07

「――、今日は、たまに一緒に寝よう」

 夜を迎えてもなお沈んだままのへ、そう言葉を掛けたのは、群れの長であり姉でもあるジルダだった。
 ハイエナ獣人は、男性よりも女性の方が大きい――その特徴の通り、すらりとした背格好の彼女は群れを守る女傑そのものなのだが、この時の彼女からは何処か母親のような穏やかさが感じられた。

「姉さん、私……」
「寝支度が終わったら、テントに行っていろ。いいね」

 ぽん、と頭に乗せられた大きな手のひら。そこから伝わってくる優しい温もりに、は何も言えなくなり、小さく頷いた。



 支度を整えて向かったテントでは、ジルダの夫(にとっては義兄)と、その子ども達が賑やかに寝床を作っていた。彼らは、日中の事も含め、を問いただすような真似はせず明るく迎え入れてくれた。「おねえちゃんが来るのは久しぶりだね」「なでなでして~」なんて甘えてくる姪っ子、甥っ子の可愛さに存分に癒された頃、ジルダがやって来た。まだまだ体力が有り余る子どもを寝かしつけ、夫に任せる姿は、女長ではなく母親だった。
 そして、ジルダは自らも寝床に包まると、を懐に招いた。

「ふふ、相変わらず、は小さいな」
「姉さん、大きいんだもの」

 思ったように身長が伸びず、小柄なまま落ち着いてしまった。ジルダは女性だというのに、男の人に抱きしめられているような錯覚を抱く体格差だ。

「何だか懐かしく感じるな……。年の近い娘達と過ごしているせいか? 私との時間が減るのは駄目だな、次も一緒に寝よう」
「ふふ、何言ってるの、姉さん」

 しかし、言われてみれば確かに、ここのところ同年代の娘達と寝る事が多かった。テントは基本、一家族が一つ使うが、寝る際の人数や顔ぶれは自由に変わったりもする。ジルダとこうして同じ毛布に包まって眠るのは、久しぶりだ。

「昔は、よくこうして眠っていたなあ。お前はよく魘されるし、下手したら寝ずに隅っこで丸まっている時もあったし」
「そう、だったね」
「私がこうしていないと駄目だったから、それが無くなったのは喜ぶべき事なのだろうが……やはり寂しいものだな」

 クスクスと上機嫌に笑った後、ジルダは声を落ち着かせぽつりと呟いた。

「……あの頃は、他の妹達も居たな」

 スラムから売り飛ばされ、その先で使い潰され、役立たずとして再び放り投げられた、幼少期。
 荒野のど真ん中に捨てられていた、痩せ衰えたを、ジルダが見つけ拾い上げた。その当時、彼女は群れを引き継いだばかりだった。群れにはジルダの実妹達が存在し、彼女達にはよく構われ、率先しあれこれと世話を焼かれたものだ。その数年後には、「大きな群れを作ってくるわー!」と旅立ったり、自分の好みに合う伴侶探しに他の群れへ入ったりと、それぞれが自身の道を歩み出した。

「妹達が世話を焼く風景を、今も思い出す。拾ったばかりの時のお前は……なんにも喋らない、表情も動かない、人形のようだった。壊れる一歩手前の、な」

 眠るにも、食事をするにも、声を掛けなければ動かない一方で、言われた事は即座にやる恐ろしいほどの従順ぶりを見せた。自身の感情を表す事は苦手で、心と身体の痛みをけして明かす事はなく、一人で抱え込む事が癖になってしまっていた。
 あまりの不憫さに、ほぼ全員がその日の内に「群れで大切にしよう」という結論に至った。
 としては恥ずかしい限りだが、思い出すジルダの声は酷く優しかった。

「……私は、重荷じゃ、なかった?」
「重荷? まさか、そんな事、一度も思った事はなかった」
「でも……私、知ってるの」

 勇気を振り絞り、はその続きを口にした。

「姉さんが、ライオンの男の人を、やっつけたっていう、あの話。その人が、みんなの事を馬鹿にしたから、でしょ」
「……」
「私が、群れに、いるせいで」


 ――ガリガリで小さく、爪も牙も持たない、か弱すぎる人間の小娘を仲間とは。

 ――荒野の“掃除屋”は、ずいぶん間抜けなんだな。


 すぐさま仲間がを抱え遠ざけたけれど、うっすらと耳に届いていた。
 そして次の瞬間、ジルダは激憤を爆発させ、そんな言葉を吐いた男をボコボコに伸した。荒野の国でも名の知れた、肉食獣の獣人の中でも有名な、獅子の獣人を。

 ハイエナ獣人は、数多く存在している。従って、束になって掛かれば大抵のものはひとたまりもないだろう。それでも、彼らは他所の一族と争う事はほとんどなく、身内をとても大切にする。獅子の獣人と争うような事自体、まず起きないのだ。
 ジルダは女傑だが、余計な諍いは好まない。そんな彼女が、激昂し、獣人の雄を叩き潰したのだ。獅子よりも狩りが上手い、生粋の狩猟民族であるのに、“掃除屋”などという最低の侮辱を受けたから。

 ――が、群れに、居てしまったばっかりに。

「……迷惑、掛けてた」

 目元を擦り、ぐすっと鼻を啜る。の言葉に耳を傾けていたジルダは、ふと柔らかな笑みを呼気に乗せこぼした。

。あの時、私が怒ったのは、“掃除屋”と侮辱されたからじゃないよ。妹を、仲間を、コケにされたからだ」

 それにな。ジルダは、何か思い出したように、くっと息を噛んだ。

も、知っているか? あのひよっこライオンが吹っ掛けてきた時、群れの仲間ほぼ全員が立ち上がり、そいつと取り巻きを延々追い掛け回したんだぞ。誰かに命じられたわけでもなく」
「えっ」
「しかもな……くく、私と同じくらいに怒り狂った奴が、確かもう一人くらい居たかな」

 ひいひい言って逃げ惑う、獅子の獣人。
 それを罵詈雑言と共に追い掛け回す、何十人ものハイエナ獣人。
 そして、槍を片手にその先陣を切る、一人の姿――。
 あの光景は、たぶん後にも先にも無かっただろう。面白い光景だった、なんてジルダは笑っている。

 女傑の武勇伝の裏に、そんな奮闘劇があったとは。山賊紛いの外見をするハイエナが、束になって獅子を追い詰めるとは……想像したら、笑い事ではないが少し面白い。ならば、あの獣人達は、さぞ恐ろしい思いをした事だろう。ああ、だからあれ以来、粉を吹き掛けられる事がないのか。

「誰も、お前を迷惑とは思っていない。私だけでなく、あいつらも怒っていたのは……仲間と思っている証拠になるんじゃあないか」
「……うん、そうだと、嬉しい」
「自信が無さそうだな?」
「だって、ザナと、その……もめて……」

 ぴくり、とジルダの丸みを帯びた耳が跳ねた。

「人間が人間に惹かれるのは普通だって、俺らと人間は違うって、言われちゃった」

 治まっていた悲しみがぶり返し、じわりとまなじりを滲ませてくる。

「……あいつが、そんな事を言ったのか」
「う、ん」
「はああああああ……まったくあの馬鹿は。何処まで不器用なんだ」

 忌々しさたっぷりに吐き出されたジルダの溜め息は、長く、とても長く響いた。

「いつまでも不器用極まりないザナは、今度説教をするとして……まあ、あいつも、ようやく気付いたんだろうな」
「気付いた……?」
「お前の進める道が、一つではないという事を」

 すなわち、この群れで暮らすか。それとも――人間のもとで、新たな暮らしをするか。

「西の国へ来ないかと、あの男に誘われただろう? 驚きはしたが……もとからあった選択肢が、今の前に出てきただけだ。それに、お前はもう立派な一人前だ。自分の事を考えられる、考えてもいい年だ」
「……狩りに参加できない、軟弱な女でも?」

 心の中にわだかまっていたものが、思わず口をついて飛び出ていた。ジルダは一瞬ぽかんと呆気に取られていたようだが「そんな事を気にしていたのか?」とからりとした笑みをへ向けた。

「確かに狩りは参加出来ないが、その分、手先が器用じゃないか。細かい作業や裁縫が一番上手で、ハイエナの女とは違う、お前だけのいいところだ」
「そう、思ってくれる?」
「当たり前だろう。私は嘘はつかない」

 そう告げたジルダの声は、本当に自信たっぷりで堂々とし、の中の仄暗い感情をいとも容易く吹き飛ばした。
 本当に、この人には、敵わない。
 は口元を緩め、毛むくじゃらな胸元に額を押し付けた。

「時間はあるのだろう? じっくり考えてみるといい」
「うん」
「念のために言えば――私は、お前がここで暮らす事を、とても嬉しく思うよ」

 ジルダの腕が、の身体をぎゅっと抱きすくめる。少しゴワゴワして、男の人みたいに逞しくて、とても温かい姉の抱擁を、は素直な心で受け止める。骨と皮だけの痩せ細っていたあの頃のように、ジルダの胸にしがみついていた。

「――お前がここに来てからな、群れの暮らしは、少し変わった。でもそれは、悪い方向じゃなくて、新しい方向に進んだと思っている」

 荒野の国のならず者。
 地を這う悪食の掃除屋。
 いわれのない悪評を、多くのハイエナ獣人達が受けてきた。
 だが、周囲からどう囁かれようと、ハイエナの一族は生粋の狩猟民族。狩りを得意とし、荒野の国の各地を移動し暮らす、そんな日々を古い時代から続けてきた。

 だが、そこへ新たに人間が加わると――あっという間に、群れの生活は新しくなった。

 まず、数多くの種族が集まる大きな町を探し、出入りするようになった。拾ったはいいが、人間の小さな子どもの扱いなど知る由がなく、町の女性達から話を聞くしかなかったのだ。そうすると、相談をしている内に、最初こそ怯えていた女性達は警戒を解き、親身になって聞いてくれて、様々な知恵と助言を授けてくれた。次第に、遠巻きにしていた町の人々も声を掛けてくれるようになり、町との繋がりが生まれた。
 人間の子どもに必要なものを調べ、右往左往しながら道具などを揃え、そのたびにああでもないこうでもないと話し込んで懸命に世話をした。がりがりに痩せた子どもを救わなければならないと、かつてない団結力が生まれ、結果として群れの結束力は格段に増した。

 苦労も確かに多かったが、こうして思い出すと――苦戦するばかりだったあの日々は、色鮮やかで美しかった。

 そしてそれは、他の群れとは一味違う強さをもたらしてくれたのだと、ジルダは微笑んでいた。

「変わるという事は、未知の事。だが、お前が一人前になった今、やはりあの時妹にしたのは間違いではなかったと、改めて思うよ。そこを、どうか真っ直ぐに受け止めて欲しい」
「……うん、ありがとう、姉さん」

 こんな風に想われて、もう、疑いなんてこれっぽっちもない。私の居場所は、ずっとここにあったのだ。もう二度と疑わない、疑ってはならないと、は心の中で意志を強くした。

「ふふ、私達の自慢の花なんだ。大切にするのは、当たり前だろう」

 上機嫌に笑うジルダの言葉に、はある事をふっと思い出した。

「そういえば……姉さん、それ、言い出したのって、誰だったの?」

 花、だなんて。一体、誰が言い出した事だったのだろう。
 群れの仲間の誰かだとしても、そんな呼び方、どうやって思いついたのか。
 エリオスに問われて以来、妙に気になってしまった疑問をが呟くと、目の前のハイエナの顔がきょとりと呆けた。

「おや。まさか、まだ知らなかったのか? そうか、そうだな……ふふ、ついでに、それも教えておこうか」

 “誰”が最初に、をそう誉めそやしたのか――。

 ジルダは、悪戯を閃いた子どものように、ウキウキとした空気を隠さず語り始めた。



2020.09.05