英雄と紅葉の村(4)

――――― 山々に囲まれているためか、早朝のユクモ村は霧に覆われた。
身を引き締めるような肌寒さはなく、清々しい空気は温泉の匂いが微かにした。うっすらと白がかる空から、目映い朝陽が差し、朝露に濡れた村を目覚めさせるように照らす。
陽が落ちれば眠り、早朝目覚めるという、規則正しい生活を送っていたせいか、は一人起き上がり、窓辺からその様子を見つめていた。
レイリンが用意してくれた、竹で編んだ籠にクッションや布を敷き詰めた簡易ベッドは、想像以上に気持ちよく眠れた。この辺りも、野生じみた感覚になっているのだろうか。
村人が家屋より出て、挨拶を交していく。市場のところは、今日の店支度を始めている。静まり返った空気が、にわかに活気を宿していく。

こんな風景を、しばらく見ていなかった。
熟睡するレイリンを起こさないよう、一人で窓辺に座ってもう数十分は経過しているような気がするが、何だか飽きが来ない。懐かしさか、あるいは異世界の光景だからか。

「――――― いつまで見てるニャ」

その声に振り返れば、目をぱっちりとさせたカルトがを見上げていた。

「起きてたの?」
「知らない場所じゃ、そう眠れないニャ」

彼は呟くと、簡易ベットから這い出て、の隣へとピョンッと飛んで座った。

「渓流とは違う風景ニャ」
「そうね、嫌?」
「別に、まだそういうのは分からないニャ」

彼のアーモンド型の目は、朝陽の中のユクモ村を見つめる。そこに映る光景は、さぞや見たことのないものなのだろう。渓流で生きてきた野生のものにとって、それこそと同じく別世界に来たようなものに違いない。
……そういえば、彼は何故ユクモ村の社会見学に参加する気になったのだろう。もちろん、コウジンへの対抗心、人間の世界への興味、それらはの予想であっても大方正解だろう。だが、渓流で生きてきた、渓流だけがカルトの世界であったはずだが、その変化は……どうしてだろう。最初を思い出す、彼は当初人間のことを良くも悪くも思っていなかった。そしてつい最近、変化をつまらないと言った。
何を、要因としてのことかは分からないが……。

「……カルトは、人間のこと、どう思う?」

囁くように尋ねれば、カルトはヒゲを少しだけ動かした。

「別に」

それだけ呟いたが、数秒間を置き、へと言った。
「……ハンターなんか、おっかニャい奴らだけど。が言うなら、そんな悪い奴らばっかりじゃないとは、まあ思っててやるニャ」

ぱたり、ぱたり。カルトの尾が揺れる。
それに合わせ、も揺らしてみる。

――――― 社会見学、二日目が始まろうとしていた。




それからまたしばらく経ち、レイリンが起床がてらベッドより落ちた後朝食をとった。 ( あの子はどうしてそう転倒するのだろう )
その時彼女は申し訳なさそうにし、「これから農場に行って来なきゃならなくて」としょんぼりした。たびたび出てきた農場とは何ぞや、と思い尋ねれば、この村で常駐ハンターが利用する、オトモアイルーの寝床でありトレーニング場、狩りに必要な道具などを育てたり集めたりする場所らしい。文字通りの、農場のようだ。ハンターというものは、まず朝一番から忙しいのか、と察したはもちろんレイリンが謝る必要などないので、「私達には構わず、仕事を優先して」と伝える。レイリンは笑みを浮かべると、身なりをいつもの長靴グリーブことハンター一式装備に身を包んで自宅を出て行く。
その間際に、「そういえば、さん」と振り返った。

「温泉、確か入りたいって言ってましたよね。ユクモ村の集会浴場は、朝早く開いているので、今はもう入れると思いますよ。良かったら、どうですか?」


温泉ー!


は飛び跳ねて反応する。そういえば昨日は、夕飯食べてはしゃいでいたら、すっかり眠くなって気付けば寝ていた。水浴びどころか身づくろいもしていなくて恥ずかしい事態であったが、朝早くからある意味第二の目的の温泉に入れるなんて幸運だ。
レイリンも、農場の仕事を片付け、アイルーたちに一日のスケジュールを指示したら向かうとのことなので、とカルトは一足先に温泉へ向かうことにした。

「あったかい水溜りに行くのかニャ?」
「そうよ、カルトも入ってみましょうよ」

ギルドから作ってもらった滞在許可証を、忘れずに竹筒へ入れて腰に巻きつける。
カルトの頭の中には、一体どんな水溜り風景があるのか想像も出来ないが、きっと驚くことだろう。そして温泉の素晴らしさを知ると嬉しい。
では、本格的な人里の社会見学の第一歩として、ユクモ村の誇る温泉へ向かおうではないか。


レイリン宅を出たとカルトは、村の様子をうかがいながら進んでいく。野生のアイルーの社会見学という物珍しい出来事は、すっかり村人たちに広まっていて、「ゆっくりしていってね」などの温かい言葉をかけられた。市場の道具屋の若い女性が、こんがり焼いた肉をプレゼントしてくれた。優しい。アイルー姿になってから、カロリーが気にならなくなったのは良いことと思い、ほかほかのそれをデザートに平らげた。
しかしかけられる言葉の中には、やはり「レイリンが夜なべして作った服」というものが混じっていた。彼女は本当に、隠し事の苦手な子らしい。
石畳の長い階段を、美しい紅葉を見上げながら進み、集会浴場へと踏み入れる。
時刻としては、およそ八時頃だろうか。確かレイリンのところに、もちろん現代のような精巧でデジタルな時計はなく、簡素なウッド調の飾り時計があり、見方は多少違えどおよそそれくらいか。早朝でもあったのだけれど、建物の中にはすでにギルドマネージャーや受付嬢がカウンターに座っていて、道具屋も準備が整い店を開いている。

……受付嬢の赤い服の方の子、凄く眠そうな顔ね。ギルドマネージャーに至ってはヒョウタン抱えて寝ているし。

朝方にも関わらず煌々と輝く和風なカンテラと、照らされた和傘の飾りをまじまじと見つつ、ひとまずカウンターへ挨拶へ向かい、その後番台アイルーのもとへ向かった。

「ニャハー! ようこそおいで下さいましたニャ、お待ちしてましたニャ!」

バッと扇子を開き、揚々とする頭巾を被った番台のアイルー。さすが人と接して長い、流暢な言葉遣いでとカルトへあれこれと説明し始める。それが気に障るようなこともないのだから、営業能力も満点をつけていいだろう。

「さあさ、まずは入って下さいニャ!」
「あの、料金は……」
「料金なんて、気にしないで下さいニャ。ここは無料で解放してる温泉、色んな方々に使ってもらえることを信条にしていますニャ」

さあさ中へ、と扇子で脱衣場へ招かれる。「あ、でもお飲み物は有料ニャ」と付け足す辺りがちゃっかりしているか。
荷物などはここに置き、衣服も脱ぐのだろう。そこは、もとの世界のルールと変わらないようだ。こじんまりとした脱衣場にはカゴが幾つか並び、そのうちの二つほどはすでに使用され、きっと誰かが先に入っているのだ。迷惑をかけないようにしなければならない。主に隣のカルトが。
見上げると番台が見え、そこからアイルーが見下ろし、「お荷物は私が責任もって管理しますニャ、ご安心を」と笑う。お言葉に甘え番台アイルーへ任せ、どんぐりハンマーまで持って行こうとするカルトに言い聞かせ身一つで温泉に続く暖簾を押し上げる。しかし、すっかり隠す気も無くなったのは、心まで野生化しているからなのだろうか……何度目かになる、自身に対する疑問につい苦笑いがこぼれる。
「ごゆっくりどうぞニャー」それと同時に、目の前が湯気に包まれる。

――――― には懐かしい、カルトには初めて、ユクモ村の誇る温泉だ。

ざらついた大小様々な石を土台にし固めた流し場の向こうに、妙に輝く水面が見え、アイルーを模したのだろうか、変わったデザインの岩の口から湯が流れて来ている。そしてその背には、渓流の壮麗な景色がパノラマのように広がる。彼方まで、何も遮るもののない自然の景観。
「ふわあ……」と、馬鹿みたいに見惚れてしまった。木で出来た椅子や桶、ちょっとした休憩の出来る長椅子もあり、その光景はまさにかつて見たことのある温泉と同じである。
そうしていると、すっかり惚けているの隣から、中に居たアイルーが一匹歩み寄って来る。捻り鉢巻と前掛けを見に付け、ヒゲを撫でる、確かドリンク屋のアイルーだ。

「いらっしゃいニャ、早速来たのニャ?」
「はい。とても大きな温泉ですね」
「そうニャ、これもハンターの旦那が温泉の質を上げたり岩を新調してくれたり、してくれたおかげでもあるニャ」

饒舌に語るドリンク屋は、ふと思い出したように「そうそう」と話を切り出した。

「先客も居ることだし、身体冷えちまうから、ゆっくり浸かるニャ」

ほらほら、と押されてゆっくり縁に近寄ると。湯煙の中に、幾つか影を見つけ、は目を凝らす。
メラルーと、毛並みが一層漆黒の隠密模様のメラルーと、人影……と思っていると、それが見覚えのあるものと気付き、は声をかけた。

「ニャン次郎?」
「ニャ? ……やや、姐さんじゃねえですか!」
「それにお隣は、ヒゲツさん、ですよね」

ぺこり、と漆黒のメラルーのヒゲツから会釈をされる。おなじみの眼帯はつけたままなニャン次郎が、にこやかに「偶然ニャー会えて良かったニャ」と笑った。
衣服や防具はないが、特徴的な彼らである。すぐに分かるなんて。
……はて、となるとヒゲツの隣で縁に腕をかけてくつろぐ男性は……。
は、長い沈黙を挟んで、男性をまじまじと見つめた後、小さく呟く。

「……影丸、さん?」

ばしゃり、と湯を跳ねさせて、男性が肩越しに振り返った。毛先の跳ねた、乱雑な黒髪と、やや切れ長な黒い瞳。
一瞬、日本人かと思ってしまった。だが、男性は額を伝った湯を払うと、「ずいぶんおっそいなあ」と肩をすくめた。
ああ、影丸さんで当たったらしい。
精悍な顔や首筋、肩周りなどの輪郭は、さすが男性らしかったが、二の腕の逞しさだとか背中の無駄のない肩甲骨だとか、胸板だとか、一般人にはない鍛えられた逞しさが感じられた。ハンターという人ならざるものへ挑む人々の、おのずと得た肉体か。
男性の上半身を、こう近くで見た事もなかったため、思わずドキリとしてしまう。
しかしながら、誰か一瞬分からなくとも、仕方ないだろう。今回は側にヒゲツが居たから、影丸だろうかと予想はついたが、何せ会ったのは昨日、しかも漆黒の隠密に似た装備を纏い顔など見えなかった。

「だって、私顔見た事なかったですよ」
「あれー? そうだっけ?」
「旦那……ナルガ装備じゃ目しか見えないニャ」

ヒゲツが漏らすと、「ああそっか」と相槌を打っている。
ナルガ……ナルガとは何だろう? 影丸のあの装備の名称だということだけは分かったが、モンスターの名前だろうか。

……あれ、そういえば今って混浴?
はふと、そのようなことを思ったが、背後で何処から見ていたのか、番台アイルーが「ここは性別関係なしニャ~!」とデカイ声で言った。
混浴云々の前に、そういう分けるという考えがないわけだ。なかなか、ワイルドな温泉風習だ。

「ま、とにかく入れや」影丸が頭に乗っけたタオルを置き直し、縁に両腕を置き寄り掛かる。
うんうんと頷くニャン次郎と、静かに湯を楽しむヒゲツを見つめ、も早速入ろうかと思った。
のだが。

「カルト、ストップ」
「スト……ニャ??」
「私たち、絶対土とか砂とか凄いから」

何せしばらくの生活は、渓流。そう、大自然に囲まれ、雨風にさらされる場所だ。毎日身づくろいしてもたかが知れているし、カルトなど相当な年季の入った土埃だろう。せっかくの朝一の湯を、砂で汚すわけにはいかない。
カルトを引っ張り、反対方向へUターン。座椅子と桶の摘まれた場所へ向かうと、一組脇に抱えて、流し場へ。
不思議がるカルトを座らせて、は桶に湯を汲み、トットッと背後に立つ。

「ニャ、ニャにするニャ」
「別に何もしないわよ。ほら、お湯。あったかい水でしょ? カルトの身体にかけて汚れを落とすの」

……ちょっと、そこ、嫌そうな顔しない。アンタいつも水に突撃してるでしょうが。 ( 主にジンオウガの寝床へ向かう際の滝とか )
しかしカルトは、桶の中の湯を、不審がりながらペチペチと肉球でつついている。その温かさにビクビクとしているようで、尻尾が跳ねている。
そんなとカルトのやり取りを、ドリンク屋は眺め、感心するように頷いている。

「ほほう、なかなか勉強してるニャ……さては、野生のアイルーの中でも通な温泉好きニャ?」
「え、えーと、まあ」

温泉大国日本の出身だもの、なんて言っても通用しないのだろうな。
曖昧に笑い、カルトに耳を押えてもらい、頭からザバッとかけてやる。その瞬間、流れ出る土色。
……本当、先にやって良かった。
ついでにタオルで軽く洗ってやれば、綺麗なベージュ色が現れる。普段見ていたのは、薄汚れた色だったのか。

「どう、カルト。これだけでもさっぱりでしょ」
「別に、普通ニャ」
「あ、そう……」

はとりあえず自分にも湯をかけ、汚れを落とした。ああ、気持が良い……いつもつめたい水ばかりだったから。これだけでも、心が満たされるようだ。
それから、ニャン次郎やヒゲツらの待つ湯の中へと、トプンッと身体を沈める。

あ、あったかいィィィ……!

全身を包み込むその心地良さに、の身体から力が抜け、ヘニャリと耳やヒゲが下がる。あったかくて、ふわふわして、心なしか綺麗になっていく気がする。湯に浸かれることは、きっと幸せだったのだろう。今まさに、はそれを噛み締める。
カルトは、警戒して足の先で水面をピチョピチョつついていたけれど、ヒゲツがその足をおもむろに掴むと、「入るなら入れ」と男らしく豪快に温泉へ引きずり込んだ。
「ギャー」とか「溺れるー」とか喚いたカルトだけれど、数秒後にはすっかり温泉を満喫し上機嫌に浸かっていた。

「どう、気持ちがいいでしょ」
「別に、普通ニャ」

なんて、カルトは言っていたけれど、顔と声が心地良さを体現している。はクスリと笑いながら、ニャン次郎を見た。

「ニャン次郎は、これからお仕事?」
「そうですニャ。ユクモ村にやって来ているハンター様方が、出かけるらしいので。あっしは配達の準備をしますニャ」
「そう、大変ねー」

ニャン次郎にふにゃっと笑うと、彼はまじまじとを見た。そして、にっこり笑うと。

「仕事前に、姐さんの顔が見れて、良かったでさ」
「え? そう?」
「美人さんのお顔を見て行けるなんて、良いことニャ?」

隣で、カルトの目が真ん丸に見開いたが、は気付かず「あらそう、ありがとう~お上手ね」なんて笑う。

「くっははは……アイルーも、そういう話しするんだな」

影丸が、おかしそうに肩を震わせた。無邪気、ではなく、どちらかというと悪戯みを帯びた意地の悪さも匂わせるものだったが、妙に彼に似合うように思えた。
しかし、よくよく見れば、彼は世間一般で言う、整った顔立ちの男性だ。かくいう自分は桜色アイルーになってしまったとはいえ女……図らずも混浴の状態に、複雑な気分だ。もしかして彼は全裸かと不安になったが、どうやらタオルを巻いただけでなく下へボクサーパンツのようなものを履いているようで安心した。
別に、見たいとかそういうわけじゃないから?!

その後、しばらく談笑に弾んだが、ニャン次郎は狩り場へ向かうとのことで温泉を去って行った。また後で、と笠を被った彼は、ほかほかと湯気を漂わせていた。
そして残った、影丸とヒゲツ、とカルト。
先に口を開いたのは、影丸だった。

「レイリンのとこ、泊ったんだろう。どうだった」
「とても、良くしてくれましたよ。美味しいご飯も寝床も作ってくれて」

影丸は笑みを浮かべ、「アイツ、物作りとかそういうの好きだからなあ」と言った。
何だか、とても良い人に見えるが。昨日の、レイリンの寂しげな顔や、二人の違和感など、無いように思える。


――――― 師匠は、ずっと、モンスターばかり追いかけているんです。


寂しそうに、彼女はそう呟いた。
こうやって会話をする分には、モンスターを追いかける熱さも、伝わっては来ない。それでも彼女が見る影丸と、の見る影丸が違うのは、当然なのかも……しれない。

「……ん? 何だ」

影丸が、を見下ろす。は慌てて首を振り、「何でもないです」と笑う。
誤魔化すように、は彼へ尋ねた。

「と、ところで、影丸さんは」
「ん?」
「東方の国の、出身と聞きましたが」

……その瞬間、彼の笑みが僅かに固まった。見ればヒゲツの空気も鋭くなっている。
しまった、話を変えるつもりが、地雷を踏んだか。が謝ろうとした時、影丸はまた先ほどと同じ調子で言った。

「レイリンからか?」
「あ、それもあるんですが……私が、そうなのかなと、勝手に」
「そう」

頭に乗せたタオルを外し、彼は前を見据えた。眼前に広がる、渓流の景観を。
先ほどと、同じ悪戯な瞳。だがその奥深くで、何か遠くを見ているのは、分かった。

「そうだなあ、確かに、ユクモ地方の生まれじゃないな。アンタが言う、東方の国で、合ってる」

彼はそれっきり、言わなかった。言いたくはないこと、なのだろうか。ならばそれ以上聞くことも出来ないと、はその会話を終わらせる。

「レイリンちゃんと、師弟関係って聞きましたが、もう長いので……?」
「……そうだな」

タオルを縁に置きグッと腕を伸ばす。筋の浮かぶ、無駄のない上腕が見えた。

「アイツと最初に会ったのは、アイツが新米でしかも泣きったれの頃だ。二年ぐらいは経ってるか」

は、へえ、と声を漏らす。「二年、結構な長さですね」今、レイリンは18歳かあるいは17歳程度の少女で、影丸は二十代前半か半ば。ということは、レイリンは高校一年生や中学三年生ほどからハンターを志していたことになる。それも、凄いことだが。

「……俺がユクモ村にやって来た頃から数えれば、まだ付き合いは短いさ」

ふと、影丸の声音が変わる。ヒゲツの目が、心なしか伏せられている。

「……まあ、それは良い。アイツはいつまでも阿呆なままだ、ある意味ではそれが良いところだがな」

彼はそう言って笑うと、とカルトを見た。

「――――― ところで、野生のアンタたちに聞きたいんだけど」
「はい、何でしょう」

ハンターの彼に、役立つことなんてないと思うのだが。よほど、やカルトよりも情報には長けているだろうに。一体何なのだろうか、と期待も込め首を傾げる。
影丸は、スウッと、笑みをやや鋭くさせた。それは、何の悪戯っぽさもない、狩猟者の目にも思えた。

「――――― ジンオウガ」

は、一瞬、ドキリとした。

「え……?」
「ジンオウガ、見たことはないか? もしくは、見かけたような情報はないか?」

困惑に、声を失う。その様子を見たヒゲツが、補足するように続けて言った。

「ジンオウガ、知ってるかニャ。雷狼竜と名高い、獣竜種のモンスター。
旦那は、数ヶ月前、ある依頼で上位の狩り場へ赴いた。人里近郊に現れた、ジンオウガの狩猟依頼だニャ」

……何故だろう、変に嫌な汗が滲んでくる。
の背に、異様な緊張が走ったが、ヒゲツは気付かず、続けた。

「ギルドで記録されてきた、ジンオウガの大きさ……その中でも、最大級の大きさを誇る金冠サイズだった。ソイツはなかなか賢くて、人の動きを理解していた。旦那は苦戦して、怪我を負わせることしか出来なかった。後を追うことが出来るペイントボールで目印をつけたが、それも上手いこと流し落としたようで、すっかり見失った。
お前たち野生のアイルーは、情報網が発達しているだろう。何か、知らないか」

は、言葉を出せない。困惑と、嫌な予感が、喉にまとわりつくようだった。
カルトはそれを横目で見て、影丸らへ言った。

「ジンオウガなんて、いっぱいいるニャ? どれがどれかなんて、分からないニャ」
「目印なら、他にもある」

影丸の目が、カルトを見据えた。

「今じゃもう、治ってしまってるかもしれないが……アイツの嫌いな氷の太刀で何度も攻撃した、元通りには治っていないはず」
「その目印は?」
「――――― 後ろ脚の、傷。肉は塞がっているかもしれないが、堅殻は思いきり砕いた。そこは確実に、砕けたままのはず。どんなに時間が経とうと」

……は、半ば茫然とした。
社会見学にとやって来た地で、まさか、このようなものを聞くことになるとは。
ただのジンオウガならば、問題はない。だがそれを打ち砕くような、決定的な言葉が幾つも連なった。

最大金冠とやらは分からないが、とにかく巨大なサイズ。
賢く、人の行動を理解する、博識さ。
そして極めつけの、後ろ脚の傷……。
間違いない。影丸が言っているジンオウガとは。
渓流に身を潜めている、流れのジンオウガ……彼のことだ。
回復薬を飲ませて膿んだ傷跡は綺麗になった、だが今もその砕かれた堅殻は完治しておらず、窪んでいる。

「どうだ、聞き覚えはないか?」

影丸の、鋭い眼差し。
レイリンの呟いた、逃がしたモンスターを追いかけているというのは……。そして、あのジンオウガへ手傷を負わせたのは。
目の前にいる、影丸、ということになる。

ハンターとモンスター……影丸とジンオウガの間に直接的な関係は無いにしろ、影丸は人のために向かった。ジンオウガは生きるために戦って、そして逃げ落ちた。
この場で……影丸に、伝えられるのだろうか。

( 私は、もちろん、人間で……。今もこれからも、人として生きる )

けれど……。
ここで、彼のことを言うなんて。


――――― ……この渓流に戻ってきて、気が向いたら


――――― 気が向いたら、俺と、付き合って欲しい場所がある


ジンオウガの、愛想のない、けれど心地好く響く低い声が、脳裏で聞こえた。

「し、知らない、です」

の口は、そう告げていた。しかし声が上擦り、影丸とヒゲツの眼差しが、やや疑るように変わったので、は改めて、今度は強く言う。

「知らないです、そのジンオウガのことは」

影丸は、しばし黙った後に、カルトへと視線を移す。

「アンタは、どうだ」

は、そろり、とカルトを見た。彼は影丸を見つめたまま、肩をすくめて見せる。

「知らないニャー、そんな話」

は、内心でパアッと笑みを咲かせた。良かった、彼は、ちゃんと覚えていてくれた。
影丸はしばし考え、「そうか」と空気を戻した。先ほどの、レイリンとは異なる狩猟者のそれが、悪戯っぽいものへ変化する。

「ま、それじゃなくて、アンタの話くらいは届いてるニャー」
「……なに?」
「ユクモ村を守った英雄。ジンオウガを見事討ち取って救ったハンターだって」

……せっかく戻った空気が、台無しだ。の浮上した気分は、一瞬で地へ落とされる。
ああ、そうだ、その件を影丸本人に言わないように、なんてカルトへ言い聞かせていなかった。どうせ物珍しいものに興味を惹かれ、話を聞いてなかったのだろう。
これはこれでまずい展開だ、と思っていると、影丸からは特別厳しい言葉が返ってくることはなかった。

「……俺は英雄じゃないさ。カルト、だっけか。そこは、ちょっと間違った情報網だな」
「ニャ? そうなのニャ?」
「ああ、そうだ」

影丸は、笑った。少なくとも、が今まで見た、あの笑みで。

「――――― 俺は、英雄じゃない。長年付き合った友人を崖に落として助かったなど、英雄には程遠いだろ」

友人を、崖に落とした……?
穏やかでない言葉には戸惑ったけれど、彼はそれっきり、そのことを口にすることはなかった。
ドリンク屋から酒をもらい、朝っぱらにも関わらず飲み始めた時、止めたけれど……はそうしながら、思った。


――――― 責任感じゃ、ないですよ。あの人が、逃がしたモンスターに抱いてるものは。


レイリンのその言葉の意味は分からないが、違和感を感じるのは……どうやら、レイリンと影丸の関係だけではないらしい。
影丸、本人に対しても、奇妙な感覚を覚えた。
それは、ハンターの職につくものたちの、葛藤か何かか。

( この人が、ジンオウガさんが傷を負って逃げて来た理由…… )

こうやって見る分には、穏やかそうな人物に見えるが。
は、先ほどの眼差しを忘れられなかった。狩猟者としてなのか、あの鋭い眼差しを―――――。



それから数十分後、朝からへべれけになった影丸が温泉にいた。
「もう師匠!」農場の仕事を終えやって来たレイリンに、また彼は引きずられていった。

何だか、よく分からない人だ。本当に。
私の中で番台アイルーは、大声で話すキャラという、そんなイメージ。
彼が一言話せば、集会浴場内へ響き渡る。どうでもいい。

そしてニャン次郎は、わりと素直に感情表現出来る子、というイメージ。
別に、ただのたらしの印象なんかじゃ……ないんだからッ。