其は無双に誉れ高き(2)

「……ニャにかあったかニャ?」
「ブォン……」

カルトとアオアシラが心配そうに見つめてくる。が、は岩の上でべちゃりとうつ伏せになって沈黙していた。
洞窟を抜ければ、馴染みのせせらぎと、陽のあたる匂い……ようやく緊張を解いたけれど、未だ思い出しただけで腰が抜けそうだった。アイルーの姿を恨むことも多いが、救われることも多い。

「……この世界って本当、怖い」
「ニャ?」
「何でもない……もう洞窟には入らない」

はようやく身体を起こして、ぺたりと座る。アオアシラがのそのそと歩み寄ってきて、鼻先をスンスン鳴らしながら寄せてきた。それを撫でてやり、は岩から飛び降りてカルトの前に立つ。彼は、いつもの半眼でを見て、「洞窟に行くなんてアホだニャ」と呟いた。もう慣れたが、今回ばかりは「本当に」と返す。

「で、洞窟でニャにがあったのニャ」
「何処から話せば良いものか……全部の元凶はジャギィの悪戯っ子たちなんだけど……ええと、大きなモンスターが居てね」
「ニャ?」
「綺麗な、青緑っていうのかな、甲殻が全身覆って、少し獣っぽいんだけれど二本の角を持ってて……凄く格好良かったよ」

……ああ、そういえば、足を怪我していたな。
静かな眼差しでを見下ろすその雰囲気は、決して敵意はなかった。それを言うか否か迷っていると、カルトの目が徐々に厳しくなる。どうしたのかとギョッとすると、その肩をカルトの手が掴んだ。

「流れのヤツニャ、絶対関わるんじゃないニャ」
「え……?」
「この辺りじゃ見ないヤツニャ、そういうのはもう忘れるに限るニャ」

珍しくカルトの声音が真剣だったため、は声を潜める。「名前、分かるの?」と思わず尋ねてみるが、「実際見てみニャいと分からないニャ、でもそういうのは大体危ないヤツが多いニャ」と、至極当然の返答が返ってくる。
……名前、というよりは種族名を知ったところで、何か得るものがあるというわけではないのに。は自らを諌め、「そうね」と言ってみせる。

「そうだ、ところでカルト」
「ニャ?」
「薬草ってどれ? 分からなくて、とりあえずそれっぽいもの全部引っこ抜いてきたんだけど 」
……量多ッ!! 引っこ抜き過ぎニャ! しかも薬草はこれとこれだけニャ!」

その後は、カルトから草の見分け方講座が開かれ、アオアシラと共にご教授頂くことになった。 ( アオアシラはよく分かってなさそうだったが )
何だかんだで、やはり義理堅い性格のアイルーだと思う。



――――― 講座を終える頃には、陽は傾き昼下がりを迎えていた。
色々とありすぎて、時間感覚が狂っていたが、あれからもう随分と経過していたらしい。最近は、陽の位置と空の色で時刻を判別するしかないものだから、こういう時に時計のありがたみを痛感する。
……そう、色々なことが起こってしまった。だが今日のの目的は、調合入門書なる本を理解すること。超基本であるという《回復薬》なるものを作り、この世界の人々の暮らしに触れることが目的なのだ。いつか人間の姿に戻る時のため、重要なことだ。
というのは建前で、半分ほどは面白がっているのも事実だが。

「この真っ青なキノコと、ハッカみたいな匂いのする草で、薬かあ……」

カパ、と蓋を開けた竹筒の中身を覗いて、何度も不思議に思う。竹筒をそっと隣に置いて、はお昼ご飯の焼き魚をもぎゅもぎゅと食べる。アオアシラがまた獲ってきてくれたもので、塩焼きも飽きるため香草焼きにしてみた。早速カルトの知識が役立っている。
ちなみに火は……

、早く行くニャ! さっさと食うニャ!」

このドングリハンマーを振り回しているカルトが熾してくれた。火を熾すうろ覚えな知識を口にしたら、本当に火を焚いてしまったことは驚いた。器用過ぎる。
しかし、ブォンブォンと回る彼は、えらくテンションが高い。そろそろ腕が抜けそうだが、と思いながらもはもりもり魚を食べていく。実は午後の部門の散策にカルトが付き合ってくれるとのことで、こうして隣で待っていてくれるのだが……いや、嬉しいのだけれど、アオアシラを邪険に追い払ってまでそんなに散策がしたかったのかと不思議に思う ( 寂しそうなアオアシラに胸キュンしてしまったのは秘密だ ) 。アイルーの事情はさっぱりだ。
結局、ご飯は味わえず、《アイルーの近場探検隊》は出発した。
遥か高くに伸びた豊かな木々の下を、ガーグァ親子の後ろについて歩きながらす進む中、カルトがへ向く。

「で、人間の使ってる皿が欲しいって言ってたかニャ?」
「うん」
「アンタ変わってるニャー、人間と同じことしようとするニャんて。まあ良いニャ、ここの道をずっと進むと人間の寝床があった場所に出るニャ。そこなら何かあるかもニャ」

同じことっていうか……見た目はアイルーでも私人間だもの。
何度もしつこく言っているのだが、カルトはそのたびに無視して聞く耳を持たない。仕方ないためも受け流すようにしたが、まあこの桜色のアイルーの姿をしていれば……誰も信じないか。

山菜爺さんだけ、分かってくれていると思うんだけど……あの爺さんも掴みどころがない。

「あそこニャ、も来たことがあるかニャ?」

なだらかな道から一転し、左右を切り立った岩壁で囲まれた、下り坂の先。渓谷の平地が広がっていて、ところどころに民家の跡地が点在していた。人間の、寝床……つまり、打ち捨てられた人里のことだったらしい。遠目でも、そのもたれかかった様と朽ちた木の感触が分かり、人が離れずいぶんと経過してしまったようだとうかがえる。
お手製の地図を見ると、しっかり記入されている。ここのことだったのか。
いつの間にかトコトコと歩き始めたカルトの後ろを、は慌ててついていった。

チョロチョロと湧き水のこぼれる岩の亀裂を眺めながら、平地へ踏み入れる。ブルファンゴが地面をふんふんと嗅いでいる後ろを過ぎ去り、打ち捨てられた民家のそばに駆け寄った。近くで見ると、一層その古さを感じ取る。蔦や苔が巻きついて、自然の一部になろうという出で立ちは、ひっそりと大地に崩れかかっている。古い、というよりも……まるで大災害に飲み込まれたようにも見受けられた。家を支えていたであろう支柱は折れ、ずいぶん泥をかぶっていて……かつてこの地に居を構えた村に、何があったのだろう。
不思議がりながらも、中に入れないかとうかがう。

、ニャにしてるニャ、こっちニャ」

そんなを尻目に、教官すでに民家の手摺に! はや!
カルトに手招きされ、砂だらけのそれをよじ登り、カルトの隣に立ち、手摺から室内へとジャンプする。中に入ったことで、いよいよその砂っぽさを嗅ぎ取る。泥が内部にまで侵入したらしく、泥が壁際に押し寄せている。水の伝った跡がくっきりと、壁に残されている。かつてあった家具などは、流されたのだろうか……。
言い難い寂しさが込み上げ、はそっと両手を合わせて、私に道具を使わせて下さいと胸中呟く。

「……それは、何だニャ?」
「……祈りと、お願い。私の暮らしていたところでは、こうやって両手を合わせるの」

不思議がるカルトに小さく頬笑み、「探そうか」と室内を見渡す。砂の散乱する床をそうっと歩き、転がる木箱を開けてみるが何も入っていない。押し流された戸棚へ、カルトは走り寄り、積み重なっているかつて家具であった残骸に飛び乗って戸を開ける。突っ掛かっていたのか、勢いよく開けた瞬間、砂がバッサーと舞う。

、これはどうニャ」

頭上からの声に、カルトと砂だらけの戸棚を見上げる。手招きされるまま、も積み重ねられた家具らしきものによじ登り、カルトの横に並ぶとそっと覗き込む。
中もやはり砂が侵入していたが、埋もれるように並んでいた食器は、洗えば何の支障もなく使用出来るものが多い。まあ、破損しているものもあるのだが、それでも十分な数が無事なのはほっとする。

「使えそうなやつだけ、持っていかせてもらおうか」
「じゃ、とりあえず下に置いていくニャ」

カルトと手分けをして、食器を床に置いていく。小皿、大皿、器、フォーク、すり鉢と選り取り見取りで、予想外に結構なものが出てくる。この世界は、硝子細工の食器ではなく、粘土を焼いた所謂陶器、または木材の器が主流らしい。全てのものに、朱色の模様や縁取りが描かれているが……地方の特徴、のようなものだろうか。
もし必要なものが今後出てきたら、この空家から拝借するのもいいかもしれない。他にも探せば、何か出てきそうだ。
そのの隣で、カルトがしげしげと「人間はニャんでこんニャにたくさん道具を使うのか分からないニャ」とブツブツ言っている。自然で生きる彼らにとって、スプーンだとか不思議でならないのだろう。その様子は妙に笑みを誘う。
それを視界の片隅で見つつ、は幾つか見繕って自らの隣に置く。のところでいう、どんぶりの器を二つと、木のスプーン数本とおまけにフォーク。あと小皿を二枚ほど。すり鉢も出来れば持って行きたいが……。
おそらく人間の手では、手のひらにしっかり馴染むのだろうけれど……うん、ちょっと大きい。持ち方の下手な幼児みたいに自然となってしまう。使えないわけではないが、こういった部分でも人間の頃を思い出してしまう。
どんぶりの中に、全部入れてガチャリッと持ち上げてみる。

「ん、しょ……何とか、持てる、かな」

一旦床板に置き、カルトへ振り向く。相変わらず物珍しそうに食器を見ているものだから、「興味あるの?」と尋ねてみる。カルトはハッとなったように尻尾をビクンッと跳ねさせて、食器をガンッと床に置く。

「べ、別に、興味なんかニャいのニャ!」
「そう? ずっと見てるけど……」
「気のせいニャ! オレは渓流で生きるアイルーニャ、人間に興味なんかないニャ!」

憤慨したように言う姿は、怖いっていうか逆に面白い。そこまで否定しなくても良いのに、と思ったけれど、それを言えば一層凄いことになりそうなので、「はいはい」とだけ返す。

「『そういうことにしてあげる』みたいな反応ニャ、違うのニャ本当に!」
「はいはい、さて行こうか」
「ニ゛ャァァァー……ッ!!」

カルトの唸り声が聞こえるが、気にせずは拝借する食器を抱え、民家から立ち去り、寝床のある森林部を目指した。その帰りの道中も、やはりカルトは「興味なんかないニャ!」と言っている。そう繰り返されると、興味があると肯定しているようなものなのだが……面白いから止めないことにした。



――――― カルトと別れ ( 逃走ともいう ) 、寝床に戻り食器を片付けた後。
青空広がるせせらぎの側で、は砂利の上に置いたものたちを見下ろす。
アオキノコ、薬草、すり鉢、あとそこら辺で拾った空き瓶。
《調合入門書》曰く、調合とは私生活においても大変役立つ知識と技術である、とのこと。だがにしてみると、図画工作をするような気分である。パン、と肉球プニプニな両手を合わせてから、埃まみれの本を開き作業開始となった。

「えと、『アオキノコと薬草を混ぜ合わせる』……随分アバウトね」

いや、それは分かる。調合なのだから混ぜ合わせるのは分かる。が、出だしがこれとは……入門書のわりに、初心者にハードな記述内容である。衝撃の一文から始まったものの、入門書らしい丁寧な説明図が以下にあり、もようやく作業を始めた。
もともと、この調合とは、モンスターに挑むハンターらが主に活用する技術のことらしい。背後には気をつけろどころの次元ではないモンスター溢れる自然世界で、面倒な手順で悠長に作っていてはあっという間にさっくり殺られてしまうため、小道具は使わず作業を簡略化し、なおかつスピーディーに行えるようなっているようだ。そのため、調合の超基本《回復薬》なるものは早くに完成した。
……本当に、混ぜ合わせただけなのだから。
すり鉢でゴリゴリと薬草とアオキノコをすり潰し、少し水をいれかき混ぜること数秒、緑色のとろりとした薬完成。初心者のも驚きの速さ。

これが、《回復薬》かあ……正直、不味そうである。

ハッカみたいな匂いが漂い、とろりとしたまったり感、そして何より材料がキノコと草である。滋養効果があるにせよ、キノコと草である。正直なところ、完成した感動は大きいが口にする勇気がわかなかった。
すり鉢を持ち上げ、底で揺れる薬を転がしてみる。フンフン、と匂いを嗅いでも、やっぱりハッカの匂いだ。
……は、そっとすり鉢の縁に口をつけ、傾けて含んでみる。

瞬間、の顔が歪んだ。

ぶえェェェ……ッ

女らしかぬ声をつい漏らす。あ、女以前に人間の姿でもないか。
思っていたよりも草っぽい味はなく、ミント味と思えば飲めなくもない。が、口に含んだことで一層その爽やかさが鼻を突き刺す。その上、薬と名が付くぐらいのため、えぐみに似た独特の後味を舌の上に残してくれる。
……良薬口に苦し、ということか。我慢してそれだけは飲み下す。別段身体の変化はないが、薬効は《傷の回復》だからまあいいか。

「……甘くしたら、飲めるかな」

ハチミツを思い浮かべながら、すり鉢を空き瓶につけて流し込む。蓋を閉じ、腰に巻いた竹筒に入れてそっと立ち上がる。すり鉢や手を洗いながら、は次の場所に目を向けた。



「あれー? さんだー」

水気を多く含んだ空気の漂う、涼しい森林部で、お馴染みの仲良くなった青毛獣《アオアシラ》とばったり鉢合わせする。熊に遭ったら眼を見て後ずされというが、向こうから好意全開で突撃してくるため逃げようもない。お尻をプリプリ揺らして重量級ダッシュをするアオアシラは、苔生す大地にも関わらずキュキュッと器用に停止し、の顔をベロリと舐める。
先ほどまで、ハチの巣を食べていたのだろう。そのザラリとした長い舌からは、甘い匂いがした。
熱烈大歓迎のアオアシラをなだめ、は顔を拭いつつ口を開く。

「ハチミツ、獲りに来たの。まだある?」

ポムポムと顎を撫でると、アオアシラは据わっている印象を与えてしまう赤い眼を気持ち良さそうに細める。「まだ、ある、よ~」と何とも気の抜けた声で言うと、に背を向けて歩き出した。もそれにならい真横に並び進むと、かつて大木が生えていたであろう、それはもう巨大な木の株の前でアオアシラは立ち止まる。不思議がるを他所に、おもむろに後ろ足でよいしょと立ち上がると、強烈な右フックで株を叩き割った。
その瞬間、響き渡る耳障りな羽音と、ブワッと溢れる黒い影。

「ヒィッ?!」

どう見ても、ハチの群集です。ありがとう。

情けなく悲鳴を漏らし硬直するだが、アオアシラは果敢に、というか慣れたようにハチの群集を腕で追い払う。あの甲殻に覆われた腕ならば、痛くも何ともないだろうが、しかし勇敢な姿である。
しばらく経ち、ハチが「覚えてろコノヤロー!」と言わんばかりにクルクル回りながら霧散したところで、アオアシラは叩き割った株を誇らしそうに指し示した。

「見て見て、さん! ほら、あったよ!」

ドシンと前足を地面につけ、のワンピースを噛むと、そのまま持ち上げてまた二本立ちになる。ブラーン、と地面から2メートル弱離れた空中から、叩き割った株の中が見えた。なんと、ハチの巣。よくまあ分かったものだ。
……だが、それ以上に。
この状況も、どうかと思うのだよ。アシラくん。

「アシラくん、凄いんだけどね、」
「ふごい? ふごい? ( 凄い? 凄い? ) 」
「いや……えと……うん、はい……

ふごふご言ってるが、ネズミを捕ってきた猫のような、虫を捕まえて自慢しに来た子どものような、汚れの無い純真が漂い、叱るに叱れない。
ブランブランと身体を揺らされながら、は力なく笑みを浮かべる。
そうすると、一層嬉しがってアオアシラは株の中に入れようとする。ちょィちょィちょィ!! さすがにそれは勘弁してくれとは頼み込み、地面に下ろすよう促したが。


――――― バキリ


その場にそぐわぬ、重い踏みしめる音が響いた。
アオアシラの身体がビクリと震え、その振動はにも伝わり同じように跳ねた。
急激に押し寄せる、張り詰める空気の波は、アオアシラとを容赦なく包み込んだ。
見れば、視界の片隅でガーグァが大慌てでもつれながら逃げている。彼らが一斉に逃げ出す時、それは―――――。

「誰か、来る」

アオアシラがそう呟いた、その時。
グルル、と這うように響いた重厚な唸り声が、の耳に届く。アオアシラが震えた振動が、くわえられているにも伝わる。
振り返ってその声を探そうとした、のだが、の視界は唐突に落ちて暗くなる。状況に混乱する間もなく、頭上でアオアシラの獣の声が鳴っていた。
え? え? とキョロキョロとするも、視界は真っ暗。お尻だけ外に出て、上半身が見事に埋まっているようだが、どうもさっきから鼻先に粘ついた甘い匂いのするものが触れてきている。耳障りな虫の羽音も……。

と、そこまで思って、ハッと気付く。
両手で、左右の壁を触れると、木の感触が返ってくる。
そして、この、特有な羽音は……。

「は、ハチーーーー!!」

は、株の中に上半身を突っ込んだまま、叫んだ。
杞憂の通りに、叩き割った株の中に落下するなんて、なんという不運。後ろ足を縁に踏ん張らせて、なんとか抜け出そうと試みるが、ワンピースが内側のささくれに引っかかっているのか、上手く持ち上がらない。捻ってみたり、壁を押してみるが、抜けない。
頭上での唸り声も不穏だが、この状況も穏やかでないだろう。
早く誰か引き上げて、なんてが胸中思っていると。

「……そこのアイルーはさっきから何をしている」

低い声が、背中……いやお尻に落ちてきた。きっと、さぞや情けない格好のことだろう。想像しただけで泣けてくる。まあ、アイルーのお尻なんて誰も見ないだろうが、一応は女なのだから。
ただ、何処かで聞いたような気がしたのだが、それがいつであったかなどには判別出来ないため、惨めな気分になりながら「落ちました」と馬鹿正直に言う他ない。
低い声の主は黙り込むと、嘆息のような吐息を漏らす。自分も呆れている、ともつられて溜め息を吐くと、不意にワンピースの根っこを何かが掴んだ。ガチン、と挟まれ、確認する間もなく強い力で引っ張り上げられる。木の匂いから一転し、水を含んだ涼しいそれに変わって、はほっと安堵する。

……のもつかの間。

……先ほどより、格段に視線が高いのだが。

株の中の蜂の巣が、ずいぶんと遠くにある。片隅に、怯えたような表情のアオアシラが見え、その青熊獣の体躯も小さく見える。


――――― 私は、一体《何に》持ち上げられているのだろう。


急激に凍える背中から、全身に震えが走る。
酷く、緩慢な動作で顔だけ振り返らせると。

――――― 突如として埋め尽くす、碧色と金色の美しい堅殻。
飛び込んだその二色は、の記憶を引っ張り出す。目を見開いたまま、顔を上に上げれば……突き出た二本の角と、鋭い眼光放つ獰猛な目をぶつかった。
ジャギィと本の取り合いをしている時に現れた、あの大型モンスターだ。どうやら自分は、今その顎にくわえられているらしい。
カルトにはもう関わるなと忠告を受けていたが、残念なことにもう遅かった。
驚きと、恐怖で、すっかりは凍りつくも、地上でアオアシラが懸命に吼えている。アオアシラもには十分巨大な外見なのだけれど、この名の知らぬモンスターの方が何倍も立派な体躯を持っている。そして、滲み出る強者の覇気……怖いはずなのに、一生懸命威嚇している。
が、このモンスターは気にもしていないのか、をくわえたまま数歩下がる。ズシンズシン、と重い足音が空気を震わせて、もしやこのまま喰われるのかと嫌な予感が駆け巡った。空中に持ち上げられては、逃げる場所どころか術もない。ギュウッと目を閉じ、せめて痛みに覚悟を決めると。

の身体は、すとんと大地に下ろされていた。
放り投げるのではなく、ゆっくりと下ろされて。
苔の、湿った感触が足の裏に伝わってくる。視線の高さも、普段のものとなる。あまりにも予想外で、は別の意味で沈黙し、その大型モンスターを見上げた。視線が、一瞬だけぶつかったのだが、後ろから走り寄ってきたアオアシラにぐいっと引っ張られ、腹の下に転げたことで外れる。
聞いたことのないアオアシラの咆哮に、お腹の下をズリズリと移動し前足の間からうかがう。
大型モンスターは、アオアシラとを眺めていたが、威嚇を返すことも攻撃してくることもなく、顔を下げたまま背を向ける。アオアシラを、敵と見ていない証拠だった。
地面を嗅ぎながら、ヨロヨロと移動するも、引きずった後ろ足の酷い切傷は悪化しているように素人目にも察した。

「―――― ここにあると、思ったんだがな……」

ぽつり、と呟いた言葉。は「え?」と顔を上げ耳をそば立てる。
地面を嗅いでいるのではなく、何かを探しているようだ。こちらを見向きもしないのだから、よほどなのだろう。結局何事もなく、その大型モンスターは去って行った。その痛々しい足を、引きずって。
再び和らいだ静けさの中で、アオアシラの興奮した息遣いが響く。はしばし呆然とした後に、そっと前足の間をすり抜けて彼の前に立つ。

「アシラくん、もう居ないよ」
「グルル……ッ」
「アシラくん」

凶暴な眼差しに、怯みそうになった。だがその恐怖心を押さえ込み、がしっとアオアシラの頭を掴む。そして、ズイッと顔を寄せると頭を抱きしめる。

「アシラくん」

激しい唸り声が、徐々にしぼみ、荒かった鼻息も静かになっていく。
クルクル、と落ち着いた鳴声になった時、普段のアオアシラがようやく現れた。の腹に鼻先を擦りつけてきて、そっと離れると何処か怯えたような面持ちであったが、「怪我ない?」とあの声で気遣ってくれる。も、ようやく緊張から解放されて、ぺたりと座り込んだ。

「へ、いき、ちょっと腰抜けちゃっただけ」
「ごめんね、びっくりして、さん落としちゃった……」

しょぼん、とアオアシラの耳が下がる。はそれを怒りはせず、ポムポムと顎を撫で「それは良いの」と気の抜けた笑みを浮かべる。

「だって、私もびっくりしたもの」
「うん……見たこと、ないのだった。あれが、こないだ来たのかな」
「……そうね」

は、あの大型モンスターの去っていった茂みを見つめた。安堵はもちろんあったけれど、奇妙な違和感がずっと胸に残る。手を下すまでもない、ということであれば納得もいくが……。

( 何で )

この場所は人間の子面倒な都合も感情も通らない、厳しくも在るがままな自然の世界であることは、分かっている。の疑問など、極めて小さなものだということも。
けれど、あの大型モンスターの、凶暴そうな容姿にそぐわぬ穏やかさは惹きつけるものがあった。
竹筒に入れていた、回復薬を取り出し、しばし見下ろす。たぷん、たぷん、と揺れる緑色の飲薬は、木漏れ日の光を受けて小さく光った。
カルトはサバイバル教官であり、同時に場を濁すキャラであってほしいと願う。

2011.07.18