数えたら両の指を超えた(3)

――――― いつだったか、まだ討伐隊に加わる以前の話かもしれない。

イツ花が初代当主の代より、コツコツと書き纏めていた一族の歴史を、紐解いて読んだ事がある。
自分が生まれてやって来たのは、僅か二ヶ月の歳。常人とは異なる速さで生きていくため、僅か二ヶ月で少女となり既に武器の訓練を行っていた。

かくして九条一族は、初代の頃より何十年と経過している。
その間、どれほどの者たちがその短すぎる命を終えて来たのだろうか。生まれるものも死ぬものも、一年の間で目まぐるしく起こっている。
全く覚えのない一族の者の遺影を見て、幼いながらに思ったものだ。

……鬼朱点を倒す、宿願。
……二つの呪いを解く、唯一の道。

この延々と敷かれた筵のような道において、一族の者は皆どう思って生きて、死んだのか。

……そこで、もっと人の思いに触れていれば、良かったのかもしれないな。
この時私は、思ったのだ。役目こそが、一族の者の責務かもしれない、そうして命を繋いで全うする事が大切なのだ、と。

それ以下でも、それ以上でもなく。


……なんて、そんな風に決めてしまって。

今更気づいても遅い。
私は、本当は……―――――。




いつの間にやら置かれている食事を、静かに一人食べる。
一族の者と普段集まって食べているものだから、一人でする食事はなかなか珍しい。少し寂しい気もするが、それよりもこの食事は恐らくイツ花がいつの間にやら置いていったのだろう……普段はドカドカと歩く少女が、そんな風に繊細に動ける事が驚きである。

ごちそうさまでした、と空になった食膳へ両手を合わせる。社の外へ出て、軽く食器を洗って、水を払う。
が見た世界はやはり、藍色の世界であった。昨日よりも、幾らか仄明るくなっている気がするが、夜明け前の静寂の蒼さといったところなのであまり代わり映えがない。
体内時計だけはしっかりしているものの、時間の感覚は狂い始めている。恐らく今は、下界で言う朝方だろうが……天界とは、しかし不思議な場所である。

は、しばし社の前から周囲を見渡し佇む。
ひとしきり見つめた後に、再び社へ向き直った。

「……あ」

は声を漏らし、頭を垂れて礼をした。

「おはようございます、十六夜伏丸様」

薄く希薄な存在となった月を背にし、獣神が其処にいた。
濃い鳶色の、暑い毛皮。三日月の印持つ狼の顔がを見下ろす。

おはようございます、で合っているだろうか。

さらり、と落ちた髪が涼しい風に揺れる。そっと顔を上げて再び彼を見上げると、金色の静かな瞳と視線がぶつかる。
「ああ」と短く告げた声は、変わらず低く無愛想でもあったが、こっそりと見える狼の尻尾がパタリパタリと横に揺れたのでは笑みを漏らす。

「……よく、眠れたか」
「はい、お心遣いありがとうございます。あの……十六夜伏丸様は、外で眠られて……?」

伏丸は、屋根にどっしりと座った体勢のまま、「ああ」と返す。
神は食事も特別必要はない、睡眠もあってないようなものだと、事もなく告げたので、は「そうですか……」と呟く。

しばし、沈黙が流れる。
もともと周囲も音が極端に少ない為、言葉が途絶えると特にその沈黙が浮き彫りになって感じられる。

「……昨日は、何だ、俺の言う事は気にするな」

そう切り出したのは、伏丸であった。
は、えっと顔を上げる。高みにある狼の瞳が、妙に気まずそうに、不器用そうに視線を動かす。

「余計な事と、聞き流せ。お前はお前の役目と想いがあって、この場に参った。俺は俺の、役目を果たす」

……つまりは、昨日の事―――空っぽの弓矢の件を、彼なりに悪く思っているのだろう。
それこそとんでもないと、は首を仰々しく振った。

「そんな事はありません。何も悪い事なんて。私が……」

言って、は口を閉ざす。

「私が……今になって、向き直ってこなかったものに、ぶつかっただけで……」

なんて、愚痴のようにこぼすのは、交神の儀に応じてくれるかの神に失礼だろうか。
は不安に眉を下げたが、伏丸は彼女の言葉を静かに聞いている。窘めたりもせず、貶めたりもせず。

「……言いたい事があれば、言えば良い」
「え?」
「此処は下界ではない、お前の言葉を聞くものは俺だけで、他には居ない」

は、数回瞬きを繰り返す。これは……彼なりの、気遣いだろうか。
屈強な、獣と人の両姿を持つ狼の神の、不器用げな気遣い。けれどそれに甘えても良いのだろうかと、の生真面目な性質が祟ってくる。
いかにも戸惑う彼女を見下ろす伏丸は、その様子を見るや、一度声を改めて告げた。

「……この場所は止まっている。俺自身も止まっている。
つまらん時間には飽いたのだ、気が向いたら……話せ」

彼はそう言うと、視線を外して背を向けた。
少し素っ気ない、一見すると突き放すかのような仕草。けれど、には不器用なそれが大柄な獣神の隠れた穏やかさに思えて、強ばった胸が少し温かくなった。

( ……あ、そうだ )

は空の膳を持ち直すと、一度礼をして社の中へ戻った。キシキシ、と板張りの床を軋ませて、彼女は適当な隅っこに膳を置いて、あてがわれた部屋を見渡す。



( ……戻ったか )

ふう、と伏丸は息を吐く。
女の扱いは得意でない伏丸は多少なり安堵しながらも、やや残念な気も残された。
同じ神々からも、お前は口数が少ない、愛想がないと言われ、それを彼も自覚はしている。同じ獣神で、やかましい虎の神とは、特に気質が合わない。言われたところで、容易く今さら変わるものでもないので、受け流すのが伏丸の常であったが。
だがこの時は、不思議な事によく舌が回る。半ば無意識の内に、ああ告げていた。
何も変わらない、動かない天界という止まった世界に……あの娘という唯一変化をもたらす存在があるからか。

だが自らの神域に来てからのあの娘は、物腰は穏やかで優しい気質は窺えたものの、芯のない弓矢と表情ばかりが目に付く。
呪われ、戦う事を義務づけられ、単調になる空っぽな弓矢。

……それで良ければそれで良い話であるのに、気がかりになるのは何故だろう。

( ……俺も浮かれているのか )

あの娘が来てから、沸々とする胸の奥。綺麗なものでもなく、もっと醜く、さながら獣じみた本能。
しょせんは生前、野で生きた狼である。本能に対し忠実であるが、それを抑えるのは理性を手に入れ律する事を可能とした《土》の性質だ。だがそれに勝る心の《火》の性質……時間の問題でもある。が、理性が続く限りは、あの娘の話を聞いてやろうとは思っていた。


「――――― 十六夜伏丸様」


静かに響いた声が、伏丸の思考を中断させた。
見下ろせば、娘がまた戻ってきたらしく見上げている。だがその細い腕には……先ほどにはないものを、抱えていた。



「もし良ければ、ご一緒させて頂いても良いですか?」

は屋根を見上げる。不思議そうに振り返った伏丸へ、彼女は腕の中のものをそっと見せる。

「下界より持参しました、酒にございます。お口に合うかどうか、分かりませんが……もし、良ければ。その、何かとご、ご迷惑になりますし」

本来この場所に居るのは、交神の儀を果たす為。命を、次へ繋ぐ為。
に課せられた使命とは、本来異なるものを、伏丸が気遣い持ちかけているのだから、せめてこれくらいはしないと申し訳ない。
何を意図してか分からないが、これを置いていったイツ花に感謝もする。

……すると、屋根に構えていた伏丸が、軽々と飛び降りての前に立った。視界を埋め尽くす威圧感に思わず仰け反ったが、彼の太い腕がふわりと予想外な穏やかで腰に回り、抱きすくめられる。
ふわふわと、濃い鳶色の毛皮に身体がくすぐられる。小さく声を漏らしたの頭上で、伏丸の声が掛けられる。

「飛ぶぞ、舌を噛むな」
「え――――」

言うや、次の瞬間。
伏丸は地面を蹴り、屋根の上へと飛び上がった。
時間としてはほんの一瞬であったけれど、無防備であったはその浮遊感に容赦なく襲われた。天界に登ってくる際の、最初に感じたあのパニックに、今一度陥ろうとしていた。ギュウ、と伏丸の衣服を思い切り掴み寄せる。

すとん、と屋根の上に足を着けた伏丸は、思いの外身を寄せているを見下ろして、視線を意味もなく泳がす。
小さく、細い、その上柔らかい。
見た目以上に、とんでもない感触の存在にしばし狼狽える。

「……おい」
「はッ?!」
「もう着いている」

あ、とが顔を上げると、少し困惑している伏丸の瞳と視線が交わる。
……それもそうか、は今彼の屈強な身体にしがみついている。
状況をゆっくりと確認し、飛び退くように離れたは頭を何度も下げた。
「すみません」としきりに謝る彼女の顔は、此処に来て初めて見せた羞恥に赤く染まった頬をしていた。もとが白い肌の為に、その変化がよく映える。
ただ……の温かさが遠のいた空を掴む感触が、腕に残り、風の冷たさもより感じられた。
薄ぼんやりとそう思っていながらも表に出なかったのは、狼の顔である事が要因だろう。

「別に、構わん」

そうして務めて平常を装った声は、には今までの通りの伏丸のものに聞こえていた。
がほっと胸を撫で下ろしたところで、伏丸は屋根に腰を下ろして胡座をかく。その隣へもいそいそと裾を直し足を横にして座った。
の手には大きな杯も、伏丸へ手渡せば何だか小さなお猪口のようだ。やはりみっしりと獣毛が覆う彼の手は、それだけ大きく、杯だって玩具のようにしか見えないのだ。
栓を抜いた酒を、杯へ傾ける。よ、よ、と丁寧に注ごうとするの様子が、らしくもなくふわっと伏丸の心を温かさで掠める。
並々と酒が満たす杯へ、器用に口先を付けると、ぐっと一気に飲み込んだ。

「……お味は、いかがですか」

ドキドキと、が尋ねる。伏丸は味わうようにしばし舌で舐めると、「悪くはない」と返した。
は表情を明るくさせ、杯へ再び酒を注ぐ。愉しそうに微笑むの眼差しを、一心に向けられる伏丸としては妙に居心地が悪いが……。

「……俺が酒を飲む姿など、面白くもないだろう」

彼女が愉しそうならばそれはそれで良いか、と思っても出てくる言葉これくらいなものだった。けれどは笑みを湛えたまま、「はい」と返す。

「愉しい、というのもありますが……十六夜伏丸様は、不思議な方と思っておりました」
「俺が……?」
「はい、何でしょう、するりとお話が出来てしまうような……不思議な安心感と」

――――― の目が、静かに細められた。

「全て見通されているような、感じが」

伏丸は、傾けていた杯を、静かに戻した。持ち上げていた手を下ろし、自らの膝へ乗せる。

「……見通している、わけではないが」
「いえ、もちろんそれは、そういった感じがするというだけです。ですが……空っぽの弓矢と表現され、言い当てられたような気分です」

は笑って、けれど翳りを帯びた眼差しを伏丸へ向けた。
穏やかな気質の現れる顔立ちが、儚く、歪む。此処に来てから、ずっと彼女が抱いていた影だろう。そのくせ妙に美しくもあるのだから、厄介だ。

は、ふと顔を上げた。
薄く仄明るい、蒼の空。薄れた月が輪郭を残し、厳かな月光が途絶え、その分滲むような蒼が周囲を染め上げる。

綺麗な景観、けれどこの場所は、まるで偽りと嘘を暴くような清廉さすら秘めている。
そう、丁度、が長年―――といっても常人では短い時間であるが、抱いてきた不明瞭なものの輪郭が、暴かれていく今のように。

「……母のように、なりたかったのです」

ぽつりと、彼女は呟いた。
伏丸の、ピンと立った狼の耳が、微かに揺れる。

「勇ましくて、綺麗で、弓の名手であった母。私は母の姿ばかり追いかけておりました」

今も、浮かんでくる。
勇ましく一族の責務をしかと果たした彼女は、床に臥せて命を散らす間際ですら戦いの事を案じていた。
そうしてにも、武器と防具を残して、最期に静かに微笑んで、去った。
母の生き方が、呪われた一族のあるべき姿だと思っていた。

けれど、ずうっと、はそれを教訓として生きて来て、違和感ばかりが残った。正しい道を歩んでいるはずなのに、途方もない違和感だ。誤った道を進んで、気づいていながらまた進んでいき、今度は戻れないところにまで行き着く。
まさに、現在その状態。

……だって、最初にもう、気づいていた。

「……二年も生きられない事、そしてその間に、どれだけの人が死んでいくのか、私は数字でもう知ってしまった」

紐解いた歴史書、それを吸い込んだ幼い頭は、母の一生の教えを捩れさせ覚えた。


――――― 幸せを、貴方の望む未来を、持ちなさい


「……母が、一番最初に教えてくれた言葉。その通りに、出来るはずもなかったんです」

伏丸は、金色の瞳を微かに見開かせた。
儚げな微笑みが歪み、濡れた瞳がしかめられている。

「私は、生きたかった。一族の為ではなく、たった二年の命を自らの為に使いたかった」

恐らく、誰しも通る道。
きっとの抱いた想いなど誰だって経験し、各々乗り越えて戦うのだろう。
だが、そうやって誰しも通る道だからこそ告げられるわけがなかった。
武器など持たず、子どもたちの相手をして、一緒に遊んで、その成長を傍らで見ているような、平凡さが羨ましかった。
そんな事……言えるわけがない。例え自分の望んだ通りでないにしろ、この命は先代、先々代たちの必死に繋がれてきた命。そしてそれを途絶えさせずにまた繋ぐ事が、責務であろう。

「……私は、一族の理念に反した女です。そしてそれを、今の今までも捨てきれなかった女です」

まるで、罰を乞うているようだった。
大罪でも犯したような表情で、じっと何かに耐えている。

……この短い時間で、既に少し分かった。この娘は、恐ろしいまでに情があり、忍耐深い。だから誰かの想いですら自らの使命として変換しているのだろう。
……いや、もはや時が止まった獣には、それすらも生々しく、羨ましいとも思えたが。

これが、この一族なのだろう。
呪いを課せられ、死ぬまで戦わねばならない、掟。

そして何より。
この娘が抱えてきた、秘めた感情。

「……愚かな」

低く呟いた伏丸の声に、は目を見開き、そしてその通りだと自嘲した。
だが、その後に続いたのは、を罰する言葉ではなかった。

「此処は下界とは区切られた場所だ。お前の泣き言など聞く一族の者 なんぞ、誰も居ない」

ピクリ、とは肩を揺らす。
細い肩と頭の天辺に落ちてきた声は、粗暴な言葉に反し酷く穏やかさに満ち心地よい低さで。

「――――― 吐き出したければ吐け、俺が聞いていてやる」

杯の底に残っていた酒を、ぐっと煽る。は見ずに、身体と顔の向きを固定させて正面を見据える。
膝に抱えた酒を、ギュッと抱きしめ、は唇を噛んだ。

――――― この神は、不思議だと思った。
決して愛想は良くないのに、何故か人の心を見据え、そして嗅ぎ取り、開かせる。
……薄れた緊張は、既に親しさへ変わり始め、その親しさはまたものひた隠しにしてきた胸の奥で大きく変化する。
イツ花の言う、一緒に居りゃ情も湧く、という事なのだろうか。
それほど潔くあれば良かったが、いっそ良かった。

だが、間違った道を否定もせず、ただ聞くだけの、かの神のどっしりとした姿は、とても一言じゃあ言い表せないものをに与えてくる。

「わ、わた……ッ」

震えた声が、唇の端から漏れる。そんな情けない声、伏丸に聞かせては失礼だろうと強く奥歯を噛みしめるも……一度溢れると、止まらなくなるもので。
俯いたが啜り泣くまで、時間の問題であった。
最初はぎこちなく、次第に決壊していく涙ぐむ声を、伏丸は隣で聞く。面倒くささも、嫌悪感もない。むしろ不思議と、昂揚すら覚えた。




「――――― ……お恥ずかしいところを、お見せしました」

は懐から紙を取り出すと、涙を拭って、鼻をかむ。
情緒の欠片も無い仕草であると伏丸は思ったが、真っ赤になった頬と瞼は落ち着くまで泣き晴らし、今までよりかは幾らかましな顔つきになっている。俯き加減であるのは、羞恥心だろう。

「構わないと言ったのは俺だ、気にするな」
「う……はい……」

すん、と鼻を鳴らして、ごしごしと目尻を擦る。

「……十六夜伏丸様は、何故私にそう良くして下さるのですか」

何気なくぽつりと、は呟きを落とした。伏丸の大きな広い肩が微かに揺れ、しばし長い沈黙が漂う。

「……さあな、気まぐれだ」

素っ気なく返され、は落胆にも似た感情で「そう、ですか」と漏らす。
が、直ぐ様彼の低い声は「冗談だ」と紡ぎ、を横目に見た。
鈍い金色の、狼の瞳。それが不意に、獲物を狙う獰猛な輝きを宿したように映る。

「……この場所に生きた者が初めて入ってきて、その娘の表情が芳しくないから気がかりだった。それだけだ」
「あ……」

は、声を漏らす。
この神は、やはり容姿以上に不思議な寛容さがある。素っ気なく、欠片も案じる様子など見受けられないのに、声と尻尾はその実分かりやすい。
どうやら自分は、本当に、思っていた以上にこの神より気遣われていたらしい。
トクトクと、心臓の音が逸るのを覚える。戦いの時のような、息が詰まる緊張感ではない。この神域に来て、初めての感覚だ。そして同時に、一族のためという呪言を必死に繋いで空っぽの人形になった己が、隣で杯を持つ獣神に暖かな情を抱いているのは確かである。

家族にも近く、忠誠にも近く、けれど紙一重で異なるもの。

……これを見越して、当主は彼を選んだのだろうか。
もしかしたら別の思惑があったか、はたまた偶然か、どちらでも良いが、今初めて思える。

「……ありがとうございます、十六夜伏丸様」

心よりの、感謝。

泣き晴らした顔に、すっきりとした微笑みが浮かぶ。深々と頭を下げた彼女からは、罪を乞う姿勢を薄れている。

「俺は別に、何もしていない」
「いいえ、お話を聞いて下さるだけで……私がずっと隠したものを肯定して下さるだけで、十分でございます」

それだけで、どれほど……心穏やかになったものか。
赤い頬を緩め、花が香るほどの微笑みは、伏丸の背をむず痒くさせた。

「……ふん、望みとやらは、分かりそうか」

照れ隠しに、やはり無愛想な言葉しか出ない。けれど、すっかり親しみを抱いたには、彼の低い声も素っ気ない言葉も、裏返しの表現のように思えていた。

……望み。

幸せになれと、望む未来を持てと、告げた母。
もしかしたら、この道だからこそ、祈りを抱いて告げたのかもしれない。

( ……私でも、思っていて良いのかしら )

役目と未来を履き違えて進んできた、頭の堅さ。
今さらながら……もう一度、考えてみても許されるだろうか。

そう思って、が、ふと見上げた蒼い空のうっすらとした月。
水色の長い髪が、ふわりと涼しい風に揺れて泳ぐ。

「……少し我を通しても、許されるでしょうか」

空へ放つ、柔らかい言葉。
伏丸は、ふっと笑うように息を吐き出すと、「好きなようにすればいい」と告げた。

時が止まった神には、到底選択の出来る事ではない。
己の思うように変え、望むようにその身を動かし命の限りを生きる、それが人の性質である。
時に恐ろしく、時に生々しく。けれど今は……その性質が、の笑みを深め、穏やかさの中に芯をもたらす。

まこと、人とは恐ろしい。

思いながら、伏丸は笑みを微かに浮かべた。
そう、恐ろしい……時間の感覚が途絶えた己でも分かる。ほんの些細な時を共有しているだけであるのに、この娘の存在が隣に馴染んでしまっているのだから。

しばし、静寂が二人を包んだ。
決して気まずさは無く、その反対で、不思議な心地よさを増長させる静けさであった。

トクリ、トクリ、とやや速まる鼓動を身体の熱の中に感じる。
全ての酒を、伏丸へ献上した後、彼女は姿勢を正した。

「――――― 十六夜伏丸様」

改めた声音が、透き通って響く。
伏丸の隣で、は座り直し、背を伸ばしていた。真っ直ぐに向けられる琥珀色の瞳は、強かさを宿しており、伏丸を捉える。

「……使命ではございますけれども、この時より、まことに勝手ながら私の願いを聞き届けて下さいますでしょうか」

の細い、白い手が、そっと屋根に三つ指をつく。ゆるりと下げた頭に合わせ、水色の髪が流れる。

「……どうか何卒、貴方様との交神の儀……宜しくお願い申しあげます」

ざわ、と伏丸の大きな背が戦慄いた。
顔を上げた彼女の瞳には、確かな覚悟があり。
けれどそれ以上に……泣き晴らした後とは異なる、恥じらった赤が頬を染めていた。

本来この神域に居る理由を、今一度受け入れ、そして乞う健気な姿勢。
それを見て、応えずに突き放す者が、一体何処に居ようか。



2012.08.21