英雄と紅葉の村(7)

カルトの大切にしていたどんぐりハンマーを巡る、カルトとコウジンの勝負。
さあ社会見学張りきって行きましょうという二日目、早速そんなある意味では問題が起きた。
コウジンにどんぐりハンマーを取り上げられ、翌日の三日目の午後、それを取り返すためのリベンジ戦を予定されているが、今のままではどうやってもカルトが経験豊富のコウジンに勝てっこない。そのため、カルトのコーチにヒゲツが着くことになった。
「オレはヒゲツに鍛えてもらうから、は見学してると良いニャ!」なんて得意げに言ったので、邪魔しては悪いのかとは影丸の農場を去ることにした。もちろん、影丸とヒゲツにしっかりお礼を告げることも忘れない。ヒゲツは、口数少ないが頷いてみせ、影丸は面白がってるのか笑みを浮かべたままだった。先ほどの、翳った瞳は……気のせいだったのだろうか。結局それも、分からずじまいだ。

ともあれ、唐突に社会見学はだけになってしまったが、ひとまずはカルトのことはヒゲツに任せることにし。

「――――― 気を取り直して、二日目の社会見学午後の部門いきましょう!」

合流したレイリンと共に、オー!と高らかに腕を上げる。その隣に、コウジンは居ない。やはりレイリンなりに申し訳なさを感じているのだろう。
はそこに触れず、レイリンと共にユクモ村のまだ見ていなかった施設を回ることにした。
市場の通りに並ぶ、武器屋やその他飲食店。じっくりと見ていなかった集会浴場内部と、その二階部分など。そういえば足を運んだことはなかったが、集会浴場の二階は大きな飲食店になっており、お腹がすいてしまうほどの良い香りが漂っていた。観光客の宿などは、あるのかと思ってレイリンへ尋ねてみると、宿屋などは村の市場通りを離れたところにあるとのことだ。
温泉の観光地だけに、宿屋も飲食店もの感覚でいうところの和風な建築様式と装飾で、見惚れるほどの美しさがある。そして、これをかつて危機から守ったのは――――あの影丸、なのだろう。

歩きまわったため、休憩しようと温泉の横の長椅子に腰かけると、レイリンがアイスクリームを買って来てくれた。それを肩を並べて舐めながら、行き交う人々を眺める。

「影丸さんって、不思議な人ね」
「えっ?」
「掴めない感じがするけど、中身はしっかりしているというか。何か大きなことを秘めているような」

レイリンの顔が、酷く驚愕に満ちた。そんなにおかしな言葉を口にしてしまったのかと不安になっただったが、レイリンは何処か寂しそうに笑うと「そうですね」と言った。その様子が、妙に気にかかる。会って間もないの見解より、レイリンの方が良く彼を理解しているはずだが、まるで再確認したかのような口ぶりだ。

「……影丸さんから、聞いたよ。レイリンちゃんと影丸さん、二年くらい一緒に居るんでしょう?」
「はい……」
「仲、良くないの……?」

あまり聞いてはならないことなのかもしれないが、レイリンの様子がどうしても気になった。師弟関係というから、もっと親密なところなのかと思ったのだけれど、そうではないのだろうか。の眼差しの意を感じ取ったらしい、レイリンはぎこちなく笑ったがそれは妙に苦さが含まれていた。

「師匠はあまり、自分の話をしたがらないから」
「それは、昔のこと?」
「それもあるんですけど……あの人は、自分の生まれ育ったところですとか、今までどんな生活をしていたのかとか、好きなものとか……全然、言わないんですよ」

ああ、何かそんな感じするわね。

「弟子入りのことと、私生活のことは、別物にされているから……何にも知らないなんて、弟子失格ですよね」

笑ったレイリンをしばし見上げたは、アイスクリームを落とさないよう注意し腕を伸ばす。精一杯伸ばしても二の腕にしか届かなかったが、ポムポムと励ますように叩く。

「ほら、今からだって、仲良くなろうと思えばなれるんだから。レイリンちゃんが本当にそう思うなら、レイリンちゃんが動けばきっと大丈夫よ」
「そう、でしょうか」
「だって少なくとも、野生のアイルーなんかより貴方の方が影丸さんのことをよく知っているじゃない」

あえて、きょとりとし言ってみると、レイリンは僅かに目を丸くし、そして「そうですね」と呟いた。

さんは、本当にお姉さんみたいですね」

お姉さんだもの。
しかし、人間関係の悩みなんて、今のには羨ましい限りだ。人間関係どころか、人間ではないのだから。
アイスクリームを全て食べた後、とレイリンはカルトの様子を見に行ってみるかと、今一度影丸の農場へと足を運んだ。今頃は、ヒゲツと仲良くトレーニングしているのだろうか、なんてのん気に話をしていたが、実際はそれを大きく裏切る光景が広がっていた。
掲示板に似た板が立てかけられている、広くならした平地。そこには、カルトとヒゲツがマンツーマンの実技演習を行っている姿があったのだけれど……声をかけるタイミングが、掴めない。緊張感漂う空気には、剣の交わる音だけがひたすらに響いていたのだ。
大剣の重い剣撃が幾度も振るわれ、懸命に防御に徹するカルトの身体を、ズリズリと後退させる。どんぐりハンマーはコウジンに取られたため、恐らく代わりに貸してもらったのだろう、同じ種類のハンマーを使っている。カルトは、それはもう必死な顔つきで踏ん張っているが、対するヒゲツは棒切れを振るようにあっさりと追い詰めていく。

「ッニャ、ぐ……!」
「さっきよりは、随分まともになったニャ。じゃあ今度はもうちょっと力を入れるニャ」
「ニ゛ャ?!」

より激しく浴びせられる剣撃に、カルトから半ば泣き声のような叫びが上がる。
……予想以上に、ハードな特訓風景に、とレイリンは立ち尽くす。とても、猫のやり取りとは思えない。ヒゲツは本当に手馴れていて、立ち振る舞いが猫の域を超え、人間のそれとほぼ同じだ。武器を持ち戦う経験が、豊かなのだろう。しかし、思ったのだが、すでにこの特訓自体が、コウジンとの勝負を大きく上回る激しさである。コウジンの方が、何倍も優しく見えるのは気のせいだろうか。このトレーニングが終わった時、カルトがどうなっているのか想像も出来ない。

「――――― お、何だお前ら、見に来たのか」

ヒゲツとカルトの向こうで、ひょこりと見えた男性の顔。ヘルムを外している、影丸だった。隣のレイリンが「師匠ー」と駆け寄り、そして豪快に坂道を転げていった。はいはい、と馴れた仕草では彼女を立たせてやり、影丸のもとへと向かう。特訓する二匹の隣には、何やら大きなキノコの栽培場と柵で囲まれた畑があった。影丸はその畑のウネの間に立っていて、土を払っている。とレイリンが様子を見に来たことを察し、影丸は腰に手を当て言った。

「あの二匹だろ? まあ見たまんま、ずっと特訓の最中だ。ヒゲツ相手でも、なかなか頑張るなカルトは」

感心するように、影丸は笑っている。は視線を上げ、小高い場所で一心不乱にヒゲツの剣撃を受け止めるカルトを見つめる。がむしゃらにハンマーを振る姿から、ずいぶんと様になるほど腕が上がっているのはの目から見ても分かったが……。
ああなるのも、やはりコウジンとの勝負に負けたのことが、悔しかったのだろうか。
がじっと見つめる視線にも気付かず、カルトは時おり悲鳴を上げているもののヒゲツをしっかりと見据えている。

「……もうずっと、何時間も?」

が尋ねると、「まあ、そうだな」と腕を組んだ。
しばし考え込んだの後ろで、レイリンが首を傾げる。「どうかしましたか?」と彼女が言うと、は頷いて顔を上げた。

「あの、影丸さん。レイリンちゃんも。後で何でも手伝いますから、お願いがあるのですが」

影丸とレイリンは、顔を見合わせた。



「――――― そこまで。少し休憩するニャ」

ヒゲツの静かな声と共に、カルトはバタリッと大きな音と砂埃を立て、地面へと倒れ込んだ。激しい呼吸を繰り返す身体は、もう動かない。指の先まで、疲労が染み込んでいるようだった。仰向けになった彼の前に広がる、少し橙色がかった空の色が、時間の経過を表している。
しかし、カルトが呼吸すらままならない状態の中で、ヒゲツはというと息の乱れもなく極めて平常の状態であった。鍛え方と生活習慣が、そもそも異なるのだろう。野山で生きてきて、カルトも身体の丈夫さには自信があったが、やはりヒゲツの方が何倍も上手だ。
カルトが顔を横に向けると、ヒゲツはその場に座り、大剣を側に置いている。

「少し、やりすぎたかもしれないニャ。すまない、よく仲間にも言われる」
「へ、平気ニャ。これくらい」

カルトが言うと、ヒゲツはフッと目を閉じる。

「コウジンは負けん気が強いが、お前もその節があるな」
「ニャ……? そりゃ、アイツなんかに負けたくないニャ」
「……そうだな、誰しも負けたくはないニャ―――――俺も、同じだ」

カルトは、ヒゲツを見つめた。赤い羽根の付いた兜の向こうで、金色のヒゲツの瞳が細められている。笑みと、もっと別の感情があるように思えたが、それはカルトには分からない。ゆっくりと、ズシリと重い身体を起こした後、カルトは小さな声で尋ねた。

「……アンタは、何で俺に色々教えてくれるのニャ」

ヒゲツはしばし沈黙したが、視線をそらして口を開く。農場のほとりを流れる、穏やかで広大な大河を見ているせいか、その低い声は遠くへと向かうようだった。

「負けたくない、そう言ったお前に共感したからだろうな」
「ニャ?」
「俺も負けたくはない、人でも、モンスターでも、何に対しても」

カルトはその時、不思議な既視感を覚えた。物静かで、けれど奥では何かを思いつつ隠すような。それは一体何処だったかと探した時。
薄暗い洞窟の中で、大きな身体を横たえ眠る、碧色と黄土色の雷狼竜が、急に過ぎった。いかにも凶暴な容姿と太い四肢を持つ、無双の王者の姿が。


「――――― ヒゲツさん、カルトも!」


だが唐突に、聞き慣れたの声が響き、カルトの思考は途切れてすぐに消えた。
背後から届く声に振り返ると、そこには渓流で共に暮らしていると、レイリンや影丸が居たのだが……。の手には、何かが握られていることに気いた。


は、農場の坂道を注意しながら降りると、駆け足で二匹のもとへ向かった。休憩しているところを見ると、タイミングは良かったようだ。それにしても、ヒゲツは何ら変わっていないが、カルトはずいぶん疲れているようだ……それはそうか、野山で駆け回って鍛えられても、大きなモンスターと戦うヒゲツはその倍は身体を強くしているだろう。
それにしても、この鍛錬の間でとても親しくなったことがうかがえる。コウジンはヒゲツを毛嫌いしているようだが、カルトは逆のようだ。ふふ、と弟の成長を見つめる微笑ましさには口元を緩める。

、それ何ニャ」

カルトが早速、不躾に尋ねてきた。は得意げにふふんと胸を張って見せる。ピコピコと耳が揺れ、尻尾も横へ振れた。

「差し入れ。お夕飯が近いし、摘めるくらいの食べ物と飲み物を用意したの」

は、小さな手には少々大きなお盆を差し出す。竹をそのままくり抜いて作られた器と、四角形の焼き皿。それには、ユクモ原産の茶と、小さな丸いおにぎりを乗せている。
レイリンと影丸に頼み込んだのは、これだった。二匹に差し入れをしたいから、厨房と食材を貸して欲しい 。もちろん、に金銭などあるわけがないので、ユクモ村滞在中はその分手伝いをする、という条件で。レイリンは気にしなくて良いと言ってくれたが、それではの心があまりに申し訳ないので、何とか取り付けた。

懐かしすぎる、お茶淹れやおにぎり作り。味は、レイリンや影丸に試食してもらったので大丈夫だと思うが……。

「カルト頑張ってるし、ヒゲツさんにはお世話になるし。どうかな」

カルトは、ヒゲツへと振り返った。彼は頷いて笑うように目を細める。

「すまない、お気遣いに感謝するニャ」

は、パッと表情を明るくすると、コトリと地面へ置き、カルトとヒゲツに飲み物を差し出す。
「レイリンちゃんや影丸さんも」と声を掛けると、彼らも隣に座った。
飲み物は、おかわりが出来るよう大きめの急須に淹れてきてある。空の器に注ぐと、二人へ手渡す。
気に入ってもらえると良いな、と思いながらカルトとヒゲツを盗み見たが。
カルトは、茶を一気のみしていた。ヒゲツは静かに飲んでいるのに……いや、気に入って貰えたということにしよう。

「これは、さんが?」

ヒゲツが見つめる先には、アイルーサイズな小さいおにぎり。頷くと同時に、レイリンが身を乗りだし、「さん料理が出来るんですよー」と笑った。

「青菜のおにぎり美味しかったです、ね、師匠」

ヒゲツは二人のやりとりを眺めた後、おにぎりを一つ取り、口に含む。モグモグと咀嚼した後、笑みを深めた。

「確かに。とても旨い」
「良かった」

にこり、とが笑うと、隣で盛大に影丸が吹き出す。

「ぶっくく……ッお前もそんな顔するんだな」
「……旦那」
「怒るなよ、珍しいもの見たもんだから、つい笑っただけだろ」

くつくつ、と肩を揺らしたまま、影丸の笑みが意地悪げに細められる。

「ヒゲツの趣味は、家庭的ってところか? 全く、主人によく似るな」
「旦那」
「はいはい」

……何の話をしているのだろう。言葉少ない彼らの会話は、良く分からない。
茶のおかわりを強請るカルトに注いでやり、も啜った。のどかな、ゆったりした時間がしばらく流れたが、全て平らげたカルトは立ち上がると、ハンマーを担いで飛び跳ねる。すっかり身体も休まったのか、「特訓の再開するニャ!」と意気揚々と言い、ヒゲツに促している。だが彼に、「軽く柔軟体操をしろ」と言われ、素直に屈伸運動をする。何だか、本当に懐いちゃったみたいね。はクスクスと笑い、ヒゲツへ尋ねてみた。

「やっぱり、明日の勝負は何か、作戦が?」
「作戦、というほどでもないが……コウジン相手には、一番効く方法があるニャ」

彼は詳しくは言わなかったが、カルトがコウジンに勝てる方法があるなら是非叩き込んでもらいたいところだ。空の器をお盆の上に片づけ端へと避ける。

「コウジンくんが、少し心配ね」

レイリンへと呟くと、彼女はむしろ晴れ晴れと笑っていた。「ヒゲツさん伝授の勝負法じゃあ、コウジンも大変です」と言っているが、嫌みなどは一切無い。顔を見合わせて笑う傍らで、影丸がくつろいでいた身体を正して座り直し、不意に声を出した。

「――――― ところで、カルト」

カルトは声を掛けられ、背伸びを止めると影丸と視線を交わす。

「お前は何で、そう必死になるんだ?」

声音は、普段と同じ。けれど、その横顔が妙に真剣みを帯びていたことに、も少なからず察して言葉を噤む。
カルトは、影丸の疑問にしばし首を傾げたが、ハンマーを見下ろすとそっと返す。

「守りたいものがあるのニャ。オレは、それをアイツに笑われたのが悔しいニャ」

けど、とカルトは言葉を付け足す。

「強かったアイツが、羨ましいのもあるニャ。オレは自分が弱かったのをあの時学んだのニャ。だから、強くなって、今度はちゃんと勝って、そんで自分も守れるってのを証明するのニャ」

カルトは、ニッと笑った。その笑みがとても誇らしく、そしてとても輝いて、は途端に眩しく感じた。
影丸は、しばし声を失ったように沈黙したが、ハッとなり笑みを繕った。

「……そうか、お前は、目標がしっかりしているんだな」

カルトは大きく頷き、ぐっとハンマーを握りしめた。

「モミジィが言ってたニャ。何のために武器を持つのかって。それの意味が、少し分かったのニャ。オレは強くなって、大切なのを守りたいのニャ」

だから、今は特訓してコウジンに勝って、それからまた頑張るのニャ。カルトは言うと、グシグシとヒゲを擦る。
影丸は、コウジンの言葉を否定せずに聞き、そして「それは良い心がけだな」と呟いた。声音は、普段と変わらないのだけれど、それに含まれた羨望と翳りが、繕った笑みを酷く儚くさせた。はもちろんのこと、隣のレイリンも思わず肩を揺らしてしまう。
だがカルトは気付いていないのか、首を傾げ、影丸に尋ねた。

「……アンタだって、そうなんじゃないのニャ……?」

大河から吹き上げてくる風が、ザア、と音を立てた。木々の茂みが揺れ動き、奇妙な静寂を煽る。
ヒゲツはそっと視線を伏せ、影丸は遠くを見つめた。

「――――― そうだな、そうだったと、思うが」

影丸は言うと、膝に手を当て立ち上がる。「ヒゲツ、後は頼むぞ」そう言い、ひらりと手を振り背中を向けた。残された静寂が、空気にぎこちなさを漂わせていくが、ヒゲツは何事も無かったように努めるのか大剣を担ぎカルトのもとへ向かった。
「何か、変なこと言ったのかニャ?」首を傾げたカルトの肩を、ヒゲツは叩いた。「始めるぞ」と言った彼の声は、少しだけ沈んでいた。

は、見渡した後、お盆を持ち上げ、「片づけますね」とレイリンへ告げる。彼女も何処か、心此処にあらずといった風で、芯のない返事が返ってくる。はそれにはあまり触れないようにし、二匹へ特訓頑張ってねと激励した後、農場を去る。

「……ヒゲツ……?」
「……いや」

ぐ、と大剣を握るヒゲツの顔は、兜に隠れた。だが 、強ばった口元は彼の心を物語っていた。

「お前は、凄いな」
「ニャ?」
「いや、何でもない」

ヒゲツは、カルトにハンマーを構えさせると、自らも大剣をスッと構える。



お盆をレイリンの自宅へと置いた後、慌てては駆け出す。夕暮れへと向かう村は、人の波も幾らか落ち着き、ひっそりと夜を迎える準備をしていた。だが、その市場通りに探すものはなく、踵を返して別の道を進んだ。ユクモ村名物である集会浴場へ続く長い石畳の階段をふと見上げた時、そこを登っていく男性の背中を見つけ、は急停止し、もつれながら彼女も登った。

「――――― 影丸さん!」

探していた彼―――影丸は、ゆるりと振り返った。その表情は、一見普段と変わらないが、には翳りが未だ見え隠れしているように思える。彼は立ち止まり、登ってくるを言葉を発さず待つ。は急ぎ駆け寄り、彼を見上げる。
「あの、」と言葉が出掛かった時、影丸は遮るように歩き出した。数段登った後、肩越しに振り返り、「着いてきな」と笑った。はギュッと自らの手を握りしめると、影丸の隣へ静かに並んだ。
静寂が間に流れたまま辿り着いた場所は、集会浴場の二階部分にある食堂だった。ただ、机には座らず、そのまま真っ直ぐと進み、外付けされたベランダの野外席だった。そこは、天蓋が設置されていて、今は全て片づけられているためか周囲にも頭上にも壁はなく、まるでパノラマ風景のように美しいの景観があった。視線を下げれば村の様子が見え、地上からは高いためかさながら空高く飛んでいるような感覚だった。
温泉の匂いを孕んだ風が、四方から吹き抜け、心地よく撫でていく。ハタハタ、とのスカートが揺れた。
影丸は進むと、転落防止用に備え付けられたやや長めの柵に寄りかかる。ユクモ村の景観を眺めているようにも取れるが、その瞳は、とても《此処》を見つめているとは思えない。もっと遠く、ユクモ村を通り越した向こうだ。

「影丸さん」

は声をかけ、トットッと歩み寄る。
影丸はを一度見ると、再び視線を戻した。風が彼の黒髪を弄び、何度も揺らしていく。
しばしの間、長い沈黙が流れた。地上からは賑やかな人の声が聞こえ、集会浴場の一階部分からも、騒がしい空気の振動が伝わる。けれどこの場所だけは、張りつめた緊張が漂った。
は口を閉ざし、ぱたり、ぱたり、と尻尾を横へ振る。

すると。

「――――― お前の友達は、凄いな」

影丸は、そう切り出した。
は一瞬言葉に詰まったけれど、頷いて返した。

「カルトも、あんな風に考えるなんて、私も驚きですけれど。きっと、この村に見学に来て変わっているんですね、良い方向へ向かって」

ごく自然に返したつもりだったが、影丸の声音が変わることはない。

「そうだな。カルトは純粋だ、純粋で汚れのない、強さを求めている。それこそ教典にでも綴られていそうな強さだ」
「それは、どういう意味ですか……?」

の声が、僅かに厳しくなる。影丸のその言葉は、まるでカルトが今必死に得ようとしているものが馬鹿馬鹿しいとでも言うような意味さえ取れる。
の眼差しに気付いて、影丸は首を横に振った。

「悪いな、そういう意味じゃない。そうか……俺はこういう言い方しか、出来なくなっちまったのか」

自嘲した影丸に、の胸の憤りが霞んでしまう。
影丸は一呼吸置くと、静かに続ける。

「カルトは、アイツと同じだな。レイリンとも。何の汚れもなく、見ていて清々しいくらいだ。悪いわけじゃない、ただ俺には、途方もなく遠い感情だと思っただけだ」
「守りたい、ということがですか」

それは、貴方も持っているのでは? の静寂の眼差しが、無意識の内に語る。
影丸の横顔は、相変わらず変化がない。だが、その表情は、今朝彼と温泉で出会った時にも感じた、普段の悪戯な笑みなど一切無い冷たく、翳りのあるものだった。
彼もこのような表情をするのか、と思うと同時に、影丸の口が開く。

「――――― 《居なくなったアイツ》を思い出す……嫌な強さだ」

は、息を飲んだ。彼の黒い瞳に、強い眼差しが宿った。

「……七年くらい前」

影丸は、柵に背を重ねて寄りかかると、空を見上げた。

「ユクモ村は、雷狼竜ジンオウガが付近の渓流に住み着き、客足が途絶え、モンスターからの被害も出始めた。それを討伐するように言われたのは、ユクモ村ハンターだった俺と、もう一人のハンターだった」

彼が唐突に語り始めたのは、皆が口を閉ざした、記憶。
かつて村で起きた、雷狼竜の事件の話だった。

「俺がそもそも村にやって来たのは、それからもっと前。十六歳かそんくらいで、生まれ育ったずっと遠い東の地を離れた。その時、ユクモ村には一人のハンターが既に居た。腕が立つ男で、俺なんかいつも負かされてばかり居たな。ギルドからの信頼も厚かったし、でもアイツは鼻にかけることは無くて、何の経験もない俺を歓迎してくれた」

彼の横顔は、穏やかであった。それこそ、今まで見せなかったものだ。
彼と過ごし、村で年を越え、そして狩場へ共に赴き高めあった。友人でもあり、師匠でもあり、好敵手であり、兄でもあり。影丸の語る思い出から、その親しい情景が浮かぶようだった。

「で、俺も実力をつけていったある時、雷狼竜が現れた。戦ったことは無かったが、大型モンスターと戦ったことはもう何度もあったから、まあ大丈夫だろうとすぐに出かけたんだ。一人で、夜の渓流にな」

影丸の空気が、強ばる。見れば、穏やかな表情が苦々しく歪む。は、その後に続く言葉に、嫌な予感がし人知れずギュッと肩を狭めた。

「渓流に居た、初めて見たジンオウガは、そりゃ怖いくらい綺麗でもあった。だが、どうしようもなく、」

身体が、震えた。
今まで戦ってきたモンスターとは、一線を画す圧倒的な存在感と、強さ。
それは、かのモンスターが何と呼ばれて来たか、その時になって思い知った。
《無双の狩人》。
比類無き強さを持つ、電撃の王者。
剣を持ち戦わずとも分かった、今の自分では到底あれには勝てない、と。かつてない絶望感と、恐怖が当時の影丸を取り囲み、身動きを奪う。
猛然と突進してくるジンオウガは、震える影丸を押し潰そうと上体を持ち上げ、その鋭い爪の揃った前足を向けた。
逃げる気力さえ、影丸には無かった。
けれどその時、影丸とジンオウガの前に、激しい閃光が弾けた。《閃光玉》だ。それを投げたのは。

――――― 影丸が一人、ジンオウガに向かったという報せを受けた、あのハンターだ。

彼は、影丸の腕を強引に掴み上げ、目を回しているジンオウガに背を向けその場を退いた。そして辿り着いたのは、渓流を見渡すことの出来る崖上の平地だった。

無事で良かったと、怪我もなく良かったと、彼はそう言った。だが影丸には、ジンオウガの威圧感に当てられろくに感覚が無かった。
一度退こう、改めて準備をしてから再挑戦しよう、彼は言った。見れば、ジンオウガ対策の装備でもなければ、罠などのろくな道具も持っていなかった。それだけ影丸を案じていたことなのだろうが、今の彼にとってそれは後悔すら生んだ。あの腕のあるハンターに、ここまで失態を冒させてしまったのは自分のせいだ、と。

けれど、それが言葉にならない間に、立ち直ったジンオウガが背後から現れた。追いかけてきたのだろう、よほど好戦的な性格らしい。
影丸は再び、地面に座り込んだ。逃げられない、あの村には戻れない、と。

そんな彼の頭上で、あのハンターの声が、強く響いた。

「立て、影丸。お前はまだ戦えるだろう」

その瞬間、影丸の身体は大きく蹴り飛ばされ、後ろへと転がった。
横転した身体を持ち上げ、顔を上げた時。ハンターは肩越しに一度笑い、そして、何かを呟いた。

村を、頼む。

ジンオウガが青く輝く雷光虫を集め始めた時、ハンターは双剣を引き抜くと、懇親の力で頭部に突き立てた。その激痛に、ジンオウガは叫び、身体を仰け反らせた。弾け飛んだ青い光と共に、双剣を握りしめたままのハンターは。
冷たい月光を背に、断崖から虚空へと落ちていった。


影丸は、口を閉ざした。吹き抜ける風だけが優しく、緊張感を逆撫でするだけだった。
影丸の表情が、怒りで歪んでいる。それは、に対してではない。その惨い結果を生むこととなった、彼自身に対してのものだろう。

俺は英雄ではない。
友人を崖から突き落として生き残った人間。
影丸がそう言ったのは、過去のことが関わっていたからなのだとは知り、そして改めて思う。

人の、思い。記憶。生かされているものも生かしたものも、命は連綿と繋がる。

モミジィのあの言葉のように。影丸は今もまだ、足下に鎖が巻き付いているのだ、と。
彼がその後、どうしたのかなど、聞かずとも容易に想像出来た。だからこそ、カルトの純粋な強さを求める瞳に、何故そこまで反するのだろう、と疑問にも思った。

「……影丸さん」

桜色の小さな獣の手を延ばし、トントンと彼の手を叩く。固く握りしめられた、その男性の手に。
影丸はハッとなり意識を戻したのか、少しだけ表情を緩めたものの、眼差しの鋭さは消えなかった。

「……強くなりたかったんだな、あの時」

村人やギルドから慰められ。
彼のオトモアイルーからは泣かれ。
アイツの知り合いたちからは罵倒され。
あの時、きっと全てが変わった。志高い青いハンターは自分の手で葬り去ろう、修羅になって本気で強さを求めよう。アイツが戻ってきた時に、今度は胸を張れるように、と。

「……なんて、思ってたんだが」

影丸は、ふっと首を倒した。力なく笑った彼は、をじっと見つめた。

「お前やカルトを見てると、今になって疑問だな。あと、うちの阿呆弟子が来た時も。これで、良かったのかと」

影丸の手が、の頭を撫でる。グシャグシャと、丁寧でもなければ優しくもない手つきだった。だが、そのぶっきらぼうなところが、少しだけ切なさを煽る。

「聞きました、貴方は身体を労らず、狩猟依頼にばかり行くって」
「レイリンか」
「怒らないで下さいね、彼女のことは。貴方を、とても心配していましたよ」

影丸は、そうか、とだけ呟く。本当に、分かっているのか不明瞭な態度だ。

「アンタはどう思った?」
「え?」
「この話を聞いて」

影丸は、じっと見下ろす。は言葉を探し、けれど素直に思ったことを口にする。

「私は、その場に居なかったし、ましてその時の話は噂くらいにしか聞いたことがない。だから、とても驚いてる。良いか悪いかとか聞かれているのだとしたら、とても答えられないわ」

そうだろうな、と影丸の広い肩が竦められる。

「でも……影丸、さんが思ったこと、思っていること、全て……否定しても、いけないと思います」

影丸はふっと笑うと、そうか、とまた短く呟いた。

「敬語、あったり無かったりしてるな」
「え、あ、ごめんなさい」
「いや……いっそ無くて良い」

グニャリ、と耳が影丸の長い指で折られる。パッと上げた顔の上で、影丸が笑みを浮かべている。

「アンタは、不思議なアイルーだな」

先ほどの、怒りに満ちた表情は、無かった。そうやって、隠して来たのだろうか。が全てを理解出来るわけでもないが、その心の奥にある燻った感情は……この先ずっと、彼を捕らえ、そしてレイリンの心配がこの先も日常になるほど、狩猟という命の危機に常に直面する場所へ、何度も向かうのだろうか。

「野生のアイルーにこんな話をするなんて、俺も疲れたかな」

影丸はそう言って、再び空を見上げた。も同じように、ぐっと顔を上げてみた。ほんのりと橙色に染まった空に、鳥の影が見える。

「影丸は、信じてるのね。そのハンターが帰ってくることを」
「……そうだな。信じているというか、諦めがまだつかないというか」

ふう、と息を吐き出し、彼は最後に言った。

「――――― 此処は、アイツとよく話をしていた場所だった」



影丸は、責任感でモンスターを狩るのではない。

……確かに、そうかもしれない。
だけど、レイリンちゃん、少しだけ間違ってるよ。
この人は、貴方が思っているほど、器用ではない。
集会浴場には二階があって、きっと飲食店があるに違いないと思う。あんなデカさで温泉とギルドしかないとか、そんなの信じない。
という妄想渦巻く、ユクモ村。オリジナル展開がっつりな過去話。

2012.01.08