貴方の声が、躯が、温もりが、(1)

ジンオウガの様子が、変わった。
人間の世界に精通する聡明な彼が、常に何かを思案に暮れ、に会うたび質問を浴びせる。本当に元人間だったのか、など、何処で暮らしていたのか、など。ほとんどがの内情へ深くに突っ込んでくるものばかりで、彼女に答えることなど出来ないが。なにせこの世界とは異なる地よりやって来たのだ、カルトに元人間だということをばらされたが、こればかりはさすがに勢いでも言えない。従って、突然すぎて覚えていない、実は最近物忘れが出たりして、と差し当たりの無い返答をしていた。( 物忘れで誤魔化すと、大体変な視線を向けられるけれど )
ジンオウガは、「そうか」と呟くだけで、そのような質問をする理由を、口にすることはしなかった。

流れの王者……《ジンオウガ》。

ますます、彼に対する疑問が募る、この頃である。


――――― さて、それとは別の話になるが、サバイバル生活を強いられて、さらに数週間が経過した。
もうすでに半年以上は経過しているような感覚だが、実際には一ヶ月そこそこかもしれない。いや、下手したらそれ以下かもしれなかったが。
事務仕事が主な社会人には、無縁なこの生活は相当な過酷さを滲ませているものの、義理堅いカルトと懐いてくれたアオアシラ、それなりに親しくなったと思われるジンオウガや、渓流のアイルーの群れ、山菜爺などの存在によりずいぶん救われている。
運が良かった、本当にそう思う。
人のいない、ましてモンスターが闊歩する場所で、何事もなく生きているのだから。重傷を一つ二つ負ってもおかしくはないのに、これこそまさに奇跡だ。
これで、人間に戻れれば一番良いのだが……神様は、そこまで優しくはなってくれないらしい。
今日も水面に映る自身の顔は、桜色のアイルーだ。溜め息も、出てこない。

「可愛いといえば、可愛いけど……」

ムニ、と頬を押さえる。ぷにぷにな肉球が、切ない。

「……でも、人間に戻っても、何処に行こうかしら」

の知る世界は、この渓流のみである。世界地図でもあれば良いのだが、さすがに山菜爺に求めるにはハードルが高いか。
カルトが、こないだユクモ村のハンターの話をしたが、そのユクモ村とは何処にあるのだろう。あとは衣食住も考えなければならない……そこは死に物狂いで頼み込んで住ませてもらうしかない、か。

「……人間の誰か、来れば良いのになあ」

そうすれば、近隣に村があるか、もしあればどのような場所か、聞けるというものだ。
……だがそう思ったではあるけれど、仮にやって来る人間がいるとしてもハンターなのだろうと容易に想像出来た。
……怖いなあ、こんな姿じゃあ切られたって文句言えないわ。
マスコット的存在のアイルーといえど、《獣人族》というカテゴリのモンスターなのだから。

……考えるほどに、落ち込みそうになった。

一旦打ち止め、は覗き込んでいたせせらぎから立ち上がる。何はともあれ、今日も無事に生き延びなければならないのだから。
いつものように山菜爺のもとへ向かって、アイルーの群れと挨拶し、最近お馴染みの蜂の巣の下でアオアシラと出くわして。
定例と化したカルトの小言も受けながら、ジンオウガのもとへ。
一日の行動が、最近すっかりと決まってしまったが、それでもの世界はこの渓流で、まずはこの地で頑張らなければならないのだ。

「……そういえば、ニャン治郎は元気かしら」

眼帯をつけ笠を被り、葉っぱをくわえたメラルーが浮かぶ。も、渓流が夜になると姿を見ていた、人のものを盗んじゃう手癖の悪い彼らという種族。その中から、盗みから足を洗って宅配便を誠意込め行っている、人間の世界へ飛び込んだ彼は、今日もゴロゴロと樽を転がしているのだろうか。
また会えると良いな、なんてのんきに考え、アオアシラの背に乗り揺られる。

が来てから、多少の悶着があったにしても、特に危険なことが起きていない穏やかな渓流。
この風景は、心の何処かで平穏のまま変わらないと、思っていた。それがいかに、この世界で険しい幻想だとされていても―――――。


わりと小さいと思われるアシラくんことアオアシラと戯れた後、はその足で一日の予定のある意味メインイベントであるジンオウガのもとへ向かった。
が人間であることをカルトが漏らしてから、物思いに耽ったり、ぼうっとしていたり、様子が変わったのだが……一応、会話はしてくれるからあまり深く気にしない方が良いのだろう。それに、あのジンオウガはハンターなるモンスターの狩猟を行う人間との戦いで、手傷を負い逃げ落ちてきたらしいから、元人間という単語が出てきてしまって……考えてしまっている可能性もある。そうなるとやはり、あまり彼自身のことを尋ねるのには気が引ける。
人間の世界のことも、聞かない方が良かったのだろうか。
一抹の不安を覚えながら、慣れたように地下水脈の縁を進み歩き、普段丸くなって静かに息を潜めるジンオウガのいる窪みを覗き込む。
小柄なアオアシラよりも、遥かに屈強で大きな体躯を持つジンオウガはそこに居たけれど、やはりこの日も何かを考えていた。冷たい岩の地面へ腹這いに伏せ、太い四肢を折り、それだけですでに無双の王者の美しさはあるものの、まるで……。

( 人間、みたい )

それこそ口にすることは憚れ、はただそっと呟くように言う。

「……ジンオウガさん?」

そこでようやく存在に気付いたのか、ぼうっとしていた瞳に意識が戻る。「あ、ああ」と声を漏らし、と視線を合わせた。

「……来たのか」
「ええ、あの……」

ぎこちなく返事をすると、ジンオウガは首を振り、「構わない」と低い声音で言った。を察しての、言葉なのだろう。
は軽く会釈しトコトコと進むと、交差させて組んだ前足の横へ座る。すっかり定位置になってしまった場所にいる、の頭の天辺にジンオウガの視線が落ちてくる。

「……また、聞いて良いか」
「はい、何ですか」
「お前がこないだ、俺に人間の世界のことを聞いたのは……戻りたいからか」

は、少しだけ黙った。そうか、前に聞いた時は野生アイルーが人の世界に行きたいがために尋ねた、ということになっているが、今は元人間なのに何故尋ねたのか、ということになる。
今までは「忘れた」と曖昧な返答しか出来なかったが、これには言葉を考え答える。

「そう、ですね……人間に戻りたいから、今こうやって改めて勉強中です」
「……そうか」

彼はまた、そこで口を閉ざす。今度はが、小さく尋ねた。

「あの、ジンオウガさん?」
「何だ」
「私が人間と聞いて、やっぱり嫌な気分になりましたか?」
「……何故」
「こないだから、様子がおかしいですから」

ジンオウガの口が、閉ざされる。その仕草が、当たりのようにも思えて、はヘナッと耳を下げる。が、その頭に再度降ってきたジンオウガの声は、「別にお前ではない」と紡いだ。
「では、どうして?」と尋ねたが、それには返って来なかった。言いたくない、というよりも、言葉に迷うようだった。そこを無理に問いただしはせず、は「良いんです、気にしないで下さい」と終わらせた。ジンオウガの困惑の空気は無くならなかったが、邪険に扱われないことだけで十分に嬉しいことだ。はそう思い、別の話をした。カルトが、こないだ……と切り出し、重い空気を少しでも軽くしようと務めるの頭上で、変わらずジンオウガの何かを含んだ眼差しが感じられた。



「――――― べっつに、ただの気のせいニャ~。は阿呆ニャ」

……それをこのカルトに言えば、無碍な一言で片付けられるというものだ。
彼に繊細な部分の疑問が、分かるわけないのだから、当然だ。そして最後の阿呆発言は、全く関係ないと思い、要らぬところで腹立たしくなる。何だかんだで義理堅いから、最後まで聞いてくれたけれど、どうも肝心な部分で斜め上に向かう。

……良いんだけどさ、もう。

はあ、と溜め息をつくと、の後ろでデンッと座っていた小柄なアオアシラが不思議そうに首を傾げる。彼は、ジンオウガと聞いてもピンッとした様子もなく、ただ《大きくて怖いモンスター》という漠然とした印象が刷り込まれているようだ。以前、野生のアイルーたちが、言っていたこともあるのだろう。彼らに、種族を越えた関心はない。
ジンオウガの変化は……その内、分かるかもしれないことだと、は考えるのを止め、改めて顔をぐっと上げる。
そうだ、まずは、お腹を満たさないと。
の視線の先には、麗らかな陽射しを受ける、新緑茂る樹木。そして枝の先には、真ん丸の果実が陽を浴び揺れている。いかにも美味しそうなのだけれど、なんたって高位置にある。

「……登るの?」
「当然ニャ」

カルトはしれっと言い、樹木の幹をトントンッと叩く。人間の姿であれば、まあまあ普通の太さだが、アイルーとしてみると極太である。
の表情もあからさまに嫌そうになるものの、カルトはよいしょっと幹に両手をつき、片足をつける。そのまま、ズンズンよじ登っていく。
は、速いなあ……。
がぼけっと見上げていると、頭上のカルトが器用に見下ろして、「も速く来るニャ!」と言った。

「ええー! 私、無理よ!」
「無理じゃないニャ、諦めたらそこで終わりニャ、ほら早く来るニャ!」
「ちょ、いつからそんな熱くなったの」

ファイトーとばかりに片腕を上げるカルトが、何だか腹立たしい。しばらく見上げた後、は意気込み幹にへばりつく。人間みたいにウェイトがあるわけでないし、履物のせいで登りづらいわけでない、と信じて足を進める。

「ん、ぐ、ぐぐ……!」
「……おっそいニャア、

いやまあ結論を言うと、アイルー姿であってもそう変わらないと。手足はプルプル震えて、ミリ単位でしか上がれない。
だって私、事務仕事が主な一般人だもの!
モンスターの言葉が分かる奇跡が起きたなら、身体能力の上がる奇跡も起きて欲しかったものだ。
ジリジリと、限りなく静止に近い速度で登る後ろでは、アオアシラが不安そうに鳴いている。

さん、ボクも手伝おっか? 危ないよ?」
「へ、いき……! カ、カルト、アンタどうやって、の、登って……るの?!」

必死なの頭上に落ちてきた言葉は、「爪立てれば良いニャ」と短いものだった。
爪? 爪なんて、どうやって出すのよ。
彼らにとっては、まさに呼吸するが如くなのだろうが、に理解出来るわけない。がっちりとしがみついたまま、手足の先につい力が入った。だがそれが良かったのか、爪が現れ、メキッと木の幹に埋まった。

「あ、出た! うぬぬぬゥゥゥ……!」

爪が出てるうちに、手足を懸命に動かす。あ、これは便利!

「大丈夫? さん大丈夫?」
「何とか、いけそう」

などと言っても、傍目にはやはり危うい木登りらしく、アオアシラがそわそわと身体を揺らしている。ゆっくりと地上2メートルに上がった時には、木の幹に太い前足をつき、後ろ足で器用に踏ん張って立ち上がり、お尻を心配そうに見ている。
……ちょっと、あんまりお尻ばっかり見られるのも恥ずかしいんだけど、アシラくん。
結局、最終的にはカルトに引っ張り上げられる格好になった。カルトは軽い身のこなしで枝に上がると、の手を掴みグイグイ引っ張る。

「全く、ドン臭いニャー」
「ううー、面目ない……」
「大丈夫? 大丈夫?」

枝の上で息を吐き、そっと見下ろす。おお、アシラくんがあんなに小さい!

「平気よ。見て、アシラくんよりも高い場所に来ちゃった!」

もちろん、建築物などに比べれば随分と低位置だけれど、自力で上がったとなるとなかなか感動も違う。いつもは見上げるアオアシラが、下にいるのも新鮮だ。隣でカルトは、「別に特別なことじゃないニャー」と場を濁しているが、気にしない。

さん、さん、ボクも上がりたい」
「ええっ?」
「ボクも一緒に上がりたい」

キラキラと、赤い目が輝いている。
あ、上がれないこともないだろうけど……枝がバキリと折れそうだ。が見てきた世間一般の熊か、あるいは少しだけ大きめ程度だ、熊も木に登るというが。しかし目に付くその腕。丸太もプレッツェルみたいに容易く真っ二つに出来そうだろう。
は思わず止めたが、アオアシラはヘナッと耳を下げる。

「でも、だって、ボクばっかりここにいるのつまんない」

見た目は怖いが、声音は幼い少年の声。の良心が、ズクンッと痛みに跳ねる。
ほら、鰹節みたいにバリバリと木の幹を引っかく姿も、庇護欲を……―――――。

「――― アシラくん、ストップ!」
「ボクも行きたいー!」

ブォォォォ、と少年の声にあるまじき、獰猛な鳴き声。
木の幹が、凄い勢いで磨り減っていく。否、アオアシラの手によって、容赦なく面積を削られていく。いや、これはもうすでに抉れて言ってると表しても正しいのだろう。
誇らしげだったカルトも、これには驚嘆の顔つきに一瞬で変貌する。和やかさは、すでにもうない。

「ニャァァァァ折れるニャ!! 馬鹿アシラ!!」

カルトが腕を振りかぶったが、残念なことにいつものどんぐりハンマーは木の根元で横になってくつろいでいる。登る時に、大方放り出してしまったのだろう。 ( 一層カルトの表情が引きつっていた )
ギャーギャーワーワー、静寂の渓流に響き渡る、絶叫。
恐らく近隣から、ガーグァやケルビなどは逃げ去っていることだろう。そしてきっとその声は、ジンオウガを「またアイツらは」と呆れさせているような気もした。



けれど、その時であった。



「――――― 危ない!」



唐突に割って入った、第三者の声。
はもちろんのこと、カルトやアオアシラも動きを止めた。絶叫がピタリと止まり、散々それに揺らされた空気が余韻を残しただひっそりと流れる。

今のは、一体誰だろう?

思わず隣を見ただが、カルトではないだろう。そして当然、アオアシラでもない。
今の声は、少女のものだったのだから。

「え、え……?」

キョキョロと、周囲をうかがうと。
耳に届く、奇妙な足音。
ベッコンバッコン、と例えるなら長靴のような音だ。
その音を辿り視線を動かせば、こちらに向かって走っている影を二つ見つける。

「旦那様、危ないから先に行っちゃ駄目ニャ!」
「大丈夫、これくらい……んぶぅ!!

は、しばし呆然とし見つめた。
スベシャア、と転げたその影と、その後ろで慌てて駆け寄る影の、声の主は。

木刀を背負った、縞模様の青いアイルーと。
盾とナイフを両手に持つ、武装した人間の少女だった。

嵐の予感。
待ち望んでいたこの世界の人間のはずなのだが、の頭には何故かそんな一文がよぎった。
はい、彼女が登場しますよー!
いや本当、改めて申し上げますが、この話はオリキャラが出張りますので、ご了承くださいませ。


2011.11.09