08

「姉さん、私、町へ行ってくるね」

 宛がわれていた仕事を終えた時、太陽は中天を過ぎようとしていた。群れの拠点では、仲間達が思い思いに休息を取っており、この後も特に忙しいという事もないはずだ。
 私一人抜けても、大丈夫だろう。
 が告げると、ジルダはゆったりと頷き、微かな笑みを口元に浮かべる。

「……そうか。供はつけなくても大丈夫か?」
「平気、一人が、いいの。行ってきます」

 は笑みを返し、ハイエナの仲間達で賑わう拠点を離れた。背を追いかけてくる眼差しは、ジルダだろうか。何も言わなかったが、彼女は町へ行く理由を察知しているに違いない。
 普段ならザナが着いてくるが、あれ以来ろくに会話も出来ておらず、彼の姿はやはり遠くにあった。少し寂しいが、今日に限っては、むしろそれが良いのかもしれない。

 ――エリオスに、大事な話をしに行く日なのだから。

 だが、特別な装いはしない。着慣れた簡素な麻のワンピースと、履き慣れたサンダルを身に付け、色鮮やかな一枚布で仕立てたケープを肩に羽織る。背中を覆うほど長い黒髪も、ゆったりと二つに結んだ、いつもの形だ。
 気が重くなるかと思ったのだが、不思議と、身体は軽い。黄色がかった草原を駆け足で抜け、あっという間に町へ到着した。エリオスが滞在しているという宿屋を訪ねると、見覚えのある顔が外にあった。エリオスの護衛の方達だ。彼らはすぐに気付き、をすんなりとエリオスのもとへ通してくれた。

「――こんにちは、さん」

 微笑みながら出迎えたエリオスは、清涼感に溢れた輝きを放っていた。いつ見ても、彼は眩しくて、無骨さとは無縁な出で立ちだ。

「間が空いちゃって、ごめん。今、大丈夫、かな」
「ああ、もちろん」

 の眼差しと、エリオスの眼差しが、不思議な静けさのもと交わった。
 ふう、と一呼吸を置き、はその言葉を告げた。

「こないだの、お返事に来たの」

 エリオスは笑みを崩さず、むしろより一層柔らかくし「中へどうぞ」と招いてくれた。は少し背を伸ばし、部屋の中へ踏み入れた。


◆◇◆


 ――平気、一人が、いいの。行ってきます。

 そう言い残し、群れ唯一の人間の娘であるは、出掛けていった。その背を引き留め、理由を訊ねたりする者はいなかった。誰もが平常を装い、駆けていく小さな姿を見送ったけれど――の姿が無くなった後の群れの空気は、かつてなくどんよりと重く落ち込み、皆口数を減らし消沈してしまっていた。

「……返事、しに行ったんだろうなあ」
「そうだろうなあ」

 はああああ、と重苦しい上に長ったらしい溜め息が群れの至るところで鳴り響く。荒野の国に強者として君臨している、獅子や虎に唯一勝る強靭な顎から出るそれは、あまりにも弱々しい響きに満ちていた。

、西の国に行っちゃうのかな」
「そ、そんな事、ないでしょ」
「でも、は人間だし、私達は……こんなだし」

 猫背気味の背中が、普段にも増して丸く縮まる。各々にあてがわれている仕事など手に付くはずがなく、徒(いたずら)に時間ばかりが過ぎていった。

 ――が、西の国に行ってしまうかもしれないのだ。
 不安で不安で、たまらなかった。

 が考え込んでいたこの数日間、おくびにも出さなかったが、群れのハイエナ獣人達は皆、その恐怖に苛まれていた。荒野の国の厳しい大地に生きる、屈強な肉食の獣人が、小柄な人間の行く末を思い震えていたなんて、きっと誰も信じやしないだろうが。



 短いたてがみ。まだら模様の毛皮。賊と間違われる面立ちに、ついて回る不名誉な風評の数々。
 荒野の国の、嫌われ者――それが、ハイエナ獣人だった。
 古くからの風習により何故だかいわれなき悪評の的になっているが、気にした事は一度も無い。だが、そんな風評に立派な狩人であり情に厚い一族であるという真実は隠されてしまい、ハイエナの獣人を全面的に認めてくれる存在も……残念ながら、これまで無かった。
 だから、立派な狩人だと、格好良い自慢の家族だと、真正面から慕ってくれるは、埋まらなかったものを満たしてくれる大切な存在になっていた。

 ――五年ほど前、陽射しが容赦なく照りつける荒野の真ん中で、倒れ伏していた人間の少女を見つけた。
 骨と皮だけの痛ましい有様を見て、これはあまりにも哀れだと、拾い上げ群れに迎え入れた。いつ尽きるかもしれない幼い命を、群れの大人総出で必死に慈しみ、守り抜いたおかげで、あの痩せ細った少女は今や瑞々しく張った褐色の肌と艶のある長い黒髪を持つ、生命力に満ち溢れる美しい娘へ成長した。それこそ、町で暮らす同年代の娘達よりも遥かに、だ。
 当時のあの痛ましい姿と、ああでもないこうないと悪戦苦闘した献身の日々を覚えている大人は皆、その目覚ましい成長と回復を大いに喜んだ。そして、同じ年頃の娘や青年は、小柄ながらもよく働く意外な活力に溢れたを心から慕った。

 特に、あの瞳。荒野の空のように、あるいは花のように、色鮮やかで曇りのない青色の瞳。
 黄褐色のまだら模様の毛皮と、真っ黒な瞳という、無骨さが何よりも目立つハイエナ獣人では、今後もけして持つ事のない鮮烈なその色彩に、誰もが魅了された。賊と見紛う外見のハイエナの世界を彩る“花”のようだと、常々思っているほどである。当のは「子どもの頃の冗談はもう止めてよ」と恥ずかしがり困り果てていたが……誇張でも、冗談でもなく、本心からの言葉だった。


 ――だから、そんなを、群れの外の何者かが見初めても、なんら可笑しくはない。
 獣人と人間の価値観は違えども、の美しさに対する見解は、きっと同じなのだから。

 それでも、思いもしなかったのだ。が永遠に群れを離れてしまうかもしれない、そんな未来の可能性があるなんて事は。


「……、どうするのかなあ」

 本当は、彼女を囲み、何度も問いただしたかった。西の国に行くつもりかと、群れの仲間を捨てるのかと、みっともなく縋りつき、喚き立てたかった。しかしそれは狩人の矜持が許さないし、なにより自身の心と必死に向き合っているにとても出来る事ではない。

 そのせいで、彼女が何を決め、何を選び取ったのか……誰一人として全く分からない状況になってしまったが。

 掃除屋と侮辱されようと、山賊やチンピラなどと呼ばれようと、大体の事は気にも留めず笑い飛ばしてきたハイエナの獣人達は、見るに堪えないほど落ち込んでしまった。

 そしてそれは、常にの傍らに在ろうとしたザナも当然含まれている。

「……お前が、一番、嫌がると思ったんだけどな」
「……」
「なあ、何とも思わないのか」

 同年代の若い雄が、責めるようにザナへ詰め寄る。長い沈黙を挟んだ後、ザナはぽつりと呟きを落とした。

「……あいつが決めた事なら、俺は口は出さねえよ」
「だけど」
「あいつが自分で決めた事なら――口を出す権利は、俺にはない」

 折れてしまいそうな子どもの時から、骨と皮だけになるまで酷使されてきたのだ。自らの意志とは、関係なく。

 思えばは、二年近く、自分の意志というものを理解出来ず、周囲に言われるがまま生活していた。自分で選ぶというごく当たり前の事が出来ないため、指示を出さなければ着替えすらろくに出来ない有様だった事を、ザナもよく覚えている。
 それは、彼女のせいではない。命令に従順であるよう躾けた、主人のせいだ。
 見た事もない、名前も知らない、だが醜悪だろう事が容易に想像のつく主人と、自分は、自分達は違う。ここにいる者は皆、命令し支配するような存在ではないのだと、彼女に知ってもらおうと苦戦したものだ。

 あの時の事を、今も覚えているからこそ――。

「――言える、はずがねえだろ」

「お前は本当に、昔から不器用極まりない雄だな」

 ぴくり、とザナは丸みを帯びた耳を跳ねさせる。振り返った先に、群れの長でありの姉でもある、ジルダの姿があった。

「あまり不器用が過ぎると、捕まえておけるものも何処かに飛んで行ってしまうぞ」
「……何の話だ、ジルダ」
「はああああ……まったく」

 ジルダは、わざとらしく大きな溜め息を吐き出すと、ザナを鋭く見据えた。

「今にも誰か噛み千切りそうな顔をしているくせに、口先だけで物分かりの良い事を言うもんじゃあない」

 ジルダに指摘された時、ザナはようやく、自身の表情を理解した。
 鼻筋にはしわが浮かび、裂けた口元から牙が剥き出されている。
 ……酷い顔つきだ。優雅さとは程遠い、無骨で野蛮な、荒野に生きる獣そのものだ。西の国から来たあの人間の雄とは、何処までも正反対なのだろう。

 ――これでは本当に、狩人ではなく、野蛮な悪者だな。

「ザナ。お前は、が西の国へ行こうと決めても、止めないというんだな」
「……あいつが、そう選ぶのなら」
「そうか。なら、私の妹は、群れの大切な花は、何処の骨とも知らぬ人間に攫われていく訳か――そこで幸せになれると、確証なんてないのにな」

 事も無げに続いたジルダの言葉に。
 ザナは、一瞬、心臓が止まった。

「……は?」
「そうだろう? 西の国は私達だって知らない。見知らぬ国で、本当に幸せになるかなんて、分からないさ。大切にしてきた花が、美しく咲くか、それとも惨たらしく手折られるかは……――」

 ザナは弾かれたように、ジルダの正面へ踏み込む。今にも掴み掛からんとするその勢いに、周囲には緊張が迸った。


 ――ハイエナ獣人は、雄よりも、雌が強い。
 社会的地位や背格好だけではない。その、生来の気性においても。


 グルルル、と低く這う唸り声が、ザナから漏れる。だが、対面するジルダはさして怯んだ様子はなく、むしろ牙を剥き出すザナに対し、上回る苛烈さと共に冷酷に睥睨した。

「長に噛みつくつもりか。良い度胸だ、雄はそれくらいの度胸がなくてはな。だが、その前に、しなくちゃならない事でもあるんじゃないか」
「……」
「――お前は、牙のない腑抜けか? それとも、誇りを持つ狩人か?」

 その問いかけに、ザナは両目を見開かせる。
 真正面からぶつけられた女長の言葉に、しばらく沈黙を貫いたが、次第にその身体はわなわなと小刻みに震え出す。そして、深く息を吸い込んだかと思った、次の瞬間――咆哮をあげるように叫んだ。

「……~~~くそが!!」

 唐突に響き渡る、ザナの絶叫。頭を掻き毟り、昂ぶった感情を爆発させる彼に、見守っていた仲間は皆呆けた。

「ありがとうよジルダ!! それと、ふざけんなよ!!」

 感謝と罵倒を放り投げると、ザナはその勢いのまま、乱暴に自らの槍を担いだ。

「え、あ?! おい、ザナ! 何処に行くんだよ!」
「――決まってんだろうが!!」

 慌てふためき駆け寄る仲間を振り払い、ザナは凄まじい速さで駆け出す。その足は、獲物を追い詰める狩りの時よりも、ずっと速く、そして見苦しいほどに必死だった。

 あっという間に小さくなるザナの姿に、どうしたのかと慌てる者や、追いかけようとする者など、様々な反応が混乱する群れの中にあったが――ジルダだけは、満足そうに微笑みを浮かべていた。


◆◇◆


 ――気付けば、太陽は随分と傾いていた。
 もう少し時間が過ぎれば、太陽は沈み始め、空は赤く染まるだろう。

 いつの間にか、そんなに話し込んでしまっていたのか。
 が窓の向こうに広がる暮れゆく空模様を見つめていると、向かい側のソファーに腰掛けるエリオスも気付いたように声を漏らした。

「ああ、もう、そんなに時間が経っていたんだ。話し込んでしまったね」
「エリオス、話が、とても上手だから。羨ましい」
「そう? 良かった。この国で暮らすさん達には、敵わない事ばかりだったから。ようやく、勝てるものを一つ見つけたよ」

 自信が無くなるところだったんだから、と笑うエリオスに、は肩を揺らし笑った。

「外まで送るよ。楽しい時間をありがとう」
「ううん、こちらこそ。あの、エリオス」
「ん?」
「ありがとう、それと……――」

 ふわりと、の唇に、エリオスの白い人差し指が触れた。美しい所作を纏う指先は、とても優しかったけれど、その先を望まないかたくなさも同時に感じさせた。言いかけた言葉は、喉の奥へと静かに戻っていく。

「……エリオス」
「話が出来て、良かったよ」
「……うん、私も」

 は何も言わず、エリオスに肩を抱かれながら宿を出た。挨拶をしようと向き直った時、不意にエリオスが、ある一点を見つめ出した。

「ああ、これは……」
「?」
「ふふ、迎えが、来られたようだよ」

 悪戯っぽく笑うエリオスの視線の先を、も追いかけた。
 そしてすぐさま、“迎え”という言葉の意味を理解した。

 人の往来が妙に少なくなった通りの先に、物々しく佇んでいる獣人達の影。短いたてがみに、まだら模様の毛皮、そして猫背気味の立派な身体と、考えるまでもない見慣れた要素は……仲間達のものだ。
 だが、は身動ぎも出来ず、その場で硬直する。
 集った群れの仲間が全員、これから何処か襲撃にでも向かいそうな殺気だった空気を撒き散らしているのは、一体何事だろう。
 そしてなにより――その先頭に立つハイエナ獣人の青年が、一際獰猛な表情を浮かべ、凶暴さを湛えた眼光をもってを射貫いているのは、何故だろうか。



2020.10.07