いつか赦し合うための戦い(3)

あれから、どれほどの時間が流れていたのか、分からない。
もともと渓流は月を追うごとに風景が変わるわけでもないので、ますます時間の流れなど混濁し、直ぐに曖昧なものになった。
だが、記憶の中の少年の顔が、幼さの混ざるものから男性らしい精悍なものへ変わり、身体つきも背が伸び剣を振るう者らしく鍛えられた様子は、歳月の経過をようやく感じさせた。
そうか、この姿になってから、これほど経過していたのか。
意外にも、その事実はすんなりと飲み込んだ。ただ、目の前の男性を、よくよく見下ろして、愕然としたのも事実である。
太刀を振り回すばかりで、全く使いこなせていなかった少年。生傷ばかりが増えて技術も荒削りな面が多く、ろくな立ち回りも出来ていなかった。たが、今や自ら呼吸をするのと等しく、太刀を肉体の一部にし構える様は、正しく上位狩猟に挑むに相応しい狩猟者の風格が滲んでいる。
生意気な瞳も、大人になり覚悟を秘めた眼差しを浮かべていた。

……すっかり、もうあの頃とは変わっている。
これでは、一見しただけでは分からないはずだ。

経過の事実もそうだが、今の影丸の姿にも、セルギス――ジンオウガは呆然とした。
狩猟者の風格は増した、上位狩猟に挑むだけの力もつけた、だが……あれほど冷たい面持ちでいる彼は、過去も覚えが無い。
彼の目の前にいるのは、セルギスではなくジンオウガであるのだから致し方ないにしても、彼はあんなに火を燻らせ冷徹な鬼のように表情を歪ませただろうか。
記憶の中で、昔のまま止まってしまった少年は、生意気な口を叩きながらもよく笑う、将来を期待させる明るいものだったというのに。

……何故。

この瞬間まで、彼は一体何をしていたのか。一体、どのような生活を送っていたのか。疑念が、困惑する思考を掠めていく。
ジンオウガが動きを止めているのを不思議に思いながらも、影丸はぐっと濡れた頬を拭い、ジンオウSヘルムを手繰り寄せると見下ろす。
くそ、止め紐が切れてる。これでは被ったところで直ぐに脱げてしまう。ならいっそ、と影丸はヘルムを放り投げて太刀を構えた。

「旦那!」
「大丈夫だ、掠っただけ」

せせらぎを踏みつけ立ち上がると、その隣でヒゲツも眼光を鋭くさせて剣を握る。
一目でも良い、彼らを見止めて置きたかった。確かにその願いは叶えられたが……世界と立場が反転するという事は、このような事態をも引き起こすとは。かつての友人と相棒に、敵とみなされ対峙したジンオウガは、戦意を無くしていた。

「何故だ、影丸。どうして其処まで……」

変わってしまったのだ。
何が其処まで、お前をそうさせた。

紡いでも届かぬ、獣の声。それでもジンオウガは何度も問いかけた。影丸から聞こえるこの声は、唸るばかりのものであったと分かっていたが、懐かしさと困惑が混ざる彼には言わずにはいられなかった。
けれどには、その悲壮な叫びが届いていた。友人と対峙した事ではない、友人の変貌に呆然とする彼の声は、鈍い渓流を奮わせている。

「影丸、」

トト、と近寄ろうとしただったが、その気配に気付いたらしく影丸が振り返らずに口を開く。

「――――― 前、アンタ言ったよな」

牽制も含んだ、厳しい声音であった。

「俺がほぼ毎日のように狩猟依頼に出かけている事、アンタはいつ終わるのかって言ったな。これがその時の返答だ」

凍てついた太刀の切っ先は、真っ直ぐとジンオウガへ突きつけられる。それと同等の鋭さをもった眼差しが、の動きを奪う。

「どれだけ倒しても、どれだけ狩場に出ても、何ら変わらない。終わる事は無い。そう、終わる事はない。絶対に。
乗り越えた気になって、俺も大概忘れられてねえんだな。昔を」

ジンオウガの青い竜の目が、微かに動いた。

「……私情に駆られてるのは、百も承知だ。俺はそれでも、このやり方を変えるつもりはない。
こいつを倒しても何も変わらない、けどこの場所からも動く事も出来ない。なら俺がする事は、一つだけだ」

止めるつもりは、毛頭無い。この先も、ずっと。
迷う事無く言い放った影丸からは、凶暴的な覚悟ばかりを覚えた。そして同時に……哀れでもある。彼は七年もの間、そんな身を削る想いで強くなったのなら、行き着く先は恐らく灰塵だ。
ハンターの、覚悟? いや違う、これは。
――――― 生かされた彼が選び課した、果ての無い煉獄だ。

は言葉をなくしたが、それ以上にジンオウガは押し黙っていた。
だが、不意に見つめていた眼差しをそらすと、ジンオウガは身体の向きを変える。背を向けた王者に、ハッとなった影丸は、ポーチから大型モンスターへ色をつけ追跡する《ペイントボール》を取り出し、素早く投げた。ジンオウガが走り出す瞬間、大きな尻尾へと当たり、パンッと弾けたと同時にピンクの粉末が飛び散った。
走り去る王者の後ろを、粉末がたなびいてその軌跡を残す。
影丸は太刀を鞘へ納めると、ヒゲツと共にその後ろを追いかけていった。
それを引き止める事は、たちには出来なかった。



流れていく、翳った景色。そして追いかけてくる、殺意の気配。
ただ、逃げているという感覚は無かった。むしろ追いかけてくれた事を安堵した。人の姿を無くして数年……見知った人物と出会った事は、理由は何であれジンオウガの心を奮わせた。
だが、それと同等の重さで圧し掛かる、月日が流れた残酷な現在の事実。
変わり果てたのは自分であるが、あれほど友人が変貌していたとは思わなかった。

( ……すまない )

ジンオウガは、胸中呟いた。

( すまない、影丸 )

それは何をもってしての謝罪なのか、ジンオウガも定かでなかった。ただ、未だ残る人の性が、そう訴えるのだ。俺が消えた事で、お前をそんな風にさせてしまったのか、と。
全く、人の性とは面倒なことこの上無い。
傾斜な山道を駆け下りる速度が、上がる。横切っていた樹木が視界から無くなり、代わりに渓流を流れる豊かな水源の象徴とも言える、広大な大河 のほとりへと飛び出した。
彼はそこで速度を落とすと、ゆっくりと水際へ向かった。冷たくぬかるんだ感触が、足の裏に伝わる。その冷たさが、ジンオウガの胸を静めた。

……人とモンスターの定めは、もう当の昔に知っている。
そして、人間に戻れない事も。

この姿で次に死ぬ時は、かつて同じ立場であった人間が下すのであると覚悟しながら、酷く怯えたものだ。それは、正直のところ今も変わらないが、しかし。
かつてないほど、ジンオウガは冷静であった。友人が太刀を振りかざしたにも関わらず、だ。いや、むしろそれがジンオウガを冷静にさせる要因であるのかもしれない。
あの小さなアオアシラが、たかがアイルーのために命を張った行動。それと酷似した感情が、今彼の中に宿っていた。

「……お前が、そうすると言うなら。俺も、獣の姿で成せる事をしようじゃないか」

ジンオウガは、振り返った。追いかけてくる影丸とヒゲツの、勇んだ足音が聞こえる。それを耳にしながら、彼は身体を低くし四肢に力を込める。
草木の影から舞い上がった雷光虫が、大きなジンオウガの体躯を、覆うように集まる。微かな電気が、一つ、二つ、と増えていき、何百にまで重なった時、彼が放出する蒼い雷光に光が増す。バチリ、バチリ、と激しく爆ぜたそれが、堅殻を刺激しながら包み込んでいき、雷光虫の生み出す光も徐々に蒼く変化していく。
使い方を熟知し馴れている感覚だったが、今は酷く高揚感を煽る。失っていた戦意が、この時沸々と込み上げてきた。例えるなら、そう、かつてハンターとして大きなモンスターに挑んだ時の、あの感覚だ。
視界に、影丸とヒゲツの姿を確認し、ジンオウガは静かに笑う。もちろん、この顔で表情を表す事など出来ない。

俺の事など、分からないままで良い。向かってくるというのなら、抗うだけだ。

「……この空白の時間、どうしていたのか、教えて貰うとするぞ。影丸」

目の前が、蒼く満ちる。全身を駆け巡る力に、顎をきつく噛み締める。
ふとその時、脳裏に桜色のアイルーが過ぎった。アイルーらしかぬ笑みを浮かべ、尻尾を揺らしている彼女が。
……お前は俺を人であると言った。だから恐らく、分かるだろう。既知の間柄であっても、退くに退けない時がある、と。今この瞬間が、ジンオウガに変わってから、最初で最後かもしれない覚悟を抱いた瞬間だった。

「……さあ、影丸。半年前の決着をつけようか」

目の前で、影丸が太刀に手をかける。

――――― もしかしたら俺は、お前にこの呪いを終わらせて貰うために、戻ってきたのかもしれないな。

などと、らしくない事を思いながら、ジンオウガは咆哮を上げた。周囲を蒼く照らし出す閃光が弾け飛び、激しい雷撃が鈍い影を引き裂いて大地へ落ちた。王者の全身が雷撃を帯び、高電毛と堅殻が逆立ち蒼く光る。
無双と恐れられた、王者の雄姿。
それを見据えたハンターは、恐怖し怯む事無く、強く地面を蹴り上げ向かう。

獣になってしまった人間と、自ら獣となる事を選んだ人間。
灰色が色濃くなる空の下で、戦いを告げるように互いの吼えた声が大気を揺らした。




――――― 空気の振動が、ジンオウガと影丸の戦いを教えてくる。
はそれを感じながら、しばし彼らが走り去った方向を見つめていた。歩み寄ってきたカルトが、戸惑いながらの名を呼ぶ。

、どうするニャ……?」

けれど、はしばし黙り込んだ。そして、吐き捨てるように呟く。

「馬鹿みたい」
「ニャ……?」
「馬鹿みたい、どっちも」

を覗き込んだカルトは、思わず飛び退く。
かつて見た事が無いほど、目が据わっていた。ジンオウガの凶悪な顔より、アオアシラの赤い目より、何よりも恐ろしく思えたほどである。
カルトが豹変ぶりに狼狽えているのも気付かず、はぶつぶつと独り言のように苛立ちを漏らした。

「影丸は影丸で人の話を聞かないわ、セルギスさんはわざわざ戦おうとするわ……。何なのあの人たち。まるで分からない」

そうだ、自分は一般人。ハンターの掟など知らない。知る由も無い。
だから一層、これが馬鹿みたいな愚かな茶番に思えてきた。
人の話を聞かず、挙げ句酷い言葉を言い放った影丸も。モンスターとハンターの因縁に従おうとするセルギスも。どちらも同じくらい真っ直ぐで、けれど同じくらい愚かで。

入る余地のないほど、彼らの間には様々な感情が繋がっていて。

「……こんな事なら、最初から笑われても良いから、言うべきだった」
……?」
「私が、人間だって。あのジンオウガが、セルギスさんだって」

は、腰に巻いた竹筒から、そっとアオアシラの爪を取り出して、見つめた。鋭利な輪郭を手のひらでキュッと握り、そして静かに戻して顔を振り返らせる。彼方で呆然と暮れるレイリンと、慌てふためくコウジンを視野に捉えると、トコトコと歩き始める。その後ろを、カルトは追いかけた。

「レイリンちゃん」

座り込んでいるレイリンを、覗き込む。慕う師にあんな風に真っ向から拒絶されては、落ち込もう。それはも共感し、可哀想に思う。けれど、今は……。
は、出来る限り穏便にコウジンを離れさせ、そして正面に立つ。

「レイリンちゃん」

今度は、強く名を呼ぶ。のろのろと、ようやく彼女が視線を上げた瞬間。
――――― は両手で、その頬を挟むように叩いた。
ヒッとカルトが肩を揺らし、コウジンに至っては鬼のような顔をした。
肉球の手のひらの割に、思いの外パンッと良い音がした。少し力が入ってしまったのか、しかめたレイリンの眉に内心ごめんと謝ったものの、真ん丸に見開いた彼女の瞳をじっと見上げた。

「弟子なんでしょ、貴方」

ぐ、とレイリンが息を飲んだ。

「師に挑んでこそ、弟子というものじゃないの」
「だって、そんなの……」
「止めると、貴方は言ったわ。私に向かって、堂々と」

片隅でコウジンがいきり立っているが、今は気付かないふりをする。

「……このままで良いの? あんな師匠で。私だったら、さっさと別のをお勧めするわよ」
「!」
「そもそも、影丸は師匠には向かないと思うの。きっとそうね、あんな風に平気できつい事を言えるなら」

わざとらしく、肩を竦める。ちらり、と見たレイリンは呆然とした表情から徐々に頬を赤らめ、怒りを滲ませる。そしての予想の通りに、直ぐに反論してきた。

「師匠は、そんな人じゃありません!」
「何故? 貴方も言っていたじゃない、あの人は怖いと」
「そ、それはそうですけど、でも! 師匠は、ずっとあれを隠してきたんです!」

はそこで口を止め、彼女を見上げた。
カルトとコウジンも、吃驚したのか目を真ん丸にしていた。

「普段は上手く笑って、でも狩猟の時にだけ見せるあの恐ろしさは……師匠がずっと人に言えなかったものなんです。太刀を振るう時しか本音を出せない不器用な人なだけです! さんだって知ってるくせに、どうしてそう言う事を言えるんですか!」

はあ、はあ、と肩を大きく上下させて、レイリンは言い切った。
それをしばし見つめ、は打って変わり優しく微笑む。

「なんだ、私に言えるなら影丸にも言えるわね。きっと」
「え……?」

面食らったような面持ちになるレイリンの前で、はそっと呟く。

「こんな場所で生活してると、神経図太く逞しくなるの。ごめんね。影丸もこんな良いお弟子さんが居るのに、酷いわね」
「え、え……?」

レイリンはしばらく疑問符を頭上で飛び回らせていたが、がわざと言ったのだという事をその後ようやく理解して、真っ赤になって俯いた。消えそうな声で、「ごめんなさい」と囁くと先ほどの剣幕が嘘のように消えてしまう。場違いではあるが、何とも微笑ましいものだった。

「レイリンちゃん、言ったでしょ。後から後悔するくらいなら、今すぐにでもした方が良いって。無くしたから泣いたんじゃ、遅いの」

レイリンは、をじっと見下ろした。自分よりも、小さくて、力の無さそうな桜色のアイルー。なのにとても、背を押すほどの強さを秘めていて、不思議な感覚に包まれた。

さんは……」
「うん?」
「後悔、した事があったんですか……?」

は一瞬目を見開いたが、直ぐにそっと細めて「そうね」と独り言のように返した。

「あるわよ、たくさん。無くしたものも、一杯あるしね。だから今になって思うもの、嗚呼あれは大切なものだったのか、なんて」
さん……」

さ、これはお終い。は手を叩いて一旦会話を打ち止めると、腕を組んだ。

「影丸とジンオウガさんを止めたいんだけど、どうしたら良いのかしら」
「止める?」

コウジンが首を傾げる。それに合わせ、カルトまで首を傾げ始めた。

「何で止めるニャー? 影丸の奴が倒したって別に良いニャ」
「……駄目なのよ、絶対に。そうさせたら」

コウジンは不思議がったままで、「分からない」とばかりに首を振った。

「……影丸は、今度こそ後悔するわよ。あの人を、殺してしまったと」
「?」
「私もね、きっと後悔する」

同じ境遇の人を失う事。そして、人が人に討たれる馬鹿げた事。らしくないほど、止めたくなった。
以前であれば、こんな風に積極的に行動する事は無かったのだけれど、サバイバル生活を余儀なくされた事で神経が図太くなったのだと思われる。今度こそ、アオアシラに出来なかった事を実行しなくては。そう意気込み、何か無いだろうかと考え込む。どうせ口で言っても聞かないのだから、もっと目に見えて分かる、例えば物とか……―――――。

「……あ」

はそこで、ようやく思い出した。影丸に会う前、アオアシラが世界から旅立つ前、ジンオウガがセルギスであると告白する前。何を、していたのか。

「……ギルドカード」

は呟くと、背後に佇んでいたカルトへバッと振り返った。その速さにカルトがビクンと飛び跳ねて怯えたが、構わずカルトに詰め寄る。

「……カルト、防具とギルドカード」
「ニャ?」
「何処に置いてきた?!」
「ど、何処って……」

カルトは思い出しながら、「人間の住処っぽい場所に」と戸惑いながら言った。
ジンオウガが、怒りのあまりにブルファンゴを引き裂いた場所……かつて人間が住んでいたと思しき打ち捨てられた村のある、平地。
アオアシラの叫び声とジンオウガの行動で、すっかりそれらの存在を忘れていたが、あれは間違いなく効果覿面のものだ。影丸とヒゲツは、絶対に分かるはず。

「カルト、取りに行くよ」
「え、此処から結構遠いニャー?!」
「それでも行くの!」

はカルトの腕を取ると、走り出した。その背を、レイリンは立ち上がって「あの!」と引き留める。

「い、一緒に……」

ギュ、とレイリンは手のひらを握りしめる。

「一緒に、行っても良いですか? な、何か手伝わせて下さい」

はしばし見つめていたが、にこりと笑って見せた。レイリンの表情がパッと明るくなり、ベコバコと長靴の音を立てながら駆け寄ってきた。コウジンは嫌そうな顔をしていたけれど、レイリンが行くとなれば黙ってはいないので、一人と三匹でその場を離れる事になる。

セルギスが自ら埋葬し掘り起こした、ギルドカードと防具。
そこへ辿り着き持ち運ぶのが先か。それとも、影丸の太刀がジンオウガの首を刎ねるのが先か。
その時はまだ、分からなかった。
あれこれ何の物語。
いつの間にか影丸とセルギスの話になってんじゃんかよ。

しかし、戦闘シーンは気を使いすぎて、頭が禿げそうデス。

2012.02.01