其は無双に誉れ高き(1)

――――― 普段の渓流とは、様子が異なっているのは確かだった。
張り詰めた静寂、息を潜める生き物、冷たい夜風……太陽の陽射しに映し出される景観とはまた違う美しさがある、あるのだが、《何かが》違った。
は、茂みに身を潜めて硬直した。普段見るジャギィだって、姿がない。何だろう、この異様な静けさは。
普段顔を洗いにいくせせらぎは、憎いファンゴが占拠していたために場所を変えてちょっと遠いところにまで来てしまったのだが、後悔の念が過ぎる。おのれファンゴ、と内心呟いても今さらだ。

「もう、何なのよ―――」

野生の勘、というのだろうか。どうもこの環境に身を置いてからというもの、神経が鋭くなった。
一気に突っ切るか、と身を乗り出した時だった。ふわり、と舞う丸い光が、カエデの視界に飛び込む。蛍火のようにほのかな光……それは《雷光虫》だった。山菜爺から譲り受けた埃まみれの本に書いてあった昆虫の名の中で、蛍みたいだと妙に印象があったためよく覚えている。夜の渓流を彩る一つだが……は、絶句する。
何だか、物凄い、多くないか。
ふわふわなんて、可愛いものじゃない。わっさわっさと、丸い光が同じ方向に流れていく。その上、小さな光も百も千も集まればなんとやら、夜であることを忘れるほど眩い。ここまで多いと、逆に恐怖すら抱いた。
渓流での生活が、決して長いわけではないが、このような光景は初めて目にした。

「こ、これは、何かヤバイ予感」

は即座に茂みを飛び出すと、雷光虫の群れの波に逆らいながらひた走る。バチバチッと静電気みたいな刺激が鼻先に当たったが、背後で感じる不穏な気配に気にしていられない。雷光虫の異様な群集を振り切って寝床に戻り、ガーグァの羽ベッドに埋まったは、しばし眠れなかった。
あの光景は何だったのだろう。
その疑問がよもや、新たな出会いの引き金になるとは、この時思いもしなかった。



――――― 結局あまり眠れずに翌朝を迎えた。
のそりと起き上がり、ガーグァの羽ベッドから降りる。すっかり慣れた、岩窟の無骨さ溢れる岩壁内部の宅は、カルト作の家具 ( 頼んだら文句を言いながらも作ってくれた。良い子 ) で結構悪くない。地面もゴツゴツとむき出した岩肌のため、ボロ布を重ね合わせて見繕ったカーペットは足の裏をしっかり保護。裁縫が得意なわけではないけれど、やらざるを得ないため、一般人よりちょっと上手くなった気がする。アイルーの生活にしては人間味溢れるこの寝床風景……自分は人間であると、思える。
だが、しかし、のささやかな暮らしも、デンジャラスなこの環境では打ち壊されそうだ。
まだ過ぎる、雷光虫の群集。綺麗ではあったのだけれど、異様な……まるで《何かを追い求めるような》光景だった。目を擦り、入り口を隠すように垂れた蔦をそっとくぐり、顔を出しうかがう。朝霧がうっすらかかる、深緑豊かないつもの風景があった。少し濡れた草木の匂いと、自然の静寂、何処からか聞こえる水の音……いつもと変わらなかったけれど、何故か妙に落ち着かなかった。

「気にしすぎなら、良いんだけど……」

はそのまま、器用に岩壁を伝い降りて、タシッと地面に脚をつける。
今日は何をしようか、と思うことで、不意に歩み寄る不気味さを払おうとした。結局、いつものように山菜爺のもとへ足を運び、また何か本など譲ってもらえないか聞いてみることにした。

最近は体力がついてきたようで難なく野道を進み、馴染みの竹林に辿り着く。出迎えるアイルーの群れと山菜爺の姿に、心をほっと落ち着かせて、少しだけ早足に近寄る。

「おはようございます」
「ニャ、おはようニャ」
「今日もべっぴんさんだニャ」

……打ち解けてからというもの、この群れのアイルーたちは決まってこう口説いてくる。当初の「コイツ馬鹿だニャ」発言とは大きく異なる反応だ。ここで喜べば可愛いのかもしれないが、残念なことにアイルー姿でも心は人間であるにはいまいちときめきが少ない。いや、彼らの可愛さは、十分に分かっているが。
がいつものように「はいはい」と軽くあしらい、ちょこんと輪の中に入り座る。それと同時に、「昨日は凄かったニャ」という言葉が隣のアイルーより放たれる。昨日、というのはもしかして……とそのアイルーに顔を向ける。

「また何処かから、流れのモンスターが来たニャ。たぶんデカいヤツニャ」
「普段うるさいファンゴも静かだったニャー」

……なんて、まるで「隣に引っ越してきた人がいた」と同じ言い方であるが、ところどころ突っ込むべきところがある。和むアイルーらの中で、はブハッと噴き出す。

「え、モ、モンスター……?!」
「? そうニャ、も気付いたニャ? 昨日は何処もかしこも静かだったニャ」
「いやそりゃ気付いたけど……大型のモンスターなの、しかも?!」

それはなんてまあ、一大事だろうか。とが慌てる傍ら、アイルーらの眼差しは実に怪訝で不思議そうにしていた。

「別に普通ニャー」
「流れのモンスターが来るなんて、珍しくないニャ。いつものことニャ」
「い、いつものことって……」
「ここは色んなヤツらが生きてるニャ。ハンターに狙われて流れてきたり、餌場を変えたり、そんなヤツらも多いニャ。ボクらも干渉しない、向こうも干渉しない、だから別に大変でもないニャ」
「この渓流は、ボクらのものじゃないから、当たり前ニャ。は変なヤツだニャ」

……少しだけ恥ずかしくなって、は落ち着きを取り戻す。それもそうだ、この場所に暮らしているのはだけではない。様々なモンスターがそれぞれの生活を送っている。やアイルーもその中に含まれる。けれど、思いのほか殺伐としていないのは、それぞれがそれぞれの領分と、そして自然の摂理に本能で従っているから。
人間の杓子定規で推し量ることはお門違いなのだ。
哲学を一つ学んだような気分がしたが、アイルーらはそこまで深く考えていない可能性の方が高い。
まあともかく、大型モンスターが現れるのはおかしくはない、と。

「……そうよね、渓流といっても広いのだし、今だって近くにアオアシラがいるんだものね。はい、分かりました。
で、何のモンスターか皆は分かってたりする?」
「さあ、知らないニャ」
「見つけたらボクらは全力で逃げるだけニャー」

は「そう……」と声を潜ませる。あの雷光虫の群集は、その大型モンスターとやらのせいだろうか。もしかして、雷光虫の首領のような巨大昆虫だったらどうしようか。
……うっかり想像してしまい、気絶しそうになる。血の気が引き、急に寒気が這い上がってきた。
アイルーらに昨晩のその群集のことを伝えようとした、その丁度良いタイミングで山菜爺がひょっこりと輪に入ってくる。

「ま、ここにも色んなヤツらがいる、それだけじゃて」
「お爺さん」
「また来たのか、暇じゃのー」

身の丈とほぼ同じ大きさの篭を、よいしょと脇に置いて、山菜爺が座る。の桜色の毛をグシャグシャとかき混ぜながら頭を撫でてくる。もう慣れたが、整えた毛並みを遠慮なく壊すのは止めてもらえないだろうか。そう言っても、きっとまた耳の遠いフリをするのだろう。

「もう、すぐそう言うんだから。……あ、ねえ、お爺さん?」
「んー?」
「昨日なんだけれど、実は雷光虫が―――――」

凄いたくさん居た、と続くはずだったのだが、の前にまた埃まみれの本が一冊差し出された。言葉を飲み込み、思わずそれを見つめると、「それは?」と山菜爺へ尋ねる。

「おぬしにこれをやる、また読めばええ」
「ありがとうございます、いつも。ちなみに、これは?」
「ハンターさんたちが持ち歩いてる、調合の入門書じゃて。1冊しかないが、まあええじゃろ」
「……チョウゴウノニュウモンショ?」

手に取り、表紙を眺める。一体何の調合なのだろう……この世界のハンターとやらは何かを作ることもするのだろうか。不思議がるの傍らの山菜爺は、相変わらず「ホッホ、読めば分かるじゃろ」といつもの調子で笑って、聞く気がない。は首を傾げながらも、せっかく頂いたものなのだから後でしっかり見てみようと「ありがとうございます」と再度礼を言った。ギュッとアイルーの腕で本を抱くと、その埃っぽい匂いが鼻を掠めた。
その後アイルーらも各々採集に、山菜爺もまた散策に出るため、一旦お開きとなり、もまた通い慣れた野道を下り、寝床のある森林へと戻ることにした。結局、昨晩の雷光虫の群集のことは聞けなかったが、まあいいか。せめて、新しくやってきた大型モンスターが、巨大虫でないことを祈る。切実に。

その途中で、得意気な顔をして魚を獲っているアオアシラと鉢合わせした。水中を横切る魚を、その甲殻で覆われた腕ではじき出して川岸に投げ出す。その姿を見ると青熊獣らしい獰猛さも漂わせたが、目が合うと「さん!」と駆け寄ってくる姿は可愛い。蜂の巣事件で親しくなったアオアシラの《アシラくん》のようだ。すっかり懐いてくれて、赤い目は笑うように緩まっている。

「おはよう、これからご飯?」
「うん、さん、も?」
「私は、もう食べたから」

アシラくん食べちゃいなよ、と言えば目の前でバリバリと魚が砕かれていく。う、ちょっと凄い食事風景……だけど……アオアシラの顔を見ていれば可愛く……可愛く……

……見えなくも、ない。

食事というよりも腹に流し込むと言い改めた方が正しい光景だが、アオアシラはごくりと満足げに飲み込む。

「……? さん、それは、なあに?」

アオアシラは、くりっと顔を傾げ、の腕の中にある本を見つめた。《本》というものを見たことはないのだろう、は近くの手頃な岩に座り、それを開く。埃っぽい匂いが一層強まったが、涼しい風に流され特に気にはならない。不思議がるアオアシラも、その巨体をのそりと動かしての隣にお尻をついて座ると、前足を地面につけ器用な格好で覗き込んでくる。

「これはね、《本》って言って、人間が見るものだよ」
「ニンゲンが? 食べられるの?」
「食べるものじゃなくて、見るもの。書いてあるものを見て、学ぶの」

アオアシラはよく分かっていないが、「貴方もお母さんの後ろをついて、色んなものを見たでしょ。それと、同じだよ」と言えば、何となく分かったようで「へえー」と漏らす。

「ニンゲンの、何で、さん見るの? ニンゲン怖いって、母さんから教わった」

怖い、というのは、恐らくハンターなるものたちのことを指しているのだろう。けれど、全ての人間をも含んでいるようにも聞こえ、は一瞬だけ言葉に詰まる。アイルーの姿をしているが、本来はその人間なのだ。
けれど……。

「……人間の生活に、憧れているの」
「アコガレ?」
「人間の生活を、送ってみたいなって。だから、見ているのよ」

……それも、本心だった。アオアシラやアイルーらから見れば恐ろしい存在であっても、その人間の生活を捨てきれない。
アオアシラはよく分かってはいない様子だったが、それでもから放たれる空気に何かを察したのか、しょんぼりと落ち込む。

さん、居なくなるの……?」
「え?」
「ニンゲンのところ、いつか、行くの?」

クゥン……と悲しそうに鳴いた彼は、獰猛な容姿に反し何とも気弱げで可愛かった。「今は、未定だけどね」と返し、よしよしと頭を撫でてやる。

「いつかは、と憧れるところだけど、今は人間のところには行かない。本当よ」
「……本当?」
「うん、まだ行けないもの」

人間の姿に戻れる方法も探さないとだし、何より……もっとこの世界のことを学ばなければならない。
そして、これが最も重要なのだが。

「ちょっとだけ、ここの生活好きになれそうだし……アシラくんやカルトと一緒に居るの、楽しいものね」

にっこりといえば、しょぼくれた空気が急に明るさを取り戻していく。の顔に自分の顔を擦りつけてきて、それがまた何とも可愛かった。ちょっと毛は堅いけれど、そんなに悪くない感触だ。


「ニャァにしてるのニャァァァァ!!」


……和やかな空気を打ち破る、お馴染みの声が地面を突き破って響いた。一体いつの間に、と思うほどの唐突な出現に、は半眼になる。
目の前の砂利と土を撒き散らして、現れたアイルーのカルトは、素っ頓狂に驚いたままのアオアシラの顔に向かって、鋭く立てた爪の引っ掻きを繰り出した。
よほど、このアイルーの方が恐ろしい。
「ピャア?!」と悲鳴を漏らしたアオアシラなど見向きもせず、何故かに顔を向けて怒り始める。

「ちょっとはヤがるニャ! ニャに無防備にしてるニャ!」
「何怒ってるのよ、仲良くしてただけなのに……」

朝から忙しい子だとは不思議がりながらも、ぐしぐしと顔を擦っているアオアシラを覗き込み、「大丈夫?」とうかがう。爪跡はついていなかったが、あまりにも可哀想だったので「痛くない痛くない」と慰める。
そうすると、カルトが一層憤慨して、ドングリハンマーを振り回し始める。危険なのは、お前じゃないのか。
その形相は大きなアオアシラをもたじろがせるようで、小さなの後ろに隠れる。隠れられていないが、可愛いから良い。

「ふんニャ、なんかいつかパクリと食べられれば良いのニャ!」
「何で怒って……」
「ぼ、ボク、さん食べないよ」

オドオドとするアオアシラは、見た目に反し弱々しく呟くものの、残念ながらその言葉はにしか届かない。カルトには、獣の鳴声にしか聞こえないだろう。が通訳をしてみるものの、「そんなの関係ないニャ!」となかなか意固地になってなだめる効果は望めなかった。

「何が気に入らないのよ」

尋ねてみても、カルトは黙りこくって、怒って赤くなった顔をそらして「ふんニャ!」と言っている。訳が分からない。

「……は無防備ニャ」
「……?」
「危ニャっかしいから、オレが見てないと駄目なのニャ」

むすっとして、カルトは漏らした。相変わらず横顔は真っ赤だったが、はしばし考え……「ああ!」と手を合わせる。

「心配してくれてるの? さすがカルト、ありがとう」
「は……?」

カルトは素っ頓狂な顔をし呆けたが、徐々にその表情を再び憤怒で歪める。を見る眼が、何とも危険さ溢れるせいで、アオアシラが悲鳴を漏らす。



「……しっかし何が言いたかったのよ、あの子は」

は、一人野道をトコトコと進む。その手に、調合の入門書なるものを持って。

―――なんだかんだで埒が明かないため、結局無理やりその場を終わらせ解散した。というかカルトが「もう良いニャ! の馬鹿!」とかなんか言い捨て、また穴掘って逃走したため、混乱のまま静けさが戻る。アオアシラは「あのアイルー怖い、怖い」とうわ言を漏らしていたため、ポンッと腕を撫で慰めた。少し休んでいた方が良いと気遣い、そのお尻 ( 姿 ) を見送った。
一人になったは、一旦寝床に戻り、入門書を読んだ。どうやらこれは薬品や道具の作り方の基礎が書かれているらしい。ハンターという人々は、モンスターと戦うに当たり生半可な道具を使うのではなく、さらに自分で作っているようだ。倹約家なのだろうか、とても懐に優しい。
だが見る限り道具の数々は、極めて危険なようにも思える。投げつけた瞬間破裂し強烈な光を出すものや、電撃を放つ罠、ハンター自身の肉体能力を上げたり傷を癒したり……ますます、モンスターと戦う人々は逞しいと感じた。そんな道具が存在する、この世界ももちろん凄い。
さて、せっかく山菜爺の機嫌がよく譲ってもらったこの本、何か使えないだろうかということで、こないだ書いたお手製の地図 ( ヨレヨレの羊皮紙 ) と本を持って、緑豊かな渓流の一角を進んでいた。本当はアオアシラに同行をお願いしようかと思ったのだが、カルトの件と、彼は野生の牙獣であるということが、そう気安く言っても良いものかとも思うのだ。彼には彼の暮らしが、あるのだろうし。
はそう迷った結果、一人で向かうことにし、現在に至る。

しかし、アイルーの姿は不便だ。歩幅は狭いから、人間の時よりも圧倒的に進みが遅い。背も低くなり、高所にあるものを獲ることは容易でなくなった。姿形が変わるということは、これほどまで劇的変化を肉体や視覚などにもたらすのか。改めずとも人間じゃないのだと痛感せざるを得ないが……ただ、一つだけ、少し気に入っていることがある。
世界に落とされる以前にはない、心の穏やかさだ。今ならつまらないことで怒らないだろうし、またいかに日々の生活が愛おしかったかを学んだ。後悔とも似ているが、少し異なる。それが何と呼ばれるかにはまだ分からないが、近付いた大地の豊かさと、周囲を取り巻く自然の広大さ、それらは実は以前の生活にもあったはずなのだけれど忘れてしまっていて……。

( 元の世界に戻りたいのも、人の姿になりたいのも変わらないけど )

忘れていた《何か》を学んだような、そんな感情が最近芽生えている。
とはいえ、このデンジャラスな世界では、そう悠長に構えてもいられないのが、悲しいところだ。今も、辺りにモンスターがいないかうかがっているのだから。
は一つ溜め息をつき、入門書を開いてみる。せっかくだから、何か一つくらいは挑戦してみたいのだが、いかんせん道具が……まあそこは後で考えておこうか。
そうしている内に、緩やかな登りだった野道が、開けた台地へと辿りついたことで終わった。湿地帯を抜けてきたのだが、水の濡れた空気がなく、風の吹き抜けて陽も当たる最高の場所だ。一際立派な、豊かに葉を繁らす大木もあり、蜂の巣やキノコも豊富に自生している。
……なんか、ここに引っ越しても良さそうだけれど。
その矢先、カルトの顔が浮かんだため、思わず頭を振る。野生の勘がきっと、この場所は止めた方がいいといったのだろう。

「さて、と……」

木漏れ日の注ぐ近くの木の根元に座り、入門書を開く。『調合とは』と始まり、数枚捲り進むと早速作り方を発見。一番最初に出てきたのは……《回復薬》だった。曰く、肉体の怪我の治癒を行うもの。ハンターには特に大切な薬品らしい。
……これで怪我が治るなんて、凄い。元の世界じゃあ、消毒液吹きかけて絆創膏だもの。医者要らずとは、このことである。

「材料は……アオキノコと、薬草……? キノコと草で怪我治しちゃうの、凄いわねぇ」

ある種の感動を抱いたが、一番基本の調合らしいから、まずはそれを探してみようか。辺りを散策するためは立ち上がり、本をその場に置いて離れた。
ちょっと近くで見ると恐ろしいオルタロスの後ろをついて、岩陰に生えたキノコを見つけ、アオキノコを引っこ抜く。探すまでもなく、真っ青のキノコなんて目がつく。一見毒キノコにしか見えないのだが……これが材料とは面白い。は、腰にくくりつけていた竹筒にアオキノコを幾つか入れて、今度は薬草を探す。逞しく陽に向かう雑草の中でも、妙に存在感を放つ植物をすぐに見つけ、しゃがんで掻き分ける。どれが薬草かいまいち分からないが、後で選べば良いだろうと豪快に全部引っこ抜く。
ギュッ、ギュッ、と竹筒に押し込めながら、本を取りに行こうかと立ち上がる。

……だがここで、一つ思い出した。

この近辺にいるモンスターといえば? ケルビやガーグァという大人しいモンスターが多いが。
中には、悪戯好きのものが。

はバッと振り返り、自らが本を置いてきた木を見た。だが、すでに時遅し。
見慣れた、忌々しい橙色の鱗と小さなエリマキの小型モンスターが三匹集まっていた。

「……ジャギィィィ!!」

後ろからド突かれるわ集めたキノコを盗られるわ、散々な結果に貶めてきた奴らが、いた。
の声に反応した一匹のジャギィが、振り返る。首を傾げているが、可愛くも何ともない。むしろ憎さ百倍。「ギャ?」と鳴声を漏らしたその口には……調合入門書。
よりにもよって、それかよ……!
キノコを盗られるのは構わない、採集の邪魔をされるのも構わない。だがしかし、その本を持っていくことは勘弁して欲しい。
慌てて駆け寄るを笑うように、ジャギィらはその場でピョンピョンと飛び跳ねて ( これが心底腹立つ ) 得意気に鳴き、そのまま目の前を横切る。歩幅の狭さを、今こそ強く恨んだ。四足で走るなんてそれこそ器用な真似は出来ないので、必死で二本足で走る。ヨチヨチと、自分でも何だか不恰好だと思えて笑ってしまう。
ジャギィらは、ぽっかりと開いた洞窟へと滑るように飛び込んで、地下へと走っていく。一瞬、足が止まったが、意を決しても飛び込んだ。空気が静まり返り、陽を浴びた草木の匂いが岩窟の冷たさに消えるそういえば、この中に入るのは初めてかもしれない。普段よく行く、横へ広がった滝のあるせせらぎ、その滝の裏に洞窟があることはアオアシラから聞いたのだが……中は確か。

――――― 竜の巣。

もうすでに後悔したが、飛び込んでしまっては遅い。引き返すにも本を盗られたままというのも癪に障るため、こうなれば進むしかないと半ばやけになって下り坂を下りる。
どうもこの世界に落とされてからというもの、精神的に強くならざるを得ない場面にしか遭わない。運は、あった方だと思ったのだけれど……。
冷たい岩の感触にためらいながら、壁伝いに下って、坂の終わりにようやく辿り着いた。
が、予想外に洞窟内部は……恐ろしさはなく、むしろ神秘的ですらあった。四方と天を岩壁で覆われているけれど、狭苦しさなどなく広く、隙間から陽の光が差し込み影を照らしている。自然の石柱が不規則に立ち並ぶ様は、天を支えているようにも見えた。そして、の立つ場所から右隣で広がる、黄砂と地下水の流れる風景。陽の当たる世界とは異なるものが、そこにあった。

「うわ……凄い」

声は反響し、空気を揺らす。
が、自分の目的を思い出して頭を振った。ジャギィは何処へ、と思っていると、転がっている骨の上で飛び跳ねていた。
本を、くわえて。
はしゃいでいるのか馬鹿にしているのか、どちらにしても腹の立つ光景だ。
は今にも折れそうな心を必死に保ちながら、声を張り近寄る。

「か、返して下さい!」

ギャ、と鳴いたところで、ジャギィらはへ振り返る。アイルーの姿を確認すると、あからさまに笑った。

「オレの、オレの!」
「拾ったの、オレ!」

……言葉が分かるというのも、なかなか考え物だ。ジャギィの声は、どう聞いても小学4年生程度の悪戯盛りのもの。許して、しまいたくなるが……容姿はそう可愛くないため、思い切り叱り付けてやる。

「勝手に持って行っちゃいけないのよ、返して」
「何で、何で? 悪くない! やだ、オレの!」
「やだ、やだ! 」

……まあ野生のジャギィに、盗みはよくないと説くのも難しいか。
あんまり頭が良いとは言えない種族らしいし。

「いいから、返して」
「やだ、やだ!」

ポーイ、と本を放り投げると、別のジャギィがキャッチして、また放り投げる。ああ、ただでさえボロの本なのに! ジャギィの鋭い歯がグサリと刺さっているように見える。

「ちょ、か、返してってば!」

駆け寄って、ジャンプするが、残念なことに本まで届かない。うわーこの身体が憎い!
ジャギィらは面白がって、止めることはない。むしろ、を囲んで遊び始める。……こんな光景、漫画になかっただろうか。
そろそろ怒りの沸点へと到達しそうになり、の表情にも大人気なさが滲み始める。ジャギィが、一際大きな弧を描いて本を放り投げた。


――――― その時。
パラパラ、と小岩が落ちて音を立てた。


「――――― 煩くて敵わない、少し静かにしてくれないか」


重厚な低い声が、唸り声を交えて響いた。岩窟に反響するそれは、その場の子どもじみた攻防を一瞬で沈黙させる。
キャッチしそこねた本が、ジャギィの足元に落ち、は慌てて取り上げたが……第三者の聞きなれぬ声に、彼女も困惑する。何か、とてつもなく強大なもののように思えたのは、生き物の本能だろうか。
が顔を上げると、取り囲んでいたジャギィ達は急に忙しなく辺りをうかがい始め、ゆっくりと身を引いていく。そして、慌てて光の漏れる洞窟の出入り口へと向かい駆けていく。ポツン、と取り残されたは、ジャギィらが消えた出入り口を見つめて、ギュウッと取り戻した本を抱きしめる。だが、何だろう、先ほど以上にざわつく背中は。

――――― ドスン

重い足音が、響く。それは、ゆっくりと、近付く。
空気の震えを、も感じ取った。まるで、岩窟内が黙りこくったように、物音がそれ以外無くなる。
そうして気配は、の真後ろに現れる。……見えなくとも分かる存在感は、を震わせた。ジャギィらと共に逃げれば良かったと後悔しても、もう遅い。明らかに向けられる眼差しは、に振り向けと命じているようでもある。この時点で、逃げるという考えは奥に怯えて引っ込んでしまった。
酷く緩慢な動作で、の顔が後ろへと振り返る。
けれどその瞬間、ぺたりと冷たい地面に座り込んでしまった。

薄暗さの中でも、異様な輝かしさを纏う巨大な体躯が、を見下ろしていたのだ。
獣のように四肢で地面を踏みしめるそれは、鋭く尖った爪を持っていて、の身体ほどもある。たてがみを持ち碧色と黄金色の堅殻でその身を覆い、突き出た二本の角が、一層その存在感を彩る。
……美しくもあり、そして同時に畏怖の念をも抱かせる、堂々たる容貌。そのものの名を知らずとも、分かった。アオアシラでも大きいと思えたのに、それ以上の体躯など……到底敵わない圧倒的な力を持つモンスターであるということは。

けれど……獰猛な顔には不釣合いな、とても静かな瞳だった。は、恐怖と困惑で揉みくちゃにされながらも、その瞳をそらせなかった。


――――― 何だろう。何処かで、見たことがあるような。


がそううかがっていると、目の前の大きなモンスターの顎が、ゆるりと開いた。現れた鋭い牙は、に立てられることはなく、重厚な低い声を発した。いや、実際は獰猛な獣の鳴声なのだろうが。

「アイルーか……振り払う、までもないか」

小さく呻き、そのモンスターは踵を返しに背を向ける。目の前を横切った尾は、竜のように堅殻で覆われ、たなびく。その動作には王者の品格が漂っていたが……ふと、その後ろ足が引きずられていることに気付く。真正面に立っていたため分からなかったが、太い足にはざっくりと裂かれた傷跡があった。血は止まっているようだったが、美しい堅殻が砕かれ肉を裂かれた様は、痛々しい。
その生々しさを目の当たりにしたこともあって一層硬直しただが、その巨大なモンスターはゆっくりと離れていく。黄砂と地下水の流れる縁に着くと、重たく降りて、岩陰へと身を隠し消えた。
未だ沈黙する洞窟の中で、はぺたりと座り込んだまま、動けずにいた。恐ろしさと、困惑で。そして何より、見たことがあるような錯覚で。

怪我をした……手負いの、大型モンスター。

見たことなんて、あるはずは、ないが……。
は、ゆっくり立ち上がると、足が震えていたことにようやく気付いた。それを叩いて、彼女も慌てて洞窟を走り抜けた。やけに長く感じながら、出入り口に辿り着き、迷わず飛び出す。瞬間、冷たい水が身体を濡らしていったが、気にはならなかった。
そうです、あのモンスターが登場です!
みんな大好き、あのモンスターですよ!

2011.07.18