僕に触れてくれる、貴方が好きでした(3)

呼吸を止めた小さなアオアシラは、微かな温もりを残して静かに去った。
空っぽな器となった彼を見つめるは、ただただ、ぼんやりと見つめるばかりだった。
穏やかさを取り戻した渓流の空気は、異質さすら含んで、彼女たちを取り囲む。張り詰めた緊張ではない、だが誰一人として口を開かず、沈黙する他ない。
オロオロとしたカルトが、躊躇いがちに口を開き、それをそっと破った。「」と小さく呟き、服の裾を掴む。

「……大丈夫」

多くの沈黙を挟んで、そう呟く。それから、今度は言い聞かせるように、「大丈夫」と再度言う。

「……もう、落ち着いたから」

あんまりずっと泣いてたら、彼に申し訳ない。濡れた目尻を、指先の肉球でギュッと拭い、カルトへ顔を向ける。彼は戸惑って、何も言えないで居るようだったが、それで構わなかった。
野生で生きてきた彼にとって、生きるも死ぬもある意味では隣り合わせだったもので、受け入れ飲み込むのも早い。も、そうであるべきなのかもしれないが……もう少しだけ、彼を想う余韻に浸りたかった。
その時、押し黙っていたセルギス……ジンオウガが、にしか届かぬ言葉を口にした。

「……俺の知る限り、アオアシラは頭が良いモンスターではない」

は、ジンオウガを見上げた。彼の目は、アオアシラをじっと見つめていた。

「だがそいつは、お前のためにハンターの攻撃を全て受けていた……獣の頭で、よくそう思った事だ」

つい、と青い竜の目が、その時へと視線を移した。

「私のせい、などと思うな。そいつは、小さいくせにお前を守ろうとしたんだ。むしろ、最期まで誇ってやるべきだ」

は何も言わずに、アオアシラへと視線を戻す。その横顔は、アイルーでありながら感情を湛えている。
セルギスが過去ハンターをしていた時も、このジンオウガの姿になってからも、アオアシラに限定せずモンスターの息途絶えた顔というものは壮絶なものに満ちていた。だが、この小さなアオアシラは……今にも息を吹き返しそうな穏やかさを浮かべている。かつてこのような死に顔のモンスターを、見た事があっただろうか。

獣を、恨んだ。
人間に戻りたいと、何度も願っては諦めた。
けれど、あのように穏やかな獣が居る事は、知らなかった。
恨み言ばかり言って、俺は……獣の姿で成せる事を、してきたのだろうか。

の横顔を見ながら、ジンオウガはふと思った。また溢れそうになる悲哀を、ギュウッと堪えている彼女の目は、他のアイルーと異なる輝きを持つ。やはり、彼女が人間というのは……本当なのだろうか。

「……あ、あの」

恐る恐ると、掛けられた気弱なレイリンの声。はこの時、彼女が幸か不幸か足を運んでいた事をようやく思い出すが、それを問う気力は無い。彼女も察しているのか、それ以上言えずに戸惑って手遊びをする。
言いたい事、聞きたい事は山ほどあっても、それを今アオアシラの前ではやりたくない。
だが、レイリンの足下に居たコウジンがトコトコと歩み寄ると、アオアシラをトントンと撫でた後にを見た。視線を流すように、カルトとジンオウガも見つめる。

「何で、ジンオウガがいるニャ。アンタらも」

カルトがむっと目を細め、パシンッとコウジンの手を叩いて払った。

「止めろニャ……今は」
「ニャ?」
「アンタやレイリンが、あの時ハンターを止めていたらこうなって無かったニャ。オレがジンオウガを呼びに行かなくても、アオアシラは死ぬ事は無かったニャ」

暗に、お前たちのせいだと、カルトは責めた。
レイリンの表情がハッと傷ついたように歪み、眼差しを伏せる。コウジンの目つきもそれに伴って鋭くなったが、口論に発展する直前で、はカルトを後ろから抱きついて止めた。

「カルト、いいんだよ」
「でも」
「……ハンターと、モンスターの掟。そうなんでしょう? 誰が悪いって訳じゃないし、もちろんレイリンちゃんやコウジンくんのせいじゃない。誰のせいでも、ないよ」

それに、とは視線をアオアシラへ向けた。

「あの子は、きっと分かってるから」

恐らく、今の私なんかよりも。
再び落ちた、重い沈黙。耐えかねたように、レイリンから震えた声が漏れた。

「……ごめんなさい」

ギュウ、と手のひらを握りしめたレイリンが、そう呟く。そしてそれを切っ掛けにして、何度も謝罪の言葉を紡いだ。

「ごめんなさい、私があの時ちゃんと止めてれば」
「レイリンちゃん」
「ごめんなさい、ごめんな、さ……ッ」

ついには、ボロボロと涙を流し始めてしまった。はそれを見上げて、少しだけ心が穏やかになった。

「そうやって思ってくれるハンターさんがいるだけで、いいよ。レイリンちゃんが悪くない事は、皆分かってるから」
「でも……」

言い縋ったが、はそれを首を横に振って止める。「ごめん、今はあまり、アシラくんの前でそんな話したくないの」
分かってる、自分でも。彼女が悪くない事くらい。分かっているけれど。
彼女が言うように、もしもあの時彼女が止めていたら。
このような事にも、ならなかったのだろうか。
ただ小さいだけという理由で、子どもだった彼が命を落とす事も無かったのだろうか。
ゴポリゴポリ、と泡立つ黒く淀んだ泥水が、胸の中で水泡を立てる。それを口に出さないよう必死に抑える。それを繰り返すと、今度は自分が人間であればという現状ではどうやっても叶わない事にまで発展してしまうのだ。
彼の前では、したくない。そのような事。子どもであるのに、後悔しないと告げた、彼の前で。
この世界で、誰のせいなどという言い合いほど虚しくはない。が身をもって知っている。人の感情など、大したものではないのだ、本当に。現にその言い合いで、周囲は変わらない。何も変わらない渓流が広がる。

「……だから、お願い。もう、いいの」

が呟くと、レイリンは口を噤む。
グルル、と頭上で低い唸り声が響く。大きな身体を下げたジンオウガと、視線がぶつかる。

「……どうしたい」
「……え?」
「このアオアシラ、どうしたい?」

静かに呼吸を止めた、彼の身体。はそれを見つめ、「……土に、還してあげたい」と呟く。
ジンオウガは「そうか」と告げると、身体を持ち上げアオアシラの側に寄る。そして、その鋭い歯が並ぶ顎を開いた。怯えたように、コウジンが慌てて離れたが、ジンオウガの顎はコウジンではなく、アオアシラの背を噛んだ。軽々と持ち上がった小さな彼は、ジンオウガに連れられて際だって大きな大木の根本へと向かっていく。はその後に続いていき、カルトやコウジン、レイリンもそっと従った。

とジンオウガの間で、意志疎通が出来ている。アオアシラの時もそうだったが、は独り言のように何かを呟いて、そしてそれに合わせモンスターが動く。彼女はまるで、彼らの言葉が分かるようだ。レイリンは不思議に思ったが、今は彼女たちの動向を見守りたかったので、口にしなかった。

ジンオウガは、一度アオアシラを地面へ下ろす。逞しくも荘厳に成長した、大きな樹木。空高く生い茂り、豊かな茂みで頭上を覆っている。
ジンオウガは、ザクザクとその根本付近を掘り始めた。

「セルギスさん……?」

は、小さく名を呟く。レイリンへ聞こえない程度の音量で。
の眼差しを受けながら、ジンオウガの鋭い爪は土を難なく掘り進める。ほどなくし、彼の足下には大きな穴が完成していた。
それを見て、は察した。アオアシラの為に、作っているのだと。

「……この場所じゃ、これくらいしかしてやれないが」
「……いえ、十分です。ありがとうございます」

そっと微笑み、アオアシラを撫でる。ジンオウガは再びアオアシラを持ち上げると、その穴の中へそっと降ろした。冷たい地中へ横たわった彼はやはり穏やかなままである。前足で土を被せるジンオウガを手伝うように、も小さな手で土を少しずつ掛ける。それに習って、カルトもやり始めた。
彼にはきっと、理解出来ない行為かもしれない。それでも手伝ってくれる心遣いは、やはり彼の義理堅い性格が現れていた。

「……私も、」

レイリンが、涙を拭って、声を掛けた。

「私も、お手伝いして、良いですか?」

は、小さく微笑んだ。
レイリンとコウジンの手もあり、土はほどなく全て被せ終える。
近くに生えていた野花を、数本採ってきたレイリンが、こんもりと丸みを帯びた大地へ植えて彩る。それと、木の上にあった小さめの蜂の巣も添えて、は額を地面へ重ねた。

「……

隣に座っていたジンオウガの首が、静かに下がった。

「手を、出して見ろ」

は首を傾げながらも、言われた通りに差し出す。小さな肉球のついたそこに、コロリと何かが落とされた。少し土で汚れているが、鋭く尖った、大きな何か。

「これ、は……」
「アオアシラの爪だ」

は、思わず顔を上げた。その面持ちは、普段と同じ冷静なジンオウガのもので、感情は測れない。

「……ハンターと戦い、ヒビが入っていたのだろう。自然に折れた」
「……」
「持っていろ、形見に。後で綺麗に洗えば、加工も容易だ」

キュ、と手のひらをすぼめると、その鋭いフォルムがひんやりと感じられた。

「……遅くなって、悪かった。カルトに呼ばれた時には、既に」

……ちょっと、またそれ。
止めてよ、今せっかく抑えたんだから。
堪えたものが、溢れそうになる。は目に力を込め、奥歯を噛みしめる。首を振ってみせたが、頼りない表情のせいであまり効果はないかもしれない。
ジンオウガの顔が、地面を見下ろした。掘り起こされた湿った土が、柔らかく盛られ固められたその下には、アオアシラが眠っている。

「……不思議だな」
「え?」
「一度死んで、二度目に死ぬ時はこの姿であると諦めていた。だが死ぬ時の光景は、こうなるとは予想もしていない」

この身はきっと、人々から恐れられ狩猟者に奪われ、呪いから解放されると同時に意志を無くした肉体は武器や防具に使われる。この爪も、角も、堅殻も、全て余すことなく。
そう覚悟せざるを得ない未来が……目の前で、打ち砕かれる。願わくは、俺もこのアオアシラのように……。

「こいつは幸せだな、その明確な感情は持っていないだろうが。守った奴に看取られた上に、全身を引き裂かれる事無く土へ還る」

ジンオウガは、ふとを見下ろした。涙で滲む、大きな瞳の、桜色のアイルー。このちっぽけな存在に見送られたアオアシラが、羨ましくもある。
……俺がいつか死んだ時は、お前が看取ってくれるか。
出掛かった言葉は、喉の奥へ消えてしまった。そのような事を言っても、彼女は戸惑うだけだ。それかむしろ、いっそこの身を役立ててもらいたい。

「……何でもない、これは忘れろ」

それから再び、ジンオウガの瞳が見下ろされた。
きらり、と揺れた蒼い目は、妙に穏やかに細められていた。
手のひらの、アオアシラの爪を強く握りしめたまま、はころりとその前足に寄りかかる。暖かくもなく、冷たくもない、堅い感触。けれど、生きている拍動を感じた。

「……まだ話は、よく聞いてないけど……貴方が、助けてくれたんですよね」

は、瞼を下ろす。

「――――― ごめんなさい、ありがとうございます」

謝罪と、感謝。複雑に混ざった言葉にジンオウガは何も言わず、しばらくの身体を寄りかからせていた。

脳内で、まだアオアシラの声が聞こえる。無邪気な少年の、上機嫌な声。

――――― さん


……もっと貴方に、色々してあげれば良かった。
アオアシラのイベントは、これにて終了です。
さて、アイルー編ラストまで、勇んで参ります。

2012.01.27