心が動く、音がした(1)

――――― ハンターとの戦いから辛くも逃げ果せたものの、よくよく見れば酷い有様であった。
脚には無様な傷を負い、全身の至るところで堅殻に傷跡が走り、帯電すらも出来ぬ有様である。集まる雷光虫の微弱な電気に、むしろ救われるぐらいだ。
……やってくれたものだ、あのハンター。迅竜の匂いを全身に纏わせ、顔らしい顔は見えなかったが、人間とは思えぬ殺気だった。どちらが獣か、分からぬほどだ。ともかく、あの猛攻にはさすがに耐えかね、背を向け逃げた。全身に付着した強烈な色が、川に落ち洗い流されたことが不幸中の幸いだったらしい。運よく、背後を追いかけてくることはなかった。
一時でも身体を休めればと、その地をなんとか離れ、ハンターの間では《下位》と呼ばれる遠方の穏やかな別の渓流に流れ着いた。そこは、暴れているモンスターがいるわけでもなく、縄張り争いが勃発しているわけでもなく、とりたて平凡で気にする点は無かったのだが。

そこで出会った桜色のアイルーは、とんでもない変わり者だった。

野生のアイルーのわりに綺麗な身なりをし、ボロ布だが服を着て、アイルーの特徴的な語尾もない。しかしながらどうやらモンスターの言葉を理解するようで、賢いとは言いがたい青熊獣《アオアシラ》を手なずけていた。ただ、その光景はひたすらに不可思議だったが。
アイルーの性質か、平和主義で人の暮らしに興味を持っているようで、調合入門書を抱えていた。龍人族の老人から譲ってもらったと言っていたか。自作したらしい薬をどうするかと思えば、アイルーは自分に差し出してきた。しかも、礼だとぬかす。

……はっきり言って、アイルーらしかぬ存在であった。
見た目こそはあの種族であるのに、その言動は極めて人間に近い。が、世間知らずなところはやはりアイルーの特徴だろうか。

けれど、その奇妙さが……懐かしかった。

( ―――― などと、思うことは俺には憚れるな )

何故そのように思うのかも、もう理解出来ない。ただこの感覚は、久しいような……気がした。
たとえそれが、意味を成すことはないとしても。
足元にいるアイルーを見下ろし、目を細めた。



流れのものであるという、かつて手負いの狩人であったジンオウガも、回復薬なるもののおかげで本来の無双の覇気をすっかり取り戻していた。
その手助けをしてしまった ( ジンオウガには迷惑だったかもしれないため、ちょっと曖昧な言い方である ) は、それでも結構な頻度でジンオウガに会いに行った。向こうも嫌がったりはしなかったし、口数は少ないがポツポツと会話を交わしてくれた。寡黙なところは、恐らく性格だろう。よく口の回るカルトとは、大違いである。
声音から、の感覚でいうところの三十歳前後で、低いそれはやや威圧も含むが決して居心地が悪いわけではなくむしろ耳に心地良かった。
それに何より、彼との会話は、妙に懐かしい。アオアシラやカルトには通じない部分も、ジンオウガにはそれとなく伝わった。ニャン次郎と言葉を交わした時の感覚に酷似していたが、それを探ることはこの時はしなかったし、恐らく人の生活にも詳しいのだろう、と軽く思っていた。

この日も、はジンオウガが身を潜める、洞窟に居た。渓流に存在する、湿ったそこは竜がよく巣作りをしていたりと危険地帯らしいのだが、現在は竜は居ないらしい。( ジンオウガ談 ) 以前巣を作り生活していたまま残っている、ということか。初めてやって来た時はとにかく真っ暗で雷光虫の明かりだけが頼りの暗闇世界だったが、昼間はなんと美しいことか。透き通った地下水脈と、底に溜まる削られた砂。自然のうちに出来た岩の凹凸の並ぶ先には、川へと続く大きな出口から陽の光が惜しみなく照らし出す。
その岩壁に出来たくぼみに、大きな身体を埋めているジンオウガ。は、思わず尋ねた。

「ジンオウガさんは、ここから外へは出ないんですか……?」

昼間、彼がこの洞窟を出るところを見たことがない。最初の、森林地帯で偶然鉢合わせした時しか思い当たらなかった。もちろん、四六時中この中というわけではないだろうが、理由がやはりあるのだろう。
ジンオウガの首がに向かって下がり、「昼間は出ない」と短く言った。唸り声の混じる吐き出された吐息が、の耳を掠めていく。

「観測隊か監視隊の連中が、空を飛んで周辺を見ている可能性がある。《俺》がいると分かれば、監視されるか討伐されるか……面倒を起こしたくはない」
「かんそくたい?」

……何かしら、また新しい言葉だわ。
は首を捻りそれは何だと聞き返す。ジンオウガは一瞬黙りこくったが、「それを説明するにはハンターとギルドのことを言わねばならない」と漏らす。にとっては願ってもないことで、「お願いします」と頭を下げた。このジンオウガは、やはり知識がある。
こうして、ジンオウガ氏によるお勉強会が開始された。
まず彼が放った言葉は、モンスターの暮らす世界のことだった。

「……人とモンスターが隣り合う、これがどういうことか分かるか。アイルー」
「え? えーと……に、日常生活で、関わり合いがたくさんある、とか?」
「……アイルーのくせに、妙に賢い返答だな」

毎回思うが、これは褒め言葉なのだろうか。いやそうでない可能性の方が大きいが、前向きに捉えておこう。

「……そうだ、関わり合いがある。実際ガーグァは、荷駄を引く足として重宝される。アイルーも、人の生活の中で役に立つ。
だが見方を変えれば、つまりは人とモンスターは常に接点があり、そしてほんの些細なことで危険が生じる位置にある」

は、ドキリとした。

「互いの領分を守るにしても、完全に上手くいくわけではない。人がたまたま通った場所が、モンスターの縄張りであった。モンスターが現れた場所が、たまたま人里であった。そういうことはしょっちゅうだろう。
その《踏み越えた瞬間》が、もし起きた場合には迅速に対応出来るよう、人間の世界に存在するのが……」

モンスターとの戦いを専門とする、狩猟者《ハンター》。そしてそれを統括し、各地に支所を設けている機関《ハンターズギルド》。
そのハンターの名は、は覚えている。山菜爺から譲ってもらった本たちの中に、何度も出てきているし、ゲームの世界である以上聞き覚えがないわけでないのだ。

「ただ、ハンター……そいつらは境界線を守るわけではない。あくまで、モンスターによる被害を片付ける役目だ」
「じゃあ、観測隊っていうのは……」
「一口にギルドと言っても、携わる役職というものは多くてな。モンスターの生態を調べるもの、姿を記録するもの……数えれば恐らく多くあがるだろう。
観測隊は、文字通りモンスターの世界を観測し何か近郊で問題が起きていないか、常に見回るものたちを指す」

なるほど、そこで観測隊か。
なかなか壮大な話だ。ゲームの世界ではあるけれど……現実味を帯びてくる。

「もとは、《古龍》の生態を記録するものだろうが、大型モンスターの動向の監視や、その自然の観察をする意味では一括りにしてもあながち間違いではないだろう。監視機関、と言っても良いかもな。
あとは、似たようなところで狩猟に挑むハンターの不正行為防犯や安全確認……まあ、上げればきりがない」
「へえ……凄い。ジンオウガさんの言葉で言う、《踏み越えた瞬間》を事前に察知する、ということなんですね」

関心しているの前で、ジンオウガの目が不意に細められる。「……意味、分かっているか」
呆れるようなそれに、は「え?」と耳をパタパタ揺らす。

「常に見るということは、お前も俺も含まれ監視されている場合があるってことだ」
「え?!」

それは、思ってもみない言葉だった。が素っ頓狂な声を漏らすと、「まあこの辺りは、あまり飛んではいないだろうが」と付け足す。

「広大な世界で全ての生態系の監視など無理な話ではある、が、監視下に置かれている一帯であれば見られている可能性はある。覚えておけ。
お前はアイルーだから、監視のうちにもあまり含まれないだろうが。
前置きが長かったが、そういうことだ。少なくとも《俺》はただでさえ目立つ風貌だ、昼間出て、運悪く観測隊のものに見つかれば……この近辺の渓流一帯が現時点の要注意地帯になる可能性もある。この付近に、人里があるかどうかは分からんが、もしあるのであれば……最悪、討伐対象なのだろう」

そう言ったジンオウガの眼差しは鋭く、は知らない頭なりに察した。この世界の大型モンスターというものは、やはり人から畏怖される存在であり、もし彼が何となしに渓流を進めば無条件で警戒されるのだろう、と。そして、最悪、ハンターが来て……。
ゲームを買っていたら、《私》はハンターで彼らを狩る立場だった。ゲームの趣旨を思えば、それはある意味で無条件の摂理であるが、今のにはこのジンオウガが狩られる側であるということが、妙に納得できない。
彼は、淡々と言っているが、狩られる立場であることを、どう思っているのだろうか。……いや、この世界における、モンスターと人間の関係ならば、当然なのだろうか。その浮かぶ疑問は、違う世界で生きてきたにとって、非常にジレンマともなるものだった。
アイルーの姿となった今では、人であったことを明かしても誰も信じてくれない、あまつさえ監視の対象に含まれるモンスターの一部なのだ。

――――― いつか私も、そんな風にされる?

そこまで考え、は頭を振った。その悪夢のような、想像をかき消すように。

「でも、不便じゃないですか……?」

夜しか出歩けないなんて。が呟くと、ジンオウガは首を上げた。「不便、か」噛み締めるように、ゆるりと低く唸った。

「……不便などと、思わなくはなった。そのような、感覚は……当の昔に……」

終盤は、小声で上手く聞き取れなかったが。
ジンオウガの厳しかった表情に僅かな陰りが落ちていたことには気付いた。王者たる《雷狼竜》の勇猛さを、くすませるような。「ジンオウガさん……?」そうっと名を呼ぶと、その瞳がハッと開き、首を緩く振った。気にするな、ということだろうか。

「……ところで、アイルー。お前は俺のところによく来るが、何故だ」
「え、あ、迷惑でした? やっぱり」
「いや、そういうわけではないが……恐ろしくはないのか」

……そう言われ、は改めて思った。そういえば、当初抱いていた恐怖は、すっかり無くなっている。それは、良いことか否か、分からないけれど、妙に知識深いジンオウガと会話出来てご教授頂けるのは、ありがたいことだと思うくらいだ。

「怖くは、ないですよ。不思議ですね」
「……そうか」
「ジンオウガさんは、私が邪魔ですか?」
「―――― やかましいのが近くに居れば、暇な時間も潰れるものだ」

……邪魔にはなっていないと、前向きに受け取っておこう。
首を地面につけて伏せたジンオウガの、ちょうど腹部によりかかって座るは、その後しばし談笑に盛り上がって洞窟を後にした。



さん、怖くないの?」

は同じことを、今度はアシラくんことアオアシラに聞かれた。先ほどまで話していたジンオウガの、半分かあるいはそれよりも小さな体躯の青毛の熊だが、サイズの小ささのわりに顔は獰猛そのものだ。もう慣れたが。
「怖くないの、不思議ね」とは笑ったが、アオアシラは複雑げな面持ちになって、ペタリと地面にお尻をつけ座る。青い毛に覆われた真ん丸のお尻が、まるで潰れた茄子みたいな形をしていて、可愛かった。

「やっぱり、アシラくんは、怖いよね」
「うん……最初、会った時、凄く大きくて、びっくりした」

グルル、と控えめに喉を鳴らす。
……怖くないのよね、どうしてかしら。
懐かしい感覚、知識の深さ、それらのせいだとしても……畏怖すべき存在に対し、もうすっかり恐怖は薄れていた。むしろそれこそが、恐るべきことなのかもしれないなどと、まるで他人事のように思っていた。
人から恐れられ、狩られる立場。ジンオウガ。
ゲームのパッケージを見て、なんて綺麗なのだと、格好良いのだと、戦ってみたいと。
思っていたあの時の自分を、叩いてやりたくなった。
それももう、アイルーの姿で、ましていわゆるトリップしたという酔狂な事態では、叶わぬか。

……余計なところに気が回ってしまう。プルプルと頭を振り、「アシラくんは、今まで通りの生活で良いから」と腕をポンポンと撫でた。堅い、甲殻の感触が返ってきたけれど、首をもたげたアオアシラが気弱にぺろりと舌を伸ばしてくる。少し獣っぽい匂いがしたが、温かくて、頬を掠めていく。

さんは、危なくないの? 大丈夫?」
「うん、大丈夫」

心配げな面持ち。それは、生き物が強者に対し逆らわない本能と、恐怖だろうか。
もっと、自分も恐怖心を持たなければならない、のだろうけれど……。

――――― ……不便などと、思わなくはなった。

……ジンオウガの、切なさを含んだ小さな言葉が、まだ脳裏で繰り返される。

それを誤魔化すように、アオアシラをコロンと地面へと押して転がすと、そのお腹によじ登る。アオアシラは「なあにー?」と不思議がる顔が傾げて、を見上げている。真ん丸のお腹のふわふわ感に感動しつつ、モッフモフと上で転がってみる。
「くすぐったい」と、グフグフ奇妙な鳴声を漏らし、パタパタと脚を跳ねさせる様子が何とも可愛かった。

彼だって、こんなにコロコロしているのに。

彼とて、ハンターと戦い手傷を負ったジンオウガと同じモンスター。ジンオウガが危惧することが、このアオアシラにも当てはまるのだ。
そう思うと、少し寂しかった。もちろん、このアイルーの姿で、言葉を理解出来なければ自分とてどうなっていたか分かったものではない。だが、こうも親しくなった今では。
もうきっと、あのゲームを買うことなど出来ないのだろう。この温もりが、毛並みが、声が、温かく確かなものだとはっきり言えるのだから。

アオアシラとしばしモフモフとじゃれあっていると、不意に背後で視線を感じた。は首をもたげ、視線を移す。砂利の広がる地面と幾らか離れているため、必然的に見下ろす形になったが、足元にいるアイルーの姿をはっきりと認識する。
「カルト……?」は、小さく呟く。いつものように怒っているわけでもなく、かといってにこやかでもない。伏せた耳や、やや細めた目に、普段の彼の明るさはなく、まるで……歩み寄ることをためらっているようにも見えた。その変化は明らかで、もたじろぐ。

「どうしたの、カルト……?」

何か、あったのだろうか。しかしの心配など半ば無視し、彼は「……別に何でもないニャ」と暗い声音で言った。
何でもないって、そんなことはないだろう。そんな顔で言われても、説得力などない。は、ますます訝しげに声を潜める。

「カルト……?」
「……何でも、ないニャ。何でも……」

ぷい、と顔を背け、のろのろと山道へと向かっていく。

「何でもないのに……見てると、苛々するニャ。面白くないニャ」
「――――え?」

それはどういう意味、と尋ねようとしたものの、カルトの背は小さくなっていき、ついには視界から見えなくなってしまった。トボトボとした足取りと、彼らしかぬ沈んだ声……。私が、何かしてしまったのだろうか。でなければああも言わないのだろうから、もしや無意識の内に彼の機嫌を損ねる言葉を漏らしてしまったのかもしれない。

さーん?」

きょとりとし見上げてくるアオアシラの声にも、は上手く反応出来なかった。



――――― つまらない、面白くない。
普段の道、普段の空、普段の光景……何一つ変わらない渓流のはずだというのに。酷くカルトをざわつかせた。慣れ親しんだ静けさが、押し潰しにかかってくるような、錯覚さえもする。
……原因は、あのというアイルーだと思う。急に現れた彼女は、別世界のしかも人間だと馬鹿げた主張を繰り返し言い張る変わり者だ。確かに、少なくともカルトの群れのアイルーとも別群れのアイルーとも、当てはまらない型破りの性格をしている。そんな話聞いたことがない、よく現れる山菜爺なる龍人族の老人は「久しく見た」と笑っていたが……いや、今はそれはどうでもいい。彼女が来てから、生活が変わった。そして、身の回りも変化していた。
めまぐるしく、全く異なり続く毎日。渓流で暮らすものとは思えないほど無防備で、あまつさえ危険な青熊獣《アオアシラ》を友人などとのたまった。その上今度は、流れのものと会ったなどと言う。常識のない行動は、カルトを何度もいらつかせた。
だが……その苛立ちは、果たしてに対してか。流暢な言葉、穏やかな物腰、そしてアイルーらしかぬ奇天烈な行動。その由縁を、カルトは知らない。彼女が、何度も泣きそうな顔も、切なく憂う顔も、それが何故か知らない。
何故彼女に対し、ここまで考えてしまうことも。

……面白くない。

変わらない渓流で生きてきたのに、日を追うごとに何かが変わっていく。
それが要因だとしたのなら……自分は、なんて小さいのだろうか。
そして、もしも、それをのせいにしているならば……―――――。

「……なんで、あんな変なヤツのことばっかり、考えてるニャ……」

そう口にしてみたら、何故か一層苛立った。




「こんにちは、ジンオウガさん」

お馴染みの、滝の裏に存在する洞窟。幾つもの凹凸の出来上がった大地と、折り重なる階段状の岩壁を伝い降りて、透き通った地下水脈の脇を歩いていく。窪んだ空洞の中を覗き込むと、今はもう恐ろしいことに慣れてしまった手負いの狩人ジンオウガと視線を交わす。後ろ足の怪我もすっかり治って、手負いではないけれど。
首を起こしたジンオウガは、「お前か」と短く呟き、喉を鳴らした。素っ気無いけれど、邪険に扱うわけでもないため、は気にせず側にトコトコと歩み寄る。

「さっきも来たはずだが……そう何度も俺のところへ来ても、つまらないだけだろう」

憎まれ口を叩くが、彼に対し恐怖は無くなったには脅しにはならない。

「そうなんですが……ジンオウガさんは私の知らないことをたくさん知っているので、つい勉強したくて来てしまいます」
「べん、きょう」
「あ、えーっと、教えてもらって学ぶことです」

付け加えるように言えば「知っている」と、これまた驚きの言葉が返ってくる。
……このひと、本当にモンスターかしら? いや、モンスターって実は相当頭が良いのかもしれないわね。
なんて、が失礼なことを思っていると、「で、今度は何だ」とその獣にはない眼光を秘めた目を向ける。

「そんなに、大したことじゃないんですが……ジンオウガさんの知る、人間の世界ことを聞きたいなって」
「人間と敵対する俺に、か」
「ごめんなさい、貴方がモンスターであり、その中でも人間と争っているモンスターであることは知っていますが……。
どうしても、聞きたくて。人の世界を」

なんて、それは人間に敵対する彼への挑戦と受け取られても、無理のない言い分だ。が捨てられない思いは、この場所においては障害もしくは忌むべきものであるのだろうから。
が苦く複雑に笑うと、敏感にも嗅ぎ取ったのか、「別に構わないが」と呟き、に尋ねる。

「お前は、人間の生活に加わりたいのか。前も、思ったが」

嘘はつけず、は頷いた。こればかりは、嘘も言いたくない。
ジンオウガの反応も恐ろしくあったが、彼は意外や「そうか」とだけ終わった。激昂でもするだろうか、と思ったのだけれど……と疑るの目に、ジンオウガの目が半眼になった。呆れて、いるのだろうか。

「別に好きなようにすればいい、ただ前にも言ったが、覚悟は持て」
「人を嫌うモンスターがいるということ、ですか」
「そうだ……あとお前が、俺たちと敵対するということも。もっとも、そんな風に思うのは、お前くらいなものだろうがな」

ジンオウガの太い首が、時おり振るように揺れる。

「モンスターに、そんな繊細な考えなどない。行動の基本は、喰うか喰われるか、生きるか死ぬかの本能的なものだけ。ただまあ中には強烈な奴もいるから一概に言えないけどな」
「……ジンオウガさんは」
「ん……?」
「ジンオウガさんは、人の心も、モンスターの心も、分かるのですか?」

彼の言葉は、まるで。人の心すら、解しているようだ。モンスターにその繊細さがないというのなら、ならば彼は……?
の眼差しと、ジンオウガの見開いた瞳がぶつかり、洞窟内に流れていく水音と静寂が不意に張り詰めた。だがそれは気まずい静寂ではなく、今までもあった不思議な感覚を投げかけあう時間のようだった。先にそらしたのはジンオウガの方で、声をひそめて静かにグルグルと唸った。

「人の心、か……俺には、遠いものだろうに」
「貴方に、そんなことを言うのも失礼かもしれませんが」
「……お前は本当に、アイルーらしくないな。まるで、人間と話しているようだ」

それは、私もそう思いますよ。は小さく笑い、ジンオウガのゆったり組んだ前足の横に座った。

「ジンオウガさんは、本当に不思議ですね」
「そうか」

やはり素っ気無かったけれど、獰猛な竜のような碧色の横顔は、穏やかに見えた。

「そういえば、ジンオウガさんは昼間はこの中にいるんですよね」
「ああ」
「食事とかは、じゃあ夜にしているんですね……そっか、夜じゃないと出られないんですものね」

彼なりの、人に気付かれないための対策か。ふんふんとが頷いていると、ジンオウガの顎が開く。

「……お前は、アイルーらの群れで生活しているのか」
「え? あ、えーと、私はよそ者だから、群れには入れないんです。だから、一人で生活してます」

いつもは、から一方的な会話を展開しているが、ジンオウガが話題を振るのも珍しい。彼がこの渓流にやって来て、数週間、そういえば初めてかもしれないと、少々うろたえた。が、ジンオウガがそれに気付かず「よそ者?」と訝しむように目を細めている。

「お前は渓流のものではないのか……?」
「ええっと、まあ……」

もと人間だなんて、信じてもらえないだろうに、ましてここで別世界からやって来たなんて。
言えるわけもない。
過去、素直に話したら、アイルーらに散々馬鹿にされたのだから。カルトでさえ、未だ信じてくれていない。山菜爺は信用してくれているのか定かでないが、あの人は恐らくの言い分を聞いてくれている。
とても知識深いジンオウガでも……また馬鹿にされたら堪えるので、声を濁し、「そんな感じです」と終わらせた。
ジンオウガから深い突っ込みはなかったけれど、言葉は続いた。

「……何処で、寝ている」
「寝床、ですよね。えっと、この洞窟を出て、滝をくぐって、その向こうの森林のところです。
色々教えてくれる、アイルーのカルトっていう男の子が『ここが良い』って言ってくれたんです」

なかなか、そう悪くないですよ。の言葉に、頷いているわけでもないが、ジンオウガは耳を傾けている。

「カルト……友人か」
「ええ、まあ」
「あの小さいアオアシラも、そうなのか」
「ああ、木の幹に落ちた時ですね。そこに私の寝床があるんです。アシラくんとも仲良くなったんですよー、よく魚を自慢げに獲って来るんです」

そういえば、ジンオウガとのセカンドコンタクトもその場所であった。あの時彼は何かを探しているような素振りを見せていたが、何だったのだろうか。
思わずそれを声を小さくし尋ねると、簡潔に「薬草とアオキノコを探していた」と返ってくる。

「回復薬、ですか……?」
「ああ。まあ結局無くてリスク冒しただけだったがな。その後一つ貰えたから良いが」
「……」

確かあの時私、至るところで薬草とアオキノコを探していなかったかしら。
不意によぎる躍起になった初調合の記憶を、そっと再び閉じ、「私のことを聞くのは珍しいですね」と誤魔化した。

「気まぐれ、だ」
「そうですか」

それから、また数十分と言葉を交わした。特に何かを語り合うわけではないけれど、ジンオウガの「また来る気か」という素っ気無い言葉に大きく頷いて洞窟を後にした時、ほっこりと良い気分だった。
彼は、やはりこの近辺にいるモンスターと違う。
は、流れのジンオウガに、安心感すら抱いていた。今度来る時には手土産を持っていこう、と思ったけれど、どう見ても肉食のためケルビやガーグァを連れて行くのは出来ない。やっぱり果物になるのだろうか、と考えながら、滝をくぐり森林部に向かった。

―――― その時、ちょうど滝のそばの岩陰で、アイルーが小さく身じろいだ。
それはの後姿を見送り、そして滝の向こう側の洞窟へと視線を向け、じっと見つめていた。
2011.10.21