僕に触れてくれる、貴方が好きでした(2)

楽しかったよ。
さんや、皆と、いつも遊んで過ごした事。

後悔は、してないんだよ。




――――― 打って変わって、抵抗の意志を失ったアオアシラは、地面にうずくまって動かない。
青い毛にじわりと滲んだ朱は、今や全身に伝って染め上げられていた。微かに響く呼吸音が辛うじて命を繋いでいるが、今にも途切れてしまいそうであったのは誰が見ても明らかである。それでも尚、アイルーを抱き込んでいる光景は、ハンターからは酷く奇妙な光景であった。
この若いハンターは、見た通りに狩猟者となって日も浅く、モンスターとの戦いに対し青く危機感も薄い。と同時に、腕を磨く事にとりわけ躍起になっている。アオアシラの行動を不思議がっても、握りしめた剣を下げるという事は、決してしなかった。

「……おかしいな、こんなに無抵抗なモンスターは居ないと思っていたんだが」

双剣を構えた青年が呟くと、好戦的な性格らしい片手剣を持つ青年は、「どっちだって良い」と鼻で笑った。

「最小金冠サイズのアオアシラだ、逃がすなんて勿体ないだろ」
「まあ、そうだけど」
「ほら、さっさと止め刺して、採取に戻ろうぜ」

スラリ、と構えられた刃が、アオアシラを見下ろし冷たく輝く。
それを虚ろな眼差しで捉えながらも、アオアシラは動かず掠れた呼吸を繰り返すだけだった。
ぐ、と剣が狙いを研ぎ澄ませ、振りかぶられる。その切っ先は、アオアシラの弱った身体に突き立てられる―――――

「や、止めて下さい!」

はずだったが、二人のハンターの前に、レイリンが転がりながら飛び込み、腕を広げ遮った。
片手剣使いの青年が、苛立ちに眉を上げ、あからさまな舌打ちをした。

「邪魔すんなって言っただろ。退けよ」
「お、お願いします。剣を仕舞って下さい!」

片手剣の青年は、「はあ?」と声を漏らす。
その傍らで、コウジンが身体を飛び跳ねさせ、「旦那様がそうしろって言ってるニャ、止めるニャ!」と怒っているが、何の効果も得られそうにない。双剣の青年は、しばし口を閉ざした後、レイリンへ言った。

「……アンタ、ユクモ村のハンターだよな」
「……!」
「で、装備も見る限り、結構上等な物だ。アンタ、上位ハンターだろ。そのアンタが、何で庇い立てる」

二人の青年の目が、鋭く瞬く。

「モンスターを討つのが、俺たちの仕事じゃないのか」
「そ、それは、そう、ですけど……」

正しく、正論。何ら可笑しくなく、訂正のしようのない言葉。
けれど、背後で聞こえる弱々しい息遣いが、この場を退いてはならないとレイリンを奮い立たせた。

「お、お願いします、剣を納めて下さい」
「だから、何で」
「お願いします、もう、これ以上は止めて下さい……!」

レイリンは、平に懇願した。
これが、ハンターの理念に反している事くらい、承知だ。だが、このアオアシラと、彼が庇っているアイルーを見放してまで、ハンターの模範生でありたいとは思わない。例えこれが、師である影丸の教えにも、背いている事になっても。
けれど、青年たちを留める言葉としてはあまりに不十分で、彼らの眼差しが苛立ちと呆れを深めてぶつけられる。

「……これが、上位ハンターかよ。ユクモ村の英雄も見てそうだったけど、何か拍子抜けだな」

片手剣の青年が、レイリンの肩を掴む。その力は、男性らしい強さがあり、レイリンに抗う事は出来ない。真横へ押し退けられ、ドサリッと容易く地面に倒れ込んだ。コウジンも木刀を掲げたが、片足で払い退けられてしまい、仰向けに転んだ。
レイリンは直ぐ様に身体を起こして、振り返る。再び掲げられた二人の剣 に、彼女は駆け寄ろうとした。

――――― ゾクリ

不意に、レイリンの背が戦慄いた。表情が一転した彼女を、コウジンは見上げて訝しみ、「旦那様?」と小さく声を掛ける。

「ど、どうしたのニャ……」

けれどレイリンは、コウジンのその言葉に反応せず、二人のハンターの腕を掴んで止めた。

「ッだから、アンタな……!」
「――――― 違う、待って」

先ほどの気弱な声音とは、また異なる小さなそれに、二人はふと彼女を見つめる。青ざめ、その瞳は何かの思案に暮れているようにも見える。

「何だよ」
「……さっきと、場所が違う」
「はあ?」

青年たちの眼差しを受けながら、レリインは意識を集中させる。ハンター装備のもたらすスキル《探知》が、彼女に警鐘を鳴らす。
この渓流にやって来た時、既に二つの大型モンスターの気配があった。それは、レイリンも気付いていた。一つはこの森林、もう一つは大河のほとり。レイリンは、ひとまず近い距離ということでこの場所に足を運び、そしてアオアシラを見つけた。


――――― ……では、あれは、何?


緩やかな大河の浅瀬で止まっていた《何か》は、急に身体の向きを変えて、移動をしていた。広大な水辺を猛然と進むそれは、まるで目的を持っているように迷わず駆けている。

「……おい、何だよ、さっきから!」

苛立った声が聞こえるが、レイリンの意識は《何か》を見つめる。
スキルのせいなのだろうか、酷く胸騒ぎがし、心臓の鼓動が速まる。
空気が、張りつめていくのが分かる。物言わぬ自然が沈黙し、あらゆる音が怯えて消えていくのが分かる。彼女も上位ハンターという狩猟者で、この青年たちに比べれば随分な数のモンスターと戦ってきた。だがこの時は、酷い恐怖が押し寄せてきて、息苦しさすら覚えた。
一体、あれは、何だ。
猛然と突き進んだ《それ》は、その速度を落とさぬまま急カーブを切るように曲がる。その時、レイリンはハッとなって気付いた。


――――― 《あれ》は、此処を目指して、向かってきている。


どっと溢れた汗に、レイリンは顔を青ざめさせたまま、片手剣を鞘から引き抜いてバックラーと共に構えた。

「おいさっきから何だよ、急に構えて」
「……何か来る。早く、構えて下さい」
「はあ? お前さあ、さっきから言ってる事が分からないんだけど」

嘲るように肩を竦めた彼らに、レイリンは「早く!」と一喝した。

「この渓流には、最初から二つ気配があったんです。一つはこのアオアシラですが……もう一つは、分かりません」
「……何だと?」

青年らの空気が変わり、それぞれ武器を握りしめる。

「どうせ、ドスジャギィとかドスファンゴじゃねえのか? ラッキー、ついでに素材が集まるぜ」

レイリンは、片手剣使いの青年を小さく睨んだ。
この気配は、そんな優しいものではない。もっと強くて、もっと圧倒的な何かだ。

彼女たちが、近付いてくる気配に身構えた時。
掠れた息遣いのアオアシラは、スンスンと鼻を鳴らすと、小さく笑うように呻いた。

「……さん、もう、大丈夫だからね……」

震えた前足に、ギュッと最後の力を込め、お腹の下に庇ったアイルーを抱きしめた。


不意に訪れる、無音の沈黙。その只ならぬ気配を、青年たちも感じ取り、緊張の面持ちを浮かべる。普段も確かに静まり返っているが、ここまで張りつめている事は無い。この渓流はそもそも、比較的穏やかで滅多に乱入するモンスターも居なければ、何頭も現れる事は無い。
そう思考を巡らせたが、次の瞬間には、突如として沈黙が切り裂かれた。



――――― グルゥゥォォオオオオオオ!!



重い地響きと共に、放たれる重厚で獰猛な咆哮。
生い茂る樹木のせいで姿は見えないのに、その咆哮はレイリンだけでなくその場に居た全員の身体を圧倒した。
ビリビリ、と芯が揺らされるよう。
緊張で、一層心臓が波打った。大型モンスターと戦うのは、慣れている。慣れているのだ。レイリンはそう、無意味に言い聞かせてみた。だが、それが何の役にも立ちそうに無い事だと知ったのは、直後だった。

草木の陰に潜んでいた雷光虫が、ふわりと舞い上がる。それも、一匹や二匹の可愛い数ではない。数十、数百とあちこちから現れ、灰色に陰る光景を塗り潰す。

「な、んだコレ……」

誰のものとも分からぬ呟きを笑うように、優雅にたなびく雷光虫は、咆哮の先へと向かっていく。一見すれば幻想的だが、この光景は、ハンターにとって最悪の事態を象徴しているのだ。

「まさか、これ……旦那様」

ギュ、とコウジンの手がレイリンの腰装備の端を掴んだ。その小さな手は怯え、微かに震えている。
彼方で感じていた気配が、形になる。戦慄いた背中が、冷たく、重くなり、レイリンの身動きを奪う。

淡い光が何重にも折り重なって、陽射しのように陰を吹き飛ばす。けれど、その中から現れたのは、到底太陽のように暖かいものではない。
雷光虫を纏う、碧色の堅殻と、黄土色の高電殻に覆われた巨大な輪郭。それは一見、四つ足の獣のようだったが、太く発達した四肢と特徴的な爪、そして長く伸びた尻尾が険悪に揺れる様。そして、その飛竜の類にも通じる獰猛な輪郭から、獣の範疇に収まるもので無い事は明確だ。いや、突き出た二本の尖角と、強靱な顎と牙が、竜である事を物語った。

淡い光の向こうで見える青い目が、眼光を放つ。
途方もない圧力の含む視線とぶつかったが、誰も動けなかった。

雷撃の王者。

無双の狩人。

突如として現れた雷狼竜《ジンオウガ》の姿に、思考が一瞬働かなかったのだ。

その場にいる者たちを、ジンオウガの目が確認していく。そして、その向こうに横たわる、小さなアオアシラを映した時、王者の纏う空気が弾け飛んだ。ジンオウガの太い四肢が地面を蹴りつけ、猛然と突進を繰り出す。進路上にあった立派な樹木を容易く薙ぎ倒すと、真っ直ぐとレイリンたちへと向かった。

「旦那様!」

コウジンの声に、レリインはハッと感覚を取り戻し、飛び退いた。
かろうじて二人のハンターも反応し、身を投げ出すようにかわした。

その瞬間、ジンオウガは重量のある体躯を感じさせない跳躍を見せると、ハンターたちの居た場所を踏みつける。
ドゴ、と酷く鈍い音がしレイリンが横目で見れば、地面があろう事か抉れるようにへこんでおり、土埃が舞っていた。
ぞく、とレイリンは身震いした。何とか立ち上がったものの、間近にあるジンオウガの存在感に倒れてしまいそうだった。

大きい。大きすぎる、このジンオウガ。

幾度か彼女もジンオウガの討伐をした事はあったが、これほど大きなサイズは見た事が無い。当然、体躯が大きくなった分、その美しさも迫力も凄みを増している。
今までギルドで認知されていない、ジンオウガ。という事は、流れのものだろう。しかしこのサイズ……下位の狩場には決して現れる事がない。ただでさえ彼に立ち向かえる装備でないのに、重なる最悪な事態とは正にこの事だ。このジンオウガは、上位狩場のモンスターである可能性が高かった。

ジンオウガは、そのまま攻撃に転じるかと思ったが、全身を朱に染めたアオアシラへ駆け寄ると、太い首を下げてスンスンと鼻を鳴らす。
何処か不思議な光景で、レイリンは呆然としたが、アオアシラの腕に鼻先を触れさせ何かに気付いたように動きを止める。

その背後で、若い二人のハンターが起き上がり、武器を握ったのをレイリンは見つけた。
彼らは怯えた様子を少しだけ見せたものの、顔を見合わせると、視線で意志をかわした。
まさか、とは思うが、この二人。
レイリンが嫌な予感に頬をひきつらせていると、彼らは背を向けたジンオウガへ向かって剣を振りかざしていた。

「ちょ、待って……!」

彼らの目には、好戦的な色があった。大方、彼らの言う腕試しとやらだろう。だがレイリンは、本能でも察した。このジンオウガは、そう簡単に挑んで良い相手ではない、と。
だがレイリンの胸中などお構いなしに、二人の青年はジンオウガの太く長い尻尾を狙った。

「うぉらー!」

剣の刃が、真っ直ぐ突き立てられる。

――――― だが、その間際。ジンオウガの下げられていた首が上げられ、振り返る。
凶暴な光が青い瞳に浮かび、たなびいた雷光虫の光がまるで焦炎のように揺れた。

ジンオウガは素早く巨体を引いて身体の向きを直すと、低く伏せ、二人のハンターを剣ごとショートタックルで弾いた。振りかぶった体勢のまま、彼らはそれを無防備にも受けてしまい、人形が跳ねるように吹き飛び、湿った大地へ叩きつけられ崩れ落ちた。
呻きながら顔を上げたが、それでも命を落とさないのは、モンスターという人間とは異なる強固な造りの肉体を用いて製作された防具のおかげだろう。だが、そもそもジンオウガ……上位のモンスターに挑むにはあまりにも心許ない武器と防具、今の一撃で、既に亀裂が入っていた。

「ッくそ、もう一回……!」

それでも挑むのは、意地なのだろうか。内心毒気付きながらもレイリンはポーチを慌ててひっくり返すと、その中で何か使えそうなものはないかと探る。
片手剣の青年は果敢に駆け寄ると、ジンオウガの真後ろを取る。ジンオウガの真横からも、双剣使いの青年が向かった。
ああ、頼むから引いてくれ。レイリンは内心叫び、たまたま入っていた閃光玉を一つ掴んだ。
けれど、レイリンのその行動より、ジンオウガは何倍も俊敏だった。
大きな身体をぐっと捻ると、尻尾で全方位を薙ぎ払う攻撃《サマーソルト》で果敢な心ごと青年たちを吹き飛ばす。宙を泳いで地面へ叩きつけられた彼らの頭上で、ジンオウガは体勢を直すと、着地と同時に攻撃体勢へと入る。身体を起こそうと背を無防備に向けていた、双剣使いの青年へその圧倒的な巨体で飛びかかり、樹木の幹へと叩きつけた。
その衝撃の音は、痛々しく鈍く響いた。「がは……ッ!」と、痛みと共に息を吐き出した青年は、呻きながら地面へ倒れ込む。

「おい、おい……?! く、そ……ッ! 俺は、俺はまだやれる……!」

片手剣の青年は、ジンオウガへ立ち向かう。けれど、その剣に冷静さなど無く、振りかぶったそれはただ虚空を切り、ジンオウガへ掠り傷も与えない。がむしゃらな愚行を、このジンオウガも理解しているのだろうか、大きく飛び退くと巨体を振り上げ、的確に尻尾で地面を叩きつけた。

――――― ベキリ、と嫌な音が響いた。
それは骨が折れたのか、防具が完全に壊れたのか、どちらだろう。

身体へ落ちてきた尻尾を無防備に受け、青年が倒れると同時に剣とバックラーが離れる。クルクル、と回ったそれは、ジンオウガの前足へ転がっていった。
それを踏みつけられ、呆気なく破壊された時、青年の顔からは血の気が引いた。身を守る唯一の武器が離れた挙げ句、真っ二つに壊れては手だてはもう無い。

ズン、と地面を揺らし、ジンオウガが青年を見下ろす。
高く天を覆う、樹木の茂みを背にしたその姿は、蒼い光を纏っていて、正しく王者の出で立ちであった。その眼光は、真っ直ぐと、青年を射抜く。大きな巨体が与える威圧感と獰猛さは、青年の身動きを完全に奪い取り、戦う意志すらもねじ伏せた。
腕試しに挑んでやろう、そう意気込んでいた若い彼らの情熱は、見る影もない。死を覚悟し、怯えた青い表情だった。

あのジンオウガ、頭が良い。人間との戦い方を、熟知している。

ならば、ますます退いた方が良い。レイリンは、掴んだ閃光玉を、腕を振り上げる。せめてこれが時間稼ぎになってくれれば、と思いを込めたが、それを止めるように何かがジンオウガの白い高電毛から飛び出した。

「え……?!」

腕を上げた体勢で、レイリンは固まった。

ジンオウガは低く唸ると、すっかり攻撃の意志を失って抗う手立て無く呆然と暮れる青年へ、鋭利な爪の生え揃う凶悪な前足を出す。ズタズタに引き裂かれる、と青年の喉が悲鳴を漏らしたが、攻撃というよりは追い払うようにバシンッと叩きつけ、彼を放り投げた。地面に打ち付けられた青年は、意識を取り戻した双剣使いの青年と共に、互いに支え合いながら背を向け足を引きずり逃げ出す。
その背に向かい放たれたジンオウガの咆哮は、勝利のものというより、怒りに満ちていた。

ジンオウガの背を飛び降りたそれは、ボロボロの身体で賢明に駆け寄ってきて、レイリンとコウジンに向かい、腕を広げた。

「アイツは大丈夫ニャ、だから攻撃しちゃ駄目ニャ!」

何処かへ走り去っていた、カルトだった。このジンオウガを連れて来たのは、もしや彼なのだろうか。それすらも、あまりに唐突なこの状況で口にする事もレイリンは出来なかった。

「だ、大丈夫って……あのデカいジンオウガは」

今の勇猛な暴れぶりを見て、一体何処が大丈夫なのか。そもそも、あのジンオウガは何なのか。
コウジンの疑問が、その眼差しに乗せられたけれど、カルトは答えなかった。それよりも、今最も気掛かりである、アオアシラへ振り返るとレイリンらを置いて駆け寄っていった。その後に続くように、あの巨大なジンオウガもアオアシラの側へと向かう。ギラリ、と青い竜の目が一瞬レイリンを睨んだが、彼女に攻撃する素振りは見せず、牽制するようであった。
震えたレイリンは、思わず視線をそらす。が、その拍子に、ジンオウガの強靭な足に目が向かった。鋭い爪の生えた、逞しい後ろ足には、一部分のみ堅殻が砕かれた痕跡が刻まれていた。
……この時何故か、レイリンの脳裏には、この半年あまり血眼になって仕留め損ねたあるモンスターを追う、影丸の姿が過ぎった。
人里付近に現れた、最大金冠サイズのジンオウガ。ハンターランク最上位から二番目ほどの実力を持つ師を手こずらせた、賢いそのモンスターは雲隠れしたように姿を見せてこなかった。ただ、後ろ足に大打撃を受け、今もその痕跡は残っていると師は言っていたが……。
いや、まさか、そのモンスターでは……。
レイリンは、プルプルと頭を振ってその考えを一時払うと、意を決し彼女もカルトの後を追いかけた。今は、それを考える時ではないのだ。

地面に上で、身体を丸めて横たわるアオアシラからは、既にもう小さな息遣いしか聞こえなかった。微かに揺れる身体は朱が滴り、地面を濡らしていく。
カルトは、オオアシラの顔の前に回り込むと、その鼻頭を撫でる。その小さな手の温もりに、アオアシラの赤い目が力なく薄っすら開き、ブォンと弱々しく呻いた。カルトの手であると、理解したようだった。

は、どうしたニャ?」

急くような声音のカルトの言葉を、アオアシラは理解したのだろうか。ピクリ、と腕を揺らす。けれど、それ以上動く事も出来ないようで、何とか身体を起こそうと伸ばしては力が入らず、僅かに浮いてがは地面へ力なく倒れる。
それを見つめていたジンオウガが、前足を伸ばし小さなアオアシラの身体に重ね、そっと横向きにする。
力なくお腹を見せたアオアシラの腕が、だらりと落ち、その時閉じ込めていた桜色のアイルーが転がって現れた。
カルトは慌ててそこへ移動すると、そのアイルーを引っ張って起こした。


獣の匂いと重みで閉ざされていた世界が、再び開かれる。涼しい緑の匂いと水を多く含んだ空気が届いた時、はぼとりと地面へ落ちていた。
地面に腕を突っ張ってみたが、全身が震えて、上手く立てない。すると、その腕をぐっと引っ張られ、彼女は顔を上げた。ほっと安堵した面持ちのカルトだったのだが、と視線が合うと直ぐに影が落ちる。その表情の変化が、とてつもなく恐ろしかった。
カルトの後ろには、巨大な体躯の輪郭を描くジンオウガ……セルギスが静かに佇んでいる。と視線を交わすと、ゆるりと首を横へ振る。まるで、諦めを促がすような仕草に、の胸がドクリと跳ねた。
酷く緩慢に、が振り返ると、また目の前に赤く染まった世界が映る。否、それは、先ほどまでを抱きかかえていた《彼》だった。
ヒュ、と渇いた吐息が漏れ、震えが混乱を呼び、冷静さが徐々に失われていく。伸ばした手が、彼の腕に触れる。力を無くし、だらりと重力に従うそれは、何の反応も返さなかった。ただ、微かに震えるだけである。

「アシラ、くん」

爪の折れた太い指を握ると、くぐもった唸り声がふとこぼれる。
クフ、クフ、と今にも潰えそうな鳴き声が、辛うじて返ってくる反応を切なくさせた。考えずとも分かる、小さな身体つきでも十分に屈強な獣でる彼が、全身に傷を刻み、流す事の無かった朱を流し、浅い呼吸を繰り返す事の意味を。
出来るものなら、理解はしたくない。

私が、アイルーなんてちっぽけな身なりでなければ。
身を挺してでも、彼らを阻めただろうに。

今思っても、意味のない後悔だ。そうやって悔いれば悔いるほど、黒々と濁った感情が、の胸中で音を立て満ちていく。自身が、憎らしくなってくる。握り締めた彼の指を、一層強く力を込めた。
私が、私が。ノイズが鼓膜にこびり付くように、繰り返される言葉ばかりが巡っていくが。

「――――― ボクね、頑張ったんだよ」

耳障りなノイズが、ピタリと止まる。

穏やかな少年の声が、世界に静寂を呼び戻す。
揺れた視線を上げた先で、顔を地に付けたアオアシラが、を見つめていた。それは普段見せていた、魚や蜂の巣を採って来た時と同じ、得意げな眼差しだった。あまりにも場違いな穏やかさに、はうろたえる。
それはもう掠れてろくに聞き取れるものでは無いのに、はっきりと、の耳へ届いた。

「あのね、ボクね……ちゃんとさん、守ったよ。あの時は、何も出来なかったけど……ちゃんと、やったんだよ」

苦痛の滲む吐息と声音だったのに、まるで笑うように。彼は、そうへ言ってきた。
彼が何を指しているかは、上手く思考が回らず、判断出来ない。けれど、ただ一つ、ただ一つだけ、彼女が理解したのは。

「――――― 私の、ため?」

ぽつり、と漏らすと。アオアシラは、小さく頭を揺らした。

「へへ……あんまり、上手く……出来なかったけど……でも、頑張ったんだよ」

そう小さく言ったが、痛みに呻く声が悲鳴となって飛び出し、は咄嗟に腰の竹筒を掴む。確か中にまだ、薬があったはず。取り出そうとした時、の身体をトンッと何かが押した。ジンオウガの、前足だった。見下ろしてくる彼は、鋭い牙の生え揃う顎からは、想像つかないような静かな声で、呟く。

「……回復薬は、命を復活させるものではない。身体に刻まれた傷の回復速度を、極限まで上げて一瞬で治癒させるものだ。命までも救う事は……出来るものではない」

口を開きかけたを、ジンオウガはそっと押し止める。

「……最期まで、しっかり看取ってやれ」

ぐらり、との目の前が歪む。声すら出ず、再びアオアシラへ視線を戻す。

その後ろで、レイリンとコウジンは立ち止まり、離れた場所から見つめた。

震えた手を伸ばし、アオアシラの顔を撫でる。ぬるりとした、赤い感触が手のひらに吸いつくが、構わず、その顔を撫で回す。いつも、彼にそうしてやったように。
元気に転がっていた、彼との光景が、消えていく。走馬燈のように流れるかと思えば、浮かんでは消えて、消えて、消えて、いくばかりだった。

「ボクね、喧嘩、苦手だったんだよ。いつも兄弟に負けて、弟にまで負けてたんだ。でもね、今日は……ちゃんと、勝ったよ」

虚ろな目は、もうを見ていなかった。雷光虫の淡い光を映し、虚空を見つめていた。締め付けられる苦さに喉が震え、瞳の奥が震え、声も上手く出なかった。

「ボク、頑張った、よね……?」

その声は、へ縋っていた。嗚呼、彼は本当は怖いんだ。優しい声だけど、怖くて仕方ないのだ。
それが分かった途端、の中で一層感情が込み上げる。血にまみれた頭を目一杯抱きしめると、何度も頷く。

「……頑張ったよ。アシラくん。ありがとう、ありがとう」

その一言を言うのに、胸を穿たれたような痛みがに訴えたが、それを堪えてそうっと囁く。
の腹に、微かな息遣いが、弱々しく触れる。

「……よかった。ボクもちゃんと、守れたよ」

アオアシラの赤い瞳が、ゆっくりと、伏せられていく。横たわった身体から、力が抜けていく。その感覚は、触れていたが最も理解していた。腕の力ばかりが増して、彼の意識を繋ぎ止める杭にも鎖にもなれない事も。

「……さん、あのね」
「もう、いいよ。喋らなくて」

絞り出した声は、情けないくらいに震えていた。
そんなを、知ってか知らずか、アオアシラの幼い声は下降しながら、絶えず続く。途切れる前まで、彼はこの世界にしがみついた。

「ボクね、こうかい、してないよ……」

が顔をずらすと、その虚ろな彼の瞳とぶつかった。
けれど、虚空を見ているはずなのに、その表情があまりにも―――――

「楽しかったもん、ずっと……だから……」

痛みを浮かべながらも、笑うように口元を上げていた。

さん、あのね、ボク、ずっと……さんのこと ―――――」



腹に触れていた浅い呼吸が、静かに、途切れる。
ずしりと、重い感覚がの腕を伝い、全身に響いた。

静寂に満ちた空気の何処かで、場違いな自然の音色が、聞こえた。



「……アシラくん……?」



堪えていたものが、堰を切ったように。
の世界を歪めて、溢れ出した。



――――― ずっと、好きだったんだよ

上機嫌にハチミツを舐める、小さなアオアシラの姿が、こんな時だけ鮮やかに浮かんだ。
生きて、死んでいく。死んで、生きていく。
そんなイメージです、モンハンは。

実はアオアシラのこの話は、当初執筆し始めた時から、ずっと頭にありました。
う、う……ッでも書いた私も奥歯噛みしめる思いです……ッ ( アオアシラ愛 )

そしてジンオウガは、ついに人の前へ姿を晒しました。でも戦闘シーンは、本当神経を使う……。

2012.01.26