05

 エリオスの衣服を渾身の出来で綺麗に繕った、その直後であった。
 穏やかな昼下がりを迎え、ほのぼのと過ごしていた群れの中に、にわかに騒がしい空気が流れていた。

「どうしたんだろう。何か、あったのかな」
「たぶん、これは……」
「狩りが始まる」

 背後から掛けられたぶっきらぼうな低い声は、ザナのものだった。

「近くで、でかい獲物を見つけたらしい。見失う前にこれからすぐに向かう」
「ザナも?」
「ああ」
「そっか、分かった」

 狩りの身支度をしているのは、十数名と、結構な人数だ。一つの狩りにこれほど集まるという事は、その獲物というのはかなりの大物らしい。気合いを入れる様も、ここ最近では見ないほどだ。

「……? ザナ? どうかした?」
「……いや、なんでもねえ」

 なにやらじっとを見つめてきたが、ザナは視線を逸らし、エリオスを一瞥する。それから、狩りへ臨む仲間のもとへ向かい、慌ただしく出掛けていった。

「これから狩りか」
「たまに、こんな風に急に始まる事がある。よっぽど、大きな獲物だったんだと思う」

 エリオスはそれ以上言わなかったが、彼の表情と雰囲気はあまりにも雄弁であった。狩りを見たい、間近で見たい、そう訴えている事はにも読み取れる。

「見に、行ってみようか。遠くからなら、たぶん、大丈夫」
「ザナさんに、怒られるかな」
「ちょっとだけ、だもの。大丈夫」
「ふふ……そうか、じゃあ、お願いしようかな」

 やはり迷いのないエリオスの言葉に、は小さく笑みを噴き出す。
 本当に、何というか、とても肝が据わった貴族の子息様だ。


◆◇◆


 群れの拠点を離れたは、エリオス達を連れ、草原の小高い丘の上へとやって来た。
 仲間達の狩りのやり方は、頭の中に入っている。ここからならば、狩りの様子を見れるだろうし、邪魔にもならないだろう。

「ほら、エリオス、あそこ」
「ハア、ハア……」
「大丈夫……?」

 移動した距離はけして長くはなかったが、既に息が荒くなってしまっている。急いでいたから、あまり道を選んであげられなかったせいだろう。

「だ、大丈夫です……それで、ザナさん達は」
「あそこ」

 は、そっと丘の下を指差す。

 なだらかな黄色がかった草原に上がる、土煙。それを巻き起こしながら爆走しているのは、猛々しい二本の角を持つ巨牛だった。遠くから見てもはっきりと理解する、ムチムチとした立派な体躯。人間どころか獣人よりも大きい。下手したら、そこいらの肉食獣よりも気性が荒そうで、突進一つであらゆるものを吹き飛ばす、そんな想像をしてしまう個体だった。
 あれは確かに、大物だ。十数名の戦士を連れて行くだけはある。
 荒々しく草原を走り、何度も太い角を振り上げ、いかにも手の付けられない暴君ぶりを見せている。その巨牛の周囲には、仲間の姿があった。付かず離れず、距離を取り、巨牛を窺っている。

「大丈夫、なのかな」

 不安そうなエリオスの声が聞こえた。端から見れば、手が付けられない暴れ牛に、今にも蹴散らされてしまいそうな光景だろうが――ハイエナ獣人の狩りは、まだ始まったばかり。本番は、これからだ。

 暴れ狂う巨牛を、ハイエナ獣人達はわざとちょっかいを掛け、怒らせ無駄に走らせる。じわじわと疲れが現れ、息が乱れてくると、休ませる間もなく今度はハイエナ獣人達が追いかけ回し、体力を削り取る。執拗に、幾度も、それを繰り返すのだ。
 そうして、散々暴れ回った巨牛もすっかり疲れ果て、隙が大きくなったところで――一斉に飛びかかり、仕留める。

 それが、彼らの行う、狩りだった。
 時に長丁場にも及ぶその狩りを成功たらしめる最大の要因は、彼らの並外れた体力と気力である。無尽蔵とも言えるその体力で、相手が疲れ果てるまで追いかけ回し、動けなくなったところを確実に狙う。意外にも俊敏な上に、体力があり、また仲間の数が多いからこそ出来る、狩りの方法だ。

 華やかさとはかけ離れ、見栄えはしないかもしれないが、彼らの確実な狩りをはいつも誇らしく思う。
 若いながら、狩人としても、槍を扱う戦士としても、腕が立ち信頼されているザナも、無論そこに含まれている。

 人間のでは――同じように立ち振る舞い、同等の力を振るう事など、けして叶わないから。

(本当に、かっこいいな)

 羨望にも似た眩しさをが感じていると、傍らからエリオスの声が静かに響いた。

「すごいね、君の仲間は」
「そうでしょ」
「……さんは、どうして、彼らの群れで暮らしているんだ?」

 その問いかけは、外の国からやって来た旅人が好奇心を満たすためだけに放たれたものではない。を深く見つめ、知ろうとする、凪いだ静けさを帯びていたのだ。
 これまでもそうだったように、誰しも一度は抱く疑問だ。何故、ハイエナ獣人の群れに、人間の女が一人だけ存在しているのか、と。
 は特別、気分を害してはいない。しかし、真剣に耳を傾けてくれるだろうその眼差しを受け、不思議な穏やかさが胸の奥にあった。だからきっと、自らの昔の話を、自然に言葉に出来たのだと思う。

「――今よりも、ずっと昔、子どもの時。荒野の真ん中に捨てられて……それを見つけてくれたのが、ハイエナ獣人の群れだった」




 ――もともと、捨て子だった。
 荒野の国の片隅にある、名も無き小さな街。その裏側に伸びた、いかにも病や悪事の吹き溜まりのスラムが、生まれ育った場所だった。
 血の繋がった肉親からも、住人からも見放され、誰の手も掴めず道端の隅で蹲る。そんな小さな子どもの末路など、大体決まっている。商人に捕らえられ、どこぞの商いの店に売られた事も、大して珍しい事ではなかった。むしろ、身売りをする店ではなく、物品を扱う店に売られた事は、不幸中の幸いだったのだろう。もっとも、そう思っていられたのは、最初だけだったが。
 店の主は、それは酷い人間だった。醜悪、俗物、悪漢――ありとあらゆる汚い言葉が似合う性格で、働かされる環境も劣悪そのもので、スラム以上に過酷な生活を余儀なくされた。心身がボロボロになるのも時間はかからず、ついに動けなくなるほど痩せ衰え衰弱した。そうして、店の主は何の躊躇いもなく見切りを付け、再び放り投げた。
 ――焼けるような陽射しが照りつける、荒野のド真ん中へ。

 今思い返してみても、本当に酷い話だと思う。しかし、最も悲しいのは、それが“珍しい話ではない”というところなのかもしれない。
 衰弱死か、それとも、生きたまま猛獣に喰われるか。漠然とした死の気配を感じながら、力尽き倒れ込んだその時――ここに来て、手を伸ばし、抱き上げてくれた者が在った。
 それが、今よりも若く溌剌とした、ジルダだった。当時その辺りで、ハイエナ獣人の群れが拠点を置いていたのだ。

 とはいえ、抱えられ連行された際、安堵ではなく、恐怖しか見出せなかった。なにせハイエナ獣人、まだら模様の体毛に、短いたてがみ、猫背気味の強面と、何処からどう見ても野蛮な賊だった。痩せ衰えた身には、彼らはあまりにも大きく巨人のようで、群れに囲まれた時など頭の中は「殺される。生きたまま喰われる」で埋め尽くされた。

 ――だが、ジルダと、群れの獣人達は、その想像を裏切り、献身的な世話をしてくれた。
 薄汚れた身体を綺麗に洗い、怪我を手当てし、食事と寝床を用意してくれた。そして、身の上話を真剣に聞いてくれて、最後は躊躇なく「ここで暮らしていったらいい」と言ってくれたのだ。

 それからは、ジルダの妹として群れの中で過ごすようになり、仲間の証として新しく名前をつけてもらった。“輝く命”という意味を持つ、という素敵な名前を。




 ……まあ、捨てられた時の状態とそれまでの生活があまりにも悪かったせいで、当時十歳前後だったのに五歳ほどのうんと小さな子どもに見られていた事は、驚きだった。どうりで赤ん坊のような扱いを受けていたわけだ。
 彼らの献身のおかげで、今やはすっかり荒野の暮らしにも強い、健康的な十七歳の娘になれた。過酷な生活によりままならなかった発育はいくらか改善され、骨と皮だけのガリガリの体型も克服し、ハイエナ獣人を見習い強くなれた。背丈だけは思ったように伸びず、小柄なままなのが唯一残念に思うくらいだ。胸と尻にいってしまった栄養が、背丈にいったら良かったが……。

「そんな感じにね、ハイエナ獣人のみんなが、家族になった。口減らしに売られて、その先で使い物にならなくなって、荒野の真ん中に放り投げられた。それだけ」

 珍しい話ではない。だが、けして面白い話ではない。あの頃の記憶は嫌なものばかりで、乗り越えた今もあまり深く思い出そうとしていない。
 だから、嫌われ者の噂話がついて回る、賊のような外見のハイエナ獣人との生活は――幸福な事ばかりだった。
 大勢で火を囲み食事をして、身を寄せ合いながら眠り、何処か原始的だが温かくて、寂しい事など一度もなかった。何度思い返しても、幸福な日々ばかり続いていた。

(姉さん達のおかげでもあるけど、ザナのおかげでもあるんだろうな)

 年は同い年くらいらしいのだが(正直、獣頭な獣人は年齢がわかりにくい)、既に昔からわりと大きな身体をした男の子で、群れに迎え入れられたばかりのガリガリだったは、彼を年上のお兄さんのように見ていた。ザナは昔から兄貴肌で、獣人に囲まれどうしたら良いのか分からないを、よく率先して構い、手を引いて様々な景色を見せてくれた。あの時に見た荒野の風景は、殊更に綺麗だった。

「でも……やっぱり、私は人間」

 真の意味で、彼らと同じ暮らし方は、出来ないのだ。

 ハイエナ獣人は、生粋の狩猟民族。男女ともに、勇ましい狩人であり戦士だ。根本的な体力の差は明白で、彼らの長時間に及ぶ狩りには参加する事は出来ない。おまけに、鋭い爪も牙も持たない小柄な人間というだけで、他の肉食系統の獣人からは舐められがちだ。
 ジルダやザナは言わないが、きっとこれまで、数多くの面倒や不都合も多くあっただろう。
 そして、獣人とは、祖となった動物の生態が色濃く現れる。まだら模様のハイエナ獣人は、代々雌が長となり、そしてその長の娘が群れを引き継ぐ、完全な女性優位社会だった。長の妹という立場であり、また日常の狩りにさえ参加が出来ないは――群れの中では、どうしても弱い存在になってしまう。
 狩りに参加できない分、辛く扱われた過去から身についた裁縫や料理番といった家事を率先して引き受け、人間の多い町での顔繋ぎ役としても大いに役立ってきた。おかげで、今ではが一番の家事上手の雌と評価されるようになった。
 この暮らしを、憂いた事は一度もない。だが、たまに、思うのだ。人間ではなく獣人であれば、違う事もあったのだろうか、と――。

「ハイエナ獣人は、狩りを生業とする。本当なら、一カ所にとどまらず、季節を追うように色んな場所を移動して、狩りを行うの」

 そんな彼らが、大きな町の近くに拠点を構えているのは――がいるからだ。

 もちろん半分以上は、彼らのためである。だが、残りの半分の部分で、何か重荷になってはいないかと……時折、考えてしまうのだ。

「……なんて、ごめんね。つまらない話だったね」

 はそこで一度、言葉を飲み込み、エリオスへ笑いかけた。
 ふと、彼の背面、離れたところで咲く大きな赤い花を見つけ、は側に歩み寄る。二つ摘み取り、一つは自身で持ち、もう一つはエリオスに手渡した。

「吸ってみて。甘いよ」

 緑色の茎を引き抜き、花びらの根本に唇を寄せて見せると、エリオスも見よう見まねで花を咥える。

「!……本当だ」
「ふふ、まあ、実はちょっとだけ毒があるけど」

 ぶふ、とエリオスの口から空気が噴き出た。

「大丈夫。こんな量じゃ、人体に影響はない。たまにこうやって吸うといいって教わった。綺麗なものだけじゃ強くならない、ほんのちょっとの毒くらいはビクともしない、そんな女になれって」

 ジルダからの受け売りだが、今も頭に残っている。女傑らしい勇ましさと生命力に溢れる、実に彼女らしい言葉だ。
 「ほんのちょっとの毒……か」エリオスは赤い花を見下ろし、もう一度、蜜をちゅっと吸った。

「大切にされているんだね」
「え?」
「荒野の花。本当に、その通りだと思うから」

 荒野の風景によく似合う、色の濃い肌、長い黒髪。二つの青い瞳は鮮やかな色で輝き――本当に花が咲いたようだ。そんな事を、エリオスは上品に笑いながら口にした。

「今は、もう大丈夫なんだよね」
「……うん。貴方、優しいね。普通は、ごめんなさいとか、変な事を聞いたとか、言いそうなのに」

 もう昔の事で、今の日常の方が大切なにとっては、変に謝罪されるよりもその方が良い。エリオスは、やはり、優しい青年だ。

「貴方のような人のもとで働いていたら……何か、違った暮らしがあったのかな」

 あの醜悪な店主ではなく、もしも別の人のところだったら。例えば、エリオスのような……――。

 そんな事を一瞬思い浮かべ、は頭を振った。どうしてそんな事を考えるのかと、何故か奇妙な焦燥感も過ぎった。

「そうだ……前から、これも聞いてみたかったんだけど」
「なに?」
「荒野の花なんて、誰が最初につけてくれたのかな?」
「――誰が?」

 問いかけられた時、は、はたと思案する。誰……そういえば、誰だったのだろう。何年も昔からで、そのような事は疑問に思わなかった。何かの冗談から派生したと、ずっと思ってきたくらいだ。

「でも、そう呼ぶくらいだ。大切にされているよ、本当に」
「……そうだったら、嬉しい」
「……でも、何か、思うところがあるのなら――西の国へ、私の国へ、来てみるかい?」

 は、両目を見開かせ、エリオスを見上げる。晴れやかな空を背にし、きらきらとしている彼の表情には、それまではなかった微かな緊張が浮かんでいる。瑞々しい緑色の瞳も、澄んだ眼差しも、真剣な色が滲んでいた。

「もちろん、こんな話、突然だし、不作法だろうけれど、でも」
「エリオス」
「もしも、違う可能性が欲しいのなら……私は、君の手伝いをしたい。いや、させて、欲しい」

 降り注ぐ彼の眼差しが、酷く、熱い。陽射しの熱さだけではない、初めて感じる炙られるような熱さだ。
 はなおさら混乱し、声をさまよわせる。すると、エリオスは何も言えず戸惑うばかりのへ、そっと手を伸ばした。女とは違う、筋張った感触がはっきりと窺える、大きな男の手。の顔の横を掠め、耳元や首筋の空気をなぞり、後ろへ滑る。紐で二つに結び分けた黒髪の、その一房を指先と手のひらに絡め、静かに持ち上げた。そして、が見つめる先で、エリオスは背中を屈め、口付けるように黒髪へ顔を寄せた。

 感触など、あるはずがないのに。
 黒髪を通じ、何故だかの全身には、灼熱にも似た熱さが駆け巡った。

「エリ、オス」

 声を震わすを、エリオスはけして逸らさず、真っ直ぐと見つめている。乱暴ではないのに、心臓の奥まで全部射抜かれるような強かさに、それ以上何かを告げる事は出来なかった。

「まだ日はあるけど、近い内に、私は西の国へ戻る。その時、貴女も、一緒に行ってみないか」

 エリオスは緩やかな仕草で顔を離し、指先に絡めた黒髪をそっと下ろした。

「道案内は今日で終わりにしよう。ありがとう、とても素敵な時間だった。そして――次に会う時、返事を聞かせて、花姫様」

 いつでも、待っているから。そう囁いたエリオスの声は、優しく、熱く、耳をなぞっていく。

 けして冗談ではない、彼のひた向きな眼差しと微笑みに、は立ち尽くす他なかった。
 別の国へ向かう。それは、長年共に過ごしたハイエナ獣人の群れを離れるという、想像もしてこなかった選択肢だったのだから。



2020.09.03