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「荒野の国にやって来たのは、学びだけではなかったんだ。この国だけではない、我が国の暗い部分を、知るために――」

 帰国の直前、エリオスはとザナへ明かした。
 荒野の国において多発する人身売買の暗い一面は、彼の国でも起きる問題だった。より深い見聞を得るため、また対策を探すため、彼はこの地にやって来たという。
 幼い頃のの身にも起きた、小さな子どもが人攫いに遭い、売られ、その先で惨い仕打ちを受けるという事案は……荒野の国だけでなく、他の国でもあるようだ。
 それを未然に防ぐ方法、あるいは救出した後の保護の方法など、足がかりを見つけるための学びであったと、エリオスは言った。

「……こんな事、貴女に言うべき事ではない。だけど、貴女と、ザナさんの存在のおかげで、視野が開けた気がしたんだ」

 実は不本意ながら、本来の家族のもとへ戻すべきではないのかと、傲慢な考えを抱いていた。だが、そうではない。惨い仕打ちを施す監獄から抜けた先、例え種族も生活様式も違ったとしても、新たに得た日々が幸福であり傷を癒す温もりに満ちているのなら――それが彼らにとっての幸福である。
 第三者が割って入り、ああしろ、こうしろなど、言える道理はない。心を向けるべき場所が、何処であるのか、分かったような気がした。

 そう語るエリオスを、は純粋な気持ちで、凄いと思った。きっと彼は、幼い頃ののような子どもを救う、素晴らしい人物になるに違いない。

「やっぱり、貴方、良い人だね」

 が微笑むと、エリオスは「違うよ」と首を振った。

「僕の方こそ、感謝しているんだ。ここで、大きな可能性と……素敵な愛情を、たくさん見せてもらえたのだから」

 エリオスの緑色の瞳が、とザナを、交互に映す。そして、水辺に吹く風のような素敵な笑顔を浮かべた彼は、護衛を伴い、西の国への帰路を歩み出した。
 最後に見たエリオスは、荒野の国の陽射しを浴び、繊細な白い肌も少し日に焼けていた。貴族の子息らしかぬ活力に溢れた彼は、一段と溌剌とし、帰り道でもきっと護衛の人達を困らせるに違いない。荒野の国を離れても、そんな姿を持ち続けて欲しいと、は遠ざかる彼の背中に願った。




 かくして、西の国からやって来た風変わりな旅人は帰路につき、案内人の役目も無事に終わった。再び日常に戻り、これまでと変わらないハイエナの群れの日々を過ごすだろう――そう、は思っていたのだが。
 あれ以降、おかしな事にの身辺は、落ち着くどころか不可解なざわつきによって囲まれていた。
 エリオス達が帰路についたその翌日から、は何故か、年の近い雄のハイエナ獣人達からアピールを受けるようになってしまった。ある時は獲物で、ある時は喧嘩で、またある時は鳴き声で、雄の獣人達はへ自らの存在を印象づけようとこぞって奮闘し始めた。

 早い話が――求愛だった。

 この群れに受け入れられ、数年を経て十六歳を迎えた。驚きのあまり、言葉を失い呆然とした。これほどの衝撃を覚えたのは、初めての事であるかもしれない。
 我が身に降った大事件に、は途方に暮れたが、対照的に年上の大人達は落ち着いたものだった。が群れを離れ西の国へ行ってしまうかもしれないという衝撃に触発され、群れに繋ぎ止めるため動き出したのだろう。つがいにしたいだけの下心だ安心しろ、と言われがさらに驚愕したのは言うまでもない。

 これは……エリオスの騒動以上に、大変な事が起きてしまった。
 雄の獣人達からの求愛など、そもそもこれが初めてだった。

 ハイエナの獣人は、基本的に雌の方が強く、身体も大きく、地位も高い。ゆえに、好まれるのはやはり屈強な雌だと、そう思ってきた。仲間としての自信は有っても、それはそれ、これはこれだ。小柄で力はなく、真にハイエナになれないは、論外の位置にあるとばかり思い込んでいた。
 そうか、背丈が足らない私でも、射程内だったのか……いや違う、そうではなくて。
 どうしたらよいものかとは困惑しきったが、群れの女性陣はというと楽しそうだ。嬉しそうに声を弾ませ、いつになくほっこりと空気を緩めている。その姿は狩人ではなく、恋の話に華やぐ女性そのものだ。

「良い事じゃない。雄に求められるのは、雌の栄誉。そしてたくさんの雄に言い寄られるという事は、雌としてとても魅力的という事だもの」
「雌の魅力は、腕力とか容姿とか歌声とか、色々あるし。別におかしな事じゃないわ。の場合は、お裁縫と料理ね!」

 そうなのか……力自慢の獣人で構成された群れでは、手仕事くらいしかもはや何も出来ないと思ってしまっていた。ハイエナ獣人にも、家庭的特技は効果があったらしい。

「当然だ!! 私の妹なんだから!! むしろ今まで何も音沙汰なかったのがおかしいんだ!!」
「姉さん、声でか」

 ――そして、誰よりも嬉しそうにし上機嫌だったのは、ジルダであった。

 ちなみに、ジルダが未婚の時は、あまりにも腕っ節の強さの魅力が溢れたため、雄同士の血が流れる紛争まで起きていたという。(次期女長の立場だった事もあり、より戦いは激化した模様)彼女の旦那、つまりの義理の兄は、その熾烈な戦いに勝利し、さらにジルダの心を射止める事に成功した武芸者でもあるのだ。
 まあ、そんな武芸者も現在、ジルダの尻にしっかりと敷かれている。

「ふふ、新しいつがい誕生の兆しは、いつだって嬉しいな」
「姉さん、私は」
「足が速いあいつも、気性の柔らかいあいつも、お前に求愛をするとは。ふふ、私の妹は雄を魅了しまくる魔性の雌だったらしい。ふふ、他の妹達にも伝えたかった、ふふふ」

 駄目だ。全然、話が通じない。
 というか、その言い方では、まるで私が雄をたぶらかすとんでもない悪女のよう。

 ハイエナ獣人の価値観の外に、一人だけが取り残されてしまっている。「私もな、母に色々と支度を整えてもらって、妹達にもしてあげたんだ。ようやくお前にも出来て嬉しいぞ」と、ジルダは満面の笑みを浮かべるが、はその喜びを共有出来ない。そもそも、まだつがいを得てもいないのに。

「でも……私は……」
「うん? 嬉しくないのか?」
「それは……」

 嬉しくないか、と言われれば、それはもちろん嬉しい。このような事は、今後きっと起きないだろう。
 しかし、にも“気になる人”くらいは存在している。
 そしてその気になる人は、勃発している求愛合戦に参加していない。表立った行動は取らず、アピール合戦の様子を静観しているように見えるのだ。
 時折、物騒な表情をし「あいつと、あいつ、あいつもか……腕が鳴るな」と、瞳孔を見開かせ指折り何かを数えているようだったが……興味は、ないのかもしれない。

「――なに、心配は要らない」

 男の人のように大きなジルダの手が、の頭をくしゃりと撫でた。

「ハイエナの雌たる者、雄を追いかけるのではなく、侍ろうとする雄を蹴飛ばすくらいの心で良いんだ。大丈夫、お前は十分に、素敵な女性だよ」
「もう……かっこいいなあ、姉さんは」
「群れを率いる長だからな……。それはそれとして、だ」

 不意に、ジルダはじいっとを見つめた。

「そういえば、その辺りの知識を、きちんと持っているか?」
「え?」
「つがいの生活、子作り、雄の喜ばせ方に転がし方……色々あるが」

 突然投下された言葉に、の頬はカッと朱に染まる。

「それ、教えていなかったんじゃない? やだ、気付いて良かった!」
「えッやッ私、そんな、べつに」

 これでも群れに迎えられる前は、スラムの裏路地で暮らしていたし、さらにろくでなし主人のもとで過ごしていた。何も知らない、無知で無垢な子どもというわけではないのだ。

 ――だが、ハイエナ獣人の雌達は、総じて強い。

「いいから、いいから。今日は女だけの勉強会ね!」
「だから、あの」
「ついでだ、年の近い子達も集めよう」
「私、まだ何も決まって」

 こうなった彼女達は、制止しようとも、意志が曲がる事はけっしてない。そしてその日の晩、は年の近い娘達と共に、夜の勉強会に臨む事になってしまった。
 さすがは女性優位のハイエナ社会であり、男女のあれこれにも積極的な獣人族である。結ばれたばかりのつがいの夜の営みから始まった勉強会は、それはとても有意な内容で、は終始、赤面する羽目になった。


◆◇◆


 若い雄の獣人達からの求愛合戦は、その後二日ほど続いた――のだが、意外にも早々に終わりを迎えた。鳴き声によるアピールも、貢ぎ物によるアピールも、全てぴたりと無くなり、は静かな日常を取り戻した。

 ただしその代わりに、若い雄の獣人達は全員、生傷だらけの全身ボロボロの風貌になってしまっていた。

 少し見ない間に、随分と派手な怪我を負ったものだ。あれほど自信満々にアピールをしていたのに、群れの隅で意気消沈している。その様は、さながら手痛い反撃をくらった賊のようである。

 に求愛行動を取った者全員が、漏れなく、等しく、何かしらの争いで敗北した。心配だが、ここで声を掛けるべきではない。そのような同情とも呼べる優しさは、荒野の国でも腕利きの狩人である彼らにとって辱めのようなものだろう。あの怪我の理由は、獣人の立場で考えてみると、おのずと思い浮かんでくるのだから。

「――……で、ザナも、結構な怪我、してるし」
「こんなの怪我にも入らねえ。意地を掛けた名誉の……いだだだだ??!!」
「はいはい、そっちの腕も、出して」

 痛がるハイエナの顔は見もせず、躊躇なく消毒し、包帯を縛る。の耳には不満げな唸り声が聞こえてきたが、それくらいではもう怯まない。

「大きな狩りをした時、みたいな傷、しちゃって」

 生傷だらけの風貌をした若い雄達以上に、負傷した有様のザナ。少し見ない間に、彼まで随分な姿になったものだ。
 この国の厳しい環境では、怪我など日常茶飯事で、特別珍しい事ではない。とはいえ、やはり心配は尽きない。手当てを施したザナの太い腕を、は気遣うようにそうっと撫でてしまう。

「……荒野の国の獣人は、身体が頑丈だ。見た目は派手でも大した事はない」
「……うん」

 ザナはふっと笑い、太い指での額を小突くように弾いた。それからおもむろに腰を上げると、を見つめ言った。

、これから時間はあるか」
「え? う、うん」
「ならいい。ちょっと、着いて来い」

 目の前に差し出された、大きな毛むくじゃらの手のひら。分厚い肉球のあるそれを見下ろした後、首を起こし頭上へと視線を移す。賊のような風貌ではあるけれど、よく見ると愛嬌のあるハイエナの顔は、いやに真剣にの姿を見つめている。その常にない緊張は、にも伝わってきた。差し出された彼の手のひらへ、褐色の色をした自らの手をそろりと重ねた。
 ザナはその手を強く握ると、軽々と引っ張り、地面から立ち上がらせる。ごく短く、ぶっきらぼうに「行くぞ」と告げ、の手を引き歩き出した。群れの外へ進み、何処かへ向かおうとするザナは、言葉少なかったが――の耳には絶えず、鳴き声が聞こえた。
 草原に吹く力強い風に薄れてしまう、小さな、まるで歌うような獣の鳴き声が。



大変、大変、お待たせいたしました……!

粛々と続きをあげさせていただきます……!

そんでエロがまだ先でした、もう少しお待ち下さいませ。


2021.02.14