10

 今にも抗争が勃発する寸前だったハイエナ獣人の集団は、あの物騒な空気が幻であったように、すっかり機嫌が良くなっている。帰路を進む足取りは軽く、「残ってくれて良かったな」「今日は宴だ」と何度も言葉を交わし、の選択を心から喜び、そして安堵していた。

 そんな風に笑ってくれる仲間達の姿に、も嬉しく思うのだが――未だのところにのみ、緊張を帯びた空気が流れていた。

 正確には、とザナの間である。

 歓喜を浮かべる雰囲気とは異なり、ぎこちなさに溢れ、非常に居心地が悪い。理由は、あえて考えるまでもない。
 その様子を汲み取ったジルダは、穏やかな声音で「話したい事もあるだろう。先に戻るからお前達はゆっくり来い」と告げるや、仲間を連れさっさと先を進んでしまった。

 夕暮れの色に染まり、金赤色になった草原の中へ、ハイエナ獣人の姿が小さく遠ざかっていく。仲間の笑い声も薄れ、とザナの間の静けさが、より顕著に浮き彫りになってしまった。

「……行くぞ」
「あ、うん……」

 ザナに促され、も歩き始める。肩を並べゆっくりと進むが、サクサクと鳴る足音しか聞こえない。気まずく思う必要など無いのに、何か喋ろうとするほどに口は上手く回らず、結局は押し黙ってしまう。

「……あー、

 不意に、ぶっきらぼうな声が頭の天辺に落ちてくる。飛び跳ねるように肩を揺らし、顔を起こすと、揺れるハイエナの眼差しとぶつかった。平常を装おうとし、失敗してしまった、そんな不器用な仕草が透けて見えた。

「……悪かった。余計な事を言ったな」
「あ、ああ……えと、さっきの?」


 ――荒野暮らしの俺らに出せるもんは少ないが……代わりになるもんがあれば、それを渡す。だから、そいつを連れて行くのは、勘弁してくれないか。


 頭を下げてまで懇願した、ザナの姿が鮮明に呼び起こされる。は首を振り「余計だなんて思ってないよ」とほのかに微笑んだが、何故かハイエナの顔には苦い表情が浮かんだ。

「いや、そっちじゃなくてだな」
「え?」
「……こないだの方だ」

 ――ようやく、理解した。それと同時に、飲み下した痛みが、再び込み上げた。

 行きたければ、行けばいい。人間と獣人は、どうせ“違う”のだから。
 あの日突きつけられた言葉は、何よりもの心を抉った。最も聞きたくなかった言葉を、最も口にして欲しくなかった人から浴びせられたのだ。その衝撃は、言葉で表しようがないほどのものだった。

「……そうだよ、本当に」

 は静かに、視線を伏せた。いつの間にか歩みは止まり、向かい合った小柄な人間とハイエナ獣人の隙間を、夕暮れの涼しい風が通り過ぎていく。

「そのくせ、西の国には連れて行くな、なんて。そう思うのなら、最初から、言えば良かった」

 ザナは、瞑目する。その通りだと、何も言わずの言葉を飲み込んでいる。

「悪かったと、思っているさ。けど、お前は……もしかしたら、俺らよりあいつの方に行きたいと、思うかもしれないってな。俺らは荒野の狩猟一族、どうしたって品はない。まして、あの人間の雄は、他の人間の女達から見ると随分気に入られる顔らしいしな」

 つまるところ、ザナも、変なところを気遣っていたのだ。
 が、群れの仲間として相応しいかどうかわだかまっていたように、彼もまた同じように思っていた。人間のにとっては、ハイエナ獣人ではなく同じ人間の側に在った方が幸福ではないか、と。

 ――ああ、まったく、こいつは。

 外見こそ、無頼漢のような風貌をし、ぶっきらぼうに話すくせに、心根はこれなのだ。ハイエナ獣人だらけの群れで、心許なく立ち尽くすばかりだった幼少期のを引っ張ってくれていた時から、彼は変わらない。少し言葉遣いが粗暴なだけで、その下には純粋な優しさしかない。

 まったく、馬鹿だ。彼だけではない。私自身も。
 “これ”を言っていれば、何も拗れる事無く、簡単に解決していたのだ。

「……ここでの暮らしが嫌だって、私、言った事ある?」
「……いや」
「ハイエナのみんなが嫌いだって、一度でも、言った事ある?」
「……いいや」

 ザナの瞳が、再びを映す。何処か不安げな揺れる眼差しを、は真っ直ぐと見つめ返した。

「私は、ここに、いたいの。これからも、ずっと」

 乾いた空気と、草と土の香りのする力強い風。枯れた色の大地と、褪せた緑、地平線まで続く黄金色の草原。
 役立たずと放り投げられた荒野の自然は、けして優しくはないが、とても美しい。そう思わせてくれたのは、全て、ハイエナ獣人の仲間達だ。
 彼らに拾い上げられたあの日から、故郷はスラムの裏路地ではなく、この荒々しい自然になり。家族と呼ぶべき存在は“嫌われ者”と嗤われる彼らになった。

 ――故郷と家族を、捨てるはずがない。

「でも、おかげで、改めて気付いた。私の居場所はここで、みんなが好きだって」

 ザナは、何処か呆気に捕らわれたように、しばし呆けていた。やがて噴き出すように笑い声をこぼすと、広い肩を上下に揺らし始めた。

「そうか……そうかよ。まあ、確かに、お前は十分、ハイエナ獣人の雌と同等の女だよ」
「え?」
「そりゃ見事な、飛び蹴りと拳だったからな」

 ――あ。

 は、サア、と青ざめた。そういえば怒りを込めてザナの顔面に飛び蹴りをかました上、彼に跨り胸倉を掴み、最後は胸を叩きまくった。感情が爆発していたとはいえ、なんと物理に物を言わせた行動だったろうか。
 「正直……顔面が抉れるかと思った」ザナは鼻頭と鼻筋を、恐る恐る擦っている。

「あ、あの、ごめ……」
「どうせジルダの仕込みだろ。雄の上に立つのがハイエナの雌だ。誇ればいい」

 ザナは口角をニイッと持ち上げ「これでおあいこだ」と笑った。その言葉に含まれた意味を理解し、も晴れやかな笑みを浮かべた。
 自分はハイエナ獣人の群れの一人であり、家族であるのだと、揺るぎない自信をようやく手に入れた心地がする。その瞬間に、あの日の喧嘩と共に生まれたわだかまりと、乱暴に敷かれた溝は、風に解けるように消え去っていった。


「――……はあああ……! もう、止めだ、止め」

 唐突に、ザナが大きな声でそう告げた。やけに長い溜め息を吐き出し、空を仰ぎ出す。

「ザナ?」
「ああ、もう、止める。気ィ使うのも、遠慮すんのも、もう止めだ」

 いきなりそんな事を宣言されてしまい、は瞳を何度も瞬かせる。素っ頓狂に呆けながら「ザナ、遠慮する事なんて、あった?」と漏らせば、ハイエナの手のひらがの頭を力任せにぐしゃぐしゃにかき混ぜていった。

「ふざけんなよ。あるさ、俺にだって」
「わ、ぷ……!」」
「だけど、もう止める。そっちの方が、俺の性に合う。ああ、それと……」

 ひとしきりの髪を乱した後、今度は何を思ったのか、ザナは背を折り曲げた。そして、の頭と顔に、自らのハイエナの頭を擦り付け始めた。スリスリ、なんて可愛いものではない。皮膚が擦り剥けてしまうのではないかと思うほど、ゴリゴリと押し付けられ、足元までふらついてしまう。体当たりでも食らっているような気分だ。

「んむ、こ、転びそ……な、なぁに……ッ?」
「いつまでも、あの野郎の匂いをつけてんじゃねえ」
「あ、あの野郎……?」

 それは、もしや、エリオスの事だろうか。

「でも、西の方の、挨拶だって」
「それだけの訳がねえだろうが。あいつなりの、最後の牽制だ」

 そうして、己の気が済むまで頭を擦り付けたザナは、最後にの額に口を寄せ。

 べろりと、舐め上げた。

「……お前から、他の野郎の匂いがすんのは、気に入らねえんだよ」
「え、う」
「……いいから、もう帰るぞ」

 ザナは鼻を鳴らし、さっさと歩き出してしまった。槍を肩に担ぎ、猫背気味の大きな背中が、足早に進んでしまう。その後ろを、はすぐには追いかけられなかった。

 気に入らないと不愉快さを滲ませた声にも、眼差しにも、焦げるような熱が宿っていた。そしてそれは、気のせいでないのなら、へ真っ直ぐと向けられていた。


 ――気ィ使うのも、遠慮すんのも、もう止めだ。


 は、静かに、額を覆う。
 舐められるなんて、別に、珍しい事ではないし、初めてではない。けれど、思えばそれは、子どもの時の悪ふざけ以来の事で、ザナからされるのは久しぶりだった。
 今更、恥ずかしがる事ではないはずなのに、の心臓はいつまでも震えていた。



華美な生活とは無縁な、砂の混じる乾いた風と太陽が照り付ける厳しい世界での暮らしを望むヒロインがあっても、いいですよね。


2020.10.07