05

 短い日暮れを迎えた空は、あっという間に夜の色へ染まってゆく。
 それを店の中から眺めるは、静かに、彼がやって来るのを待っていた。
 普段は陽気な先輩たちも、何故か背後で息を詰めて待機している。

 帰路につく人々の姿を、窓越しに見つめている事しばし。は待ち人の姿を見つけ、ぱっと入り口へ向かう。
 店の扉を開けると、グウィンが静かに踏み入れた。暗殺者と見紛う物々しさは、清楚な薬局とは究極的に似合わなかった。それを少し可笑しく思うくらいには、も普段の調子を取り戻していた。

「えっと、あの、それじゃあ私はこれで。本当に、すみません」
「良いのよ。私達も、ちょっと火がついて余計な事しちゃったしね。お詫びって事で」

 ちゃんとお話するのよ、と笑う薬局の先輩たちは、やはり良い人ばかりである。
 極端な仕事配分による阻害工作については苦言を申し上げたが、その理由は、ばかりが落ち込むのは可哀相だという、彼らなりの想いによるものであった。そして今も、閉店後の後片付けなどの分も買って出て、早々とした帰宅の準備を許してくれている。
 本当に、優しくて、良い人たちばかりだ。

「もっかい泣かせたら、ただじゃ済まないからな」
「今度は薬師の意地にかけて阻むからな」

 ――商品の陳列棚の陰に隠れ、顔だけ出した格好であったとしても。

 先輩、それじゃあ小物感が出てます。あとグウィンさんに怯えてるように見えてよろしくないです!
 は口を開きかけたけれど、グウィンはそれを制し、フードを外し彼らへと近付いた。

「私はそれだけ情けない事をした、あなた方の言い分も当然でしょう。ですから……今、感謝しています」

 グウィンは自らの胸へ手のひらを添えると、大きな背を折り、礼をした。

「二度と傷つけるような事はしないと、あなた方にも誓います。今日は、どうかを私に預けて下さい」

 その落ち着きを払った優雅な動作に、否と唱える者は居ない。それどころか――見惚れてさえいる。見た目によらない洗練された動きに、どうやら射抜かれてしまったらしい。




「――優しい方ばかりですね。皆、貴女の事を思っている」

 美しい街灯で照らされる目映い通りを、歩幅を合わせて進む。少しの緊張を抱きながら、は頷いた。

「私も、そう思います。本当に」

 たまに羽目を外すお茶目な部分も併せ持つが、それも含め、朗らかで優しい、素敵な人々だ。彼らと共に働く事が出来て光栄だと思っている。

「もちろん、グウィンさんの事も」

 微笑むへ、グウィンの眼差しが下りる。

「それは嬉しい事です。が……私は、それほど立派ではない」

 グウィンはおもむろにフードを外した。冷たい外気に晒されたトカゲの頭部が、明かりに照らされる。

「薬局へ行った時に言われましたよ。なあなあにしないではっきり示せ、あの子の想いを知らないのか、と」

 あぁぁあぁ先輩たちー!
 は内心で叫んだけれど、グウィンは首を振り、正論そのものだと言った。

「……酒場で、泣きそうな表情をしたでしょう」
「あ、その……」
「……私は、それを望んでいたりもしたんですよ」

 は弾けたように、バッと顔を上げた。信じられない思いで大きく瞠目し、トカゲの頭を見上げる。目映い明かりを受ける彼の顔に、はっきりとした変化はない。ただ静かに、を見下ろしている。

、逃げないで下さい」

 鱗に覆われたグウィンの手が、の小さな手を握りしめた。
 いつの間にか、歩みが遅くなってしまったらしい。

 ……大丈夫、きちんと話するって、決めたんだから。

 は頭を振り、再びグウィンの隣へと並ぶ。真っ直ぐと、彼の鋭い目を見つめ返した。

「……私も、グウィンさんとお話したい事があるんです」

 爬虫類の瞳が、一瞬、揺れ動く。爪の生えた指が、の指をぎゅっと握る。
 不安、なのだろうか。
 人間の小娘よりも、ずっと逞しく頑強そうな手なのに。縋るような仕草に、は僅かに安心した。緊張して不安に満ちているのは自分だけではなく、あのグウィンもそうなのだ、と。

「何処かで、ゆっくり話しませんか。夕ご飯とか食べながら」

 がそう提案すると、グウィンは少し考え込む。

「……そうですね、なら、こうしませんか」

 そう前置きして告げたグウィンの言葉に、は目を丸くした。




 賑やかな通りを離れ、閑静とした住宅街を進む。
 やって来たその区画は、身体が大きな獣人や有鱗族たち向けの住宅が集まる場所だった。
 どの建物も、外観は王都の美しい建築様式だが、しかしその大きさはよく知る建物の1.5倍くらいはある。遠近感などが急に狂ってしまったような、あるいは巨人の町へ迷い込んだような、奇妙な違和感をは抱く。

「ちょうど騎士団の建物にも近い場所で、ここに家を借りています。宿舎もあったんですが……あまりにも合わなかったので、早々にここへ。ああ、あれです」

 鋭い爪が指し示した先には、四つほど扉の並んだアパートメントハウスが佇んでいる。しかし1.5倍くらいあるので、もっと別の豪奢な洋館に見えてきた。
 グウィンは長い尾を揺らし、スタスタと先を行く。その後ろに続くは、ふわふわとした足取りだった。

 立ち止まったグウィンの前には、彼の身長よりも少し大きな扉がある。つまりからすれば、目一杯見上げるほどのものすごく大きい扉だ。それがゆっくりと開かれる。グウィンは身体をずらし、どうぞ、と促してくる。は小さく会釈し、踏み入れた。

「お、お邪魔いたします」

 コツリ、と一歩進めた踵の音が、不思議と大きく響く。

 ゆっくり話がしたいので、私の家に来ませんか――そう告げたグウィンに導かれやって来たのは、彼が普段暮らす住居。
 そこにが訪れるのは、もちろん、これが初めての事だった。




 明かりを着けた部屋は冷え切っており、真っ先にグウィンは暖房器具の準備をする。発熱する魔道具はも持っているが、グウィンの持つそれはかなり高性能らしく、使用した瞬間からふわっと暖かい空気が広がった。
 さすがは寒さの苦手な有鱗族、防寒対策は人一倍らしい。

「すごい、もう暖かいですね。これけっこう良いお値段するやつじゃないですか?」
「ええ。三、四ヶ月分の給料をつぎ込みました。かなり思い切った事をしましたが……おかげで冬は快適です」

 騎士団に入団したその年の冬に購入したものらしい。よほど寒さが辛かったのだろうなと、は苦笑いをこぼした。

 グウィンは立ち上がり、ぴっちりと着込んだ黒いコートを脱ぐ。のコートなども受け取ると、丁寧にコート掛けへ下げ、それから湯の準備を始めた。
 手伝える事はないかと思ったが、家主から気にしないで座っていて下さいと言われたので、ちょこんとソファーに腰掛ける。

(なんだか、ちょっと楽しそう……?)

 心なしか普段よりも、物静かな背中が弾み、しなやかな長い尾がぶんぶんと揺れているような気がする。

 カチャカチャと響く音を聞きながら、は部屋を見渡した。
 壁は清楚に白く、床板は綺麗な木目が伺える深いダークブラウン。小綺麗な内装で、整えられた印象を受ける。しかし、それよりもまず真っ先に思うのは、全体的な大きさだった。全て背丈のある異種族向けに合わせているようなので、単純な部屋の広さや天井の高さもさる事ながら、家具や設備など、どれも人間のサイズではない。
 グウィンと同じ背格好の人物が、もう一人、二人居ても平気なのではないだろうか。
 そんな風に思えるほど、広々とした間取りだった。が一人増えたところで、まったく窮屈さはない。

 自らが小さくなってしまったような感覚に笑っていると、グウィンがトレーを持ってやって来た。の隣へ腰を下ろし、二人掛けのソファーを軋ませる。
 温かい湯気を上げるカップが差し出され、は両手で受け取る。やっぱりそれもの手には大きかった。カップではなく器と言った方が正しいだろう。
 可笑しくてつい笑うと、グウィンも白い喉元を上下に震わせた。グルグルと、微かな音も聞こえてくる。

の手には、やはり大きいですね」
「ふふ、なんだか子どもになった気分です」
「こちらもどうぞ」

 テーブルに置かれた紙袋から、包みが取り出される。まだほんのりと温かいそれは、ここへ来る途中に買ってきたサンドイッチだ。野菜などの具をたっぷりと挟み込んだそれに、は大きくかぶりつき、むぐむぐと咀嚼する。
 ちらりと横を見ると、と同様にサンドイッチを頬張るグウィンの姿がある。無を張り付けたトカゲの頭をしているからか、人間よりもだいぶ迫力を感じさせたが……何故だか、とても和む。

 こうやって隣に居るだけでも、やっぱり落ち着く。

 は自然と口元を綻ばせ、ゆっくりとサンドイッチを食べる。ほのかな安らぎと幸福感に満ちた時間は、あまりにも暖かく過ぎていった。




「――私は、貴女がいつか終わりを告げると思っていたんですよ」

 食事を済ませ落ち着いた頃、グウィンがそう切り出した。
 は細い肩を揺らし、身構えながらも彼へ視線を移す。そこにあるのはトカゲの横顔だけれど、何処か緊張するような、普段にはない強張りを感じた。

「終わり……?」
「貴女から、交際は止めにしましょうと、言われるに違いないと」

 は目を見開く。爬虫類特有の鋭い瞳が、ゆっくりと動いた。

「だから望んでいました。いつか泣きながら、逃げてくれる事を」

 は混乱の余り、表情を歪める。
 私が、泣きながら、もう止めてくれと逃げる?
 彼からもう止してくれと言われる事は覚悟していたが、自分がそれを言うなんて事は万が一でもあるはずがない。
 困惑するあまり声を喘がせるへ、グウィンの静かな低い声が被さった。

「――、私はそこまで、馬鹿な男ではないつもりです。全く気のない女性と、嘘や同情で共に過ごすほど、優しくもない」

 は、はたと動きを止める。
 え、それは、つまり。
 呆然とするを、グウィンはじっと見つめていた。物静かな瞳に、不意に熱が宿った気がした。

「……最初から覚悟していたのに、泣きそうな表情が忘れられない」

 ただ単純に、恐れていただけなのでしょうね――グウィンの声は、自嘲を孕んでいた。


 彼は言った。たった一言、好きですと告げられたあの時、何を言われたのか分からなかった、と。

 なにせ自分は有鱗族。蛇やトカゲの血を持つ種族である。
 人間という種族とは、根本的に異なる存在だ。姿形も、暮らしも、生態も、全て。その事は、自分でよく理解していた。

 何をどうしてそんな想いを抱くのに至ったのか、さっぱり分からない。何か別の感情と間違えているのかもしれない。
 なら、いずれ彼女の方から言うだろう。間違えたようだ、お付き合いは止めましょうと。
 人間と有鱗族、双方がかけ離れた存在である事を目の当たりにし、戸惑うのはどう考えても彼女の方なのだから。
 ほんの一時の事であると思い、グウィンは了承した。それと同時に、彼女が終わりを突きつけるだろう事は、当初から覚悟していた。

 だが、予想に反し、は言わなかった。
 それどころか、会うたびに嬉しそうにし、笑っていた。
 周囲から浴びせられる眼差しに気付いているはずなのに、一度もその不満を口にせず、ぶつけたりもせず、は屈託なく楽しそうに振る舞う。
 ――何故。
 その疑問は、しばらくの間つきまとい、今も時々悩ませた。


 グウィンは息を吐き出し、額を覆う。
 自らの心中を明かす彼の姿は、本当に弱々しく見えた。こんなに大きな身体で、人間よりもずっと強そうな外見だというのに。力なく垂れ下がった尾が、彼の心そのものを表しているようだ。
 グウィンを窺うに、怒りだとか、悲しみだとかは全くない。むしろそうだったのかと、納得していた。

 だって、仕方ないのだ。彼は有鱗族で、私は人間なのだから。疑問に思って当然の事だろう。

「私は……グウィンさんの事、気まぐれだとか、思いつきだとか、ちょっとお試しだとか、そんな風に思ってなんていないです」

 いつからだったか定かでない。気が付いたら心の真ん中にあったその感情は、今も堂々とそこに在り続けている。

「信じては、も、もらえないかもしれないですが……」

 はぎゅっと手のひらを握りしめ、視線を下げる。すると、グウィンは額を覆っていた手を外し。

「――知っていますよ」

 こぼれた低い声が、耳を撫でる。はパッと顔を起こし、隣を見上げた。

「貴女が私に好きだと言って下さる、その前から。気付いては、いました」

 気付いて……え、え?

 は面食らい、何度も忙しなく瞬きを繰り返す。
 可笑しそうに肩を揺らしたグウィンは、有鱗族ですからね、と続けた。

「私達は、人間からしてみればいわゆる爬虫類の種族。獣人とはまた違った、嗅覚の発達がありまして」

 獣人族の五感の鋭さは世間で知れ渡っているが、有鱗族もまた彼らと同等のものを持っている。ただ、その発達した分野が、獣人と少しばかり違った。
 彼らは、目、耳、鼻で対象を認識する。それに対し有鱗族は、耳、鼻、温度で対象を認識するのだ。

 相手が発する熱量、発汗、匂い、動悸――それらから感情を読み取る能力は、非常に正確で、獣人の追随を許さない。

 目で捉えるのが獣なら、感覚で捉えるのが蛇やトカゲといったところだろう。

 だからグウィンは、を“視て”知っていた。彼女が自分に浅からぬ想いを抱いている事を。


 それを聞いたは、思わず、表情を強ばらせる。
 つまりそれは、一生分の勇気を絞り出すその前から、グウィンには筒抜けであったという事なのか。

「そんな方法で、ばれていたなんて……ッ!」

 悶絶するの隣からは、グウィンの微かな笑い声が聞こえる。申し訳なさそうな音色に、ますますの羞恥心は増した。

「気付かないふりをした方が良いかと思って黙っていましたが……だからこそ、余計に不思議でしたよ」

 恐怖するもの、凶暴的なものといった匂いは、これまで何度も向けられてきたからよく覚えていた。なのに、彼女から向けられる匂いはどれも違い、ことごとく当てはまらなかった。

 目が合った時や、手を繋いだ時に、上昇する体温。
 赤く染まった肌から、ふわりと増す匂いに、甘く滲み出す汗。
 その全ては、恐怖ではなかった。異性として緊張し、嘘偽りなく心の底から喜んでいる。
 その時の困惑は――言葉に表せない。

「……言い訳にもなりませんし、するつもりもありませんが」

 彼の横顔は、まるで罰を待つひとのように見えた。
 の中から羞恥心が薄れて、冷静さが舞い戻る。しばらく口を閉ざし、それから、ゆっくりとグウィンへ尋ねた。

「……酒場で、その、私の事を、誰にも、何も言わなかったのは」

 ――私の事を、想ってくれての事ですか。
 恐る恐ると見つめるの眼差しに、グウィンは目を閉じる。
 それが彼の、肯定の意思なのだろう。

「……グウィンさんの、馬鹿」

 ぽす、と彼の腕を叩く。

「見当違いも良いところです。そんな、そんな気遣い、私、嬉しくなんて。それだったら、いっそ邪魔とでも言ってくれたら良かった」

 もう一発、彼の肩へと叩き込む。もちろんの力なんて微々たるもので、彼の肩には何のダメージも与えないが、そうせずにはいられなかった。

「そうですね、本当に、愚かだったと思います。ほんの一時でも、雄として側に居られるなら……後でどう言われても良い、そんな事ばかり考えていました」

 グウィンは呟くと、の手を握り引き寄せる。互いの距離が詰まり、二人掛けのソファーが微かに軋んだ。

「――最初から、言ってしまえば良かったんですよね」

 緊張のあまり身体を小さくし、湯気が出そうなほど真っ赤に染まったが立っていたあの日、本当は心の底でどうしようもなく喜びに打ち震えていた。
 いつか彼女が勘違いだったと言うに違いないと覚悟をしていたのに、その日までは側に居られると、期待までしてしまった。
 だが、その存在が傍らに在る事が当たり前のものへ変わってしまう頃には、淡い期待は恐怖に変貌した。

 いずれ訪れると分かりきっている未来が、やってこない事を片隅で願い、離れないで欲しいと乞い続けていた。

 彼女のためと殊勝に言い聞かせながら、結局、手放す覚悟なんてものは最初から出来ていなかった。

 ――本当に、先に想いを寄せていたのは、どちらであったか。

 グウィンの腕が、の背中へ回る。静かに抱きすくめられ、の顔はグウィンの広い胸に埋まった。

「――貴女の事が好きです、

 頭上から注いだ低い声が、の耳へ甘く伝い落ちる。思わず、肩がびくりと跳ね上がった。

「グ、ウィン、さ」

 反射的に逃れようとした背中が、グウィンの腕で押さえ込まれる。

「改めて、私からお願いします。貴女とはかけ離れた種族の私を、これから側に置いて下さい」

 いや、違いますね――。

「これから、どうか“私”のところへ来て下さい」

 人間と有鱗族。その間に引かれた線を越えて。
 今度は自分も、それを踏み越えるから。

 グウィンは、凄艶とも言える声音で、乞い願った。彼よりも細く小さく、頑丈な鱗もなければ鋭い爪も尻尾もない、私に。は呆然と暮れていたが、見下ろすグウィンの瞳には熱を帯びるほどの真剣な光が浮かんでいた。
 嘘ではなく、彼の本心だ。
 その事実が、時間を掛けての胸にじわじわと広がっていく。沸き起こる感情に言葉が上手く出ず、唇をまごつかせたが、の返答など最初から決まっている。
 迷わずに、何度も繰り返して頷き、目の前の胸にしがみついた。

「も、もち、もちろんですゥゥゥウウゥゥ」

 膨れ上がった喜びと安堵で、終盤はほとんど嗚咽であった。
 しゃくり上げるの頭上で、苦笑する息遣いが聞こえる。

「結局、泣かせてしまいましたね。ほら、、泣き止んで下さい」
「だって、わ、私、本当は」

 差し出されたハンカチが、の顔へぽんぽんと優しく置かれる。

「ずっと、め、迷惑になってたって思って、本当は今日……お、お別れするぐらいのき、気持ちで」
「……そうならず、良かったです」

 は涙をこぼしながら、くしゃくしゃの笑みを浮かべる。

「私は、グウィンさんの邪魔には、なっていなかったんですね」
「当たり前でしょう……そう思うような人物と、プライベートまで共に過ごすほど、私はお人好しではない」

 赤みを帯びたのまなじりに、グウィンの指が伸びた。

「私は、貴女であったから」

 呟いたグウィンの低い声には、僅かな恥じらいが含まれていたような気がした。

 いつも穏やかで、物静かで、きっとどんな事があっても冷静さを欠く事はけっしてないだろう。そう思っていたが、焦燥を滲ませる事もあれば、深く項垂れる事もある。
 当たり前の事ではあるが、それをようやく、も理解した。
 有鱗族というトカゲの血と姿を持ち、感情の表れがそれほど豊かでなくとも――その声と眼差しから、はっきりと伝わってくる。見た目がどうであれ、注視すれば、こんなにも分かるのだ。

 溢れた一滴の涙を、鱗に包まれた指先が拭う。人間の肌とは異なる、滑らかな質感。指先にある爪は、意外と逞しく存在感がある。それが見た目ほど恐ろしいものでない事は、最初から知っている。

 グウィンと初めて出会った、あの日。勢いよく転んだへ差し出した手は、痛む足を庇いながら歩くを支えたそのトカゲの手は、驚かせないよう怖がらせないよう、とても丁寧で慎重な手つきだった。
 今思えばあれは騎士だったからではなく、自らの手がどういう風に見えるのか知っていたから、大袈裟なほど丁寧だったのかもしれない。

 ――だからこそ、は、恐ろしいひとだなんて一度も思わなかった。

 これまでずっと、付いて離れなかった底の見えない不安感が、ようやく、から消え去った。溢れかえるほどの喜びに胸を満たしながら、は泣き笑いを浮かべた。
 すると、顔に押し当てられていたハンカチがおもむろに遠ざかってゆく。はたとが顔を上げると、鼻先がぶつかってしまいそうな至近距離に、トカゲの顔があった。
 暗褐色の、刺状の鱗が綺麗に並んだ、まるで竜のような凛々しいその顔。
 細長い瞳孔を宿す眼が、じっとを見つめている。



 涙が伝い、赤みを帯びて湿った頬へ、グウィンの指先が触れる。
 先ほどの、滴を拭った仕草ではない。
 まなじりをくすぐり、頬をなぞるような動きは……今までとも、何かが違う。
 ぞく、と肩が震えたへ、グウィンは双眸を細めると、薄く口を開いた。

「え――」

 の目の前で、グウィンの舌が伸びる。先端が二股に分かれ、薄く平べったい、いかにも有鱗族らしい形の舌だった。赤というより、赤みの強いピンク色だろうか。凄い色をしていると、まじまじ見つめている間に、その舌は近づいてきて。

 の頬を、ぺろりと、舐めた。

 びっくりして、涙も笑顔も止まる。

「あ……ッ?」
「ふむ、塩辛い」

 揚々と頷き、二股に分かれた舌先が、今度は頬を伝い上がる。獣のそれとは違う湿った感触が、濡れたまなじりの側を這った時、は声をこぼして身を引く。
 しかし、グウィンの腕の力が急に増し、背中からぐいっと引き寄せられた。
 目を丸く見開くの顔に、薄く平べったい舌が幾度も這う。唾液でべたべたかと思いきや、意外とそんな感触がない事に関心したけど、困惑がすぐさま覆い被さる。

 肌を掠めるグウィンの吐息が、酷く熱い。

 背筋をせり上がってくるぞわぞわとした感覚に、は身動ぎをした。しかし、離れる事を許さないとでも言うように、グウィンの腕はしっかりとを抱えている。捕らえるような仕草はどことなく強引で、普段と違う違和感を確かなものへ変えた。

「グウィン、さん、どうし……ッ」

 尋ねようとしたの唇へ、舌先が伸びる。なぞるように這う動きに、何故だかとても恥ずかしくなった。

「――今に始まった事ではないですよ。私はずっと、貴女に触れたくて仕方なかった」

 貴女が隣で笑っている間、触れたくて触れたくて、そればかりを考えていた。
 けれど、何処まで許されるのか分からなかったし、触れてしまえばそれで治まるはずもなかったので、手を繋ぐのも必死で耐えていた。

 呟いたグウィンの声は、普段の理性的な響きが崩れ、劣情を滲ませていた。突然の暴露に、の面持ちは涙ではなく恥じらいで赤く染まる。あのグウィンがそう思っていただなんて、一欠片ほども知らなかったし、想像もしていなかった。

「しかし、もう――遠慮は、必要ないようだ」

 不意に、グウィンはソファーの足下から何かを引き上げた。差し出されたそれは、本だった。表紙には“有鱗族を知りたいアナタへ全て教えます”と書かれた文章があり、帯には“これでアナタも有鱗族をよく知り上手にお付き合いできるでしょう”という、とても覚えのある文章が――。

 え、あの、いや、それって、まさか。

 ぎくりと、の肩が震える。

「貴女が落としていった本です」
「やっぱりー!!」

 すっかりと頭から抜け落ちていたが、そういえばあの日、本を買っていた。グウィンが見たら複雑な顔をしそうな、有鱗族の文化や生態について書かれた少し俗な本を。
 酒場から全力で走り去った時、揺れ違う人と肩をぶつけたりしていたので、その拍子に鞄から飛び出していたのだろう。
 絶対にグウィンには見せられないと思っていたのに、こんなあっさりと――。

「あの、ちが、違うんです。あの、変な意味はなくて、私、ただ」
「分かってますよ、大丈夫です」

 何を読まれようと気にしませんから、と告げるグウィンの、その優しさときたら。全てを包み込む年上の大らかさに満ちており、なおさらを恥ずかしくさせた。
 どうにかグウィンから本を奪おうと、勢いよく手を伸ばす。だが、ひょいっと本を遠ざけられてしまい、の指先は掠りもしなかった。

「貴女は真面目ですからねえ……時々、努力の方向が別のところへ向かいますが、それが貴女の良いところでしょう」

 ――ですが。
 グウィンはそう言うと、本をソファーの下へ置き、床板の上をスコーンッと滑らせ遠くへやってしまった。
 ああッと半ば悲鳴に似た声を上げながら、が目で追いかけると、彼の手が頬を捕らえ正面へ戻す。

「もう、必要ありませんよね。これからは、本ではなく、私自身で知ればいい事ですから」

 笑みを含むグウィンの低い声が、の耳元を這った。
 普段耳にしている、物静かで、理知的な声色ではない。
 艶と色気が滲んだ、蠱惑的と言っても差し支えない声色だった。
 丁寧な言葉が、それを余計に浮き彫らせている。

 いつもの、グウィンではない。

 ぞわぞわと肌を嬲る低音に、目眩まで起きてくる。が身を捩ると、グウィンの大きな身体が静かに詰め寄る。少しずつ、逃げ場が、無くなってゆく。

「――少し、冷えてますね。指先」
「あ……」
「私も寒いのは苦手ですが、人間も、確かそうでしたね」

 の指先を、鱗を生やした指がなぞる。温かくはないはずのグウィンの手が、今は酷く、熱を感じさせた。

「湯を用意しましょう。少し、待っていて下さい」
「グ、グウィン、さん、あの」

 言い繕うように声をこぼしたに、再び、トカゲの舌が伸びる。赤みを帯びたピンクという、濃い色を宿した、二股に分かれた舌。目尻をくすぐった後、グウィンはの正面へその顔を近づける。

 そこにあるのは、普段から見てきた、凛々しいトカゲの頭だったけれど――。

「今さら、帰るだなんて――言いませんよね、

 その時ばかりは、猛獣に勝るとも劣らない、狡猾で底意地の悪そうなトカゲであった。



許しが出れば、こっちのもの。

次話、18禁シーンです。
毎回恒例、頭が禿げそうになりながら、気合いと情熱の限り書きます。


2017.02.16