失われるものを恐れることはもう無い

――――― ユクモ村は、一瞬で動揺の滲む空気に満ちた。
観光客は慌てふためき、村人たちも口々に囁き合う。また、あの時のような事が起きるのだろうか、と。
美しい紅葉が、不穏な気配にざわつき、揺れた。

そして、特に際立って騒然としていたのが、ユクモ村の誇る温泉のある、集会浴場であった。ユクモ村支所のハンターズギルドのクエスト受注カウンターの前には、人だかりが出来ている。救急箱を持つ受付嬢や、ユクモ村の医師、さらに事態の確認をするギルドマネージャーとネコタク運転手が言葉を交わす。
採取ツアーに出かけた、まだ新人の若い青年なハンターが二人帰還した。出かけた当初とは見る影も無い程の、無残な姿で。
あちこち砕かれ、守護の意味のない防具。ヒビが入った、あるいは手放したかで、欠けた武器。しかしそれ以上に、まだ成長する若い身体の全身至る所を、殴打したのか土にまみれ、頬に切れた痛々しさが刻まれていた。
怯えた青い顔をし、何も告げない唇は震えている。この様子を見るに、よほど凶悪な体験をしたのは一目瞭然だ。
だからこそ何より、ギルドは慌てた。少なくとも傷だらけの彼らが帰還したこの瞬間まで、そのようなモンスターは居ないと認知していた。
となれば、上手いこと人の目を抜けたモンスターが紛れ込んだに違いない。自然を監視する目も、万能ではないので有り得る事ではあるが……新人の彼らに手痛い洗礼を受けさせたのは、一体何なのか。

さて、傷だらけの彼らを運んだのは、丁度居合わせたネコタクであった。そう、レイリンを途中まで乗せていた、彼らである。異様な気配を察知したネコタクのアイルーらの言葉に、レイリンが様子を見に行ったため、入り口でしばらく待機していたのだが、そこに現れたのは互いを支え合う無残な姿の若いハンターであった。これは不味いと、ネコタクはユクモ村へ急遽帰還した次第だった。彼らはユクモ村付近に居たというモンスターを見たわけではないためそれ以上は言えなかったが、レイリンがまだ残っている事を付け足す。
彼女も、なりたてとは言え上位狩猟に挑む事を許されたハンターの一人のため、何とかなっているかもしれないが……。

その時、集会浴場の入り口から、下位狩猟クエスト案内担当の赤服の受付嬢が慌てて飛び込む。「影丸さんを、呼んで来ました!」
後ろからは、足取りはゆっくりだが普段よりも表情を引き締め鋭い眼差しを放っている、影丸が現れた。彼は真っ直ぐと若いハンターを見た後に、ギルドマネージャーとネコタクアイルーに歩み寄った。

「受付嬢から話は聞いたけど……一体何が出たんだ」
「さあて、ね。アタシも聞きたいぐらいだよ、だがそれよりもお弟子さんが気になるんじゃないのかね?」

影丸は「そうだな」と呟いて、肩をすくめる。

「どんくさいし、いつまで経っても上位ハンターの風格が出てこない奴だけど……こういう時のために何度も狩猟に連れ出して来た。とりあえず、今のところは何とかもってるだろうな」

今のところは、と強調する辺り意地が悪いが、彼なりに案じている事は付き合いの長いギルドマネージャーしか分からないだろう。
ともあれ状況は突如として一転した、まずは何のモンスターと遭遇したのか判断しなくてはならない。影丸は、ナルガSヘルムを外すと、精悍な顔立ちを温泉の匂いと剣呑な空気の混じるそこへ晒し、座り込んだまま立てないで居るハンターたちへ歩み寄った。しなやかな長身を曲げて膝をつきしゃがむと、影丸は彼らを見た。
最初、ほんの一瞬ではあったけれど、見かけた時はまさにハンターなり立ての初々しさと賑やかさが笑みすら誘ったが、今ではどうだ。すっかりその情熱も無くなって、萎んでいる。自分を《英雄には見えない》と言った生意気ぶりは、一体何処に行った事やら。

「……おい」

声を掛けてみたが、反応は無い。今度は声音を強めて呼びかけ、顔を上げろと付け加える。そこでようやく、彼らはのろのろと鬱陶しくなるほどの遅さで顔を上げた。
影丸の頭の後ろで、苛立ちがビリッと鳴る。それは、ハンターたちに対してのものでもあったが、もっと別の部分への苛立ちにも思えたが、それは抑えた。

「よっぽど怖い目にあったんだろうが、まずはその口で何があったか報告しろ。被害は渓流だけで留める必要がある」

顔は上げたが、それ以上青ざめた唇は何の言葉も紡がない。これは時間の無駄か、現地に行ってみるしかない。
影丸が諦め腰を上げようとした、その時。
武器を何も持たぬ青年が、小さく呟いた。

「……小さい、アオアシラが居た」

影丸は、立ち上がる直前で止まると、再び彼らに視線を合わせる。

「小さいアオアシラ?」
「す、凄く小さくて、折角だから倒しちまおうって。そしたら、アイルーが二匹居て……」

アイルー? その単語の意味は分からなかったが、滅裂な言葉を汲み取る限り、「……なるほど、そのアオアシラか」と影丸は呟く。
だが、青年は勢いよく首を振った。震えた唇は、纏まらない言葉を半ば叫ぶように言い放つ。

「何だよ、あれ! あんなのが出るなんて聞いてない!」
「おい……?」
「あんな、あんな……!」

わあ、と青年は顔を伏せた。集会浴場に響く、恐怖の含む叫び声は、張り詰めた空気を一層煽った。泣き出してしまった青年に代わるように、ひび割れた双剣を持つ別の青年が今にも消えそうな声で言った。

「……一人、別のハンターが来たんだ。同い年くらいの、ハンター装備の女が。そいつが殺すなって言うから、アオシラに留めはさせなかったけど」

ぴくり、と影丸は人知れず眉を揺らした。
同い年ほどの女で、ハンター装備……どう考えても当てはまるのは、同じ時刻頃に採取ツアーに行った弟子のレイリンだ。アオアシラを庇っただと、あの馬鹿何を考えているつもりだ。掠めるような苛立ちが、急に膨らんでいき思考を侵す。そこをギリギリの理性で抑え込んだものの、弟子の不逞に苛立ったのは事実だ。

「……いや、アオアシラは、どうでも良い。その後、直ぐに」

ぐ、と勇気の限りを振り絞るように、青年は呟いた。

「ジ、ジンオウガが、現れたんだ」

――――― ざわり、と空気が揺れ動いた。
ユクモ村にとって、ジンオウガという名は忌まわしい記憶であった。ユクモ村付近に住み着いたジンオウガが、観光客を遠ざけ旅路を脅かし、人々の生活をも苦しめた。そして、一人の手練れのハンターを失う事になり……。
彼に救われたある青年のハンターが、修羅となる全ての原因にして起因のモンスター。

受付嬢たちや駆けつけた村人らが慌てふためく中、ギルドマネージャーは静かに見つめていた。哀れむように、気遣うように。
雷狼竜の名を、最も恐れ、忌み嫌う彼の背を。

ギルドマネージャーの眼差しに、この時ばかりは影丸は気付けず、急に込み上げる赤黒い衝動を全身に巡らせた。
普段保っている笑みが、冷静さが、剥がれ落ちていく。ボロボロと、渇いた土くれのように、無残に。

「……どんな、ジンオウガだった」

凶暴に唸り声を上げる獣にも似た、低い声だった。這うように空気を伝ったそれは、青年らにも届くが、その言葉に含まれた必死に抑える激しさには気付かない。

「……大きい、とてつもなく大きいジンオウガだった。お、俺たちの動きも完全に理解しているようだった」
「……なんだよ、あれ! あんな大きい奴なんて……ッ」

青年たちの脳裏では、あの巨大なジンオウガが襲い掛かる。大気を震わす咆哮、地面を抉る前足、稚拙な攻撃を笑うように跳ね除ける強靭な身体。それらは、全身に未だ刻まれた痛苦が鮮明に呼び起こし、今も背後から狙われうのではないかという幻想までも抱く。
ドスジャギィやアオアシラを相手にしてきたが、あまりにも別格の強さに、彼らの胸に灯っていた狩猟者の情熱は消されていた。
だが、それを影丸は慰めない。慰めている、場合でも無かった。

「……そのジンオウガ、後ろ足に傷が無かったか」
「き、ず……?」

しばし青年たちは考え、そして思い出したように目を見開いた。

「あ、あった。確かにあった。し、尻尾を叩きつけられた時……見えた」

――――― その瞬間。
影丸の表情が一変し、笑みを浮かべた。それを正面から見た青年たちは、別の恐怖を覚えた。赤々と滾る激情が瞳に浮かび、その後ろで焦炎のように燻っている。狂気とも、残忍とも、はたまた戦意とも取れるそれは、ぞくりとするほどだった。

「……ようやく見つけたぞ、あのジンオウガ」

影丸はそう呟くと、一瞬だけ浮かべた笑みを払い、立ち上がる。

「ギルドマネージャー、直ぐに手続きを。半年前に取り逃したジンオウガだと確信した、俺が出る」
「影丸……」

ギルドマネージャーの瞳が、僅かなもの悲しさを浮かべる。影丸はそれを知っているが、首を横に振る。

「分かっている、けど、行かせてもらう。あのジンオウガを倒すのが、今の俺の目的だ」
「……分かってるさ、チミの言いたい事は」

ギルドマネージャーは、何も言わなかった。
二人の青年の眼差しが、足元から感じたが、影丸は視線をやらずに一度集会浴場を早足に去った。
自宅へ戻ると、待機していたヒゲツが何があったか尋ねて来る。それに答えながら、彼はナルガS防具一式を脱ぎ、代わりに別の装備を装着していく。漆黒から、鮮やかな碧色に変わっていき、存在感を放つ。
彼から話を受けたヒゲツも、近隣の渓流に現れたジンオウガが以前逃した最大金冠サイズの賢いジンオウガであると察した。

「レイリンさんやコウジンが、気遣われるニャ。あれはまだ、彼らには早すぎる」
「とっとと、逃げている事を願うが……」

ギュ、と小手の紐を縛る。それにしても、レイリンはアオアシラを庇ったという話だ……まさかとは思うが、モンスターに入れ込んでいる訳ではあるまいな。いや、アイツの事だから十分にあり得そうだ、とも思う。だが、もしもそうであれば説教で済まされない。眉を寄せたが、今は渓流へ急ぎ向かうことが肝要だ。
今逃せば、もう挑む事は出来ない。そんな風に、何故かこの時思えた。

「……ヒゲツ」
「何だ」
「今度は、あのジンオウガは逃がさない。全力で、手伝ってくれるか」

碧色のヘルムを両手で取り、影丸は振り返る。ヒゲツは、金色の目を細め、静かに頷いた。「共に挑むのが、オトモアイルーの責務であり、誇りだニャ」
……そうだな、お前はそういう奴だ。だから今まで、自分の主人を殺した俺にも、ずっと従ってくれていた。それがどれだけ、あの孤独の時間が救われたか。

「……ありがとうな」

ヒゲツの目が、真ん丸になる。一体どうしたと言わんばかりだが、影丸は薄く笑うだけで、静かにヘルムを被った。
雷撃の王者の肉体から生み出された、上位ジンオウ装備。王者に挑むには、王者の力で相殺しなければならない。最初出会った時に決定打を打ち込めなかったのは、その時の影丸の装備にも原因があった。今回は逃さないという意思を込め、全身に碧色の防具を纏った。そして、凍てついた氷の太刀《六花垂氷丸》を背負う。
それから、ヒゲツの装備を、防具を同じジンオウSネコ装備に変更し、武器を氷属性のものを持たせた。道具も吟味し、ポーチの中身を全て入れ替えた。
その間、影丸の身体には沸騰した血が駆け巡り、酷く急いていた。それは焦燥にも近く、抑えてはいたが《ジンオウガ》と聞くとそうも言っていられないのが現状だ。
早々に準備を終え、ヒゲツと共に集会浴場へ戻る。そこは変わらず人だかりが出来て、完膚なきまでに敗北した若いハンターが俯いている。

――――― じくり、と苛立ちが頭を刺す。

こいつらは、俺だ。多少腕が立つ気になって挑んで、呆気なく負け、その上友人を引き換えにして生き延びた。
ボロボロになって帰った時、こうやって誰しも集まり声を掛けた。俺にはそれが、嬉しくも惨めに思えてならなかった。
今もなお影丸を追いかける、過去の苛烈な幻影は、あの若いハンターに乗り移り再現しているかのようである。

足元で、ヒゲツが見上げてくるのを感じた。影丸の苛立ちを、察しているのかもしれない。
ガシャ、と音を立て、影丸は踏み出す。集会浴場に集まっている人々、ギルドの受付嬢やマネージャー、番台などが顔を向け、視線を向ける。
碧色の防具を一式纏う様は、やや影のかかる集会浴場を鮮烈に引き裂くようで。怯えなども、一瞬で攫う。
影丸の足は、真っ直ぐと青年たちに進み、そして立ち止まった。ふ、と目の前に降りた影に、青年は顔を上げる。その瞬間、碧を纏った影丸の腕が、武器を失った青年の胸倉を掴み、力の限りで立ち上がらせた。破壊されたジャギィ装備の破片が、ぱらりと落ちていく。
青年は、一瞬目を見開く。目の前には、王者の荒々しい風貌を纏うハンターが居り、ヘルムによって顔は見えないはずなのにその射抜くような鋭さをその向こうに見つけた。

「――――― ハンターは、英雄だと思っていたか」

影丸の声には、憤りが混じっていた。

「ドスジャギィやドスファンゴを多く倒して、英雄になれるとでも思ったのか。笑わせるなよ小僧、ハンターの職ってのはそんな甘いもんじゃない。
俺や、お前も、そいつも、向かう先は綺麗なものじゃないんだ。自分より遥かに強い奴と戦わなきゃならない場合もあるし、ギルドから阿呆みたいな狩猟を依頼される時だってある。五体連続だぞ、ふざけんな。しかもそれが、必ずしも依頼主から感謝されるとも限らない。
今回お前らが身をもって体験した、命が何個あっても足らないような恐怖……それがハンターだ。人間じゃねえものに挑むってのは、こういう事だ小僧」

この世界で、そもそも辛うじて生き延びているのは人間の方だ。見くびるな。
青ざめていた若い彼の表情が、徐々に歪み、震えた唇が噛み締められる。
影丸はそれを見ながら、言葉は止めなかった。

「あのジンオウガは、上位の奴だ。そいつと遭遇して、ハンターの経験浅いお前たちが五体満足で生きて帰って来れた事は喜べ。
だが力量を見誤らなければ、もっと軽症で済んでいた。必要のないものまで、失う事は無かった」

影丸の声は、苛立ちだけでなく、別のものも含むようになっていた。言葉こそは乱暴だが、その声音には諭すようなものが滲み、青年たちは落ち着きを取り戻した瞳で影丸を見た。
影丸は、掴み上げていた胸倉を離し、ユクモ村医師へ押し付ける。

「……今回ので、もう狩場へ行きたくないと思ったのなら、さっさと英雄の真似事なんて止めて誠実に働け」

だが、と付け加え、少し間を置く。

「俺に対して腹立たしいと思ったら、言われないように腕を磨け。本気でハンターを目指すつもりならな」

影丸は、青年らを見ずに言い放つ。「ヒゲツ、行くぞ」顔を下げ、呼ばれたヒゲツは静かに歩み寄った。その時、ちらりと青年たちを見上げ、そして小さく笑う。意気消沈し、再起不能な影すらあった瞳に……輝きを持った火が、宿っていた。あれなら、直ぐにでも立ち直りそうだ。

今の影丸の言葉を、何人が惨いと思っただろうか。けれどあの言葉は、青年たちに告げただけではない。セルギスを目の前で失った七年前の、影丸自身にも言い放っていた。ヒゲツも、不意に思い出す。青年たちに、たった一人帰って来た昔の影丸の姿を。
あれからこの人も、成長したという事なのだろうか。
ヒゲツの心中には気付かず、影丸の瞳はあくまでジンオウガを見据えていた。

「ギルドマネージャー。渓流へ向かう、後は頼む」
「……はいよ、チミ、気をつけてくれよ」

影丸は振り返らずに、出発口へと向かった。送迎は、青年らを乗せてきたネコタクが引き受ける事になり、影丸とヒゲツを乗せやや乱暴に進む。急ぎ足で向かう渓流は、まだ遠い。
あのジンオウガが、何故ユクモ村付近に現れたかはどうでも良い。だがまるで、偶然であるはずなのに、何かの因果を感じていた。七年前の自身そっくりな、敗北に打ちひしがれる若いハンターと、渓流のジンオウガ。まるで、過日を再び演じているような。
だが今回は違う。今度こそ逃げず、逃さず、あのジンオウガはこの手で屠る。その赤黒く滲む感情が、影丸の現在を埋め尽くしていた。


――――― いつ、終わるの?


過ぎった桜色のアイルーを、静かに振り払う。
あのアイルーが言ったのは、追いかける事か。それとも、モンスターを倒し続ける事か。きっと、どれも含んでいるに違いない。だが既に、その答えを探す余地もない。
ジンオウガを屠る事だけを思う影丸にとって、それが全ての答えだった。

灰色の雲で埋め尽くされた鈍い空は、薄暗く陰っている。半年にも及ぶ影丸の執念の追跡が、終わろうとしていた。
彼が追いかけてきたジンオウガが《何者》なのか、未だ知らないまま―――――。
終演の前幕。

( タイトル借用:悪魔とワルツを 様 )

2012.01.27