貴方の声が、躯が、温もりが、(2)

静寂を散々破って騒いでいた自分が言うのもなんだが、この痛い沈黙はさすがに望んでいない。
突如現れた少女は、やカルト、アオアシラの前で豪快に転げた。その瞬間に、ポーチから薬瓶や笹に包まれた食料がこぼれ、ビーズをばら撒いたように飛び散る。
……これは、何処に突っ込めば良いのか、非常に難しい。誰ですか、と言えば良いのか、大丈夫ですか、と言えば良いのか……。ともあれ、不可思議な空気が漂ったのは間違いがない。誰一人口を開かないのが、それを一層煽り立てるようだ。
だが、現れた少女はバッと顔を起こしふらつきながら立ち上がると、散らばった道具などをそのままに再度口を開いた。

「自分よりも小さいアイルーを苛めるなんて、駄目ですよ! 私が相手します!」

……んん?

は、言葉に含まれる単語に、首を傾げる。苛め、というのは、一体何だろうか。
が呆然と見下ろす隣では、カルトのヒゲがピクリと揺れていた。お気に入りのどんぐりハンマーを置いてきた絶望の表情はなく、代わりに険しさが浮かんでいた。は驚いて、彼に声をかけると、「ハンターニャ」という短い言葉が返ってきた。それに反応するまで、の中で随分時間を費やした気がした。

「ハン、ター……?」

ざわり、と背が震えた。
ハンター、すなわち狩猟者。
それはに無縁であるが、しかし知らぬ言葉ではない。アオアシラが怖いと漏らしたもの、ジンオウガに手傷を負わせたもの、自分もいつかそうされるかもしれないもの。

――――― その時、少女が握り締めた盾と剣をギュッと構えたのが見えた。

「え?」

がようやく、状況に気付き始めた時には、少女は軽やかに跳躍し、その剣を振り下ろしていた。
その鋭利な刃は、無防備にお尻を向けていたアオアシラの足を、ザシュッと切りつける。
瞬間、アオアシラの口から引き裂いたような悲鳴が上がり、静まり返っていた空気を破った。

「アシラくん?!」

木に両手をついて立っていた彼は、不意の攻撃にバランスを崩し、ズシャリッと木の根元で転がって倒れる。その木にぶつかった振動は、とカルトのいる高位置にまで届いた。
の後ろ頭が、水をかけられたように冷たくなる。
思わず手を伸ばすも、隣のカルトがグッと腕を掴み、遮る。

「カルト?!」
「止めとくニャ、ハンター相手じゃも危険ニャ!」
「でも、これじゃあ……ッ」

まだ子どもだ。見た目は貫禄あっても、まだ小さく幼い子どもじゃないか。
例え、モンスターからしてみれば独り立ちし立派な成体であったとしても、から見たその光景は、あまりにも一方的で酷だった。
痛みに呻くアオアシラの後ろから、少女がまた剣を振りかざす。ろくに体勢を整えられず地を引っかく足が、何度も切られていく。アオアシラの硬い青毛が、じんわりと血を滲ませていくのが見て取れ、の中で何かが膨らむ。この地に来て、初めての感覚だった。
は、ついにはカルトの腕を強引に振り払った。ただ力が強すぎたせいで、バランスを崩し地面へ無様に落下してしまったが、痛みに呻く時間もない。よろよろと起き上がり、転がるアオアシラへと駆け寄る。

「ま、待って、止めて」

突如、割って入ったの存在に驚いたのか、少女から「え……?!」と声が上がる。だが、攻撃の勢いを緩めることは出来ず、腕に装着した盾は突き出される。それを受け止めることなど、アイルーの姿で、あまつさえ何の訓練も受けていないに出来るはずもない。
襲い掛かった重い衝撃が、身体の芯をも揺らし、彼女はあっさりと吹き飛んだ。地面に草や苔が生していたことが不幸中の幸いで、地面に強打されたはしたが、まだ救われたような気がする。けれど、一瞬意識が飛び、打ち付けられた激痛で引き戻され、情けないが何度も咳き込んだ。頭は痛い上に、何かせり上がってきそうな気持ちの悪さ、全身に響く強打の痛み。生まれて初めて、「死ぬかもしれない」と思った。

「ん、ぐ……ッう……ッ」

、さん……!」

うっすらと見える世界で、アオアシラが身体を起こし、片足を引きずりながら歩み寄ってくる。その後ろで、少女が戸惑っているようにも見えるが、剣は握り締めたままだ。
うつ伏せに転がるの頭上に、グルグルと何度も喉を鳴らす声が聞こえる。上手く動かせずかろうじて身動ぎだけすると、べろり、と後ろ頭を舐められる。肉厚な舌はざらりとしていたが、「起きて」と気遣うような仕草は心地良くもあった。ほら、優しい子だ。顔を起こしてあげたかったが、大地と抱擁を交わすしかなく情けない。

「へ、いき……」

そう言ってみたが、アオアシラは困ったように足踏みしている。
それを見下ろしていたカルトは、ブルブルと震え、ギッと少女を見下ろした。

「ニャァァァァァアアア! に何するニャァァァァ!」

慣れたように飛び降り着地すると、どんぐりハンマーを担ぎ、果敢にも少女へ攻撃を仕掛ける。
どう見ても、勝てる相手ではない。あんなに危ないものでは、カルトの方が怪我をする。止めなさいよ、と言いたかったが、それも上手く出なかった。
カルトは、ダダダッと少女に走っていくが、少女がハッと気付いて振り返ると同時に、別の影が割り込む。カルトと同じ背丈の、青い縞模様のアイルーだ。笠を被り、木刀を担いだ和装姿で、野生のアイルーとは明らかに異なる。
身なりもさることながら、握り締めた武器の扱い方が、明らかにカルトなどよりも上手い。ハンマーは受け止められ、カルトは跳ね除けられる。

「旦那様に近付けさせはしないニャー!」

憤慨する様子は可愛くもあるけれど、吹き飛ばされたカルトを思えばそうも言っていられない。どう見ても、相手のアイルーは武装している。何も纏っていないカルトが、吹き飛ばされても致し方ないが……。
ますます怒り狂うカルトは、ハンマーを振り回す。

「~~~! 何なのニャ、余所者のくせに何の用ニャ!」
「別にアンタに用なんかないニャ、そっちこそどういうつもりニャ!」

カルトと、同等に憤慨している青いアイルーが、木刀を突きつける。

「旦那様は、アンタたちを助けようとしてるニャ。ハンマー振り回すなんて、お門違いニャ!」

痛みに呻くは、はた、と首を傾げる。何か大きな食い違いが、不意にあるように思えた。
カルトも同じく首を傾けると、「何言ってるニャ」と訝しげに目を細める。剣を握ったまま「え? え?」とオロオロしている少女も、違和感に気付いたのかすっかり動きを止めた。
は、ヨロヨロと立ち上がり、少女とアイルーのそばに歩み寄る。背後で、アオアシラの不安げな鳴声が聞こえていたが、の足は進む。
青いアイルーは、カルトからへと視線をやると、木刀を構え直す。鼻の頭にシワが入り、なかなか迫力はあったものの……あの巨大なジンオウガに比べれば、何てこと無い。

「こっちに、敵意は、ありませんから……武器をしまって下さい。この子も、何も、しないから」

頭の芯が、未だガンガンと揺れている。声も上手く上手く出ていなかったかもしれないけれど、少女とアイルーには伝わったようだ。少女の方が、酷く、驚いた顔をしているが。
舞い戻った沈黙が、静かに頭上をたなびく。ポツリ、と口を開いたのは……剣を握った少女だった。

「野生のアイルーが、喋った……」

どうやら私の声は、人間にも通じるらしい。
が、そんなことより、残念なことに立ち続ける限界が来たため、地面に再度ぶっ倒れる。
かろうじて残る意識の中で、カルトやアオアシラ、加えて少女の声も聞こえたような気がしたが、生憎そのような余裕もなかった。




―――― それから、沈んでいた意識が浮上し、目覚めた時。
の目の前には、息が掛かるほどの距離にカルトの顔面が。
視界一杯に広がるアイルーの顔。悲鳴が渇いた喉の奥で突っかかり、吸い込んだ音しか出なかった。その代わりに、俊敏に腕が伸び、カルトのドアップなそれを正面から静かに引っかく。
「ギニャァァァァ」と悲鳴を上げながら地面の上を転がる彼は放って、ズシリッと重い上体を起こした。
場所は、先ほどと同じ、樹木が鬱蒼と繁り、木漏れ日の差す森林部のようだ。鰹節のように磨り減った樹が、視界の片隅に見える。
ゴシ、と目を擦ると、の背にべろりと生暖かい何かが這った。不意打ちだったため、凄まじい悪寒が駆け巡ったものの、耳に届く唸り声は聞き慣れているものだ。肩越しに振り返り、そっと笑みを浮かべる。

「アシラくん」

べろべろ、とくすぐったさを通り越して痛いぐらいに舐めてくるのだが、心配させてしまったのだとはされるがままになる。背中が凄いことになっていそうだが、今は気にならなかった。

「あ、起きた。大丈夫、ですか……?」

おずおずと聞こえた、少女の声。が顔を戻すと、僅か離れた場所にあの人間の少女と、青い縞模様のアイルーが座っていた。
盾と剣は側に置いてあり、グローブを装着した手は座り込んだ膝の上で握られていた。そばのアイルーは、臨戦態勢でハンマーを持っているけれど。
今は、敵意はないということか。良かった。
がきょとりとしていると、少女はパッと後ろへ向き、何かを持ち上げの前へ置いた。ガウッとアオアシラが唸り声を上げ、少女は怯えたように肩をすくめたが、すぐに腕を引っ込めまた座る。

「こ、こんがり肉、良かったら、食べて下さい」

間違って攻撃しちゃったから、そのお詫びに。
少女はそう言って、しょんぼりと顔を伏せた。曰く、木の上に避難したアイルーを襲おうとしているアオアシラ、という光景に見えてしまったとのことだ。
はそれを聞き、「ああ」と納得がいった。確かにあれは、そう見えて仕方ない。であっても、咄嗟に出くわせばそう思う。
恐らくは、が気絶している間に、カルトが説明してくれたのだろう。何はともあれ、誤解が解け良かった。

「いいえ、気にしないで下さい」

はにこりと笑って見せた。パタパタと尻尾を揺らしてみれば、少女はパッと表情を明るくさせて、笑みを返した。

こんがりと焼いた骨付き肉を、カルトと共にモフモフと食べている間。
少女と話をし、幾らか彼女のことと、そして側にいるアイルーのことが分かった。
彼女の名前は、レイリン。この渓流から遠方にある、ユクモ村なる村からやって来た専属ハンターであるらしい。
陽に焼けた痕跡のない、白い肌をし、まだ大人になりきれていない少女の顔は、同性のから見ても素直に可愛いと思う印象があった。灰色、ではないが、漆黒を淡くさせた不思議な色の髪は一つに結い上げられて、こめかみに伸びた髪は、大きめの色つきゴムで留めている。
上質な毛皮と、鋼を組み合わせた装備 ――ハンター装備と言うらしい―― を纏っているため、出で立ちこそは狩猟者の空気がある。が、17歳か18歳程度の、華奢な身体つきと160センチ以下であろう背丈は、少女の頼りなさを妙に浮きぼらせている。もっと筋肉質で、女性レスラーのような想像もしていたのだが、到底当てはまりそうにない。おまけに、長靴みたいな音を立てるグリーブが、それを一層煽る。何故あんな音を立てるのか、心底疑問である。

そのレイリンの側にいる、青い縞模様のアイルー。狩場に向かうハンターの、手伝いをするオトモアイルーなる職についたものらしく、名をコウジンと言った。
ユクモ村の伝統衣装をデザインに取り入れたという、ユクモネコS装備というものを纏っていて、名前の勇ましさに似合うなーと思っていたのだが……。

「野生のくせに、旦那様に近付くな!」
「うっさいニャ、そっちこそこっちに来るな! そこの枝からこっちがオレの領地ニャ」
「じゃあそこの岩からあの岩まで、ボクの領地ニャー」
「ず、ずるいニャ、意地汚いヤツニャ!」
「ニャ、ニャにおう! そういうこと言う方が、意地汚いのニャ!」

先ほどから、このような調子でカルトと張り合っているため、一瞬でそれも吹き飛んだ。どっちもどっちという言葉は、この状況を表す良い例である。
やかましい言い合いはバックグラウンドミュージックに相応しくないが、耳を片っぽ折り気にしない。

ユクモ村といえば、カルトが以前話をした、ジンオウガの脅威にさらされた村、だったか。
その地より来た彼らは、何でも採集ツアーというキノコや魚を採る無料のツアーに足を運んだらしい。

「野生のアイルーとなんて、初めて話しました~」

のんびりと、ほんわかと笑みを咲かせる彼女はへ腕を伸ばしてくる。が、の背後のアオアシラが途端に唸り、「それ以上来るな」とばかりに威嚇する。
先ほどの一件で、すっかりレイリンを敵と認識してしまったらしく、《青毛獣》の獰猛な表情を見せている。その上にぴったり張り付いたまま動かないため、相当な威圧感だろう。攻撃しないのが、唯一の譲渡なのかもしれない。
これにはも何も言えないが、レイリンはしょんぼりと落ち込んで腕を戻す。

「すっかり嫌われました……。でも私、ハンターだからしょうがないですよね……」

……とはいえ、この少女からあまりハンターの風格を微塵も感じられなかったりするけれど。
は思わず呟いてしまいそうになったがこらえる。

「せめて、怪我だけ治せれば、良いんですけど……」

レイリンの呟きに、不意に思い出した。そういえば先ほど、アオアシラは思い切り切られていなかっただろうか。はバッと振り返り、アオアシラの足を見下ろす。案の定、片足には赤い血が滲んでいる。

「わ、アシラくん、怪我してたんじゃない! 早く言いなさいよ」
「だって、」
「良いから、ほら」

腰に装着していた物入れを、ぐるりとお腹の前へ回す。蓋を開け、作り置きしていた緑色の液体《回復薬グレート》を取り出し、栓を抜く。あれから再度本を開き、作り方は熟知した。
目の前でレイリンが「え、それ」と声を漏らす。まあ、野生のアイルーが持っていれば驚きもするだろうか……けれど、はひとまずアオアシラに飲ませることにする。警戒して飲もうとしなかったけれど、「アシラくんの大好きなハチミツも入ってるよ」と言えば、あっさり口を開いた。薬瓶を持ち上げ、口内へ流し込む。ごくり、と飲み込んだ音がしたので、ひとまずは安心だ。

「あの、それ……」

おずおずと、レイリンが尋ねてくる。言いたいことは、何となく分かる。は隠さず、「調合書というものを、山菜爺さんに貰ったんです」と告げ、筒状の物入れを見せる。中から出てくる薬草や空き瓶などに、レイリンは目を真ん丸にし見つめ、「野生のアイルーが、回復薬作れるなんて、初めて知りました」と漏らす。

「コウジンだって、作れないのに」
「ニャ?!」

カルトと言い合っていたコウジンが、ガーンッと効果音を背負う。
何故かカルトが得意気な顔をしていたけれど、お前だって作れないだろうと密かには思った。

「不思議なアイルーさんですね、そういえば服も着てますし……」

首を傾げているレイリンに、は苦笑いを漏らす。中身が人間なんて、言っても信じてくれないな。その言葉はそっと胸にしまい、一呼吸置いた後話を切り替えた。

「そういえば、この渓流の周りってどうなっているんですか?」
「え?」
「私、えーっと、人間の世界にも行ってみたくて。周りのこと、よく分からないから。人間の村とか」

人間の世界に飛び込んだ、アイルーもいる。それに憧れているとある意味本当のアピールをすれば、レイリンはパッと笑みを咲かせた。近くの手頃な枝を掴み、の前でガリガリと地面へ書き始めた。

「いざ聞かれると、説明が難しいんだけど……えっと、今いる渓流は、ここだとしますと」

丸く円を書くと、その中に《渓流》と書いた……と思われる。調合書を見て読み書きの練習もこっそりとしているのだけれど、まだまだ勉強不足のようだ。
は数歩進み、その絵を覗き込む。
「ここから南東寄りに進んでいくと、山があって」レイリンの枝先は、丸い円の下に、山の形のマークを書いた。
「それで、またその先には別の渓流が広がっていて」くるり、と丸い円を書く。
「その先に、私が暮らしているユクモ村があるんです」カリカリと書き込んで、レイリンは顔を上げた。
気がつけば、言い争っていたコウジンとカルトが、隣で同じように地面に描かれた絵を見つめている。

「もちろん、周りには人里が幾つもありますし、きっとこの辺りにもあるんじゃないかと。
あ、渓流の他にも、ユクモ村を中心に考えると、水没林や、砂原、火山、凍土、海を渡った遠い遠い孤島もあります。凄く遠くて、船でも何日も掛かってしまいますが。
土地ごとに住む人たちも違いますし、モンスターの種類も違いますね」

レイリンの絵を見つめ、は感心し何度も頷いた。
こうやって見ると、やはりこの渓流しかない世界ではなく、至るところに別の自然が広がり、そして様々な生態系のモンスター……それこその未だ知らないものがあるようだ。
広大で、きっとこの渓流とはまた違う美しさを見せる、世界。
それが見れるレイリンが……不意に、羨ましく思った。

アイルーでもいけないことはないのだろう、だが、人間の時でもきっと年下のレイリンよりも遥かに脆弱だったには、移動だけでも大いに危険がついて回る。
人に戻りたい、けれど、そこに辿り着く術も見つけられず、そのくせ羨んでいる。

……なんて、心が狭いのだろうか。

「……ユクモ村って、どんなところですか?」

が尋ねると、レイリンは誇らしげに笑った。

「とても、綺麗な村なんです。魔除けの色として朱色が色んなところで使われて、それ以上に紅葉が咲いていて。
あの村にハンターとして受け入れられたこと、今でも良かったと思っています」

ね、コウジン。レイリンは自らのオトモアイルーを見下ろした。コウジンは、「ボクの嫌いなヤツがいることを除けば、良いところニャ」と、鼻を鳴らした。

彼女らを見つめて……素直に、素敵なところなんだろうな、と思う反面。
酷く、妬ましくもあった。
人間の姿を失った今の自分には、あまりにも眩しすぎて、胸の奥から痛みを感じた。
けれど、それを、彼女らに覚られるわけにもいかず、ただじっと耐え、平常心を保つ。

「そうですか、良いところなんですね」

浮かべた笑みは、今度は上手くやれていただろう。

「旦那様、そう言えば採集ツアーの残り時間は?」
「え……あ、」

ヒュ、とレイリンが不意に息を吸い込んだ。

「あァァァーーー忘れてたァァァァ!!!」

枝を落とし、ズシャリと上体を倒した。
その声量に、とカルト、アオアシラは揃って耳を塞ぐ。
レイリンは、「時間時間」と懐をまさぐって、時計のようなものを出した。そしてそれを見て、さらに顔面蒼白。どうやら、ツアーとやらが終わってしまう時刻だったらしい。

「ああ……結局、採ったのは石ころだけ……」
「あ、あの、す、すみません……」

あまりの落ち込みようにが謝ると、彼女は顔を上げ、「大丈夫です」と力なく笑った。

「どうせ無料のツアーですし、色々あったから……だから、いいんです」

レイリンはそう言って、を見下ろした。黒がかった瞳は大きく、ぱっちりと開いている。

「多分また来ると思いますが、その時もお話して下さい」

レイリンはそう言って、渓流を去って行った。カルトとコウジンは最後まで「二度と来るな」「誰が来るか」と喧嘩腰で、アオアシラも小さい身体で精一杯威嚇していた。は彼女らを、手を振って見送ったものの……物寂しいような安堵したような、奇妙な感情に挟まれていた。



「――――― 旦那様、良かったのニャ?」

ベッコバッコ、と長靴の音を立て歩くレイリンの隣で、コウジンが小さく言った。
「何が?」とレイリンが返せば、「アオアシラのことニャ」とやや声を強くし呟き、木刀をブンブン振り回した。

「最小サイズだったニャ。下位の渓流には出ないはずなのに、殺っとけば記録更新だったニャ」

レイリンは苦く笑い、「いいの」と首を振る。

「ずっと、桜色のアイルーの側に居たじゃない。ハンターに向かって、真っ先に攻撃してくるアオアシラが、アイルーの方を優先したんだよ。なんか……可哀想じゃない」
「……旦那様は、それで良いかもしれニャいけど、周りには人の村もあったはずニャ。大丈夫だったかニャ……」

……それも、そうなのだが。
自分はハンターで、モンスターの脅威から人を守るためにモンスターを狩りとっている。あの小さなアオアシラとて、十分にその対象と見ても良いだろう。
けれど……その側にいた、不思議な桜色のアイルーが、何故かその事態を引き止めてくれる。そう思えるのだ。
コウジンは、「旦那様が言うなら、いいけど」と特別気にしている様子はない。だが、数秒置いて、呟いた。

「《アイツ》が知ったら、何て言うか分からないニャ」

レイリンの口から、思わず「う……ッ」と苦い声が漏れる。
コウジンの言う《アイツ》とは、一人しかいない。そしてそれは同時に、レイリンにとってもある意味死活問題である。

「し、師匠には……内緒にする」
「後が凄いニャー? ていうか、旦那様、内緒に出来るのニャ?」
「で、でも言ったら、絶対にこの渓流に乗り込んで来るでしょ?」

レイリンはそう毅然に返したものの、脳裏を過ぎる自らの師の横顔に身震いする。
性質の悪い無意識スパルタ教育の数々もそうだが、彼女の師は、大型モンスターに対して厳しすぎるのだ。レイリンは何度も見てきた、大型の彼らを前にした瞬間人が変わったように、引き抜いた太刀を迷い無く急所に当てるあの姿を。
師を、恐れているわけではない。ただ、ああまでさせる《何か》を知らない彼女にとっては、衝撃的なのである。

( ……こないだの、上位ジンオウガ狩りの時なんか、特に凄かったもの )

とりわけ、無双の狩人《ジンオウガ》に対し、並々ならぬ感情を抱いているらしい。金冠サイズと思しきそれと相対した時の師は―――――。
思い出しそうになったそれを、レイリンは慌てて払う。

「とにかく、秘密にしよう。ね?」
「どっちでも良いけど……分かったニャ」

ありがとう、と呟き、今一度渓流を振り返ってみた。
下位の狩場でも、上位の狩場でも、関係なく壮麗な風景に、桜色のアイルーの姿が浮かぶ。

……本当に、不思議だったな。

「ねえ、また来てみよっか。コウジン」

今度はちゃんと、お土産を持って。
キャンプ地に到着したレイリンは、赤い納品箱へとネコタクチケットを入れた。



――――― 再び人の気配のない、静寂が覆う渓流は、陽が傾き始めていた。
普段は柔らかく伸びる影も、この日は夕暮れの陽が強く鋭い陰影を作り出し、照らされた水面や滝が輝く。
目の裏にも焼きつきそうな陽を、は大河の側にやって来て、縁に座り薄ぼんやりとしていた。

18歳程度の、少し背の低い少女が、頭の中で笑っている。

キリキリ、と神経が引き絞られるような感覚がした。振り払おうとしても、そう容易く離れてはくれない。
カルトとアオアシラが、それぞれの用事のためから離れたことが、今はありがたいことだった。

今私、相当変な顔してるもの。

水面に自らの顔を映さずとも、想像出来る。

「……羨ましい、か」

自分より年下の女の子に、抱く感情としては浅ましいかもしれない。
けれど、人間に戻りたいという想いが、暗い感情を加速させてしまう。

「……戻れるのかなあ、人間に」

膝をギュッと抱え、顎を乗せる。
大河が流れ行く音色が、を包み込んだ。

――― その時、ズシンと重い足音が、の背後で鳴った。

「……何をしている、アイルー」

低い、男性の声。それはもう聞き慣れたジンオウガのものだ。
顔だけ振り返れば、険しい上り坂を悠々と降りてくる黄土色と碧色の甲殻纏う巨大な王者と、視線がぶつかる。
この時間に彼と会うのも珍しい、と思い尋ねれば、「こういう時間の方が、見えにくかったりする。監視隊の気球も見えないしな」と短い言葉で返してきた。人に見つかる心配がないなら、からは特に言うこともない。「そうですか」と言ってみたものの、ジンオウガの表情が、僅かに訝しげに歪んだ。
鼻をスン、と鳴らし、の背後に佇むと、「……人間が来たか」と呟いた。

「分かるんですか?」
「……今まで、ハンターと戦ってきた。獣の匂いに混じって、この渓流にはない匂いがする」

ジンオウガの眼差しは、何かを責めているわけではない。だがその強さは、を意味もなく射竦める。
は視線をそらし、広大な大河をじっと見つめた。赤い、強い日差しを受けて一層、その水面は輝いて眩しかった。

「……女の子の、ハンターが来たんです」

ぽつり、と呟く。ジンオウガは、声を出さず、背後で佇んだままだった。

「青い縞模様のオトモアイルーと一緒で、攻撃されるかと思ったんですけど、途中で止めてくれて。
色々、聞いたんですよ。この場所がどの辺りなのかとか、女の子は何処から来たのかとか。そうしたら、教えてくれて」

急に込み上げてきそうになるものを、ぐっと抑え込む。

「……良かった、はずなのに」

羨ましくて、妬ましくて、仕方ない。
今も、吐き出したら止まらなくなりそうなくらいに。

身勝手なのだろうか。そう思っても、それを肯定するものも否定するものも、この場所にはいない。
ハンター……レイリンに攻撃された時も、話している時も、自分は人間ではなく獣人族のアイルーだと、そう思わされた。

人間でありながら、アイルーの姿。このちぐはぐな感情も、持て余す他ないのだろうか。
人の姿を失うということの意味と、その変化を、改めて思い知らされる。

「……ごめんなさい、貴方に言っても、迷惑ですよね」

ジンオウガとて、モンスターだ。このような話をしても、耳障りだろう。は力なく笑い、振り返る。
だが、そうして見上げることは、出来なかった。振り向く直前、の身体は、真横から思い切り押されたのだ。ジンオウガの左前足のようだが、チョイッと動かしただけで呆気なく動き、ベタンッと反対側の右前足に張り付く。若干の痛みが伴ったものの、レイリンの盾攻撃に比べれば優しいものだ。ただ、第三者が見れば羽交い絞めにされているようにしか見えないだろう。
はしばし自身の身体を見下ろし、両側から挟み込む太い前足を眺めた。

「……人だから、モンスターだから。そのような感情も、葛藤も、いずれ無くなる」

は顔を目一杯上げたが、筋骨の浮き出た胸部と顎しか見えず、彼の顔は分からなかった。彼の低い声から判断しようにも、淡々とし難しい。

「この地で生きていくには、不必要なものだ……。俺はそんなもの、当の昔に捨てた」
「……?」
「いや、それはどうでも良いことか……。アイルー、お前は自分を人間だと言ったな、いつか人間に戻れると……信じているのか」

ドクリ、と、の胸が飛び跳ねた。
は、唐突にやってきた、まるで現実を突きつけるような言葉に、上手く反応が出来なかった。口を開いては閉じ、開いては閉じ、としていると、ジンオウガの声が頭上で再度響く。

「……どちらであっても、良いが。だから、何だ、俺が言いたいのは」

グルル、と低く喉を鳴らすと、太い首を下げる。ようやく視線が交わり、ジンオウガの碧色の目は、淡々とした声音とは裏腹に穏やかであったことに気付いた。
穏やか……いや、もっと優しい、温かさを含んでいる。

「―――― 耐えるのが辛いなら、今のうちに吐き出してしまった方が良い、ということだ」

飛び跳ねた胸が、急に熱くなる。抑えていたものが飛び出そうと暴れるのを感じ、は一層身体を強張らせる。
けれど、その隙間を掻い潜るように、ジンオウガの不意打ちの言葉が流れ込んでくる。

「……そう優しくはない世界だ、この場所は。吐き出す前に、いずれそれも出来なくなる」

ジンオウガは顔を戻すと、ゆっくりと座り込んだ。
はそれを、見なかった。正確には、見えなかった。
目の前が歪んでいるのは、きつい夕陽が乱反射し視界を埋め尽くすからか。
そうでないことは、目の奥を刺す熱の痛みと、込み上げる胸が容易く否定した。
ギュ、とジンオウガの前足に寄りかかり、額を押し付け顔を伏せる。
冷たくもなく、けれど温かいわけではない甲殻は、ぴたりとに寄り添った。

「お前が人間だと言うのなら――――


ああ、そうか。
羽交い絞めにするようなこの腕は。
不器用な抱擁だったらしい。




――――― 数日後、再びあの小柄な少女が、の前に現れた。

前回と同じく、ハンター装備一式を纏い、少々大きめなグリーブからは歩くたびに長靴の音がしている。ベッコバッコ、と軽快に静寂を打ち破りながら、レイリンは駆け寄ってきた。
居合わせたカルトは、早速オトモアイルーのコウジンと「また来たのニャ?! 帰れニャ!」「別にお前に会いに来たわけじゃないニャ!」と喧嘩腰である。アオアシラに至っては瞬時に臨戦態勢で、必死に宥める。

「あ、あの、こないだはすみませんでした」

レイリンは、ぺこりと頭を下げた。だがその瞬間、ポーチの紐が防具に引っかかったらしく、バラバラッと中身が逃げ出す。
一瞬、奇妙な沈黙が周囲を覆ったものの、レイリンとはその逃げ出した中身を拾い上げながら、言葉を交わす。

「それで、今日はどうしたんですか?」

拾った道具の数々を、レイリンへ手渡す。彼女は地面に落ちていた、一つの紙包みを持つと、へ得意気に差し出した。

「これを、渡しに来たんです」

レイリンは、ガサガサと包みを開けると、丁寧に収められていたものを見せる。
綺麗な紅葉色の、着物のように見えた。けれど振袖はなく、肩は出る作りで、腰から下はワンピースのように一繋ぎのスカートになっている。黒いレースが裾にあしらわれ、その可愛さに「おお」との口から感嘆の声が出る。
ただ、小学生が着るサイズ、ほどだろうか。しばし見つめた後、はレイリンを見上げる。彼女は、少しの申し訳なさを含み言った。

「こないだ、間違って攻撃しちゃいましたから……そのお詫びに。えと、お詫びになるかどうか分からないですけど……」

要らない布切れで、作ってみました。レイリンは、少女らしいはにかみを浮かべた。膝の上へそれを広げると、をうかがった。
わざわざ、作ってくれたのだろうか。布切れといっても、店頭に並びそうな洋服に見える。手間が掛かっていそうだと、裁縫などしないには思えた。

「い、要りません、か……?」

レイリンは、みるみるしょんぼりと肩を落とす。それを見たコウジンが、後ろで憤慨しているけれど、アオアシラの唸り声に一蹴される。
は、そっと腕を伸ばすと、その洋服を受け取り、にこりと笑った。

「ありがとうございます、大事にします」

レイリンは途端に、嬉しそうに表情を明るくさせた。その笑みはやはり、同じ女としても可愛かった。

「あ、あの、アイルーさんの、名前は何ですか?」

レイリンに尋ねられ、は自らの名を告げる。そうすると、彼女は「さん、さん」と繰り返し呟いている。

「初めて、狩場でアイルーと話しました」
「私も、ハンターさんとここでお話したのは初めてです」
「ふふ……あ、あの、私のことは、呼び捨てで、敬語も無くて良いですよ!」

レイリンの浮かべた笑みは、ふんわりと温かい。やはり羨ましさは感じたが、前回ほど……酷い息苦しさはない。
人間の姿を失った要因も、この世界に落ちてしまった要因も、全て未解決だが。
私もいつか、その姿に戻れるよう探さなければ、と気を引き締めた。今はそれが、もっとも優先すべきことであり、目指すべきことなのだと。疑問の解決など、今でなくても良い。

――――― ジンオウガさん

大きな体躯の、無双の狩人を思い浮かべ、胸中で小さく呟いた。ありがとうございます、と。




慣れたはずの静けさが、煩わしくジンオウガを取り囲む。地下水脈が流れていく音も、何処からか滴り地面を打つ水滴の音も、耳障りに鼓膜に張り付く。
ハンターと争ってきた剣撃の音も、爆弾の音も。叫び声も、悲鳴も。自らの身体を引き裂かれる音も。それらに比べれば、ずっと穏やかで、心地良いはずだったというのに。
聞こえてくるものが、全て雑音のようだ。
苛立ちに神経が蝕まれる音色は、思考を軋ませる。けれど今、恐らくそれ以上に不可解なのは。

――――― あのアイルーの声が、言葉が、まだ鳴り響いている。

変わり者の、桜色のアイルー。
人間に戻りたいと懇願し、静かに泣いた彼女は、あの時ジンオウガに言った。

「ありがとうございます」

「楽になりました」

アイルーは、濡らした顔を拭い、また弱々しい瞳を向ける。
そう、予想したのだが。
ジンオウガの足元で、彼女は言った。

「それでも私は、人間が良いんですね。人間で、居たいんです」

だから、これで泣くのは最後にします。

彼女はそう宣言して、静かに去って行った。その背はちっぽけで、踏み潰されれば簡単に死んでしまう、遥かに脆弱な生き物であるはずなのに。
ジンオウガには、あまりにも堂々としていると、見えてならなかった。

俺は、捨てざるを得なかった。だが、本当にそれで納得しているのだろうか。

生きていくためには不必要だと、早々に手放したはずの感情が、息をし始めている。
流れ着いた渓流で出会った、人間だと言ったアイルーに見出してしまったのは、一体何なのか。……理解していたが、認めるわけにいかなかった。
諦めたのだ、もう、当の昔に捨て置いたのだ。
言い聞かせるような自問が、酷く、みっともなく思えた。

「……この渓流に来てから、こんなことばかり考えている」

冷たい岩盤に身を寄せ、丸めた身体が震える。

「……

誰かの声を聞きたくなることも、無かっただろうに。
ジンオウガ、意味深ターンが続く。

さてさて、大好きな女神のプレイヤーキャラが出せて嬉しいです。何もう、何もう!
私は彼女に、全力で恋をする。(どうか鎮まりたまえ)


2011.11.09