04
あんなに考え、何度も自らに言い聞かせ、勇んでやって来たのに。口から出たのは、たった一言だけだった。
「――好き、です」
心臓を吐き出してしまいそうになって。
顔が焦げてしまいそうになって。
すうっと気絶してしまいそうになって。
その一言を告げるだけで、精一杯だった。本人を前にすると、そう上手くはいかない事も痛感した。
あんなに緊張したのも、恥ずかしさを我慢したのも、これまでの人生になかった。そして、これから先も、きっとないだろう。
黙り込んで肩を小さくするの正面で、グウィンは酷く当惑していた。相手が自分よりも小さな人間だからか、それとも、年下の小娘だからか。何にせよ、彼からしてみれば到底信じられるものではなかったはずだ。しばらくの間、口を噤み、返答に困り果てたのも、当然だろう。
想いを告げただけで、満足しているべきだった。けれど、そこで欲が出てしまい、友人の延長線で良いから、お試し期間で良いからなどと、みっともなく縋ってしまった。今思えば、本当に馬鹿な事をした。
結果としてそれは、優しいグウィンを困らせ、迷惑までかけてしまった。
好きだと告げた言葉の信用は得られなかったが――温かくて楽しい時間を、あのひとの隣で過ごせた。
欲張って浮かれていた自分には、じゅうぶん過ぎる夢のような日々だったのだ。
――と、殊勝に思ってはみても、つらいものはつらい。
鬱屈とした気分のまま迎えた翌日、はどうにか薬局へ出勤したが、普段通りに過ごすのはさすがに無理だった。
全身に滲み出るものがあったらしく午前丸々と包装作業や事務処理などの裏方仕事を言いつけられた。そんな顔で接客は駄目だろうと、先輩方から賜った言葉は、久しぶりに耳に痛い。
ただ、何も考えず黙々と行う作業のおかげで、少し落ち着きは取り戻せた。
結局、申し訳ない事しちゃったなあ……。
たくさんの仲間が集まっていたのに、あの後、グウィンは気まずい思いはしなかっただろうか。が心配したのは、自分の事ではなく、やはり彼の事だった。
「――それで? 何があったのかしら」
「え……」
「昨日はあんなに浮かれてたのに、今日はこれだもの。そりゃあ分かりやすいわよ」
苦笑を浮かべたのは、薬局で唯一、の想い人が有鱗族だと知っていた女性だった。そして、の想いを疑らなかった、唯一の人でもある。
彼女に同意を示すように、昼食をとる他の面々も、頷いたり笑みをこぼしたりとしている。
「何かあったんでしょ。ほらほら、お姉さんたちに言ってごらんなさい」
あえておどけてみせる彼女たちの気遣いに、の胸は温かくなる。
何処から切り出せば良いか分からなかったので、最初から、ぽつぽつと話し始めた。
想いを告げたのも、お付き合いを申し出たのも、全ての方からだったと。酷く当惑したグウィンへ友人の延長線で構わないからと縋り、現在の関係があると。
そんな経緯があったから周囲へ進んで明かす事は出来なかったが、昨日、グウィンの方も自分の事を誰にも言っていない事を知ったと――。
途中、何度か自己嫌悪に潰れてしまいそうになったものの、はどうにか話し終えた。
「そっか、いつもその話になると様子が変わるのは、それのせいだったのね」
「みっともなかったのは、今も反省してます……」
「うーん、そうね。相手の事を考えなかったのもそうだけど、ちょっと自分を安売りしすぎだったわね」
の頭上に、ドスッと言葉の重石が振る。
改めて考えると、みっともない事しかしていない!
は顔を覆うと、頭を下げて俯く。恥ずかしさのあまり、このまま川の底に沈んでしまいたいと思った。
「……自分ばっかり楽しんで、喜んでました。独りよがりも良いところです……」
近頃のグウィンが、何かを言い掛けては飲み込んでしまう仕草も、それが原因なのだろう。
どうしたら良いでしょう、と思わず呟く。すると、左右両側から温かい手が伸び、よしよしとの下がった頭を撫でた。
「……人間同士でも、すれ違いなんてたくさんあるじゃない?」
ましてそれが、人間と有鱗族という、明らかな異種族同士ともなれば、些細な事でも大きく立ち塞がる事になるはずだ。いくら今の世の中が、異なる種族の男女が結びつくのは不思議でなくとも、問題がまったくない事くらい知っていたはずだろう。
それを承知で、想いを向けたのではなかったのか。
問いかけられた正論に、は、何も言い返せなかった。
「……それにね、これは異種族同士だからとかじゃなくて、もっと初歩の問題のような気がする。その事に、貴女はちゃんと気付いた」
は、そっと顔を上げた。覆っていた手のひらを退けると、優しい笑顔が広がった。
「大丈夫、気付いたのならめっけものよ。今度はどうすれば良いか、もう分かるものね」
そうやって考えてるって事は、ちっとも気持ちは変わってないんでしょう?
悪戯っぽく微笑んだ仕草は、年を重ねた素敵な包容力に満ち溢れていた。
今度は、どうすれば良いか。
は強ばった唇を緩め、泣き笑いのような表情をこぼす。それがの答えでもあった。
「……それにしても、ちゃんて普段は物静かで大人しい雰囲気なのに、いざって時の思い切りが良いわよね」
「大したもんだと思うよ、本当に」
それについては、自身も驚いている。一体どこからあんな勇気が出てきたのかと疑問に思うが、それくらい、グウィンは素敵な人柄だったのだ。彼が有鱗族という葛藤は、漏れなく吹き飛んでゆくほどに。
「……でも、ちゃんからそう言ったとはいえ、こんな良い子をいつまでもお試し扱いなんて、物申したいわねえ」
穏和に微笑んでいた先輩の面持ちが、不意に歪んだ。
「いくらなんでも、なあなあとしすぎじゃない? こういう時は獣人族の分かりやすさと暑苦しさに軍配が上がるわ。私だったらとっとと周りに自慢してるのに」
「俺もきっと、浮かれまくって自慢してます」
「そうよねえ、やっぱりちゃんはそんなに悪くないわ」
だんたんと、不穏な空気が漂い始める。はそれを慌てて宥めると、彼らへしっかりと宣言した。
「今度は、大丈夫です。私、きちんとお話しますから」
この半年、夢のような素敵な時間を過ごさせてもらった。だから今度は、グウィンの本心と、きちんと向き合わなくては。
それが、自分が一番、恐れている事を告げられたとしても――。
は改めて意気込み、昼食を平らげ、午後の仕事に臨んだ。
……先輩たちがこっそりと何かを話し込んでいた事には、まったく気付かずに――。
◆◇◆
「ちゃん、この封筒を五番街にある薬局に届けてくれるかしら」
「はい!」
「うわァァァ包装作業、間に合わねえェェェ!」
「残業お付き合いしますよー!」
「薬を届ける人達が多いなあ、ちょっと手伝ってもらえるかな」
「おともいたしますー!」
……一体、これはどうしたものか。
この頃、突然、外出系統の仕事が増えたかと思えば、作業場や事務室にこもっての作業が続いたりしている。
おかげではこないだから、ものすごく外を歩き回っているか、ものすごく中で事務作業をしているかの、極端な日々を過ごしていた。
先輩方に尋ねてみても「季節の変わり目のせいかなあ」とゆるゆるな答えが返ってくる。はあ、そうですか、としかも言えず、不満はないものの少々不思議だった。
ただ、その極端な仕事のせいか、肝心のグウィンと話す機会をなかなか掴めないでいた。
きちんと話をしなくてはならない不安と使命感と焦燥感で、胸に広がるものがしさは複雑に増す一方だった。
その事を気にしながらも、は薬局の鞄を肩に下げて薬の配達へ向かう。こういう時に会えたら良いが、そう願う時に限って、残念ながら上手くは進まない。
(会いたいなあ。会って、きちんとお話したいなあ)
今日もの頭の中には、暗殺者と見紛う出で立ちの、紳士なトカゲの騎士でいっぱいだった。
「じゃあ、私はこれで失礼しますね」
「ありがとうございました。ほら、薬師のお姉ちゃんにお礼」
「あいがと、おねえちゃ」
幼い少女は恥ずかしそうに笑い、小さな手を振った。舌足らずな言葉遣いがとても可愛らしく、ふわりと心が和む。ばいばい、とも笑顔で手を振り、その家を後にした。
外はよく晴れていたが、小さな雪はふわふわと降り、冷たい風が横切った。
はぶるりと肩を震わし、コートとマフラーを整えると、一度薬局の鞄を開く。中には何も入っておらず、配達のし忘れもない。今の家が最後だ。意外と早く終わった事にほっと安堵し、薬局を目指した。
建物の外観が見え始め、もうじき到着するという時、はふと足を止めた。
薬局の入り口に、長身な人影が佇んでいた。
もしかして、という仄かな期待がの中に浮かび、心臓が僅かに跳ねる。窺うようにゆっくりと歩を進め、建物へ近付く。
「……そう、ですか。今日も。ええ、どうか、お願いします」
聞こえてきたのは、耳に心地好い、あの素敵な低音だった。けれど、そこには普段ない、深い落胆の響きが滲んでいた。
は立ち止まり、首を傾げる。すると、薬局の入り口に佇んだ身体が、唐突にへと向いた。
何の前触れもなく視線がぶつかり、びくりと肩が飛び跳ねる。しかし、驚いたのは彼も同じだったのだろう。全身黒ずくめの長身な身体は動きを止め、尻尾の先まで硬直したのだから。
「……」
陽の下にあってもなお威圧感満載な、暗殺者のごときその出で立ち。心の何処かでは、ぱっと喜びを咲かせていたのに。
――声を掛けられると同時に、は踵を返していた。
「!」
ほとんど無意識の行動だった。走り出した足は、通ってきた道を逆走し、薬局からぐんぐんと離れる。
何故、自分は逃げ出しているのか。ついこないだ、向き合おうと、きちんと話をしようと、決意したばかりなのに。
は自嘲し、肩越しにそっと背後を見た――その瞬間、ぎょっと両目を見開かせる。
視界へ飛び込んだのは、猛スピードで駆け寄ってくる、黒ずくめの暗殺者の姿だった。
(こ、こ、こわァァァ!!)
普段は親しみを込め心の中でそう呼んでいたが、今は冗談ではなく、そうとしか見ない。少なくとも、あの姿から誰も騎士とは考えないだろう。
迫り来る迫力には底知れぬ凄みが滲み、余計に立ち止まるという選択肢が削られる。思わずも本気になって、魔物から逃げ続けた健脚で駆け抜けていた。
しかし、さすがは身体能力が抜群な獣人族に並ぶ、有鱗族といおうか。長身な背丈からは想像もつかないほど、グウィンの身のこなしは素早く、また擦れ違う人などとぶつかる事は全くない。隙間を縫うような的確さで、との距離を確実に詰めてきていた。
火事場の瞬発力を誇るの足も、すぐに根を上げ始め、呼吸を乱す。建物の間の細い路地へ飛び込んだ時、ついにグウィンの大きな手がの手を掴んだ。
しかしの走っていた勢いが良すぎたあまり、反動で豪快にひっくり返った。
スッテーン、と見事な姿勢で背中から倒れたへ、グウィンが慌てて膝をついた。
「すみません、。何処か怪我は、大丈夫ですか」
「いつつ……ッいえ、平気です」
薬局の鞄が下敷きになってくれたおかげで、腰や背中は守られた。
が起きあがろうとすると、それよりも早く、グウィンの腕が倒れた背中へと回る。冷たい地面から引き起こされ、礼を言おうと顔を向けると――そのまま、グウィンの両腕に抱きすくめられた。
は大きく瞠目し、膝立ちの格好で動きを止める。
グウィンの両腕は、掻き毟るような強さでの身体を抱きしめる。トカゲの頭を下げ、大きな背を屈め、まるでその全身をもって閉じこめるようだった。
「グ、グウィンさ……」
手を繋ぐ程度の、清い間柄だった。抱きしめられたのは、これが正しく初めてだった。
「――逃げないで下さい」
グウィンの手が、の背中を押さえる。
「お願いします、どうか。もう、逃げないで下さい」
吐息の混じった低い声が、の耳を撫ぜる。
恥ずかしいのか、苦しいのか、よく分からなくなってきた。
は目の前に広がる彼の胸に両手を押し当て、小さく呻き声をこぼす。そうすると、グウィンは大袈裟なほどにハッと息を吐き出し、距離を取った。締め上げるような強さは無くなったが、の背に回った腕だけは、けして剥がれなかった。
「わ、私、に、逃げません……」
「先ほどは、ずいぶんと本気で走っていたようですが」
予想以上に速くて驚きましたよ、とグウィンは呟いた。
は声を詰まらせる。暗殺者の格好であんな風に迫られたら、止まるに止まれないだろう。しかしそんな風にも言えず、もごもごと声を濁せば、グウィンは小さく溜め息をついた。
「……いえ、いいんです。貴女を責めるわけではない」
グウィンはおもむろに、被っていたフードを引き下ろす。の前に現れたトカゲの顔は、今日もとても凛々しい造形だったが、そこに憔悴しきった影が見えた。心なしか、棘状の鱗にも艶がないように感じる。
こんなグウィンは、初めて見た。いつになく弱々しい双眸を見上げ、は困惑する。
「逃げられてしまっても、仕方ない。私はそれだけの非礼を貴女へした」
「非礼だなんて、そんな」
しかし、グウィンは頭(かぶり)を振った。
「あの日の、酒場で見せた貴女の表情が忘れられない。よほどの事をしたのでしょう、私は。実際、店へ何度か行きましたが、貴女には会わせてもらえなかった」
「え?」
グウィンは、何度も店へ訪れていたようだ。だが、そんな事は初めて聞いた。
「私、怒ってません。むしろ、グウィンさんに早く会わなきゃって……」
「え? いや、しかし、店の従業員たちからは、そのような事……」
店に行くたび、にべも無く追い払われた。避けられているとばかり思っていた。
困惑と共に明かしたグウィンの言葉を聞き、はすぐに理解した。
(せ、先輩方ー!)
あの訳の分からない極端な仕事の配分は、彼らの仕業であったのだと、ようやく気付いた。
こういう時は獣人族に軍配が上がるわ――数日前のあの怒りは、どうやら消えていなかったらしい。
いや、自分よりもずっと年上な彼らだ。を落ち着かせるため、あえてそう行動したのかもしれない。考えてくれての事だったのだろう、と思ってみたが……恐らくは怒りだろうな、と納得した。
でも、グウィンさんが来た事くらい、教えてくれてもいいのに。
眉を寄せるを見下ろし、グウィンは苦笑をこぼす。
「を想っての事でしょうね。彼らの顔を見れば分かる。ですが……良かった」
不意に、鱗に覆われた長い指が、の目尻を掠めた。鱗と爪の硬い感触は、冷たさよりもむず痒さを与えてきた。
「貴女はまだ、私に笑ってくれる――」
心の底から安堵したような声と共に、トカゲの頭がへと寄り添う。
常に温和で、粗暴さの欠片もない物腰の彼が、ここまで悄然とする事はかつてなかった。
グウィンはおもむろに立ち上がると、抱きかかえたを立たせ、顔を覗き込む。
「……今日、店へ迎えに上がります。待っていてくれませんか」
言葉こそは丁寧だが、その声にはどうか逃げてくれるなという懇願と念押しが強く含まれていた。を見下ろす瞳も鋭く、余所見する事を拒むようだ。
蛇に睨まれた蛙の気持ちが、少し、分かった気がする。
は首振り人形のごとく、こくこくとしきりに頷く。グウィンはほっと息を吐き出すと、もう一度を抱き寄せ。
「――これを望んでいたのは私だったのに、いざ訪れてみれば、やはり耐えられなくなっていた……」
すみませんと謝罪を口にし、項垂れて自嘲する理由は、見当も付かなかった。はグウィンの弱々しい腕の中へ収まり、じっと静かに佇む。
初めて抱きしめられたのに、喜びよりも困惑の方が大きかった。
2017.02.14