英雄と紅葉の村(6)

「旦那、全くいつも酒の進みが早いのニャ」

呆れながらも、慣れた手つきで、ヒゲツはクーラードリンクを差し出す。もちろん、ベッドに腰かけて、反省する様子もない彼の主人である影丸に対してだ。もはや用途の間違っている使用法で、クーラードリンクを半分ほど飲み干すと、それをヒゲツに返す。

「悪い悪い、つい酒が美味くてな」
「全く……」

ヒゲツは、肩をすくめて見せる。しかし、彼は本当は気付いていた。
温泉好きの影丸は、普段からよく倒れるまで飲んでいるが、この日の飲酒は、意味が違えたことを。
クーラードリンクを机へ置き、影丸を見つめる。額をトントンと叩いているその様子は、普段と同じだが……。

「旦那」
「ん?」
「ヤケ酒は、良くないニャ」

影丸は、一瞬目を丸くしたが、言わんとすることを察して、苦く笑う。自覚があるなら……なおさら、辞めるべきだ。ヒゲツは、鋭い瞳をやや細める。
ベッドに歩み寄ると、影丸は長い溜め息をつき、ヒゲツを見下ろす。

「俺も、まだまだってことだな。いつまで経っても」
「旦那」

影丸は、天井を仰ぎ見た。そして呟いた声は、笑みが混じっていても、掠れたような響きがあった。

「ジンオウガ討伐、なあ。ありゃあ……忘れられねえよな」

すっと立ち上がり肩や首を回しながら机へと向かう影丸の姿を、ヒゲツは黙って見つめる。

「……アイツらの様子じゃ、ユクモ村で何があったか多分大まかを理解している。あれから何年も経ったし、もう慣れたはずだったが……」

影丸の手が、机に伏せられていた写真立てを取る。木のフレームの中で笑う、少年なハンターと、彼より年上のハンターが、セピア色に耀いている。


――――― ユクモ村を守った英雄。ジンオウガを見事討ち取って救ったハンターだって。


……英雄。
影丸にとって、その言葉ほど忌々しいものはない。
あのジンオウガ討伐の時、一体己がどれだけ愚かで惰弱であったか。それに対して《英雄》など貰おうものなら、滑稽以外の何物でもない。
だがもしあの戦いに、《英雄》と名を戴くのであれば。
それは、間違いなく影丸ではなく―――――。


『――――― 立て、影丸。お前はまだ、戦えるだろう』

冷たく耀いた、月光。
それに重なって瞬いた、蒼い鮮烈な光。
碧色の体躯の獣竜が、頭部へ深々と突き立てられた双剣に、のけ反り。
《彼》は、閃光の中……影丸の目の前から断崖より……。


写真立てを持つ手が、ギュッと力を込める。

「旦那」

ヒゲツの声が、静かに足元で聞こえる。
影丸はハッとなり意識を現実へ戻すが、表情は上手く、笑みを浮かべられなかった。

「……俺も、大概まだまだ、だな」

強くならなければ。
《あいつ》の意思を、継いで。これがたとえ、盲目的な願望だとしても。

「……ところで、レイリンやあの見学組は、何処に行ったんだろうな」
「……さっき、市場が何だか騒がしかったニャ」

ヒゲツは溜め息をついた後、「あの馬鹿」と漏らす。考えるまでもなく、ヒゲツの言う馬鹿とは……彼だろう。

「ふうん……行ってみるか。ヒゲツも行くか?」
「旦那の行くところにオトモするのが、我々だニャ」

写真立てを戻すと、カタリ、と小さな音を立てゆっくり伏せる。
狂暴なモンスターが多く生息するため危険区域と認定された《上位》狩り場にて、数匹の迅竜ナルガクルガから作られた装備一式に身を包むと、最後にヘルムを被り、自宅を後にした。



――――― レイリンが村長より貸してもらったという農場の天辺には、のどかな太陽が昇っている。
しかし、大自然の景観を臨む農場を眺めることも、嗚呼正午になるのかなどと考えることも、極めて難しい状況に置かれてしまった。
木で造られた大きな掲示板のある、なだらかな平地の広場に、緊迫感が流れる。心なしか、背中にも汗が吹き出てきそうだ。
出来れば、農場の中を見て回りたいが、あいにくそのようなことを出来る空気でもない。

「レイリンちゃん、あの……」
「な、何でしょうか……」
「あの二人、止めてくれる子は、今居ないの?」

端っこで固まるレイリンとの視線の先には。
すっかり臨戦態勢な、カルトとコウジンの姿がある。カルトは、手入れをしてもらったばかりのどんぐりハンマーを担ぎ。コウジンは、木刀を構え。二人の間に、竜と虎が睨みあい火花散らす光景が見えた。
彼らを中心に、緊迫感が波紋のようにジワジワと波風を立てる。

「そ、それが……今朝、私のところに居る子たちはみんな、モンニャン隊っていう、アイルーたちだけのクエストに行かせてしまって」
「い、一匹も居ないの?」
「はい……しかも、ちょっと難しめなクエストをお願いしたから、帰って来るのは……」
「か、帰って来るのは……?」
「数日後です」

うわァァァァ! と、の口から叫び声にならなかった空気が抜けていく。しかも断定せず数日後であるところを見ると、長期遠征な印象を受ける。
レイリンのところのアイルーたちに、挨拶出来ないとかそういうことではなく。
何と言う事か、この事態を止めてくれる子が、まるっきりゼロということではないか。

「ど、ど、どうしましょうさぁ~ん……!」
「いや、もう、どうしようたって……」

オロオロとうろたえるレイリンや見守るべきかどうかを思案するを余所に、カルトコウジンの睨みあいは続く。そして、コウジンが口を開いたことで、一層張り詰めた緊張が増した。

「何なら、武器だって貸してやるニャ。どうニャ、どれが良いニャ。ほら、これなんかあのリオレウスの端材で作った剣ニャ」

コウジンは、木の掲示板の下の、数個並ぶボックスの内の一つから、赤い剣を取り出す。それが腹立たしいようで、カルトはあからさまにムッと目を細め、「オレはこれで良いニャ!」と噛みついた。
その様子を見つつ、コウジンは剣を戻し、トコトコとカルトの前へ佇む。

「じゃあ、始めるニャ。でも可哀そうだから、ハンデをつけてやるニャ」

ニ、とコウジンが牙を見せて笑う。カルトはますますムスッとしたが、ハンマーを構えて見せる。必要無い、というアピールだ。
コウジンは肩をすくめると、背中にあった木刀を持ち、視線を交わす。

「これでもしアンタが勝てば、ボクは謝るニャ。アンタのこと笑って馬鹿にして悪かったって」

カルトは、ピクンと耳を揺らした。

「けど、もしもボクが勝ったら……そのハンマー、置いて帰るニャ」

は目を見開き、レイリンもまたギュッと息を潜めた。
コウジンが、珍しく本気で言っているらしい。彼女の様子を見れば、も感じ取れた。
カルトが気に入らないのか、それとも、オトモアイルーの武器らしいハンマーを持っていることが良くないことなのか、ともあれ……止めてみようと何度も試みたが彼らが聞き届けてくれるわけもなく。
は、長い溜め息を吐き出すと、よいしょっとその場に座り込む。レイリンの作ってくれた服が汚れたり皺にならないよう、丁寧にスカートを広げる。

「しょうがない、好きなようにさせるとしましょうか」
「え?! え、で、でも……」
「男の子だもの、良いの良いの。カルトのことは気にしなくて。あの子にも何か思うことがあるんだろうし。怪我の一つや二つもらっても大丈夫よ」

レイリンは、驚いたようにを見下ろす。それから、の隣へと並んで座った。

「何だかさんって」
「うん?」
「アイルーなのに、何だか年上のお姉さんみたい」

ふふ、とレイリンは微笑んで、コウジンとカルトへと視線を向けた。
……お姉さんみたいっていうか、まあ、レイリンちゃんよりもお姉さんなんだけどね実際。
はこっそりと苦笑いを浮かべたが、目の前の二匹へと集中することにした。


対峙した二匹。緊張が空気と融け、満ちて行く。
コウジンは身構えずゆったりと佇んでいて、対してカルトは強くハンマーを握っていた。
そして、カルトの足が、タッと地面を蹴り、ハンマーを振りかざしコウジンへと突撃する。

「ニャァァァ!!」

力任せに振りかざされたそれを、コウジンは得意げに軽く木刀で受け止め流すと、カルトの腹を柄で小突く。うぐ、とカルトの口から苦しげな声が漏れ、バランスを崩すと、そこへすかさずコウジンの木刀が薙ぎ払われる。カルトの身体は、容易く地面に転がされた。
コウジンは木刀を担ぐと、大袈裟に腕を肩をすくめた。

「ニャんだ、こんなものニャ。やっぱりアンタにそのハンマーは持たせられないニャ」

カルトの目がギッと鋭く細められ、腹筋の力か仰向けから瞬時に立ち上がると、再びそのハンマーを持ってコウジンへ向かう。ただがむしゃらに振られるそれを、コウジンは全て受け止める。
やはり野生のアイルーと人の技術を得たアイルーとでは、力量の差がはっきりと見える。ちらりとが見たレイリンは、そわそわし落ち着きがなかったが、はというと妙に平穏ではあった。コウジンが珍しく吹っ掛けたのも、オトモアイルーのプライドがあってのものだろう。言っていることやすることはまるで子どもの喧嘩だが……カルトには、善し悪し問わず刺激になりそうだ。

「コウジンくん、強いのね」
「あ、はい。一応、私が新人の頃から一緒ですし、狩猟にもよく着いてきてくれます」
「そっかそっか。渓流にばかり居たカルトとは、年季が違くて当然ね」

クスクス、とは笑い、彼らを見守る。レイリンはの様子に戸惑いながら、「さんは、カルトくんが心配じゃないんですか」と呟いた。はそれに対し、「別に」と即座に返す。レイリンの瞳が、見開かれた。

「コウジンくんは良いライバルだし、カルトには良い経験よ。それにほら、喧嘩するほど何とやらでしょう?」

レイリンは、感心すような溜め息をつくと、再び「やっぱりさん、お姉さんみたい」と言った。
いや実際、お姉さんだものね。とは二度目のそれを胸中で呟き、二匹へと視線を戻す。
その瞬間、コウジンの木刀が、カルトのハンマーを巻き上げ、宙へと放り投げていた。
あ、との口からも声が思わず漏れる。
空へ舞い上がったハンマーは、クルクルと回り、力なく地面へと落ちていく。

「ニャ……!?」
「ほらニャ、アンタは所詮その程度ニャ」

カルトは怒りの表情を浮かべたが、コウジンはすでにカルトの正面へと踏み込んでいた。
ハッと、カルトが息を呑む。
コウジンの握り締められた木刀が、大きく振りかぶられた。

「これで―――――ボクの勝ちニャ!!」

レイリンがたまらず身を乗り出した、その時だろう。
――― とレイリンの脇を、漆黒の影が俊敏に過ぎ去り、カルトとコウジンの間へと乱入した。

大きく振りかぶられた木刀が鳴ったのか。
それとも、それを受け止めた大剣が鳴ったのか。

周囲を一瞬で沈黙させる、鍔競り合う激しい金属音が、響き渡る。

顔を庇うように背けていたカルトは、何の衝撃も訪れないことに気付く。恐る恐る、と腕を退かすと、彼の前には漆黒の鎧と赤い羽根飾りが立ち塞がっていた。そしてその向こうには、急に表情を変えたコウジンが立ち尽くしている。その手に木刀は無く、地面へ落ちている。

「――――― そこまで」

漆黒の大剣を背に戻したその影は、見慣れたものだった。隠密模様と言われる毛並みの、漆黒のメラルーのヒゲツ。愛くるしいはずの容姿は獅子に似て眼光鋭く、そしてとても落ち着きある口調は、間違いが無い。
しかし、彼がここにいるということは―――――。

「おーおー何か派手にやらかしてんな、コウジンとカルトは」

ザ、ザ、と坂を下りてくる気配。とレイリンは揃って振り返る。

「し、師匠」
「市場に行ったら、その二匹が言い争ってたってモミジイが言っててよ」

隠密防具に身を包んだ影丸が、ゆっくり歩み寄って来る。
バッと立ち上がった小柄なレイリンの隣に並ぶと、面白そうに笑った。

「案の定だな。なかなか面白そうなことしてるじゃないか」
「あ、あの、あの、これはその」
「別に怒ってねえっての。まあ、ヒゲツが思わず割り込んじまったなあ」

で、何してた。影丸に尋ねられ、レリインはあわあわと身振り手振りで説明をする傍らで、も立ち上がると、三匹のもとへと駆け寄った。
をちらりと見たヒゲツは軽く会釈し、すぐにコウジンを見た。

「何をしていた、コウジン」
「べっつに、ヒゲツに何か言われるようなことはしてないニャ!」

コウジンはむすっとむくれて見せたが、その尻尾は足に巻き付いている。多分怖いのだろう、この眼光鋭い獅子のようなメラルーが。
コウジンが固まったままのため、が代わりにコウジンとカルトが勝負していたことを説明する。ヒゲツは、やはりというか、呆れた表情をしコウジンを睨む。

「……社会見学に来ている同胞に、喧嘩を売る、か。お前は阿呆かニャ」
「う、う、うるさいニャ! ヒゲツなんて勝手に割り込んで来たニャ!」

コウジンは湯気を出して怒りながら、ズンズンとどんぐりハンマーのもとへ進む。そしてそれを持ち上げると、ぐっと担いでカルトを見下ろした。

「とにかく、これはボクが貰うニャ! 勝負は、ボクが勝ったのニャ」

カルトは慌てて立ち上がると、コウジンの前でバッと向き合う。

「しょ、勝負はまだ着いてないニャ!」
「ニャー? プププ、さっき思いきり負けてたのはそっちニャ、忘れたニャー?」

ぐ、とカルトは息を詰まらせた。けれど、握り締めたままのその手を……は、見つけた。
気付けば、レイリンと影丸も見守るように側に佇んでいる。
ニャッニャッ、とコウジンは笑うように肩を揺らした。だがその時、静かに見つめていたヒゲツが声を割り込ませる。

「――――― いや、勝負はついていないニャ」
「え?」

は、ヒゲツを見た。カルトもまた、ヒゲツを見上げた。

「勝負とは知らず俺が割り込んだ、勝敗を決める前だったはず」
「ニャ?! そ、それは……」
「邪魔をした俺に落ち度がある、ならば、今一度勝負するのはどうだ」

ヒゲツは、コウジンへ向かい手を伸ばした。ハンマーを渡せと、そういう意味だろう。
渋るコウジンの横から、歩み寄ったカルトが手を伸ばした遮る。

「……良い、アンタが持ってるニャ」
「カ、カルトさん、でも」

レイリンがたまらず、声を出した。あのハンマーは、カルトが大切にしているものと、彼女なりに思っているのだろう。だが、カルト本人は、プルプルと首を横に振る。

「その代り」

ビシ、とカルトの指がコウジンに突きつけられる。

「――――― 次でオレが勝ったら、今度こそ、それを返して欲しいニャ」

カルトはそう強い声で告げる。コウジンはしばし考えていたが、ふふんと勝ち誇った顔をし「何回やっても同じニャ、でも分かったニャ」と上から目線で言った。その瞬間、彼の脳天にヒゲツのゲンコツが降って来た。静かなゲンコツであったけれど、途端に涙を浮かべるところを見ると相当痛かったことがうかがえた。

「う、う……ッともかく勝負は明日ニャ、その時万全の状態で挑むニャ。首洗って待ってろニャ!」

ニャッニャッニャッ、とコウジンが高笑いする。またゴインッとヒゲツからゲンコツを食らった。
カルトはギュッと手を握ったまま、カルトに背を向けると、必然的にと視線がぶつかった。だが彼は、そのままフイッとそらし、農場を走り去って行ってしまった。

「あ、カルト……」

あっという間に小さくなってしまった彼の背に、は溜め息をつく。そして、レイリンと影丸へ頭を下げる。

「ごめんなさい、見学に来ている身分で迷惑をかけて」
さんが、謝ることじゃないです。むしろ、こっちが申し訳ないです……」

レイリンは、珍しくキッと瞳を鋭くさせ、コウジンを見下ろした。彼女にしては厳しい眼差しに、コウジンがピャッと身体を跳ねさせる。

「もう、コウジンの馬鹿! どうしてあんなに酷いことをするの」
「え、う、酷くなんか、ないニャ……」
「大切なものを馬鹿にして取り上げて、もう!」

……コウジンにとっては、ヒゲツのゲンコツよりレイリンの一喝の方が堪えれるようだ。
見る見る真っ青になり、半ば瞳に涙を浮かべている。けれど、ギュッとハンマーを担ぐ彼は、「でもこれは、オトモのプライドが許さないのニャ」と考えを改めることはしなかった。彼にとって、よほど重要なことなのだろう。
は首を振り、彼女を宥める。

「カルトのことは良いのよ、ほら、良い経験良い経験。社会見学の一つの催しと思えば」
「でも……」
「カルトもカルトで乗っかってるし、思うところがあるのよ。だから、うん、少し彼のやりたいようにさせようと思う」

とは言っても、少し気がかりでもあったので、は農場の案内はひとまず置いてもらい、カルトを探すことにした。その時、珍しいことにヒゲツも手伝ってくれるとのことで、影丸に了承を得て二人……いや二匹で、ユクモ村の市場へと戻った。
レイリンとコウジン、影丸は、二匹のアイルーを見送った後に、静かに呟いた。

「コウジン、何であんなことしたの」

非難めいた、優しい彼女にしては本当に珍しい声音だった。コウジンは、レイリンに尋ねられても黙りこくっていたが、長い空白を挟んでから、そっと返した。

「……あの武器は、オトモアイルーの誇りニャ。ボクらは何の考えも無しに振り回してるわけじゃないニャ。旦那様の役に立ちたいし、一緒に狩りに挑みたいニャ。アイツが持ってるものは、しかも死んだアイルーのものかもしれないってモミジイ言ってたニャ……拾ったなんて、そんな安っぽい理由で持って欲しくないニャ」

レイリンは驚いたように目を丸くした。

「アイツ、守りたいのがあるって言ってたニャ。ならボクにだって、勝ってみせれば良いのニャ。もっと怖いのや強いのなんて幾らでもいるのに、こんなことで挫けてちゃ駄目なのニャ」

レイリンは、コウジンが不器用ながら何を思っているのか、少し分かった気がした。「そう……」と呟くと、多く言わず、静かに頭を撫でる。

「まるで、ヒゲツさんの言葉を、覚えているみたいな言い方ね?」
「!」
「確か、『守るという言葉は、実力が伴ってこそ意味を成すもの』だったかしら? ふふ、何だかんだでコウジンもヒゲツさんの言葉をしっかり覚えているのね」

途端に、コウジンの顔が真っ赤になり、そんなことないニャボクはアイツが嫌いニャ本当ニャ、と大声で叫んで飛び跳ねる。恥ずかしいのだろう。だがレイリンは、その否定すらも微笑ましくて笑みが止まらなかった。
だが、隣の影丸が、妙に黙りこくっていることに気付き、声を潜めた。

「あ、あの、師匠……?」

影丸の横顔には、笑みが浮かんでいたけれど、何処か遠くを見据えるようなこの場に心を留めていない眼差しに、息をのんだ。厳しくは無い、だが、恐ろしいまでの穏やかさがあった。

「師匠……?」

影丸は、ふっと息を吐き出す。

「……守る、か。野生のアイルーでも、そう思うことがあるんだな」

影丸はそれだけ呟くと、レイリンの頭をトンッと小突いて農場を去って行った。
レイリンは、額を抑える。鷲掴みに捩るような力も無ければ、からかう悪戯っぽさもない、まるで霞めるような仕草。
しばしレイリンは、その場を動けずにいた。



勝負へ真摯に挑もうと決意を示した、小さな背。
俺はあれに、何を見たのだろう。
影丸の脳裏に、小さな手を握り締めたカルトが浮かんでは、そのたびに過去の幻影と折り重なって混ざり消える。
たかがアイルーの、ちっぽけなやり取りだろうに……何故かとても、胸を穿たれたような気分がした。



――――― とヒゲツが、飛び出して行ったカルトを探し始め数分後のこと。
カルトを見つけたのは、ユクモ村の近隣を流れて行く大河のほとりであった。そこは、ユクモ村から離れているためか、人の気配はない。渓流の豊かな緑の地平線と、山々の縁も映し出され壮大な光景が広がっている。打ち寄せるように、柔らかく揺れる水面が、カルトの足元で耀く。
少し丸まった背が、寂しそうに見える。は追いかけて来たものの、かける言葉を今になって探していた。それはヒゲツも同じなのか、並んで佇んだ彼はじっとカルトの背を見つめている。それから、彼と視線を合わし頷き合うと、カルトのそばへ歩み寄った。

「――――― カルト?」

は名を呼ぶが、彼は振り向かなかった。きっと、やはり落ち込んでいるのだろう。あんな風に大切にしていたハンマーを取り上げられ、そして強い声で言ったわりに容易く負かされて。特に彼は、男の子だ。が思う以上に、敗北はきっと圧し掛かっているのかもしれない。は、カルトの肩へとそっと桜色の小さな手を重ね、撫でる。

「ね、元気だして。明日、また勝負でしょう? 今度は、その」

カルトは、反応しなかった。は、ギュッと掴み彼を覗き込んだ。そこにあるのは、カルトの泣き出しそうな顔……

ではなく。

その手一杯に、うぞうぞと蠢くミミズが。

「ギャァァァァアアアアア!!」

は思わずカルトから飛びのくと、反射的にヒゲツの後ろに隠れた。ヒゲツは驚いたものの、を振り払いはしなかった。
カルトは、ようやく振り返ると、とヒゲツを見て呑気に「あれ、居たのニャ」と言った。その表情は、が心配していた泣き出す寸前のものなどなく、普段と同じだった。
は、そろりとヒゲツの背から顔を出し、カルトへ言った。

「カルト、それ、何」
「ニャ? ああ、これ此処掘ってたら面白いくらい出てきたから、何処まで出るかやってたニャ」

ほら、と差しだされた両手一杯の小山のように積まれた元気なミミズ。は全身に悪寒を走らせながら、そのミミズをペッペッと地面へ返す。何よ、心配してたのに!
ごほん、と咳払いをしてから、はカルトへと尋ねた。

「……突然、何処かに行っちゃったから、探したよ?」
「……」
「やっぱり、さっきのこと――――」

カルトは、の言葉を遮るように、バッと立ち上がった。

「……ちょっとは、アイツが強いってこと分かったニャ。いや、強いっていうか、オレが弱いってことが分かったニャ」

カルトの横顔が、いつになく、真剣だった。は、出かかっていた言葉を飲み込み、静かに見つめた。その隣で、ヒゲツもまた耳を傾けている。

「アイツが言いたいことも、少し分かるニャ。あのハンマーを見つけた時、オレの手にも馴染んだけど、これはきっと渓流で生きているヤツのものじゃないんだろうなって分かった。だけど、あれは……オレには必要ニャ。絶対に」

緩やかな大河のせせらぎの音色が、耳の奥で聞こえる。
は押し黙ったままだったが、ヒゲツが不意に、カルトへと言った。

「……それで、お前はどうするニャ」
「ニャ? どうするって……」
「コウジンが言うには、明日またリベンジ戦をするそうだな。だが、一瞬だったが俺が見た限りでも、あの状態でまたやろうものなら惨敗は確実だ」

低い声は静かで、だからこそ重みがあった。彼は言葉を繕わずに、ストレートに言い放つ。
はドキリとし、二匹を交互に見たが、カルトの瞳は……静かな、闘志があった。

「オレは勝つニャ、あれは必要なのニャ」
「その理由は」
「守りたいのが、あるのニャ。どうしても。だから明日の勝負は……素手でも勝ってやるニャ!」

ヒゲツはしばし口を閉ざすが、何処か笑うようにふっと息を吐き出す。

「素手でも勝つ、か。なるほど。だが俺が言っているのは、あの戦い方ではいくらコウジンでも勝てないだろう、ということニャ」
「うぐ……ッ」
「アイルーといえど、俺達はハンターと共に大型モンスターと戦うオトモアイルーだ。野生で生きて来たお前に、勝てる要素はゼロだニャ」

意気込んだカルトが、みるみるしょんぼりしていく。
は思わず、「ヒゲツさん」と声をかけたが、彼はへ視線を一瞥寄越しただけで、すぐに戻す。

「……守りたいものがあるのならば」

ヒゲツの声に、俯いていたカルトの顔が上がる。漆黒のメラルーの、金色の瞳がカルトを射抜く。

「実力を身につけてから、その言葉を口にしろ。それは勇気ではなくて、ただの無謀だ」
「……う」
「――――― 強くなりたいか、カルト」

不意に、ヒゲツの声が色を変えた。ピン、と緊張のまとったそれが、カルトの背を伸ばす。

「な、なりたいニャ!」

ヒゲツはその返答に頷くと、「じゃあ、着いてくるニャ」と背を向ける。スタスタと歩き始めた彼の後ろを、とカルトは慌てて追いかけた。
郊外から、ユクモ村の市場通りに戻ると、そのまま通り過ぎて別方向へと進んでいく。どんどん人々の喧騒から遠ざかっていくとカルトの目の前で、広大な農場が現れた。そこはレイリンの農場と同じ造りのように思えたが、ぐるりと見渡しただけで此処が明らかに異なっていることを理解する。
豊かなキノコの採取小屋や、ハチが円を描いて飛び回る甘い匂い漂う機械。立派な斧の刺さる薪割り場、そして何やらとても大きな肉焼き機と、奥で大木に吊るされた丸太。
農場でありながら、まるで広大なトレーニング場だ。
とカルトが入口でぽかんとしていると、ヒゲツは言葉少なく「ここは、旦那の農場だ」と言い歩いて行く。とカルトは、再び後ろに従った。
そして、掲示板の前には、先ほどの影丸の姿があった。どうやら、とヒゲツがカルトを捜索している間に、この場所に足を運んでいたらしい。

「旦那、すまない。突然側を離れて」

ヒゲツはそう切り出すと、頭を下げる。影丸は気付くと、「ああ」とさして気にしていないように呟く。

「いや、別に良い。お前にしてはなかなか珍しいことがあるなと、思っていたくらいだ。それで、その後ろの二匹は見学か?」

ヒゲツは、とカルトを見た後、影丸を見上げて静かに言った。

「旦那、わがままであるとは承知しているが、一つ頼みがあるニャ」
「お、何だ。お前からなんてますます珍しいな」
「――― 今日一日と、明日の午前、暇が欲しいニャ」

影丸の目が丸くなる。それ以上に、とカルトも驚いて首を傾げた。

「へえ……用事か? それとも」
「カルトの、トレーニングをやりたい」

ピクン、とカルトの耳と尾が揺れた。本人も予想外な言葉だったのか、声すら出ていない。
影丸は腕を組むと、「ふうん」と声を漏らす。ヒゲツとカルトを交互に見下ろし、「うん」と頷いた。

「別に良いんじゃないのか? 他のアイルーたちにはモンニャン隊行かせてあるから、戻って来ないし。こないだ狩場に出かけて、ちょっと休みも挟むつもりだったしな」

うん、良いよ。あっさりと、影丸はそう言った。ヒゲツはほっと肩を撫で下ろすと、「感謝する、旦那」と敬礼をした。
はというと、呆然とするカルトと同じく、しばし沈黙していた。

ヒゲツさんが、カルトの、トレーニング?

それはつまり、カルトを鍛えるということ。影丸のオトモアイルーたちのリーダー格であるという、ヒゲツ本人から。
何だか凄いことのような気がし、は両手を合わせてパッと笑ったが。
それ以上に、隣のカルトが凄いことになっていた。

「あ、あ、ありがとうニャ!」

ブンブンと尻尾を揺らし、小躍りするようにその場に飛び跳ねる。ヒゲツは、至極冷静に「勝負の邪魔をしたこともあるし、これで帳消しだニャ」と言った。何だか、この短い間でヒゲツの性格を多少なり理解した気がした。

「トレーニング期限は、今日と明日の午前中のみ。短期集中でやるから、ビシバシいくニャ。良いな」

カルトは大きく頷くと、「頑張ってついてくニャ!」と渓流では見たこと無い耀いた表情であった。はそれを、成長する弟を見つめるような心境で見守っていた。
その時、の隣に、影丸がしゃがんだ。

「お前の友人は、妙にはりきっているな。そんなにあのハンマーが大切だったのか」

彼から見れば、きっと不思議なことだろう。あんな安っぽい、しかもたかがどんぐりハンマーに、必死になるこのちっぽけなアイルーが。
だが、ちっぽけな生き物には、生き物の意地がある。
は、小さく笑うと、「そうみたいです」と返した。

「……カルトにとって、ずっと持っていたあのハンマーは取り返さなきゃいけないもののようで。もちろんそれが、私にはどれほどの価値があるかなんて、分からないですけど……大切なものは、無くなってから分かるとも言うじゃないですか」

にとって、人の姿とかつての暮らしていた世界が無くしたものであるように。
カルトにとって、あのハンマーはなりふり構わず取り返すべきものなのだ。
大切なものは、人それぞれ。同一に重なるものは、そうない。

「なんて、アイルーが言うと、説得力ないですよね」

は笑ったが、その頭に―――影丸の大きな手が乗せられた。
不器用げに撫でる指は、アームのせいで温もりはなく硬い感触しかなった。けれど、不思議と……気分が悪くなることはなかった。

「……大切なもの、ねえ。お前は、まるで人間のように言うな」
「あ、へ、変ですか? やっぱり」
「いや、共感している」

は、撫でられながら、影丸を見上げた。黒い、獣を模したヘルムで顔は見えないが、その瞳だけ唯一発見出来る。

「……無くしてから、気付くもんだ。無くしてから、思い知らされることも、全てな」

その横顔は、ユクモ村を救った英雄とはとても言い難い、翳りが帯びていた。それは、影丸という掴みどころのない人物の持つものなのだろうか。渓流の流れのもの、ジンオウガを追い詰めたハンターであるはずなのに……は、しばし戸惑っていた。
武器を握る、狩猟者の手であるはずなのに。

( 一般人と、変わらないのね )

集会浴場で感じた、奇妙な違和感とあの言葉。友人を崖に落とし助かったという、あの言葉だ。鋭い眼光と、今の遥かを想う翳る瞳。
この手は、一体どちらの彼のものなのだろう。
ユクモ村イベントの、ストーリーの軸が出せました。カルトのトレーニングと、影丸のこと。
さらに言いますが、これはゲームストーリーも無視した超オリジナル展開ですからね、気を付けて下さいね!

2011.12.30