僕に触れてくれる、貴方が好きでした(1)

ゴトゴト、と揺れるネコタクは、通い慣れた山道を向かう。ユクモ村を包むように広がっている渓流を眺めながら、まだまだ遠い目的の場所をレイリンは思う。手土産に、出来るだけゴミにならない包みは外したユクモ村名物の温泉まんじゅうを敷き詰めた紙袋が、カサカサと音を立てる。

さんやカルトさん、元気にしてるかなー」
「……こないだ帰ったばっかりニャのに。旦那様はマメだニャ」

なんて、隣でムスッとしているオトモアイルーのコウジンが直ぐに水を差してくるけれど。
彼が毎回不機嫌になる事は馴れたが、恐らく今回のこの顔の理由は、此処に来るまで散々ヒゲツに扱かれきた事なのだろう。レイリンは苦く笑った。

「コウジンってば、まだそんな顔して」
「アイツは手加減が無いのニャ。本当に、嫌なヤツニャ!」

途端にコウジンの口からは、ヒゲツへの文句が留まることなく飛び出していく。けれど、レリインは小さく笑っていた。彼はヒゲツを苦手としている節があるものの、カルトに負けた事はレイリンが思っていた以上にショックを受けていたようで、あれから普段にも増してヒゲツへ挑んでいる。彼も大概、負けず嫌いな性格だ。主人として微笑ましいが、そう言うと彼は一層ヒートアップして否定するため、レイリンは胸に押し留める。

さん、喜んでくれると良いな」

ふふ、と一人微笑んだレイリンであったが。
ネコタクの操舵手であるアイルーが、ふと引っ張る足を止めた。揺れていた振動が止まったことで、レイリンとコウジンも顔を覗かせて「どうしたの」と声を掛ける。彼らは忙しなく周囲を伺うと、「近くでハンターがモンスターと戦っている」と言った。

「……え? でも、この辺りには今、大きなモンスターは居ないって」

今朝、受付嬢も言っていた事では、と思ったが、不意に過ぎったあの若い二人の青年ハンター。そう言えば、彼らはこの渓流で採取ツアーを申し込んでいたような気がする。

「ネコタクをやらせて貰って、長年培ってきた勘が訴えているニャ。これは確かニャ、旦那様」
「旦那様、どうするニャ。一気に突っ切るかニャ?」

ネコタクのアイルーに言われ、レイリンはしばし考える。だが、今度はコウジンまでも表情を変えた。

「……酷い、血の匂いがするニャ」
「血の、匂い?」
「遠くからだけど、此処まで匂ってくるなんて、中々ただ事じゃないニャ」

穏便でない言葉に、レイリンは肩を揺らす。もしかして、確認されていなかっただけで、新たに大型モンスターが現れたのかもしれない。この近辺は、比較的穏やかな狩場に属されるものの、一抹の不安を感じ、レイリンは一度この渓流に降りることにした。たちへの手土産をネコタクに預け、彼らも入り口へ戻っているとのことだ。
静けさは普段と同じであるけれど……何故かとてもレイリンをざわつかせ、進む足を急かしてくる。


レイリンが渓流へ踏み入れた時、彼女の予想の通りに今朝顔を見かけた若い青年のハンターが既に其処を訪れていた。
それは、とカルト、ジンオウガが離れ、アオアシラが一人言付けを守って待っている時の事である。

の言葉を理解しているが、アオアシラは元々賢い、というわけではないモンスターだ。この場所に来た理由も彼らが離れた理由も分からないし、その事を知るつもりはない。ただ、が出かけるというから着いて来ただけで、が待てと言うから待っている、ただそれだけなのだ。
小さい成りをしても凶暴な獣、そんな彼が大人しくしているのは、ひとえにの存在があった。
知らぬ場所、知らぬ匂いに落ち着きなくソワソワと林の中をうろついていた彼だが、豊かな恵みに富む渓流なので木の実を食べてみたり小さなせせらぎで小魚を獲ってみたりと時間を潰し。そして、木の上に高々とぶら下がっている蜂の巣をもぎ取って、夢中になって舐め回していた。
が早く戻ってきてくれないかと、のんびりと待っていた彼であったのだが。
この渓流に訪れるのが、此処を住処としていないジンオウガやアオアシラ、アイルーであるように。
人間も、やって来るのである。

「オイ、ミロヨ。スゲエチイサイ、アオアシラダ」
「アレー? オオガタモンスターナンテ、イナインジャナカッタッケ?」

耳に届いた、不愉快な音。アオアシラは舌を引っ込めると、首をもたげるように振り返った。
そこには、二本足で立つ細く小さな生き物が居た。けれどその身体に纏ったのは、獣や、鳥の、不可解な匂い。幼いながらに、アオアシラは察した。
こいつらは人間で、そして《ハンター》と呼ばれる危険な生き物だと。
アオアシラは蜂の巣を放り投げると、丸い身体を向き直して立ち上がった。

「ウッワ、チイサイナコイツ!」
「コレ、サイショウキンカンッテヤツジャナイカ? ラッキー!」

視線が交わり、ハンターという人間は背中から見たことのない爪を持つと、アオアシラを見た。彼には分からないが、それぞれ片手剣と双剣と呼ばれる武器で、どちらも鋭利な輝きを持ちアオアシラの爪にも負けぬほどである。
向こうにも敵意があると判断した彼は、即座にその身体に力を巡らせ、立ち向かう意思を見せる。それは生き物の持つ闘争本能でもあるが、それだけが彼の普段の臆病な性格を凌駕してしまったのではない。彼にとって、ハンターというその存在は、憎むべき対象でもあったのだ。
以前彼は、この二人のハンターよりも小さい雌のハンターと出会っている。そのハンターは、こちらに敵意が無くとも鋭い爪を振りかざして攻撃してきた。その記憶の中の、斬り付けられた痛みは未だアオアシに生々しく残っている。
けれど、それだけではなく。
賢くはないアオアシラが、唯一懐いたアイルー。彼女が攻撃され、吹き飛ばされてしまった光景が焼き付いている。自らが攻撃された事よりも、あれが何よりもアオアシラに恐怖を植え付け、また十分過ぎる敵意を抱かせたのだ。
あれから彼は、人間というものを恐れている。彼女がいつ、また攻撃されるのか。
そしてそれは、場所が変わっても、同様に押し寄せる。

こいつらはまた、あのアイルーを傷つける気だ。
今度こそ、あのような事は絶対に起こさない。

幼いアオアシラは、獣の思考でそう思い至ると。
十分に、成体のアオアシラにも引けをとらない鋭い爪と牙を向け、かつてない咆哮を腹の底から響かせた。

それを攻撃の合図とした若いハンターたちは、小さなアオアシラへ向け剣を振りかざした。



不穏な予想が的中しているのだと、が悟ったのはアオアシラに待つように告げたあの森林へ近づいた時であった。
沈黙したように黙り込んだ空気が、激しい怒号と幾度も鳴る剣撃の音で揺らされる。その険悪な振動は、の小さなアイルーの身体にも伝わってくる。
ああ、アシラくん。まさか。
が踏み込んだ時、直ぐに追いついたカルトが、グッとの手を掴んだ。

「ちょっとは落ち着くニャ!」
「カルト、でも」

これで落ち着いていられる程、人の感覚は失っていないつもりだ。非難めいた眼差しを思わずカルトへ向けてしまったが、彼は逆に強い瞳でそれを押しのける。

「一人で行くなってことニャ!」
「!」
「オレも着いてくから、少しは落ち着くニャ」

な? と念を押したカルトを、はじっと見て、深く息を吐き出した。ちょっと足を止めたら、冷静になったような気がする。は小さく笑い、頷いた。彼はふふんと得意げに鼻を鳴らすと、の手を引っ張って走り出した。
傾斜の険しい野道を登っていくたびに、空気が一層強くざわつき、耳に届く怒号が大きくなる。そしての不安も募っていく。
それを全て登り終えた頃には、視界は樹木の茂みの影で薄っすらと暗く落ちていた。けれど、目の前の光景は、はっきりと鮮明に映し出されていた。

落ちた葉や地面の土を蹴りつけて、人とモンスターの織り成す激しい攻防。剣が弾かれる度に、火花が散って、暗がりに光る。緑の豊かな風景は、今やまるで戦場だ。
真っ先に目についたのは、いつもの後ろを着いてくる、少し臆病で小さな身体のアオアシラだった。けれど今は、の前では少なくとも見せずにいた、獣の性が鋭い爪と共に振り回されている。小さな身体を立ち上がらせ、獰猛に吼えて木を薙ぎ倒す様は、敵意に満ちてまさに獣だ。ハチミツを舐める愛らしさは、僅かも無い。
そのアオアシラの周りには、二人の若い青年がいた。片方は盾と片手で持てる剣を装備し、もう片方は双剣を握り、アオアシラの攻撃をかわしながらその刃を振りかざす。
考えずとも、一目見て分かった。彼らは、ハンターだ。モンスターを狩るために、武装した者。レイリンと同年齢ほどの若さが見て取れるが、それでも果敢なまでに攻撃を繰り出す様は勇ましい。だが今のにとっては……とてつもなく、恐ろしい光景だった。

「っくそ、こいつ、さっきから移動しねえな……!」
「ち、小さいくせに、なんつー動き方すんだ……!」

そう悪態をついてはいるが、彼らは攻撃の手を緩めない。紙一重のところでアオアシラの攻撃を避け、脇腹や後ろ足を何度も切りつけていく。痛々しい音が聞こえ、アオアシラの口からは何度も悲鳴に似た鳴き声が漏れている。それでも彼は、退こうとはせず、一層向かっていく。
それほど、何か気に障る事があったのか。レイリンの件で彼はすっかりハンターを嫌うようになったのだから、このような事態も納得はいくが。
分かっていながら、一人にしてしまった自分の愚かさ……は、ギュッと手のひらを握り締める。
アイルーの姿で何が出来るかなど、高が知れている事はも理解していたが、身体は既に動いていた。カルトの手を払うと、争いを止めて欲しさにハンターへと向かった。
片方のハンターが駆け寄ってくるに気付き、横目で見た。しかし苛立ったように舌打ちすると、追い払うようにその剣を横へ振った。寸前のところで腹部からスライスされる事は防いだが、ハンターらの怒りは買ってしまったらしい。

「あーもー! こんな時にアイルーの相手なんかしてられっか!」
「……あれ、何かそのアイルー、服着てねえか。もしかして、誰かのオトモ?」
「知るか、そんなもん!」

あっちに行け、とばかりに蹴られ、の小さな身体は地面を転がって後退する。レイリンから誤って受けた攻撃よりも強烈ではないが、痛いことには変わらない。
!」と声を荒げたカルトが駆け寄ってきて、を庇うように前へ立つとどんぐりハンマーを構えた。今が至極容易に転ばされたように、カルトも同じようにされてしまうだろう。だから、は必死にカルトを押し留める。
視界で、再びハンターが剣を振りかざす光景が、映る。だが、それを弾いたのは、カルトのハンマーでは無かった。間に割って入った、小さなアオアシラが、甲殻で覆われた太い前足で薙いだのだ。

「アシラく、」

名を呼んでも、アオアシラの赤い目とは視線がぶつからなかった。けれど、とカルトの前へ立ち、二人のハンターへ吼える様子から、たちを守るようにしているのは分かった。
二人のハンターは、アオアシラのその行動を不思議がって見た後、まるで珍しいものを見たように笑った。

「アオアシラが、アイルーを守るなんて初めて見たな」
「面白いな……最小サイズもゲット出来るし、変わったアイルーも居るし。まとめて捕まえてギルドに自慢してやろうぜ!」

の背中が、ぞくりとした。もちろん、刃を向けられる恐怖もある。だがそれだけでない、アオアシラだけでなくアイルーである自分も、こうやって狩られる対象であるという現実を生々しく感じたからだ。
言葉は聞こえても聞き届けて貰えず、それだけでなく同じ人から攻撃される。ジンオウガ……セルギスが長い間感じていた絶望を、も今しがた身をもって理解した。


「コウジン、こっち!」

不穏を感じてネコタクを途中で降りたレイリンとコウジンは、迷う事無く森林部に辿り着いた。レイリンの纏う防具《ハンター》装備の備わったスキルの一つである、探知。研ぎ澄まされた感覚が、渓流に現れている大型モンスターの位置、動き、その輪郭さえも教える。ただ森林部に一つ、遠くの大河にもう一つあるのが気になったが、ひとまずは距離的に近いこの森林へ向かって来た。
だが曖昧な不穏も、踏み込んだ時に形となる。レイリンとコウジンの前に飛び込んだのは、集会浴場で擦れ違った失礼な青年のハンター二人と。
それと対峙する小さなアオアシラと、見覚えのあるアイルー二匹だった。

「あれー? あのアイルーたちが居るニャー」

コウジンも気付き、ユクモSネコヘルムの笠を押し上げる。
何故、彼らがこの渓流に? 疑問も過ぎったが、今はそれを問う訳にもいかない。二人のハンターは、明らかに敵意を持って彼らを見ている。まさに、戦いの只中へ飛び込んだようだ。レイリンは足をもつれさせながら、コウジンと共に駆け寄った。


声を上げ駆け寄ってくる彼女たちに、たちも直ぐ様気付いた。
剣を振りかぶった二人のハンターも、レイリンの声と狩場にそぐわない長靴の音に、動きを一度止める。しかし、アオアシラの獰猛な鳴き声で空気は張り詰めているので、隙を見せる事無く視線だけでレイリンを見ている。

「レイリンちゃん、どうして此処に」
「それは、こっちもですよさん! そ、それよりも一体、」

どうしてこんな事に、と繋がる途中で、アオアシラが一層吼え、二人のハンターとレイリン目掛けてへ飛びかかる。小さいとは言え十分な殺傷能力を秘めた爪は、咄嗟にその場を飛び退いた彼らの足元の地面を抉った。
片手剣のハンターは、体勢を整えながら、レイリンを睨むように見た。

「アンタのアイルーか、あのボロ服ともう一匹のハンマー持った奴は!」
「え、いや、違いますけどッ」
「あーもー! 何でも良いから、とにかくアンタ!」

片手剣を持った青年が、レイリンをビシリッと指差す。

「アンタ、確かユクモ村のハンターだよな。これは俺らの獲物だ、絶対に手を出すな!」
「――――― ま、待って下さい!」

は慌てて、声を張り上げた。

「この子は、何もしないです。何処かに行けというなら直ぐに居なくなります。だから―――」
「俺たちは、ハンターだ」

の言葉を、両断するように。双剣を構えた青年が言った。
それは、より年下であるけれど眼光鋭く、そして覚悟も秘めていた。

「強い奴に挑んみたい、戦いたい、より大きな奴に会いたい。ハンターは当然そういう欲求を持ってる。
大体、そのアオアシラは既に俺たちを敵と見てる。なら、戦っても悪いことじゃないだろ」
「そんな……」

狩人の志か。気高い事は立派だが、こんなに小さな子どもを狩るまでしても、得たいものなのだろうか。彼らの理念は。
が戸惑う傍らで、カルトも複雑な表情をしている。

「――――― まあ、面倒な事は置いといて」

片手剣を持つ青年が、不敵に笑う。

「邪魔すんなよ、アイルー。このアオアシラは、俺らが仕留める!」

再び、に狙いを定めたその剣が、頭上へ振りかぶられる。
それをかわす事は、が容易に出来る事ではない。咄嗟に腕が動いてカルトを突き飛ばしていたが、その瞬間には無防備な眼前に鋭利な光が近付いていた。
視界の隅で、レイリンやカルトの崩れた表情が薄っすらと見える。
そして次の瞬間には、の身体に重い衝撃が打ち付けられた。それに加え、真上から押さえつけられ、身動きが全く取れない。息苦しさに吸い込んだ空気は、獣の匂いが満ちていて……。

( あれ……? )

違和感に、直ぐに気付く。
引き裂かれる痛みが、全く無い。それどころか、そういった感覚が何も襲って来ない。
硬く閉ざした瞼を押し上げると、の視界は暗く陰っており、何かが覆いかぶさっていた。
包むように交差された太い手が、影を作る身体が、周囲をに見せる事はしないが。今の陰った視界に映る手は、甲殻に覆われており、そして硬い毛質は触れ慣れて覚えのあるもので。
理解したが、同時に酷い悪寒が走った。
絶えず届く、ザシュザシュと肉を貫くような、裂くような、鼓膜から怯えさせる音が聞こえてくる。

「アシラ、く」

ようやく絞り出した声は、震えて、周囲にすら届いたかどうか分からない程だった。
ガン、ガン、ザシュ、ザシュ。
不規則な音に合わせ、揺れる身体の振動が、にも伝わる。脳裏で直接鳴り響いている中に混ざり、獣の悲しい悲鳴も聞こえ、早く逃げ出したくなった。

「アシラくん、もう、いいから」

覆いかぶさった獣――アオアシラから、返事は返って来ない。

「もう、しなくていいよ。もう、いいから」

何をされているかなんて、容易に想像出来た。は声音を強めたが、やはえいアオアシラからは返って来ない。
苛立ちも含み、息を吸い込むと、ぬるりとの手に温かいものが伝い落ちる。陰りの中でも鮮明に浮かぶ、真紅の色。ぞわり、と背が戦慄き、喉の奥が張り付く。

「……止めて、退いて! もういい、もうしなくていいから!」

語尾は荒げ、声音は強さを増した。
アオアシラからようやく返って来た反応は、身体を丸め、ギュウッと強く抱き込んだ温もりだった。
怯え震えているのに、絶対に離れようとしない。
何故。その相反する行動の理由だけは、混乱するは分からなかった。


弾かれて転がったカルトの前を、アオアシラが突進するように横切った。飛び掛かるように桜色のアイルーへ覆いかぶさると、身体を丸めて蹲る。へ直撃するはずだった剣はアオアシラの肩を切り付けたが、それを好機とばかりに二人のハンターが畳み掛ける。カルトは慌てて飛び起き、の元へと向かおうとしたが、コウジンとレイリンが彼の手を掴んだ。

「は・な・す・ニャァァァァ……ッ!!」
「落ち着けニャ! 今行ったらアンタも怪我するニャ!」

キィィィ、と暴れるカルトを、コウジンが珍しく抑える。だが、それも直ぐに振り解くと、バッとレイリンを見上げた。

「アンタなら、止められるニャ?! あれを!」
「えっ……そ、それは……」
「早く止めてニャ、が危ないニャ!」

レイリンは、躊躇った。それは決して、やアオアシラを見殺しにするつもりであってのものではない。出来るものなら直ぐにでも向かいたかった、だがあの二人のハンターは時折横目で見る視線で言っている。邪魔をするな、と。彼らハンターの言い分を分からないでもない、レイリン自身もハンターであるのだから。
けれど、親しくなったを見捨てることも、出来ない。レイリンは、剣を握りしめた。


――――― 良いか、レイリン。狩場では絶対に気を抜くな。


ハッと、レイリンはその手を硬直させる。
この時になって、師である影丸の声が、脳裏で響いた。


――――― 狩場では、人間以外に気を許すな。向かってくるもの、もしくは危険因子が居たのであれば、即刻剣を持て。

――――― ハンターは、モンスターと戦う者。それを絶対に忘れるな。例え、攻撃をして来ないものであっても。


幾度となく、言い聞かせられてきた影丸の言葉。こんな時に思い出すなんて。
レイリンの足を、それが鎖のように巻きついて身動きを取らせない。それは、迷いでもあった。
答えられないレイリンの隣で、コウジンが必死にカルトを押さえようとする。

「止めろニャ、いい加減!」
「ッアンタこそ、止めろニャ!」

ドン、とカルトはコウジンを突き飛ばした。肩で大きく呼吸を繰り返すと、カルトは瞳を怒らしめ、吐き出すように言った。

「もう良い、アンタたちになんか頼まないニャ!」

カルトは果敢にハンターへ向かったが、即座にドンッと身体で押されて吹き飛ばされる。野生のアイルーの力など、高が知れている。それは現実であるが、カルトには残酷な不条理に思えた。


――――― 実力を身につけてから、その言葉を口にしろ。


カルトの憧れる、年上のオトモアイルー……ヒゲツの言葉が過ぎる。
何度転ばされても、カルトは立ち上がってハンターに向かったが、結果は同じで。
ガツン、ガツン、と何度も地面に頬を打ち付ける。


――――― それは勇気ではなく、ただの無謀だ。


ぐ、と腕を突っ張り上体を起こす。
分かっている。自分は結局野生の生まれで、あの時はコウジンにも勝てたけどハンターにはまだまだ勝てないという事は。
渓流に突然現れた、桜色のアイルー。他の雌と違って、楽しかった。毎日が色鮮やかで、詰まらない日は無かった。最初は嫌いだったアオアシラも、ジンオウガも、過ごしていく日々はとても楽しかった。

守りたいと強く願うのは、今この瞬間であるのに。それへ立ち向かう力を、持っていない。
それも、分かっている事だった。けれど……。

ボロボロになった身体を起こすと、その身を赤く染めながらも未だ攻撃に耐えているアオアシラが映る。その腕の隙間で、桜色の小さな腕がもがいているのが見える。


――――― 強くなりたいか、カルト。


カルトは、ギュウッと奥歯を噛みしめると、ハンマーを背に戻して走り出す。アオアシラとハンターに向かってではなく、それを横切り、別の場所を目指して。

「あ、カルトさん?!」
「何処に行くつもりニャー!」

背後で、レイリンとコウジンを聞きながら。カルトは、その場を走り去った。すぐに戻ってくるからと心の中で、とアオアシラへ叫びながら。ボロボロになった身体は痛みを訴えたけれど、足を止める事は無かった。



灰色の空を映した大河へ飛び込み、全身に纏った鮮血はすっかり流れ落ちた。だが、まだ臭いが、感触が、残っている。この姿になってから慣れ親しんだものが、今は酷く鬱陶しかった。
鈍い灰色の水中から顔を出し、岸へとゆっくり向かう。その波打つ水面に、ふと映る自分の姿は……やはり、ジンオウガのもので。

諦めたが、やはり何度見ても辛いものがある。

ジンオウガは、静かにじっと水面の自身と見つめ合う。
お前は、今は生きているのか、死んでいるのか。それともモンスターであるのか、人間であるのか。意味のない問いかけを繰り返しても、結局返ってくるのは冷たい沈黙だけで、前足で引っかき水面を乱すと顔を背ける。

――――― 信じますよ、セルギスさん


不意に、の言葉が聞こえる。
苛立ちが再び込み上げそうになった心が、凪いでいく。それと共に、水面も静かに戻って、水鏡となってジンオウガを再び映す。

……このような姿になるなど、世界は残酷だ。
願いというものは、ろくな形で成されない。

そう恨んでいた事は間違いがないが、それでも、この不可思議な縁をもたらした事だけは感謝する。
同じ境遇の者に巡り会えた、喜び。
言葉を交わし心情を理解してくれる、嬉しさ。
それ以外のものも感じさせられたが、あの桜色のアイルーだけが、この姿の己をを察してくれた。今思えば、それだけでも十分だ。

……正直、彼女が本当に人間であるかどうかは、分からない。
それを証明するものは何も無いし、彼女が言っているだけで人間になりきったつもりで居るアイルーかもしれない。けれど、それはもうどちらでも良い。

「……みっともないところを見せたな」

この姿になってから、どれほど時間が経過しているか定かでないが、もう随分な年齢である事は確かだ。僅かばかり、彼は羞恥に俯いたが、彼女の言葉が脳裏を巡る。

村長や、モミジイ、番台やドリンク屋、皆元気にしているだろうか。
影丸は、本当に覚えていてくれるのだろうか。

もう叶わない願い、一層欲望が声を上げたが、それでも。
自分が人間であったということは、セルギスという一人のハンターであったという証は、あの村にまだ残っているのなら。
それでもう、十分なのかもしれない。
願ってはならないのだ、このような姿で。あのアイルーだけであっても、この名を呼んでくれるのならば、それだけで……。

「影丸……ヒゲツ……」

出来るものなら、遠目でも良いから一度見ておきたかったが、無用な混乱を生み出すのが関の山だ。
ジンオウガが、そう小さく息を吐き出した。

けれど、その時。

カサ、カサ、と力なく落ち葉を踏みしめ近付いてくる音が、ジンオウガの背後で聞こえた。ジャギィか、あるいはブルファンゴだろうか、そう思ってゆるりと振り返った彼だったが、その瞬間青い目を見開いた。

息を上げながら、フラフラと駆け寄ってくる、カルトだった。
その背に担いだどんぐりハンマーと匂いは、間違いがない。だが、あの姿は何だ。土で汚れ、あちこちに擦り傷やうっすらと殴打した痕が刻まれた、ボロボロの身体をしている。ジンオウガが驚いて見下ろしていると、カルトは呼吸を整える事無く、口を開いた。

「た……ッた、助けてニャ」

じわ、とカルトの大きな目が歪んだ。

「ハ、ハンターが……アオアシラと、が……!」

纏まらない断片的な言葉が、ジンオウガに届く。けれどその時、ジンオウガは全てを察した。
耳をそばだてると、微かに聞こえる空気の振動……それは自然のものではない、人と戦ってきた彼の本能が、その振動の正体を気付かせる。

嗚呼、何という事だ。此処まで自分は気を抜いてしまっていたのか。

ジンオウガの全身に、緊張が駆けめぐった。ハンターと対峙した時のものでも、別のモンスターと戦った時のものでもない。むしろそれは、死の淵に立たされたジンオウガの亡骸を見たあの時に、酷似している。

……違う、緊張などではない。
これは、恐怖だ。

「……

ジンオウガは、その巨体を立ち上がらせる。

願うものはもう無いと、思ったのに。
身を蝕む願いは捨て、ささやかな幸福だけを掴んでいればそれで良いと、思っていたのに。
過ぎった桜色のアイルーが、浮かんで、消える。
途端に、ジンオウガの身体に力が駆け巡る。彼は水際の飛沫を弾きながら、微かな音を辿り走った。

人間で居たいとはもう望まないと、言っただろう。
それでもまだ世界は、奪い足りないか。

ジンオウガの表情に、憤りが混ざった。彼の走る軌跡を追う雷光虫が、仄かに蒼みを帯びていった。



自分は、まだまだ弱い。だから、彼に頼るほかない。
も言っていた、ジンオウガの事は口にしないようにしようと。それを破る事になったのは承知の上だが、今はこの状況を救ってくれるのはジンオウガ、いやセルギスしか居ない。
カルトは、ギュウッと手を握りしめる。滲んだ瞳から、堪えていた大粒の涙が溢れ、地面に落ちた。


――――― 強くなりたいか、カルト。


なりたい、もっと強く。
何処かできこえてくる問いかけに、ぐすりと鼻を鳴らしたカルトは、涙を強く擦って拭う。ジンオウガは傾斜になった野道の手前で立ち止まり、カルトを呼ぶように吼えた。それを聞き駆け寄ると、下げられたジンオウガの太い首によじ登り、しがみつく。ジンオウガは一度唸ると、その太い四肢で曇天に陰る渓流を、猛然と走った。
この若いハンター二人は、エキストラ参戦ですが。イメージとしては、現実のプレイヤー……このゲームをプレイする人を頭の中に入れておきました。
最少金冠出たら、誰だって嬉しいよね、っていう。私も嬉しい。

フラグを回収して発生させたり。
ジンオウガ、遂に自ら動き出す。

2012.01.22