私が唯一選べる未来を、貴方にあげます

最初出会った時のように、ジンオウガはその身に争いの痕跡を刻み付けた。痛ましい様はの胸を締め付けるが、ただ異なるのは、彼は自ら望んでの結果であると諭すような、眼差しであったのだ。
戦いの気配が消え失せた渓流は、深く陰り、取り戻した静寂で周囲を取り囲む。
動揺を隠せない影丸とヒゲツ、そしてレイリンとコウジン。
不安げに見つめるカルトの、あらゆる感情を含んだ眼差しを一身に受けて、とジンオウガは誰にも通じぬ言葉を交わした。

「……どうして、影丸とヒゲツと……」

ジンオウガの横顔が、笑うように揺れた。疲れ果て、動けないのだろう。

「……お前は恐らく、人であった時も、武器を持たぬ一般人でだったのだろう。分からないかもしれないが、」

ヒュー、ヒュー、と渇いた呼吸音が顎から漏れる。彼はを見なかったが、その言葉は確かに彼女へと向いている。

「姿形が変わっても、戦う事への欲求は無くならない。人とモンスターの掟は俺も十分に、承知しているし……影丸とヒゲツが向かって来ても、文句はない」
「ッ答えになっていない」
「……嬉しかったんだよ、俺は」

は、目を見開いた。

「俺の名前はもう、何処にも無いかと思っていた。だが、影丸やヒゲツは覚えていた……俺が人であった証は、奴らにちゃんとあったらしい。それが見えるのなら、例え獣の姿で戦う事になっても、構わなかった。むしろ本望だろう、昔も今も戦いに投じてきた身の上には」

ジンオウガの青い瞳が、影丸とヒゲツを見つめる。「……人の姿でなく生きて、死んでいく覚悟はもう出来た。今は、影丸に討ち取られても構わない」
まるで、最良の望みを告げるように。ジンオウガはそう言うものだから。
はパチリ、とその顔を叩いた。

「……散々、人に戻りたいって言っていたくせに」
「……そう、だな」
「恨んでいるって、言ったくせに」
「否定のしようもない」
「――――― 今更、物わかりが良くなって、友達に殺されても良いなんて、馬鹿じゃないんですか」

語尾が荒げられ、力のない手のひらがペチペチとジンオウガの頬を叩く。痛みも何も無いだろうが、彼は少しだけ切なそうに青い瞳を細める。

「……そうだな、存外馬鹿かもしれない。二度と会えまいと思っていた知り合いに、会えたせいかな……。どこぞの知らないハンターに負けるよりかは、よほど良い」
「何ですか、それ……ッ」
「……少し、血が、出過ぎたかな。頭も働かない」

は、ギュッと手のひらを握りしめ、そして見下ろす。
人間とはかけ離れた、この肉球つきの小さな猫の手。何度見ても悲しくなったが、今ほど憎い事は無い。
ジンオウガは、影丸に通じる事は無いと分かっていたが、それでも掠れた声で言った。

「……やれ、影丸。お前は、ユクモ村の英雄だろう」

ウォン、ウォン、と弱々しく吼える様に、影丸は言いようのない戸惑いに苛まれ、見つめる他無い。
これはジンオウガ、かつてユクモ村を何度も危機に晒してきた凶暴なモンスター。疑う余地は無い、この太刀でその首を跳ね飛ばせ。
頭は、あるべき行いを訴えているというのに、身体が動きそうに無い。

「……人として、生きたいでしょう」

は呟き、ジンオウガの眼差しを無理矢理向けさせる。

「諦めたつもりになって、獣として生きたいなんて。そんな馬鹿な話ないわ、貴方は今も人として生きたいと思ってる。戻りたいって思ってるじゃない。自分の防具やギルドカードを、捨てずに埋めて、それを探しに来て。なのに、どうしてわざわざ……」

の小さな手が、気弱な目の下を撫でた。そして、ぐっと強く手のひらを握りしめる。

「人間に戻りたいって、私は今でも思ってる。こんな姿ごめんだわ、セルギスさん、貴方は本当にジンオウガとして生きて死んでいくの?」

の無意識の言葉は、見守る他無かった影丸やレイリンらの目を大きく見開かせた。
ジンオウガは、ただ静かにを見つめていた。そうか、それがお前がずっと抱えていた叫びか……。安堵にも似た想いが、疲れ果て気力の無い心臓を震えさせる。

「……人間に戻る術は、もう無い。戻れるのであれば当の昔に戻っていた、そう言っただろう」
「セルギスさん」
「……モンスターは、人の世界へは行けない。これは掟だ」

まるで言い聞かせるような、淡々とした言葉。それが本心であるというのならば、彼の望むようにするべきなのだろう。けれど……。
この瞳は、獣の瞳ではない。その事実が、言葉無くともに伝わった。

「……私は、セルギスさんよりもずっと短い。アイルーの姿になってから。だから、まだその境地にまで至っていないからなのでしょうけど……」

は、すくっと立ち上がる。ジンオウガの眼差しが、の動きを追った。

「……人間に戻りたいっていう気持ちは、多分ずっと付きまとう」

は静かに言うと、戸惑っている彼らの足下で背を伸ばし、そっと尋ねた。

「誰か、ドキドキノコっていうキノコ、持ってない?」
「え、ド、ドキドキノコ……?」

の背後で、ジンオウガの目が見開かれた。

「あ、わ、私、ありますけど……でも……」
「ごめんなさい、一つ分けて下さい」

隣で、カルトとヒゲツが止めるようにへ近づいた。
レイリンがポーチを探っている間、ヒゲツが困惑しながら言う。

「ドキドキノコは何が起きるか分からない、食べて死んだ実例もある、何故貴方がそれを」
「必要だから」

はそれだけ言い、レイリンの手からドキドキノコを一つ受け取った。「ありがとう」と笑うも、彼女からは狼狽える表情しか返ってこない。
キュ、と握ったドキドキノコは、紫色で妙な斑点模様も笠に描かれている。何が起きるか分からない未知のキノコ。その不可解な謳い文句に相応しい、怪しさ満点のキノコだった。それを落とさないようしっかり手のひらで茎を掴み、顔を上げた。

「……あのジンオウガがセルギスさんなんて、貴方は信じないでしょうね」

当然だろう、という眼差しが落とされる。けれどそれに混じり、否定しきれない困惑も含まれていて、少し嬉しかった。

「もしかしたら、それが分かるかもしれないわ」
「! どういう事だ」
「……その前に、影丸。もしセルギスさんだって信じてくれるなら、その太刀は仕舞ってね」

約束よ、と影丸の返答も聞かずに一歩的に告げると、スタスタと場違いなほど明瞭な足取りでジンオウガの元へ戻った。彼の眼差しは……何処か諦めがあった。

「……ドキドキノコ、まさか食べさせるつもりか。止めておけ、もう何回も口にしたが人間に戻る事は無かった。効果はない」
「……そうかもしれない、ですね。でも、貴方がジンオウガになったのはこのキノコが切っ掛け。そうでしょう。なら、終わりの切っ掛けもこのキノコだと、思うんです」

だから。は、一度呼吸を整え、静かに呟いた。

「今度は、私も一緒に食べます」
「……! それを食べる、だと」

頭が可笑しくなったか、それは人が食べられる味も効果も無い。彼の目が、そう非難するかのように告げている。だがは気にせず、そのキノコを慎重な手つきで半分に裂き、片方を差し出した。

「効くかもしれない、効かないかもしれない。今度は、どうなるかも分からない。でも、今度は私も一緒に食べます、そうすれば……少なくとも、同じ効果が現れるかもしれない。毒に犯されても、また別の姿になっても、私もそうなれば貴方の裏切られた感情も多少は減るでしょう?」
「何を、言っている……お前」

青い目が、困惑に揺れる。
激しく、動揺していた。
対するも、落ち着いているように見えて実際は心臓が飛び跳ね、恐怖に慌てふためいていた。アイルーの姿から、今度は別の姿になるかもしれない。食べた瞬間、死んでいるかもしれない。その断定できない状況を、一口かじった瞬間訪れるというのは、何の心構えを用意しても意味がないのだろう。けれど、これがもしも人に戻る可能性も秘めているのなら。

「……同じ境遇のが居れば、少しは貴方も寂しくないでしょう?」

――――― 何度も、それに縋る。

ジンオウガはしばし口を閉ざしていたが、の背後に見える影丸やヒゲツらがふと視界へ朧気に映る。困惑し、事態をまだ受け入れられないように、呆然とする彼らの眼差しと、ジンオウガの瞳がぶつかった。

「……食べなければ良かったと、後悔するぞ」
「……その時は、その時です。一緒に、泣いてあげますよ」

不釣り合いなの笑みが、嫌に眩しく思えた。
ジンオウガは、ぐぐ、と首を動かし、顔を寄せると、の差し出した半分のドキドキノコを口にくわえ、静かに咀嚼する。
も、ギュッとなけなしの勇気を振り絞ると、それを一気に口に頬張り、飲み込んだ。
ざわ、と揺れた空気は、カルトの声だったか、それともレイリンや影丸の声だったか、分からなかった。
飲み込んだ瞬間、身体の内側から激しい熱と痛苦、吐き気が暴れ出し、衝撃のように身体の力を奪い取っていく。その味も、言葉にし難いもので、美味でない事は間違いが無いが、それを口にする事も出来ない。
スウ、と抜けていく意識で目の前が閉ざされ、崩れ落ちていく身体。ジンオウガの顔に寄りかかった事だけは、ぼんやりと感じていたものの、開く事は叶わなかった。


人の姿を失ったアイルーの、決断が如何なるものか。
それでも渓流……いや世界は、あくまで静まりかえり、無音を保っていた。
先人の知恵を拝借。
大事な事なので、二回言いました。

2012.02.01