

呻き声一つ上げなかったジンオウガが、長いこと沈黙した後、その顎を開いて声を漏らす。気勢を削がれたような、小さな低い声だった。

「お前に会うまでは、確かに諦めていたんだ」

だが怪我を負い、やって来た穏やかな渓流で。
今まで、誰も理解しなかった言葉を理解するアイルーが現れた。
それは、本能のまま生きるモンスターとは違い、知性もあり賢く、ジンオウガの言葉と意図を読みとった。

……あの時、もしも出会っていたのが言葉を理解する《普通》のものであったならば。
此処まで、みっともなくなる事も無かった。

彼は大きく息を吐き出すと、怯えながらも、再度確かめるようにへと尋ねる。「お前は俺が、人であると信じるのか」と。それに返すの言葉は、とても明瞭で、そして短かった。

「信じますよ、セルギスさん」

それを肯定する事は、自身を肯定する事にも繋がった。
ジンオウガは、ギュウッと固く目を閉じると、唐突に下げていた首を上げた。わ、とはバランスを崩しかけたが横転だけは免れ、彼を見上げる。ジンオウガは顔を背けて、ゆるりと背を向ける。

「……頭を冷やしてくる、みっともないものを見せてしまったな」

すまない、と小さく呟いた後、彼は振り返らずに掠れた声で言う。

「……感謝する」

が驚いて、目を真ん丸にすると。
ジンオウガは走り去って行った。恐らく、水辺に向かったのだろう。
しかし、追いかける事はない。というか、反応すら出来なかった。の身体が、急に張りつめていた緊張を解いたため、目眩で力が抜けていく。

「……!」

カルトが、慌てて後ろから支えて、フラフラと足下も覚束無いを引っ張り綺麗な水溜まりの側まで連れて行く。

「……酷い格好ニャ。全く。血生臭くて、鼻が曲がりそうニャ」

言いながら、彼はをボロ布で拭く。ゴシゴシと力が込められて痛かったが、その文句は出てこなかった。

「……ごめんね、カルト全然分からなかったでしょ」
「仕方ないニャ。オレはジンオウガの言葉なんて分からないから」

カルトは、バッチャバッチャと布を洗って、絞り、そしてまたをゴシゴシ拭く。

「でも……何となく分かったニャ。ジンオウガの事。あと……アンタが、本当に人間っぽいっていうのは」

彼はじっとを見るも、多く言わなかった。
後で、ちゃんと説明するね。そう告げると彼は小さく笑い、渓流に戻ったらで良いニャ、と言った。

「……だから、泣くなってば、

そう言われて、は自身の顔をぺたりと触れる。微かに伝った、一筋の滴の痕跡が、指先に感じた。はそれを手の甲で拭き取り、笑って見せた。カルトの方がずっと年下なのに、何だかユクモ村見学の後からずいぶん大人になったように思う。

それから、一旦アオアシラの元へ戻ろうかと、とカルトは歩き出したのだが。
横切ったあの血溜まりの中に、キラリと光ったものを見つけ、足を止める。

「……これ、は……?」

気が狂う赤の中で、白い輝きを放つ、何か。爪を出して、引っかきながら手繰り寄せ、ボロ布で汚れを拭い取る。肉球の上にコロリと転がったのは、水晶に似た透明で大粒な欠片。石がかけたような不規則な形をしていて、丸くはないが、とても綺麗で……そして、何だか切なくなる欠片だった。

「……? 何ニャ、それ」
「分からない」

とカルトは見た事が無かったため、知らないのだが。
それはハンターの間では高い金銭に交換出来る、《竜の大粒ナミダ》と呼ばれるもの。竜の流した涙が、美しく結晶化したもので、とても貴重なものだった。
そうとは知らない彼女たちは、ただしげしげと見下ろすだけだった。



――――― さて、そろそろアオアシラの所へ向かおう。そう歩き出した、その時。
曇天に響き渡った、獣の咆哮。次いでやって来る、誰かの叫び声。
ようやく落ち着きを取り戻したとカルトは、突如として聞こえたものに身構えた。
ジンオウガのものではない、彼の声はもっと低く獰猛だ。
では、これは……。

そう考えた瞬間、はカルトの手を振り払って駆け出した。背中にカルトの声が掛けられたが、脚は止まらない。

脳裏に過ぎる、小さな青毛の熊。
その姿が、冷たく、一種の恐れになって浮かぶ。この不穏な予想が杞憂であって欲しいとは強く願い、獣道をひた走った。
願った結果が、必ずしも望む形で成されるとは限らない。

ドキドキノコネタは、先人の知恵を拝借しております。ドキドキノコ!
そして乱立するフラグは、一気に片づける寸法です。

2012.01.22