いつか赦し合うための戦い(4)

放たれる蒼い雷光を斬るような、斬撃が前足の爪を砕いた。思わず倒れそうになったジンオウガの巨体は、寸でのところで四肢に力を入れ大地に踏ん張った。
全身に纏った力も、可能な限り途切れないよう気力を維持し、雷光虫を絶えず呼び集める。使い方は熟知しているが、この姿の一体何処から人間であった記憶が読み取れるだろうか。改めて、笑いたくなるほど滑稽な話だ。
痺れるような衝撃に耐え、大きく身体を飛び退かせる。威嚇するように、影丸を睨み据えた。
凍てついた刃が全身を用いて大きく薙ぎ払われ、冷えた大気がその軌跡を残した。その刀身は、赤く濡れるように染まっており、それに仄かに照らされた影丸の横顔は気迫の凄みを増している。

――――― 本当に、変わった。彼は。

鬼気迫るものを抱く空気は、腕の立つ狩猟者としての風格を表して、初めて目にしたジンオウガに怯えた少年はもう何処にも見当たらない。あまりに真逆な変化がもの悲しくもあったのだけれど、その成長ぶりに反面安堵したのも事実だった。あそこまで修羅になるとは思ってもいなかったが、本当に俺が居なくてもやれているらしい、と頭の片隅で思っていた。
ヒゲツも、影丸がジンオウガに一人挑んだと聞いた時連れて行かずに別れたきりだったが、影丸と上手く手を組み立派にオトモアイルーとして健在している。思えばヒゲツと出会ったのはジンオウガが新人ハンターであった頃……今や恐らく、先輩として年長者として後輩を鍛えているのだろう。

「……不思議だな」

人の手に掛かる事を怯えていたのに。
今はそれをすんなりと飲み込んだ。
相手が影丸とヒゲツであればこその、感情なのだろうか。
薄ぼんやりと思いながら、ジンオウガが突進し前足で影丸の頭上を捉える。
その踏みつける前足をかわして、彼は側面に回り込んだ後、冷静に太刀を引き抜いて切り下げる。痛みが幾度も走りながら、ジンオウガはその姿を見下ろした。
この姿になってから、もう予想はしていたのだ。だがその中で、一度だけでなく二度も友人に会えた事は……例え獣と人の関係で、当時の面影などまるで無かったとしても、良かった。

――――― 獣として生きる覚悟。
そして、獣として死んでいく覚悟。
其処に幕を引くのは、お前らしいな。影丸。

セルギス――ジンオウガは、再び吼えると跳躍し折れた爪を振りかざした。




――――― ようやく辿り着いた、打ち捨てられ荒廃したかつての人里。
気付けば空は、灰色が一層濃く翳り、陽が灰雲の向こうで傾いてる事を示していた。全速力で走ってきたつもりだが、時間の経過は無情である。今、影丸とジンオウガはどうなっているだろうか。もう既に、互いに満身創痍の状態であるかもしれない。
は肩で呼吸をしながら、カルトへ振り向く。彼が綺麗に洗っていた防具とギルドカードは何処に置いていたか。尋ねると、カルトはしばし考え、走り出した。

「もう、何なのニャ、一体何があるってのニャ!」

何の説明もしていなかったため、コウジンがいよいよそう文句を言ったが、それをレイリンは静かに宥めた。とカルトの後を追うが、その背へと不意に声を掛ける。

さんとカルトさんが、ユクモ村の近くにまで来たのは……別の目的が、あったんですよね?
それは、むしろさんたちでは無くて……あのジンオウガが、関わっているんですよね?」

レイリンは、其処で一呼吸置いた。

「……さんは、一体……?」

は肩越しに振り返り、笑って見せた。「後で、ちゃんと話するね」
レイリンはその笑みに戸惑いながらも頷いていたが、内心では形にならない予感が渦巻いていた。小さなアイルーなのに、その背が何とも言えない、例えるなら覚悟にも似たものを背負っている。カルトやコウジンとは異なる、アイルーらしかぬ大人びた姿。彼女は、本当にアイルーなのだろうか。その姿で、疑うべきものでもないのだけれど。

程なくし、カルトが向かった先には、岩場から染み出た清水の水溜りであった。そのど真ん中で、ひっそりと転がっている防具の破片たちを発見し、は躊躇い無くバシャバシャと水溜まりに飛び込み、取り上げる。原型を辛うじて残すそれらは、いざ持ってみると中々の重さで足がよろけた。
それらを、全て水溜りから上げて、レイリンとコウジンの立ち止まった足元へ並べていく。
もともとハンターであるレイリンは、説明せずともその残骸とも取れるものが防具である事を察して、手にとって見つめていた。

「これは……誰かの、防具ですか……?」

レイリンの眼差しに、困惑が増す。は押し黙ったまま、もう一つ水溜りに沈んでいたものをそっと掴むと、服で水滴を丁寧に拭い差し出した。レイリンは遠慮がちにそれを取ると、静かに見下ろす。そして、其処に記述された名を見るや、大きく目を見開いた。
バッと顔を上げてと合わせた視線が、「どうして」と物語っている。

さん、これ……ッ、ど、何処で」
「見覚え、というか聞き覚え、あるよね。影丸から、昔話聞いたなら」
「だ、だってこれは、師匠のもう一人のハンターの名前、」

其処まで言い、レイリンは息を飲み込んだ。「まさかこれを、取りに来たんですか……?」呟き、彼女は防具の破片を撫でる。
影丸が修羅になった起因に関わる、過去の遺物。けれどそれは、当時から現在まで捜索して、欠片ほども出てこなかったと本人も言っていた。けれど、現れたギルドカードには、彼女も理解せざるを得ない。
見た事のないはずの、ユクモ村のハンターの痕跡。不思議な事に、レイリンの胸が打ち震えた。
レイリンはけれど、まだ事情を飲み込めずに狼狽えている。それを知りながらも、はさらに困惑させる言葉を告げた。

「それを見つけたのは、正確には私たちじゃないよ」
「え……」
「取り戻した、というべきかしらね。これはね、本人が掘り出したのよ」

レイリンの唇は、上手く言葉を紡げない。震えるそれは、なお震え言葉を紡げない。
けれどは、レイリンが落ち着くのを待たず、言葉を繋げていく。

「これを見つけたのは、本人よ。その人は今―――――影丸と戦ってる」

レイリンの目が、大きく見開かれる。
理解する前に、無理矢理事実を頭に叩き込められたような感覚。
が告げる言葉の意味は、脳裏で繰り返される。けれどそれは、到底現実から懸け離れているもので、そのままを受け入れるのは難しかった。
実際にも、彼女が信じるかどうかと考えると、それは当然否という事が容易に想像出来た。が口にしているのは、人間がモンスターになるという御伽噺そのもので、与太話と笑ってもいいほどのものなのだ。
けれど、はそれを曖昧にぼかす事無く、真摯に言い切る。ギルドカードをそっと彼女の手から取ると、腰の物入れへしっかりと仕舞う。

「あのジンオウガが人間? ニャッニャッ! そんな馬鹿な事はないニャ~!」

コウジンの笑い声が響いたが、構いはしなかった。は黙々と、防具の破片を持てるだけ持ち、腕に抱え込む。

「笑っても良いわ、少なくとも私は……あの人が人間であると知ってるもの」
さん……?」
「……あの人を否定するのは、私自身を否定するから。姿形が変わっても、セルギスという人間であると、私は信じる」

レイリンの眼差しを振り切って、は立ち上がる。全て持ち上げられなかった防具の破片は、カルトが代わりに持ってくれた。最初は笑っていた彼が、を見つめる大きな瞳は……彼の胸中を表しているように、穏やかだった。は微笑み、そしてレイリンとコウジンを見つめた。

「ともかく、私はあれを止めたいと思うの。この防具とギルドカードは、それに効果があるから持って行くわ。……信じるかどうかは、今は聞かないから」

防具を抱え、はヨタヨタと駆け足で向かう。ジンオウガと影丸が向かった方向は、恐らく思うに大河のほとり。単なる直感で、確信はないが、はともかく急いだ。
人とモンスターの摂理に反する事が、如何ほどの事であるのか分からない。けれど……わざわざ、立場が変わったとはいえ友人同士が本気で戦うという酷な選択を選ばずとも良いはずだ。避けられるものであるのなら、避けるべきであり、そしても人としてそう思う。


残されたレイリンは、しばし動けずに居た。コウジンはそれを、「アイツらが阿呆な事を言うから」と隣で口にしているけれど、そうではない。
あの目が、あまりに真剣だからこそ。与太話と、笑う事が出来なかった。
こぼれ落ちた破片を見つけ、それを拾い上げ、レイリンは手のひらで握りしめる。古く、少し錆びた感触。何かの鱗で繕われたように思えるが、血の痕跡と思しきものが染み着いて判別は難しい。その様子は、狩猟者の彼女の胸を締め付けた。これを着ていた人は、きっと途方もない重傷を受けてしまったのだろう。そんな風に思いながら、レイリンはそっと瞳を閉ざした。そして立ち上がると、とカルトの後を追いかける事にした。

「旦那様?!」
「……あのジンオウガが人間であるかどうかは、今は考えない。でも、師匠は……止めたいの、どうしてか」

砕けた鎧、血の痕跡、の真摯な眼差し。
どれもこれも現状を理解させるものでなく、一層困惑させるものだが……自分で口にした言葉は、今度こそ叶えなければならない。

「……弟子だものね、私も」

コウジンは何とも言えない表情をしたが、「旦那様が言うなら付き合うニャ」と笑った。




ガシャ、ガシャ、とよろけながら進む道は、徐々に暗さを増す。傾斜のせいか足がもつれそうになったが、其処で止める訳にも行かないためはひたすらに降りる。洗っても落ちなかった汚れで、素人には何の防具かも分からないが、影丸とヒゲツならばあるいは、と期待する反面、若干の不安も否めない。
ユクモ村で話をした時から、彼からは言い様の無い激情を度々感じていた。悪戯っぽい笑みから時折顔を覗かせていた、怒り、悲しみ、あるいは懺悔。その感情が、果たして冷静さを取り戻す事を受け入れてくれるものか。

( ……受け入れて貰わないと、困るんだけど )

七年前にあったという、ユクモ村のジンオウガ討伐狩猟の凶事。
影丸はその時セルギスを殺したと思っているのなら、今回もしも太刀を突き立てれば、今度こそ彼の手で殺める事になる。
その時彼はきっと……今以上に、自分を許さなくなるのだろう。

ジンオウガ……いやセルギスは、どう思っているのだろう。
影丸と、モンスターとして対峙した事を。

そんな風に意味も無く様々な思惑を巡らせていると、耳に微かな音が届く。
獣の声、人の声、そして地面を蹴り大気を震わす振動。
静かな空気が、激しく波打つ。その振動が、近づいてくる。
は危なっかしくも、早足で向かった。背の高い草を分けながら進んだ傾斜が、不意に終わる。飛び出すように進んだ先には、暗がりを引き裂く鮮烈な蒼い雷光が瞬いていた。
雷光虫の優雅な淡い光ではない、空をも断つような、地を抉るような、激しい蒼い雷が照らし出していた。視界が染まるほどの、痛烈な光。その中心には、全身の堅殻を逆立てて雷撃を纏うジンオウガが居る。
そしてその向こうには、肩で呼吸をしながらも太刀を強く握りしめ攻撃の姿勢を崩さない蒼い武者姿の男性……影丸が居る。

その光景の、人ならざるものとの戦いの激しさにも当然目を見開いたのだが、彼らの身なりにも息を飲んだ。
ジンオウガの立派な爪は、両方とも砕け、光り輝く堅殻の表面は幾重にもあの斬撃の痕が刻み込まれている。
対する影丸も、頬が切れ乾いた血の筋が首筋にまで伝い、勇猛な鎧に 爪痕を刻み込んでいる。

これが恐らくは、ハンターとモンスターの戦いの光景だろう。
それは、割り込む隙すらも与えぬ空気で、かつていた世界でもこれほどの緊迫感を味わった事はない。
だが……。

「――――― あ、!」

防具をその場に放り投げ、カルトを置き去りにし、雷光が飛び交う彼らの元へ走った。
ジンオウガの開いた顎が牙を向きだし、影丸の引き抜いた赤い太刀 が薙ぎ払われる。

は、ジンオウガの太い尻尾から駆け上がり、その背から首にしがみついた。
ハ、とジンオウガが一瞬振り返り、牙の切っ先がそれる。
けれど、影丸はそうでなかった。好機とばかりに笑みを深め、その竜の顔めがけて太刀を振るった。赤く滲む刀身が横へ払われるのを見て、ジンオウガは咄嗟にを庇って首を捻ったが、その切っ先はジンオウガの勇猛な象徴でもある尖角を貫き、そして。
鋭利な刃で、砕くように奪い取った。

響きわたったジンオウガの獣の悲鳴と共に、砕かれた角と蒼い雷光が弾け飛ぶ。
王者の身体に巡っていた力が霧散し、輝かしい光が失われる。

「ジンオウガさ、」

反り返った彼の大きな身体は、色濃くなった灰色の空を仰ぐ。そしてゆっくりと崩れ落ち、水の含んだ大地に轟音を立てて横たわった。吹き飛ばされたは、大地に打ち付けられた衝撃で視界が揺れ、ろくに立てなかった。無理矢理立たせた足は、震えて、直ぐには歩けない。
力なく空を掻くジンオウガの太い四肢が、静かに止まって、身体を激しく上下させて呼吸を繰り返す。
限界時間を超えて超帯電状態を維持した肉体が、ついに疲労を訴える。もう、立ち上がる気力も……無くなってしまった。
その向こうで、太刀を構え直した影丸が見えた。その刃は、首を狙い、静かに持ち上げられる。

――――― 口を大きく開いて、叫び声を発する間際。
の横を、細い影が横切った。
半ば転げるように走ったその影は、横たわった大きなジンオウガの前に飛び込む。勇気の限り、両手を広げて阻むように膝立ちして影丸を見つめた。

激情が逆巻いていた影丸の目に、僅かな冷静さが戻った。

割り込んだその人物の影を、穿つ直前に太刀の軌道を無理矢理逸らした。
ザン、と大気が引き裂かれ、その振動が辺りに響きわたる。
影丸の狙い澄ました太刀は、大地を貫いていた。その人物の、ほんの僅かな顔の横を通り過ぎて。

「……旦那!」

剣を手に持ったまま、慌ててヒゲツが影丸の元へ駆け寄る。
影丸は激しく呼吸を繰り返しながらも、目の前で自らを阻むその人物を見据えた。

「……邪魔をするなと、言ったはずだ」

ぎ、と睨む眼差しは冷徹で、圧力の塊であった。
それを受け止めてもなお、割り込んだ人物――レイリンは、退こうとしなかった。細く小さな身体は震えて、恐怖を表していたけれど、懸命に強く奥歯を噛み締め耐えた。

「止めて下さい、師匠」
「二度も言わせる気か、退け」
「――――― もう止めて下さい!」

吸い込んだ息は、予想以上に大きな声となって飛び出した。その大きさに、影丸も一瞬目を見開いた。
ギュ、と一度瞼を閉じると、再び開け「止めて下さい」と告げた。

「何か良く分からないけど、止めろって旦那様言ってるニャ! だから止めるニャ!」

追いかけてきたコウジンが、同じように立ち塞がる。
ヒゲツの金色の目が、スウッと細められる。それに悲鳴を漏らしたものの、コウジンも其処から逃げようとはしなかった。

「カ、カルトとが、や、止めろって言ってたのニャ。それに、何か見せたいものがあるって……だ、だから」

言いながらも段々と、コウジンの声は小さくなっていく。
「何?」と影丸とヒゲツの目が怪訝に歪んだ時、ガシャガシャ、と場にそぐわぬ音色が彼らの元に届く。視線をずらすと、横たわったジンオウガの向こうから何かを抱えて、慌てて駆け寄ってくるカルトを見つける。

「うん、しょ……! とにかく止めて、これを見るのニャ!」

カルトは、ガシャリ、と抱きかかえていた破片の山を、半ばばらまくように影丸とヒゲツの前で広げた。
彼らの視線が、その破片たちに向けられている間、はよろよろとジンオウガの元へ歩み寄る。力なく投げ出された尻尾を伝い、ボロボロになった後ろ足を横切り、傷だらけなその大きな身体を見上げ、彼の顔の前に移動する。

「ジンオウガさん……」

角が砕かれ、顔に惨い傷跡を刻んで、彼は微かに呼吸を繰り返している。
グルル、と力なく呻くと、ジンオウガの蒼い目がを見た。

「……飛び込むやつが、あるか……馬鹿だな」
「ごめんなさい、角を……。でも……どうして……」

こんなになるまで、影丸と戦おうとしたの。
ぺたり、とは座り込み、そしてその顔に額を押し当てた。
小さなアイルーの温もりが、傷跡を包み込むようで、ジンオウガの疲れ果てた瞳を穏やかにさせる。


「……何だ、その破片は。これが何だって言うんだ」

低い影丸の声が、レイリンたちに落ちる。カルトも思わずギュッと手のひらを握ったが、「ちゃんと、見るニャ」と破片を拾い上げ彼に突きつける。

「アンタたちなら、ちゃんと見覚えあるニャ? 無いなんて、言わせニャいぞ!」

ほら、と見せるカルトの気迫は、冗談でこの場に割り込んだ訳ではないらしいと、影丸に理解させる。だが、目の前のジンオウガを討ち取るには今が最も好機である。どちらが優先的かと言えば、当然ジンオウガである。影丸は視線をそらし、大地を貫いた太刀を引き抜くと、それを握りジンオウガの元へ向かおうとする。
だがそれを止めたのは、腰にしがみついて懸命に抑えてくるレイリンだった。

「ッお前な、いい加減に……」
「師匠は、誰も殺してなんかない」

ぴたり、と影丸の動きが止まる。
レイリンは彼を見上げずに、地面を見つめたまま告げた。

「師匠の言う、七年前のジンオウガ討伐狩猟……あの時確かに私はまだもっと子どもで、ユクモ村にも全然関係無かった。だから、師匠の昔の事分からないです。でも……ッ」

ぐ、と細い腕でしがみついた。

「誰も、殺してない。誰も殺してなんか無いんです。これからも、ずっと、誰も殺さない」

涙を堪えた声音は、震えていた。気弱なくせに必死に告げる彼女に、影丸は頭の芯が静かに熱を引いていくのを覚え、呼吸を静かに宥めていく。

「……何を、言っている?」

影丸がそう漏らした瞬間、隣でガランッと剣を落とす音が響いた。
ふと見れば、ヒゲツの手からベリオSネコ包丁が落ち、カラカラと地面の上で揺れていた。
「ヒゲツ?」影丸が名を呼んだ時の彼の表情は、普段の鋭さが嘘のように消え、代わりに意識を狩場から遠ざけ呆然としていた。力なく踏み出した足は、破片の元へ向かい、ぴたりと止まる。小刻みに震えた漆黒の手が、恐る恐るとそれを拾い上げ、しばし見つめ、そして。

「……《旦那》」

涙ぐんだヒゲツの声が、破片へ落ちる。
砕けても、汚れても、決して忘れる事の出来なかった、彼の記憶がこの破片に宿っている。

その様子を見て、影丸はカルトが差し出した破片を手に取った。真新しい質感は無く、むしろ古く錆びた血痕がこびり付いている。ザラザラとした手触りの中で、この破片が何かの砕けた防具である事は直ぐに察した。だが、この持ち主が誰であるのか、破損している理由は何故なのか、自分には関係のない事であるはずなのに酷く気掛かりであった。
戦いに高揚していた身体が、ぞわりと悪寒を走らせるような、不可解な予感が巡る。
腰に縋っていたレイリンを押し退けると、太刀を握り締めたままヒゲツの隣へ並び、膝をつく。ヒゲツは破片をきつく握り、俯いたままだった。だが微かに震える肩から、感情を堪えているのは察するのは容易だ。
原型らしい形を残しているその残骸を見下ろし、影丸の思考が次第に冷静さと困惑で混ぜられていく。

「……何処で、見つけた」

何故このタイミングで、これを見つけ出す。
影丸は言葉にはしなかったが、この防具の破片が何なのか、既に理解していた。古ぼけ血で汚れていても、形や感触が異なっていても、記憶のものと合致する。
明らかにうろたえた影丸の表情は、ジンオウガに太刀を振りかざした凶暴さは無く、人としての表情が戻っている。ぺたり、と膝立ちの状態から地面に座り込んだレイリンが、小さな声で影丸に返した。

「それを探すために、さんとカルトさんやアオアシラは、ジンオウガと一緒にこの渓流に来ていたらしいんです……」
「探す、ためだと……」

カルトは、の側に駆け寄ると、彼女の腰に巻いた竹筒に手を突っ込む。指先で手繰り寄せたギルドカードを掴み、再び影丸の前に立つとそれを見せる。

「見つけたのは、ジンオウガだニャ。これ、ほら」
「……何故、俺たちが探しても見つからなかったものを、ジンオウガが探し出す? モンスターになんぞ、必要のないもの、」

言いかけた彼の言葉が、止まる。息を飲み込んだ音すら聞こえるほどの沈黙が、舞い降りた。
古ぼけた、ギルドカード。懐かしくも、今も影丸を後悔に苛ます、かの人の名と姿を刻んだそれが、微かに震える。握った影丸の指先が、意思に反してそうさせていた。
よほどこれは、影丸やヒゲツにとってうろたえさせる代物であるらしい、とカルトは思いながらも、ふわりと舞い踊った雷光虫を払いつつ呟く。

「本人が自分で埋めたらしいから、ジンオウガが見つけて当然ニャ」
「何だと……」
「だから、それを探し出したのも、隠したのも、本人なのニャ」

困惑が通り過ぎて、笑いすら込み上げてきた。渇いた呼吸の混じったそれは、影丸の頬を強張らせて微かに響く。
考えたくもない事を、考えても気が触れたとした思えない事を、目の前のアイルーは言っている。そんな馬鹿げた与太話を、理解している自分もだ。
どうかしている、そんな事があるはずがない。

「世迷言だろ、じゃあ何だ、そのジンオウガは ―――――」

その時、グルル、と不意に気弱な王者の唸り声が漏れた。先ほどまでの覇気をなくした、竜の瞳が、影丸をじっと見つめている。
まるで、見知った人物を見つめるような、王者にそぐわぬ穏やかな眼差しだった。
おいおい、何でそんな目をしているのだ。お前は、お前たちは、本能のまま行動する獣だろう。何故、人間の感情に酷似した色をしている。
それに寄り添った、桜色のアイルーも、アイルーらしかぬ仕草でジンオウガの折れた角を撫でる。頬を寄せたまま、その口が小さく開いた。

「――――― セルギスさん」

何でこの場所で、その名前が出てくる。
あのジンオウガが、セルギスの訳が無い。
世迷言と吐き捨て、切り捨ててしまえば良かったというのに。太刀を握った手は、力無く下がっていき、その奇妙な光景から視線が逸らせなかった。
これは一体、誰のターンですか。

2012.02.01