06
巨牛という大物を相手取った狩りは、成功を収めた。文句のつけようのない立派な獲物を運んできた仲間は、拠点で待機していた者達からの称賛と歓喜が惜しみなく向けられた。誰もが獲物に夢中になり、群れの分と店へ売る分を話し合っている。
しかし、狩りの成功に賑わう群れの中――だけが、ぼうっとしていた。
「はあ……やっと持って帰れた。重いのなんのって」
珍しく疲れた風にぼやくザナが、盛り上がる仲間の輪から抜け、のもとへやって来た。はハッと意識を戻し「お疲れ様」と労ったが、ハイエナの顔に怪訝な仕草が即座に浮かぶ。
「……なんか、あったか」
「え? な、何で?」
別に何もない、と言おうとしたが、ハイエナ特有のじとりと垂れた両目はを真っ直ぐと見据えている。下手に誤魔化しても無駄だと言わんばかりの圧さえ伴っていた。
「……に、何か、しやがったか」
ザナはエリオスへ視線を移すと、鼻梁にしわを浮かべ、獰猛に唸った。態度と仕草は山賊そのものなザナだが、わりと気のいい部類だ。ハイエナに付いて回る風聞を耳にしても気にせず、それを口にした者に仕返しをする事もない。そんな彼が、他人に対し、牙を剥き出し威嚇を露わにするのは……思えば、初めて見たかもしれない。
真正面から唸り声を浴びせられているのに、エリオスはというと、そよ風でも受けたような物腰のままだった。恐怖はないとでもいうように「いいえ、何も。彼女を貶めるような事は、何もしていません」と柔らかく微笑んでいる。その微笑みが少し恐ろしいと、は初めて思ってしまった。
「――さん、貴女は、とても綺麗な女性だよ」
「えッ?」
突拍子のない言葉に、の声はひっくり返った。
「色の濃い、太陽が似合う肌。美しい、艶やかな黒髪。それでいて、瞳は空よりも鮮やかな、宝石の青。荒野の自然に、愛されるような姿だ」
「え、や、あ……?」
おまけに手放しで誉めそやされ、声どころか顔まで素っ頓狂に呆けてしまった。
「……西の方の、冗談か? それとも」
「私は、このような事を冗談で言うほど、意地の悪い性格はしていない」
エリオスの穏やかな声に、ひりつくような緊張が迸った気がした。
「……人の心なんて見えない。親しい、それこそ“家族”でも。言わなくても通じる、なんて聞こえはいいが、自分勝手な言い分だ。誰だって、言葉での気持ちも欲しくなる。そうでしょう」
「……」
「言葉にしなければ伝わらない事もある。大切であるなら、なおさら」
エリオスは、何処か含みのある声で告げると、へと改めて視線を合わせた。
「さん。私が最初、貴女へ言った言葉を、覚えている?」
――力強い色の肌に、美しい真っ直ぐな黒髪。それに、青空のような瞳の色をしている。荒野の国に映えるようで、驚きました。店の主人らの言葉にも納得です。
ふと、あの日のエリオスの言葉が、脳裏に蘇った。西の国の殿方の冗談だと、ほとんど薄れていたのだが……。
そんなを見透かしたように、エリオスはくすりと呼気をこぼし、手を伸ばした。
「嘘ではないよ。さん」
エリオスの、筋張った長い指が、の褐色の手を取る。恭しく持ち上げ――細い指先へ、形の良い唇をそっと落とした。
ぞわり、と背筋が震えた。それは、嫌悪や恐怖ではない。繊細で、もどかしい、疼きのような未知の甘い震えだった。
気付けば、狩りの成功を喜びあれほど響いていた仲間達の声は、しんと静まり返っていた。動揺か、あるいは好奇心か、ざわついた空気が群れにひしめき、ハイエナ獣人達の何十もの眼差しがとエリオスへ突き刺さる。
――しかし即座に、エリオスの手は解かれた。
苛立ちを剥き出しにしたザナが、弾き飛ばしたからである。
「てめえ……」
「小さくて、力が弱くて、この群れで一番ひ弱な存在。ザナさんの認識がそうであっても……私は、そのように思わない」
この数日間、彼女は獣人ばりに逞しかった。逞しくて、眩しい、荒野の一人の女性だったと、エリオスは声に乗せた。
「私の国……西の国に一緒に行く事、どうか、考えてみて――」
特大の衝撃を秘めたその言葉を、仲間達にも聞こえるよう残し、エリオスは町へ戻っていった。
彼が去った後、仲間達からは一斉に、一体どういう事なのかと詰め寄られた。あの人間の雄からそんな誘いがあったのか、いつ返事をするのか、様々な問いかけを掛けられたと思うが、の心は何処か遠くにあり、彼らにどう答えたのかあまり覚えていない。
だって、拾われてからずっと暮らしてきたハイエナ獣人の群れを離れ、別の国へ行くだなんて。
思ってもいない事を告げられ、混乱しているのは、私の方なのだから。
考えて、なんて言われてみても、冷静に考えられるわけがない。手元は狂い、料理で使う大鍋を落とし、木皿をぶちまけ、挙句、一番の得意のはずの裁縫では自らの指を針で刺した。尋常でないの狼狽えように、仲間達は皆心配し、今日はもう休めと群れの仕事を取り上げられた。動いていた方がまだマシなのだが……仕方なく、拠点の外れでぼうっとし時間を潰した。
黄色がかった草原の彼方へ、太陽が沈んでいく。いつの間にか、もう夕刻だった。涼しさを帯びた風が草の爽やかな香りを運んでくれる。いくらか、頭の中が落ち着いてきた。
(というか、そもそも何で、エリオスはあんな事を言ったのだろう)
貴族の子息にとって、荒野育ちの女など、物珍しさはあっても役に立つとは思えないが……。
黒髪と指先に触れた彼の形良い唇が、不意に思い出され、慌てて腕を振る。
「――何してんだ、」
「わあ!!」
全身を飛び跳ねさせ、勢いよく振り返った先に、ザナの姿があった。彼は呆れたように目を細めつつ、の隣へ足を進めると、どかりと腰を下ろした。猫背気味のまだら模様の身体から、体格の良さによるものではない威圧感を妙に感じた。
「怒って、いる?」
「別に、怒っちゃいねえよ。なんに対しての怒りだ」
そのわりには、低い声がいつになく素っ気なく、刺々しく感じるが……。
「――あの人間が言っていた事」
「えッ?」
「西の国に来いなんて、本気で、言われたのか」
来い、だなんて。来てみないかと、控えめに誘われただけだ。
と、は細々と返してみたが、「同じようなもんだろうが」と正論で頬を打たれる始末だった。
「――行きたいのか」
棘のような感情が抜け落ちた、淡々とした声音だった。そしてを見つめる黒い獣の瞳も、恐ろしいまでの静けさを帯びていた。
「……正直、よく分からない」
この群れでの生活は、本当に幸せだ。だが、チビで牙も力もない人間の女なんて、仲間にとっては迷惑でしかないのかもしれない。
そんな事を一度思ってしまったら、簡単には消え去ってくれないでいるのだ。
「楽しそう、だとは思う。知らない場所、知らない風景、たくさんの人間。でも、私は……――」
「そうかよ」
言葉の途中に、ザナの声が割り込み、その続きまでも止めた。
打って変わり、不機嫌さを隠さない、苛立ちが濃く滲む声だった。が驚き見上げると同時に、ザナは立ち上がった。
「行きたいって事か。なら、そうすりゃいい」
声が、出なかった。喉が詰まり、苦しさが胸の奥から広がっていく。
「ザナ……?」
「決めるのは俺じゃねえ。お前だしな。好きにすりゃいい」
なんで、そんな風に、言うの。
込み上げた言葉は、声にはならなかった。代わりに手を伸ばし、毛むくじゃらの指を取ろうとしたが――すいっと、彼の手が離れた。
急に、深い溝が生まれたようだった。冷淡に突き放され、指を握る事を拒まれ、不安と心細さが急激に膨らんでいく。
「そ、そん、そんな、言い方……」
「お前は、人間だろ。人間が人間に惹かれるのは、間違いじゃねえ――俺らとは、どうしたって違うんだからな」
俺らとは、どうしたって違う。
最初からあった事実だが、いざ突きつけられると――こんなにも、痛いのか。
「ザナ、ねえ」
「……」
「私、ずっと、邪魔だった?」
呼び止めた大きな猫背は、振り返らなかった。苛立ちを露わにし立ち去る彼の姿へ、掛ける言葉も、縋りつく腕も、は一つも持っていなかった。
不格好に自嘲し、歪む表情を、両手のひらで鷲掴みにする。
(ああ、私、やっぱり馬鹿だった)
彼に縋るなんて、最初から、出来るはずがなかったのだ。ハイエナ獣人の群れに、図々しくも居続ける、異分子なんかに。
それでも、の中には、期待があった。彼が、何処にも行くなと引き留めてくれる、そんな思い上がった期待が、確かにあったのだ。
2020.09.04