09

 これから町を襲撃しに掛からんばかりの殺気を垂れ流す様は、普段にも増し凶悪で、端から見たらあまりにも物騒な集団でしかなかった。
 どうりで町の人々の姿が見えない訳だ。避けて通るというレベルではない。皆、立てこもって避難している。

(え、えええ……何でそんなに、殺気立ってるの……?)

 群れの仲間達の「いつでも特攻かませます!」という、敢為に満ちた姿が、本当に理解出来なかった。
 その先頭に立つ、槍を肩に担ぎ睨め付けているザナなんか、特に。

「……別に、喧嘩に来た訳じゃねえよ。俺らの顔と恰好で構えるかもしれねえが」

 いや、喧嘩どころではない。今から血で血を洗う抗争でも始まりそうな雰囲気だろう。

 しかし、おろおろと途方に暮れているのはだけで、ザナとエリオスに至っては表情を崩さず見つめ合っている。沈黙はより重くのし掛かり、熱を帯びた荒野の風すら冷たく凍え始めている気さえしてきた。

「……長々と話し込んでたが、話はまとまったのか」
「そうだね、楽しいお話をさせてもらったよ」

 ふわりと浮かべたエリオスの微笑みは、たおやかだが圧力を伴っている。ザナの目はいっそう険しくなり、肉食獣特有の獰猛さが滲み出す。見つめ合う彼らの間で、激しく火花が飛び散ったのを確かに感じた。

 このような事態を、一体誰が想像していただろうか。
 エリオスと大切な話を済ませ、後は帰るだけだったというのに。

「――長々と話をして、こいつを連れて行く、という方向に落ち着いたのかもしれねえけど」

 重々しい声色で呟きながら、ザナがゆっくりと近付いてくる。

「あ、あの、ザナ、その話は……――」
、黙ってろ」

 常と異なる強い口調で、制されてしまった。そう言われてしまっては、は口を閉じているしかない。

「……こいつを、西の国に連れて行くのは……俺らから取り上げるのは、止めてくれ」
「……! ザ、ナ」
「俺らはこの通り、真っ当に暮らしていようが。外見で色々言われるような一族だ。それを恨んじゃいねえし、気にはしてねえけど……こいつのおかげで、何かと、救われているところがある」

 エリオスは、形の良い唇を閉じ、ザナを静かに見つめている。

「西の方とは違う、荒野暮らしの俺らに出せるもんは少ないが……代わりになるもんがあれば、それを渡す。だから、そいつを連れて行くのは、勘弁してくれないか」

 ザナは、肩に担いだ愛用の槍を下ろすと、静かにその背を曲げ、頭を下げた。
 あのザナが、頭を下げたのだ。
 群れに仲間として迎え入れられてから五年ほど経つが、ザナが誰かに頭を下げたのは……初めて見た。は、一人静かに、衝撃を受ける。

「――嫌だ、と言ったら?」

 それまで沈黙を貫いていたエリオスが、初めて言葉を返す。にこりと微笑んだその表情は何処か挑発的で、まるでザナを試すようでもあった。

「……へええ、力ずくってか。おもしれえ、やってみろよ。軟弱な生白い細腕で、荒野の獣人に勝てるつもりならな」

 頭を起こしたザナは、口元をつり上げ、牙を剥き出す。凶悪な笑みを浮かべたハイエナの顔は、恐らく多くの人が思い浮かべるだろう悪役そのものだ。

 は、二人の間で、黙って聞いていた。黙って聞いていてあげたが、次第に胸へ込み上げてくる感情が溢れ出しそうになり、太腿の横で握りしめた拳はぶるぶると震え始めた。
 しかしそれは、けして喜びなどではない。
 は、エリオスとザナの間からふらりと下がり、後ろをくるりと向き、距離を取るべく歩き出す。
 その唐突な行動に、火花を散らす両者も、思わず視線で追いかけた。

「……?」
さん、どうかし……」

 十分に距離を取ったところで、は再び正面を向ける。
 不思議そうにする彼らへ、何も告げず――突撃を開始し、疾走した。
 勢いをつけ地を蹴り、高く跳躍すると、素っ頓狂な表情へ変わったザナの顔に目掛けて、飛び蹴りを見舞った。

 視界の片隅で唖然とするエリオスや、身構えていた仲間達は、声にこそ出さなかったがその表情は大音声の絶叫を上げていた。

 完全に虚を突かれ、の足の裏が直撃したザナは、大きく後ろへ倒れる。危なげなく着地したは、すかさず彼の腹に跨り、胸の毛を掴み、深く息を吸い込む。

「――ばか!」

 腹の底から力の限り叫んだ一言は、辺りに響き渡った。
 仰向けに倒れるザナは、何が起きたのか理解出来ていないようにを見上げているが、そんな事は知らない。込み上げてくる感情を、声に乗せ、彼へぶつけ続ける。

「なによ! 西の国に行けばいいとか、人間だからどうとか、ザナが、言ったくせに!」
、おい……いって!!」
「そのくせ、行くなとか……ばかじゃ、ないの! 言うのが、遅い!」

 がっくんがっくんと、ザナの頭を激しく揺らす。

「おま、ゆら、揺らすな! グッフ……叩くな! おい!」

 の両手を、ザナの大きな手が取り押さえる。しかし、彼の両目は、動揺を露わにしぎょっと歪んだ。
 の青い瞳からは、雨が降りしきるように、ぽろぽろと雫が落ちていた。

「お、おい、
「と、と、止めるのが……遅いいいいいい……!」
「ちょ、わ、泣くなッ」
「ああああァァァー!!」
「子どもみたいな泣き方すんじゃねえ! 悪かった!」

 仰向けに倒れていたザナの上体が、勢いよく起き上がる。馬乗りになっていたを膝に抱えると、小柄な身体を両腕で背中から抱きすくめた。
 途端に全身を包む、土と草の匂いと、毛むくじゃらの温かい体温。慣れ親しんだものなのに、何故だか余計に涙が溢れてしまった。
 まだら模様の毛皮の、その下にある広い胸板を、は呻きながら幾度もバコバコと叩く。けれど、ザナの両腕はけして離れなかった。背中が軋むような、ただただ力が強いだけの抱擁で、必死にを抱え込んでくる。その不格好さが、ザナの心を表しているようで、最後はの方からもまだら模様の毛皮にぎゅうっと力一杯しがみついた。


 ――本当に、遅い。私は、貴方の口から、一番に聞きたかったのに!


 毛皮の下に声を吸い込まれながら「ばか、ばか」と弱々しく罵りをぶつける。そのたびにザナは「悪かった」と、の耳元で告げる。心底、困り果て、許しを請うその声音に、の胸がスッと軽くなり――ようやく、涙で濡れた頬に笑みが浮かんだ。



「――愛されているね、さん」

 笑みを含んだ声が、後ろから聞こえてきた。
 はハッとなり、勢いよくザナの胸から顔を起こした。すぐ側に、柔らかく微笑むエリオスと、大きな身体をそわそわと揺らし大丈夫かと案じる仲間達の姿があった。

 そうだった、子どもみたいに泣いている場合じゃない。

 顔を懸命に拭い、立ち上がろうとする。だが、ザナの腕は、尋常じゃない力で巻き付いてきた。全く立つ事が叶わず、地面に座り込んだ恰好のまま戻れない。

「いいよ、そのままで。でも、このままじゃあ私が悪者になってしまうから、仲間へ教えてあげてくれないか」
「あ、うん」

 ザナの腕を巻き付かせた何とも締まりのない恰好だが、どうにか膝で立ち、集まった面々を真っ直ぐと見つめた。

「あの、みんな、私――お断りの言葉を、伝えに来たんだよ。長くなったのは、西の話とか、色々聞いていたから」

 エリオスからの誘いは、断る事に決めた。
 というか――そもそも最初から、に西の国へ行く気など、これっぽっちもなかった。

 だからせめて、その代わりに、西の国の事を教えてくれないかと申し出た。が荒野の国を案内したように、今度はエリオスから様々な話を聞かせてもらっていたのだ。

 が告げた言葉に、仲間達はしばらく呆然としたまま「……西の国は、行かない?」「これからも、ここにいる?」と、譫言のような力の抜けきった呟きを繰り返す。
 何十ものハイエナ獣人の視線が集まる中、は今一度、しっかりと首肯した。
 その瞬間、抗争にやって来たようなひりついた空気は弾け飛び、わあっと歓喜で湧き立った。

 は、その喜びように、言葉を失った。受け入れてはくれるだろうとは思っていたが、ここまで喜んでくれるなんて、正直想像をしていなかった。

 そうか……喜んでくれるのか、みんな。足を引っ張ってきた、人間であっても。

「――ほら、言っただろう、? 私が何か命じる前に皆、勝手に動くと」

 賑やかな仲間を掻き分けながら、ゆったりとした動作で、ジルダが前へ出てきた。ずっと、後方から見ていたのだろう。良い飛び蹴りだったぞ、なんて褒められたが、一連の行動を思い出すは恥ずかしさでそれどころではない。

 ジルダは愉快そうに笑っていたが、不意にその表情を、姉から女長のそれへと変え、エリオスを静かに見据える。

「群れの仲間が、騒がしくしてすまないな」
「いいえ。……さんを、大切に思っているんですね」
「ふふ、当たり前だ。仲間に対する愛情に、人間も獣人も関係ないからな」
「……私の国の獣人達の話とは、違うな。彼らは、荒野の国の獣人を野蛮で荒くれと言ったが、貴女たちは皆、素晴らしい思慮深さと思いやりに満ちた、慈悲深い一族です」
「仲間を思いやり、大切にし、群れの絆を強くする――荒地を生きた始祖の教えであり、我々の鉄則。不必要な争いはしない主義だ。これでもな」

 ――だが。
 ジルダの声が、低く唸る。

「我々に対する認識は、あながち間違いでもない。本質は野蛮な獣であり、それは百年先も変わらないだろう。群れを守るためならば、私は獅子だろうが虎だろうが噛み砕き、骨の一欠けらでも大地には残してやらんつもりだ」

 穏やかな声から滲む、苛烈な本性。さすがは雄獅子の獣人を地に下した経歴を持つ、群れを率いる女傑である。仲間の誰よりも一際たじろがせる、凄みに溢れていた。

「――さ、随分と騒がせてしまったしな。我々は、町の外へ出ていよう。ザナ、いい加減、離してやれ」

 ザナは渋々と立ち上がったが、巻き付けた腕の拘束は解かないでいた。小柄なの爪先は、地面に届かず、宙でぷらぷらと揺れている有様だった。

「ザナ」
「……チッ」

 二度目の勧告を受け、ようやくは解放された。そうして彼を見上げた時、拗ねたような、納得しきれないような、何とも形容しがたい感情がハイエナの顔に滲んでいる事を知る。
 群れの中でも腕が立つ狩人の、年相応なあどけない顔つき。こんなザナは、随分と久しく見ていなかったような気がする。

「――さん」

 エリオスの声が、静かに背へ掛けられた。

「私は、もうじき荒野の国を離れる。荒野の国の事、貴女から聞けて良かった。もちろん、素敵な“家族”の事も」
「ううん。私も、ありがとう」
「帰る前に……西の方の挨拶をしても、構わないかな」

 澄んだ緑色の瞳が、じっと見つめてくる。特に断る理由もないため、いいよ、とは快諾する。
 エリオスはふわりと口元を綻ばせ、の前で、ゆっくりと両腕を広げた。あ、と思った時には、既にの身体はエリオスの腕の中にあった。

 背面に集まる仲間達が、微かにざわめく。特に、女性陣の反応は大きく、何やらキャアッと黄色い声が漏れていた。

「……仲間に受け入れられていないかもしれない、なんて不安は、もう無くなったかな」

 にだけ聞こえる、小さな囁きが耳元で響いた。

「もしかして……わざと、だったの?」
「いいや、まさか。そこまで、私はお人好しではないよ」

 西の国に、共に帰りたかったのは事実だよ。そう笑う彼の声からは、少しの寂しさが感じられた。

「でも……荒野の花は、荒野でこそ、きっと綺麗なんだろうな。だからこれは、私の最後の悪あがきだ」
「……エリオス」
「さっきも言ったけど、謝らないでね。本当は、最初から分かっていた事だし」

 背中に回った腕が、そっと力を込める。優雅で、繊細な、彼らしいたおやかな抱擁だった。

「……もしも、西の国を見てみたかったら、いつでも言ってくれ。私の名前宛に手紙を出してくれたら、喜んで案内するから」

 エリオスは最後に、の頭の天辺へ口付けを落とし、そして仲間のもとへ背を押した。「これ以上惜しんだら、きっと彼に殺されてしまうね」
 その言葉の通りに、目の前のザナは、凄まじく不機嫌な形相をしていた。狩りの時ですら、そんな顔をした事は無かっただろうに。

「――もういいだろ、帰るぞ」
「わッ?!」

 まるでひったくるように、ザナはの腕を掴み、歩き出した。グイグイと進んでしまうため、はきちんとした挨拶を返せなかったが、エリオスは穏やかな物腰を崩さなかった。柔らかく微笑んだまま綺麗な仕草で手を振り、町を去るとザナ、そして物々しく物騒なハイエナ獣人の集団を見送ってくれた。

 西の国からやって来た、貴族の子息。金色の髪と緑色の瞳は、清涼な輝きに満ち、とても眩しい。丁寧な所作はいつでも、今ですら、けして崩さなかった。それが、彼の意地だろうか。

 ――誘ってくれて、ありがとう。そして、ごめんなさい。

 会ってまず伝えたかったその言葉を、エリオスは柔らかく拒んだ。だからせめて、は自らの胸の中で、静かに、幾度も告げる。
 選んだのは、彼ではなかった。けれど、彼と過ごす不思議な一時の交流を、確かにも楽しんでいたのだ。


◆◇◆


 ハイエナ獣人の集団は、賑やかなまま立ち去り、やがて視界から消えた。
 彼らの姿が完全に無くなった時、ようやくエリオスは、大きく息を吐き出した。

「はあああ……まあ、悪くない笑顔だった、よな」

 彼女には、気付かれなかったはずだ。この下に隠していた、けれど油断したらすぐにでも溢れ出てしまう、みっともない懇願など、知られてはならないのだ。

「……え? これで良かったのか、だって? はは、良いも悪いも、彼女が選んだのは故郷、荒野の国だ。そもそも、私が出る幕なんか無かった」

 最初から、知っていた事だ。
 褐色の肌と、長い黒髪が美しい、異国の情緒と力強い生命力に溢れた、小柄な少女。あらゆる悪評を受けるハイエナの獣達が、大切に慈しむ、荒野の花。
 目が眩んで惹かれた余所者が、手を伸ばしたところで、得る事など叶うはずがない。

 彼女の側に常に侍ろうとした彼は、いつだってその動向を注視し、何かあればすぐにでもこちらへ噛み付いてこようとしていた。強引に連れ去ったところで、あの獰猛なハイエナは地の果てまで追いかけ、奪い返すだろう。

「彼女が欲しかったのは、逃げ道ではなく、もっと違うものだった。そしてそれは――私なんかでは、与えられないものだった。良いんだ、最初から、知っていたしね」

 だが、まあ、これくらいの悪足掻きは、許してくれないだろうか。
 別れの挨拶と宣い、彼女を抱きしめつむじに口付けた、最後の挑発。
 始まる事もなく、胸の中で静かに完結した、ごく短い恋だったのだから。



2020.10.07