03

「――討伐任務、ですか」
「ええ。外部の監視をする設備点検なども兼ねて、一週間ほど」

 そう告げたグウィンの顔は、平素と変わらない凛々しさが浮かんでいる。
 王都の積雪はそれほどではないが、郊外ともなれば話は別だろう。白い雪が降り積もる道なき平原を、えんやこらと進む騎士たちの姿が浮かんだ。

「そっか、冬でも任務はありますよね。そうすると、何処かに滞在するって事ですか?」
「はい、郊外の施設で寝泊まりしますよ。心身を鍛えるのに丁度良さそうな場所ですね、あそこは」

 うわあ、とは苦笑を浮かべる。過酷な場所だと、暗に言っているようなものだ。

「ですが、今年は快適に過ごせそうですよ。同僚たちは皆、貴女の働く薬局で入浴剤などを購入していましたから。持っていく気なのでしょうね」
「あ、こないだの! すごく体格のいい男の人たちがごっそり買い込んで『これで生き抜ける!』って叫んでたのは、それでしたか!」

 鬼気迫る表情で入浴剤を選別し、一瞬で暖かくなれる飲み物はないか、などと先輩方に詰め寄っていた。あの集団は何だったのかとしばらくの間は話の種であったが、なるほど、グウィンの同僚の騎士たちであったのか。はしきりに頷く。

「お店の商品が人気で良かった。グウィンさんも、気を付けて下さいね」
「……ええ、ありがとうございます」

 鋭いトカゲの瞳が、ゆっくりと細くなる。それが彼の、微笑む仕草だ。


 それから間もなく、グウィンは出発した。黒の腕章の第六師団が任務に出たという話は、ほどなく住民たちの間にも流れた。


◆◇◆


 ――その後の日々としては、穏やかなものだった。

 出発した第六師団に関わる危険な知らせや、事件が起きたなどという噂は、特にの耳に入る事はなかった。王都の町中の風景なども変化はなく、ああ任務は順調なのだなとほっとしていた。

 だが、グウィンの姿がなく、寂しいような気分はあった。
 トカゲの頭を隠すように被った深いフードに、首回りを寒さから守り抜く紺色のマフラー、そして長身な身体をがっちりと覆う黒いコート。明らかに周囲に溶け込んでいない、あの威圧感満載な暗殺者紛いの出で立ちが見れないというのも、少し物足りないように思う。
 何だかんだで、あの姿は日常のものになり、見慣れてしまったのだろう。

 勤め先の先輩たちからは「恋する乙女はすごいな」と褒められてしまった。(褒めてるのと違う、という言葉は全力で通り抜けている)

 今頃、グウィンは大変な思いをしながら仕事をしているだろう。それが彼の職業とはいえ、頭が下がるばかりだ。彼が無事に帰還する事を願いながら、は自らの仕事に励んだ。




 ――グウィンの言っていた一週間の任務期間は、滞りなく平穏に過ぎた。

「嬉しそうね、ちゃん。顔が緩んでるわ」
「はい、嬉しいです、本当に」

 鼻歌を口ずさんでしまうほど、は上機嫌に浮かれていた。
 薬局が開店し朝一番で訪れた客が、「第六師団の人たちが戻ってきたみたいだよ」と言ったのだ。今朝早くに戻ってきた彼らが、ぞろぞろと通りを進む姿を見たという。
 その中には、きっとグウィンも含まれている。
 そう思ったら、頬はだらしなく緩んでしまうというものだ。

 すぐにでも飛んでいってしまいそうだと、薬局の先輩たちはの喜びようを笑う。出来ればそうしたいところだが、それはまだぐっと堪えた。帰還したばかりで疲れているだろうし、後処理などもあるに違いない。もう少し落ち着いてから、グウィンの顔を窺うつもりだ。

「あら可愛い。こんな良い子を恋人にして、相手も鼻高々ね」

 は一瞬息を飲み、どうにか笑みを返した。
 恋人だと、そう思いたいのは、きっと自分の方。
 想いを告げたあの日の、彼の酷く困惑した眼差しは今もはっきりと甦る。そして最近の、何かを言い掛けては言葉にせず飲み込む、あの仕草も――。
 喜びの中に落ちた僅かな影は、胸に巣くう不安と共に、滲むように広がっていった。



 その日の仕事帰り、は再び本屋へと足を運んだ。これといった用事があるわけでないが、何か興味を引くものはないかと本棚を眺める。魔術薬師に関わる魔物図鑑や植物図鑑、まったく関係のない娯楽書籍などを開き立ち読みに耽っていたところ、ふと、離れた位置の本棚に目が止まった。
 移動して見上げると、そこは種族の文化や生態、あるいは異種族カップル向けの恋愛術まとめといった、他と比べればかなり特殊な題名が並んでいた。
 この棚は、そういう人々向けの棚らしい。
 何となくそわそわし、意味もなく周囲を少し見渡してから、は手を伸ばした。

「『有鱗族を知りたいアナタへ、全て教えます』……」

 そして手に取ってしまうのは、やはりそういった種類であった。
 帯には、これでアナタも有鱗族をよく知り上手にお付き合いできるでしょう、なんていうの興味を鷲掴みにする文章が綴られている。

 ち、ちょっとだけ。ちょっとだけ、ペラッと。

 はそっと表紙を開き、ペラペラとページをめくる。有鱗族の特徴などの説明から始まったが、文章だけでなく挿し絵がたくさん使われ、とても分かりやすく頭に入ってくる。だが、次ページをめくった瞬間、は全身を跳ねさせた。


 ――有鱗族の男女の、身体特徴と生殖器官の云々。


 ただ、衝撃が迸った。
 は微動だにせず、そのページを見下ろす。

(女のひとは、卵を……男のひとは、アレが、に、二本……)

 彼らの種族は、蛇やトカゲなどの爬虫類の血を持つ種族。つまり、身体特徴だけでなく、生殖器官にもその特徴が現れる。
 女性の卵出産と、男性の生殖器二本は、インパクトが強すぎて頭の中を駆け巡った。人間と大きく異なる事は知っていたつもりだったが、いやはや、生命の神秘とはかくも摩訶不思議な……。

(という事は、グウィンさんも……)

 に、二度目の衝撃が訪れた。



 は大切に鞄を持ち、本屋を出た。
 結局、あの本は衝動買いしてしまった。
 グウィンに見られたら複雑な顔をされそうなので、彼にはけして言えない秘密になってしまった。しかし有鱗族の事を学ばなければならないので、悪い買い物ではないはずだ。は言い訳のような言葉を並べながら、帰ったらさっそく読まなければと意気込み、自宅を目指した。

 しばらく進むと、飲食店が集まる賑やかな通りへ差し掛かった。いつものように、その一角を過ぎ去ろうとした時――。

「――あ、あの子、もしかして。うおおーい!」

 突然聞こえた、誰かを呼び止める声。
 賑やかな通りにもよく響く大きな男性の声に、は一瞬肩を揺らしながらも、まさか自分ではあるまいと思い歩みは止めなかった。
 だが、その直後、ダカダカと駆け寄ってくる足音が背後から迫り来る。なんだろうかと振り返れば、そこには赤ら顔の体格の良い男性が二人、身を乗り出すように佇んでいた。

「なあ待ってくれ、君はもしかして」
「え、え?」
「ああ、やっぱり! 薬局の女神様だァ!」

 薬局の女神?! 誰が?!
 呆然としていると、彼らは突然お祈りをするように片膝を折ったので、慌てて止めに入る。見るまでもなく酔っていらっしゃるが、しかしその顔は、何処かで見たような気がしてならない。

「貴女のおかげで、過酷な雪中遠征は楽園に変わりました。お礼を言わせて下さい」
「グウィンの奴からあの素敵な入浴剤を教えて貰わなければ、俺達はまた、気合いで凍死と戦う羽目になっていたァ!」

 ……あ、思い出した! グウィンさんが出発する前に入浴剤をごっそり買い込んでいった人たちだ!
 という事は、彼らは……。

「黒の腕章の……」
「対魔物戦特化、第六師団の者です」

 制服着てないんで、分からないですよね。赤ら顔でおどけながら、彼らは上機嫌に笑った。
 グウィンと同じ所属の人たちだ。
 それが分かった途端、急に親近感がこみ上げる。

「遠征任務お疲れさまでした。今日は、確か戻ってこられたばかりだと」
「ええ。それで、今日は非番なんです。こういう長期任務の後は大体休みが貰えるので」
「ここでェ、気心知れた奴とォ、飲んでいたんす! 女神!」
「すみません、こいつもう酔っぱらってて。害はないんで無視してて下さい」

 愉快なやりとりに、は小さく笑みをこぼす。
 しかし、非番という事は、グウィンも今頃は休んでいるのだろう。ゆっくり休んで遠征の疲れが取れれば良いのだが、と呟くと。

「いえ、グウィンは店に居ますよ」
「え?!」
「あの見た目で、めちゃくちゃ付き合いが良い……」
「女神もォ! 良ければ来て下さい!」

 話の途中、横からぐいっと入ってきた彼は、の腕を急に取って歩き始めた。

「いや、あの、せっかくのお休みの時に私が入ったら、皆さんに迷惑……」
「薬局の女神に、感謝の御酒をー!」

 だから女神ではないと言っているのに。

「すみません、こいつ後でぶん殴っておきますから。でも、せっかくなのでどうぞ。確かグウィンと、仲が良いんですよね。見ていって下さいよ、誰も気にしないですから!」

 彼らは笑いながらを導くと、非番の者たちが集まっているという酒場の扉をくぐった。
 踏み入れた途端、外の寒さを吹き飛ばす暖かな空気と陽気な笑い声が、を包み込んだ。溢れるような活気に、つい気圧されてしまいそうになる。
 すると、を引っ張り込んだ彼らが、高らかに宣言した。

「うおォォお前らー! 薬局の女神が降臨したぞォー!」

 ――水を打ったように、しんと空気が沈黙した。

 勢いよく一斉に集まった視線は全てへと注がれ、早くも後悔の念が押し寄せる。内心で引きつった絶叫を上げていると、テーブルの一角から、ぶほ、と咽せる音が聞こえた。

「……? 何故ここに」

 ごほごほと咳込みながら、長身な有鱗族の男性――グウィンが立ち上がった。屋内だからか、さすがにあの暗殺者スタイルではなく、凛々しいトカゲの頭が明かりの下に現れている。
 一週間ほど前と変わらないグウィンの姿にほっとしたが、少しの申し訳なさも感じた。せっかく任務が終わり仲間たちと飲んでいるというのに、自分が居ては楽ではないだろう。

「あ、あの、グウィンさん、すみませ――」

 の言葉は、全て紡がれる事はなかった。
 沈黙から一転、弾け飛ぶようにわっと上がった歓声が、空気を飲み込んだのだ。
 様々なテーブルから上がる野太い喝采に、は目を白黒させる。

「地獄を天国に変えてくれた、あの入浴剤の方!」
「俺、薬局舐めてましたァ! すんません!」
「おかげで生きて戻ってこれましたァ! 入浴剤様々、いや、女神様々です!」
「わ、わ、わ」

 どっと押し寄せる彼らの勢いに、はたじろぐ。
 すると、目の前に大きな背が佇んだ。腰の辺りから伸びる鱗に覆われた長い尾が、ゆらゆらと揺れ、の足下をなぞる。

「皆さん、普段の調子で一斉に近づかないで下さい。困惑するでしょうに」
「悪い悪い、ついな!」

 笑いながら、彼らは退いてくれた。しかし、その視線は間に立つグウィンではなく、それを通り越してに注がれている。

「男所帯だとこんなもんでよ、すまないなお嬢ちゃん」
「い、いえ、突然、入ってしまって」
「どうせそこの二人に無理矢理連れ込まれたのでしょう、謝らないで下さい」

 グウィンの背中に張り付きながら、は顔を上げる。
 怒っていない、とは思うが、笑っているのかどうかも分からない。
 しゅんと項垂れ、周囲の団員たちへ視線を戻す。何故か彼らは一様に、にやにやと意地の悪そうな笑みを浮かべ、グウィンを見ていた。

「ほおー、グウィンがそんな風にするとはなあ……こりゃあいいもん見せてもらった。なあお嬢ちゃん、せっかくだ、何か飲んでいかないか。お兄さんたち奢っちまうよ」
「え、ですが」
「女神ィ! 頼む、お礼を……ブフゥッ!!」

 仲間にぶん殴られ、真横へ吹っ飛ぶ男性――先ほどを酒場へ引き込んだ人物――の姿が前方で見えた。派手な音がしたが、大丈夫だろうか。

「あれは放っておいて構いません。それより、何か温まるものを頼んで良いですよ」
「で、ですが、皆さんの集まりなのに」
「頼まないと、酒が出てきますよ。こういう連中ですから」
「あったかいカフェオレ下さぁーい!」

 はグウィンの背中から飛び出し言った。思わず勢いよく言ってしまったが、誰もが陽気に笑って頷いたので、少しほっとする。

「あ、あの、グウィンさん、私――」
「女神、良かったらこちらへ。少しお掛けになって休んで下さい」

 の声は、またも遮られる。さあさあ、と近くのテーブルへ勧める騎士たちに背を押されながら、は背面を振り返る。
 グウィンは、小さく頷いていた。手を振るように、長いしなやかな尾を揺らして。

 ――どうして。

 そんな一言が、の中に浮かんだ。ただ、お疲れ様ですと、言いたいだけだ。一週間の任務を労いたいのに、どうして、そんなに距離を取って離れてしまうのだろう。

「カフェオレきましたよ。どうぞ、熱いので気を付けて」
「あ、ありがとうございます」

 の周囲には、屈強な男たちが互いに肩をぶつけ合いながら集まった。
 私服を着ているが、彼らは皆、騎士という立場にある人ばかりだ。こんな風に囲まれる事は過去にあるはずもなく、所在なさげに視線をさまよわせる。
 しかし、陽気な人ばかりで、ぽっと入ってしまった(正しくは連れ込まれた)を追い出すでもなく、カフェオレをご馳走し、さらには入浴剤の礼を口にする。その朗らかさに、の緊張はすぐに解けた。

「薬局って、入浴剤なんてものも扱ってるんだな。知らなかったよ」
「あのお店のオーナーは、薬師の資格だけではなく、魔道具製作の資格も持っているんです。意外かもしれないですが、うちで扱ってる入浴用品には薬の知識が応用されてるんですよ。効能の上手な引き出し方とか」
「へえ。何で今まであのお店の事を知らなかったんだろう」
「近くに住んでる方々は昔から知ってるんです。ただ、昔からあったという事で、今さら広告を出してない感じでしょうか」
「俺、薬局舐めてたわァー!」

 自分が直接作ったわけではないが、こんな風に良い反応を貰えると、携わる者として誇らしく思う。
 は自然と微笑んでいた。見た目は厳ついが、なかなか気持ちのいい人ばかり。今後も是非、薬局を贔屓してくれると嬉しい。



「――なあ、ところで」

 不意に、一人が改まり、へ尋ねた。

「もしかしてさんは、グウィンと好い仲にあったりするのかな」
「え……」
「第六師団じゃあ、話の種だったんだ。グウィンに女の気配がするって」
「大真面目の堅物野郎にな、まさかなって思ったよ俺ら」
「でも全然、そういうの話してくれないからなー」

 ――楽しい気分から、暗転する。
 突然、がつんと頭を殴られたようだった。
 は大きく瞠目し、無意識のうちにカップを強く握り締める。

「あまり、そんな風に尋ねるのは」
「んだよー。お前がちっとも言ってくれないから、俺たちは勝手に予想するしかないんだろう」
「それともなんだ、本当に居るのか。有鱗族のお前と付き合うっていう剛胆な女性が!」

 近づいてきた気配が、の背面に立つのを感じる。頭上で言葉が飛び交ったが、は視線を上げる事が出来ず、ぼんやりとカップを見下ろしていた。

 グウィンはもしかして、仲間たちへ、少しも明かしていないのだろうか。
 自分と付き合っている事を――いや、それはおこがましい言い分だが、と過ごしている事すら、誰にも言っていないのだろうか。

 すう、との頭の片隅が冷えてゆく。
 そうか、そうだろうな。誰にも言えなくて、当然ではないか。声に出せないような始まり方を強いたのは――他ならぬ、自分なのだから。

 陽気な空気が満ちる中、だけが表情を強ばらせ、視線をさまよわせた。

「ほらほら、不躾に聞いたら嫌われますよ、おじさん方。すみませんね、非番だと騎士も何もなくて」

 黙りこくってしまったに代わり、誰かが柔らかな声で場を取りなす。はようやく意識をこの場に戻すと、無理矢理に笑顔を張り付け、顔を上げた。

「……いいえ、大丈夫です。グウィンさんと“そんな風”に見られるなんて、光栄で、つい嬉しくて」

 背後から注ぐグウィンの視線が、困惑を帯びた。それを感じ取りながらも、は強くカップを握り、言葉を止める事なく続ける。

「グウィンさん、素敵な人ですよね。本当に、優しくて……」

 だからきっと、言えなかったのだ。
 あつかましくも願い出たお付き合いが、本当は嫌だった事も、もしかしたら邪魔だった事も――。

 こみ上げてくるものを、必死になって胸の中に押しとどめる。せめてこの楽しい空間を壊さないようにと、被せた笑顔は懸命に保った。
 はカフェオレを早めに飲み干すと、ごちそうさまでしたと礼を言い、素早く立ち上がる。

「人が多いうちに帰らないと。カフェオレ、ご馳走になりました」
「あ、おう、そうかい? 送っていこうか」
「いえ! ここからそんなに離れていないので、大丈夫です。またお店へいらして下さいね!」

 そこでようやく、は後ろへ振り返った。
 頭二つ分、いや三つ分ほど飛び抜けた長身のグウィンが、の正面に佇んでいる。
 凛々しいトカゲの頭からは、爬虫類特融の感情の読みにくい静かな眼差しが、真っ直ぐと注がれた。しかしそれを見つめ返すのは、今のには困難な事であった。

「グウィンさん、突然お邪魔してしまって、すみませんでした」

「ご馳走様です、ありがとうございました」

 それと――ごめんなさい。
 今まで、迷惑をかけてしまいました。

 見上げた先で、グウィンの瞳が見開く。
 張り付けた笑みが崩れそうになり、は顔を下げ、彼の脇をすり抜けた。

!」

 普段は静かで理知的なグウィンの声が、珍しく乱れ、慌ただしさを滲ませた。
 しかし、は呼びかけに振り返らず、酒場を飛び出し、賑やかな通りを一気に走り抜けた。すれ違う人に何度もぶつかり、謝罪を口にしながらもその足は止めない。
 一刻も早く、ここから離れなければ。
 そんな焦燥感が、の脳を支配していた。



 もう少しで、自宅にしているアパートメントハウスへ辿り着く。は白い吐息を何度も吐き出し、足を動かし続け――凍っていた地面に、踵を滑らせた。
 勢いよく転倒し、全身に痛みが走る。人の往来はなく誰も周囲には居なかったが、覆い被さった沈黙がまるで嗤っているようだった。馬鹿な女だ、愚かな女だ、と。
 自身のどうしようもなさに、座り込んだまま笑い声がこぼれた。


 ――、気をつけて。あの日のように、転ばないよう


 鱗に包まれた大きな手が差し出される幻想が、目の前に浮かぶ。けれど、あの気遣いも、もしかしたら本意ではなかったのかもしれない。そう思ったら、急に恥ずかしくて、恐ろしくなった。

 人間と有鱗族という組み合わせを、色眼鏡で見られても平気だった。
 何故、どうしてと、口々に尋ねてくる人々に信じて貰えなくとも、平気だった。
 それは、本当だ。自身がどう言われようと、本当に何の問題もなかった。

 けれど、グウィンはどうだったかなんて、考えていなかった。有鱗族の彼の隣に人間の小娘なんかが立ち、彼はどう見られていたのか。また、どう思われていたのか。
 そしてそれを、彼がどう思っていたのか。
 この時まで、考えた事もなかった。

 グウィンは、本当はどう思っていたのだろう。あの時、好きだと告げた自分の事を。友人の延長線で良いからなどと、馬鹿な言い分で縋った、こんな小娘の事を。

 ――ほら、彼の心を、何一つ知らない。

(……馬鹿だなあ、私。浮かれすぎてたんだ)

 考えたくなかっただけ、なのかもしれない。

 最初から、知っていた事ではないか。自分が彼に誇れるのは、精々、薬師の知識くらいなもの。とてもじゃないが釣り合わない事くらい、出会ったあの瞬間から、既に分かり切っていた事だ。

 へたりこんだ冷たい地面に、ぽつぽつと雫が落ちる。

 本当、私は馬鹿だ。それでも――。

「迷惑かけて……ごめんなさい、グウィンさん」

 それでも、本当に、嘘なんかじゃなかった――。



2017.02.14