12

 ザナが歩みを止めたのは、群れを離れてから数十分後の事だった。
 目映い陽射しが照らす黄色がかった草原を抜け、緩やかな丘をいくつか登り、そこでの手を離した。
 導かれた先にあったその風景に、溢れるほどの追憶が込み上げる。温かく満ちるその懐かしさがこぼれないよう、は静かに、胸元に手のひらを重ねた。

「――懐かしい……」

 厳しい環境である荒野の国でも、力強く、けれど美しく花弁を広げる、野花たち。その群生地が、目の前に広がった。
 赤、白、黄色といった、褪せた色の大地を塗り替えるような、濃く鮮やかな色彩が散らばっている。乾いた風と土の匂いの中に、野生らしい力強い花の香りが漂った。
 正しく心を奪われるの後ろで、ザナが微かに笑う。

「なんだ、覚えていたのか」
「覚えてるに、決まってる」

 ――忘れもしない、幼い頃。
 ハイエナの獣人のみで構成された群れに受け入れられ、まだ日が浅かったあの頃、は彼らとどのように接すればいいのか、どのようにして群れで暮らせばよいのか、まるで分からなかった。怯え、戸惑い、何も出来なかったの痩せた手を、ザナがよく引っ張ってくれた。

 そしてここは、ザナがを初めて連れ出した時、見せてくれた場所だ。

 まあ、があまりにも群れに馴染めないでいたため、痺れを切らしたザナ少年が半ば強引に引っ張り回した、と表現した方が正しいかもしれない。
 絶える事なく種を残し、今日まで咲き続けていたのか。本当に、荒野の国の動植物は、逞しい。
 蘇る追憶の日々を噛み締めながら、は群生地の傍らへ進み、腰を下ろす。

 力強く美しい野花。乾いた景色を彩る、鮮やかな七色。そう、あの日と、同じ光景だ。

「――花の中に座って、笑った人間の子ども、花のお姫様みたいだった」

 が囁いたその瞬間、背後に佇んでいるザナの空気が、ぎくりと強張った。あからさまに狼狽する気配を察知し、はつい笑い声をこぼしてしまった。

「私をここに連れてきてくれた、その後、大人達にそう呟いた、らしいね」
「お、おま……それ、そ、何処で」
「姉さんが、教えてくれた」



 ――久方ぶりに、同じ毛布に包まり共寝をした、あの夜。
 ジルダは寝物語の代わりに、群れの仲間がを“花”と呼ぶようになったときっかけである、とある昔話を聞かせてくれた。

「まだが、身体もガリガリで幼児みたいに小さかった時な。同じようにチビだったザナが、お前をよく連れ出した。いつもビクビクしてニコリともしなかったからなあ、子どもらしい強硬手段というやつだ。最初、あいつはお前を野花の群生地に連れて行ってやって……それで帰ってきたと思ったら、くく、あいつ何て言ったと思う?」

 花の中に座って、笑った人間の子ども、花のお姫様みたいだった――だとさ。

 魂でも引っこ抜かれたように呆然として帰ってきたザナは、その日の晩、大はしゃぎし興奮しきっていたという。にこりともしなかったが初めて笑った事が、よっぽど嬉しかったのだろう。今でも大人連中の昔話の定番になっているのだと、ジルダはとても楽しそうに笑っていた。

「あれ以来、お前は私達の群れの“花”が定番になった。くく、まさか自分の小さい頃の呟きが定着するなんて思ってもいなかったんだろうな。あいつは恥ずかしがって自分では絶対に口にしないし、俺が言った事だとはへ絶対に伝えるな、などと仲間全員に釘を刺して回って。まったく、昔っから可愛い雄の子どもだったよ。あいつは」



「くっそ……! ジルダ……!!」

 案の定、ザナは頭を抱え、猫背の背中をさらに丸くし蹲ってしまった。
 若い雄の中でも腕の立つ、立派な狩人であるザナ。彼のこのような姿は、初めて見た。よほど恥ずかしい記憶であるらしい。
 正直……は、とても愉快だ。

「別に、言ってくれて、良かったのに」
「おま、ガキの時の呟きを、延々周りに言われ続けるんだぞ。新手の嫌がらせじゃねえかッ!」

 耳は垂れ、短い尻尾も力を失くしている。彼はこれまで興味など無さそうに振る舞っていたけれど、どうやらその内心では相当の羞恥心を耐えていたらしい。この山賊のような風貌で、恥ずかしがっていたとか、面白すぎる。

「ふふ、分かってるよ。子どもの時の、お遊び。今もそうだとは思わない。でも……」

 子どもの時、それが確かに、嬉しかった。認められた心地がしたのだ。優しく賑やかなハイエナ達の群れに、私という存在があっても良いのだと。

 痺れを切らしたがための行動だったといえ、ザナに引っ張ってもらってきたから、も前を向く事が出来た。言われなければ何も出来ない、骨と皮だけのガリガリの痩せっぽちも、少しは逞しくなれただろう。

「ありがと、ザナ。言って、なかったかもしれないけど。感謝、してる」

 ハイエナの顔は、見た事がないほど羞恥心で歪んでいる。照れ隠しだろう、乱暴に自らの頭を掻き、忙しなく耳を跳ねさせていた。「感謝されるほどの事じゃねえ」と呟いた素っ気ない低い声には、ザナの不器用な感情が鮮やかに透けていた。

「……
「ん?」
「他の連中から、求愛、されていただろう」

 は、僅かに肩を揺らし、頷いた。「受けるつもりか」続けて問うザナの声は、緊張を帯びている。は答えようとしたけれど、まるで聴きたくないとばかりに、ザナの言葉が被さった。

「好きにしろと、もう、言うつもりはない」

 は、弾かれたように顔を起こし、ザナを映す。いつの間にか距離を詰めていたらしく、目の前にはハイエナの顔が広がっていた。怒っているような、あるいは懇願するような、危うい熱が真っ黒な垂れた両目に滲んでいる。の心臓が、トクッと音を立てた。

「あいつらの求愛を受けるのは止めろ。誰を選んだとしても、全部邪魔をしてやる」
「ザ、ザナ」
「求愛してきた連中だけじゃない、他の雄ども全員を張り倒してでも邪魔をする。……まあ、もっとも、もうやってきた事だけど」
「もうやってきた!」

 その言葉に、は確信した。
 やはり、目の前の雄が原因だったか。
 群れの中で突如勃発した求愛合戦が止まったのも、求愛してきた雄達が皆ボロボロに生傷を増やしたのも。全て、ザナが下したからだったらしい。時折、物騒な顔つきで指折り何かを数えていたのは――恐らく、に求愛した雄の確認だったのだろう。

 そしてザナは、自身の爪牙をもって、全員を下した。けして少なくはないあの人数を、意地で退けた。その事実は、にとって予想外に嬉しいものだった。あのザナが、そうするほどの価値が自分にはあったのだと。

「……余計な気づかいをしたから、お前が西の国に連れて行かれるかもしれなくなった。もう、あんなヘマはしない。我慢も止めだ。仲間だろうが、他の雄どもに、金輪際譲るつもりはない」
「ザナ」
「もともと俺は、心が狭いんだよ。みっともねえくらいにな」

 言葉こそ乱暴だったが、彼の瞳には怯えと懇願が複雑に入り交じっている。
 このハイエナの雄が、こんな風に見つめてくるなんて。
 思いがけない眼差しを見てしまい、の胸の奥がきゅっと締め付けられる。

「……あのね、ザナ」
「……なんだ」
「みんなから、された、求愛はね……」

 緊張が、喉に絡まる。必死に飲み込み、告げるべき言葉を押し出す。

「求愛はね、初めから、断っていたよ」
「……なに?」
「断ってたの、全部。だって……私が、一緒になりたい人は、もう、決まっている、から」

 緊張のせいで、普段以上に舌がもつれてしまう。それでも、ついに言ったのだと、は自らの勇気を褒めてあげたくなった。
 小さく縮こまりながら、緊張と期待で心臓を高鳴らせる。しかし、待てども待てども、ザナからは何の言葉も返ってこない。あまりにも重い沈黙が、何故か流れていた。

「……どういう、奴だ」
「……え?」

 ザナは、まるで酷い裏切りを目撃したような、憔悴とした表情を浮かべていた。賊と見紛う外見なのに、何故今、傷ついた小動物のような顔をするのだろう。

 ……あれ? まさか、これ、伝わってない?

 は、呆然とした。決死の思いで告げた言葉だったのだが、ザナの心を傷つけてしまっただけだとは。予期せぬ誤解を解こうと、はさらに言葉を重ねた。

「あ、あのね、えっと、まずね、狩りがとっても上手」
「……そうか」
「すごく、頼もしい」
「……大人連中か。よし、所帯を持ってねえ奴は少ないからすぐに分かる。一発殴り飛ばしてくる」
「発想が、物騒! ちょっと、落ち着いて、全部、聞いて」
「それとも、町の奴か。ちょっと締めてくる」
「聞いてってば!」

 まったくもって話が進まない。頼むから聞いてくれと、ザナの太い腕にしがみつき必死に訴える。今にも特攻を仕掛けそうだったハイエナは、渋々と耳を傾ける姿勢に戻った。

「そ、その人は、狩りが上手で、腕っ節があってね。性格だって、良いよ。でも、すごく、不器用」
「……そうか」
「身体は大きくて、まだら模様も、綺麗。たてがみも、かっこいいと、思う」
「…………そう、か」

 丸みを帯びた耳と短い尻尾が、どんどん力を失い垂れ下がっていく。ただでさえ猫背気味の背中は、より悪化し小さく丸くなってしまう。
 が真心を込める分だけ、ザナは一人で勝手に傷ついていく。いつもの頼もしさは何処に行ったのだろう。

「それでね、うんと、そいつは――今も昔も、私の手を引っ張ってくれてね」
「……」
「初めて、ここに連れてきてくれて、私の目と同じ色の花を取って、お姫様みたいって、言ってくれた」
「……うん……?」

 愁然と項垂れたハイエナの頭が、僅かに傾く。

「私は、たぶん、その時からずっと、ひ、惹かれてたけど……肝心のそいつは、全然、気付いていなくて」

 何処かで聞いた話だなと言わんばかりに、ザナは不思議そうにしていた。しかし、さすがにここまで言えば、ようやく理解出来たのだろう。訝しそうに顰めた顔には、徐々に驚きが広がり、何処か抜けた素っ頓狂な表情へ変わった。
 本当、何故、こいつは気付かないのだろう。
 は真っ赤になった頬にぎこちなく笑みを浮かべる。

「……突き放すんじゃなくて、繋ぎ止めてくれる言葉を、今も、ずっと待ってるの」

 強靱なハイエナ獣人の群れには相応しくないだろうと思い、隠してきた少女のような甘い願い。誰にも明かさなかったそれを、初めて声に出した。隣に座るハイエナは、そんなに予想外だったのか、呆けていた。

「……おい、マジ、か」

 間の抜けた顔のまま、ザナは呟いた。ワナワナと震える声は、完全に虚を突かれてしまった無防備さに満ちていた。
 嘘か真か、まだ判断がつかないらしい。
 は、ザナをしっかりと見つめ、大きく頷いた。

「私、嘘、言わない。マジです」

 ひゅう、とザナの喉から奇妙な空気の音が響く。そこまで驚く事はないだろうに。

「……だって、言って、欲しかったの」

 行かないでくれと。
 ここに居て欲しいと。
 自分のところに居て欲しい、と。
 エリオスから誘われた時だけではない。何気ない日常を送っている時も、このまま群れにいても良いのかと焦燥を抱いた時も、何処かで子どものように願っていたのだ。ただ、口には出せなかった。強くて逞しいハイエナ獣人には、そんな甘さは嫌われてしまうのではないかと、不安が拭えなかったから。
 けれど、他ならぬザナが、求めてくれるのなら――。

「あの、これじゃ……ま、まだ、伝わらない……?」

 さすがにも恥ずかしさが勝り、言葉尻が弱々しく掠れる。ハイエナの顔を見ていられなくなり、ついに俯いてしまった時、ぶるぶると震えていたザナが唸るように吠えた。飛び掛かるように両腕を伸ばし、力任せにを抱き寄せる。

「もういい、悪かった。雌にそこまでさせるのは、ハイエナの雄失格だ」

 ぎゅうぎゅうと両腕の中に閉じ込められ、鼻先どころか顔面が毛むくじゃらの胸に激突した。力ばかりが強いハイエナの抱擁は、息苦しくてたまらないのに、何故だか笑みがこぼれてしまった。

「苦しい、よ、ザナ」
「分かってる、悪い、だけど」

 離しがたいのだと、言葉ではなく、両腕が告げている。はふふっと笑い、黄褐色の毛皮が覆う胸を手のひらで押す。

「ねえ、また、歌ってよ。さっきの、歌」

 ここへ来るまでに、手を引きながら口ずさんだ、歌うようなあの鳴き声。
 狩りの時にも、日常生活にも出す事のない、特別な鳴き声であると、人間のとて知っている。
 だから、どうかもう一度、歌ってくれないか。
 が強請ると、ザナは緊張したような面持ちで、高い声を奏でる。荒野の乾いた風に響く求愛の獣の歌を、はうっとりと聞き入り、そして――同じ響きを持つ歌を、自らの喉から返した。
 途端、ザナは歌うのを止め、両目を見開かせを見下ろした。

「お、おま……その、声」
「驚い、た? 頑張って、練習してみた、の」

 ――伊達に五年近く、ハイエナ獣人の群れで過ごしてはいない。
 他の獣人の種族にはない、彼ら特有の鳴き声による意思疎通の文化だって、それなりに学んでいた。

 ハイエナ獣人は、犬猫の鳴き声とはかなり異なる、独特の声帯を有している。そしてその鳴き声も特徴的で、いくつもの音程と奏で方により、時に言葉よりも勝る会話を交わす。
 狩りをする時の声。友を呼ぶ時の声。仲間に緊急を知らせる声。そして――求愛する声。
 言語化するには難しいハイエナの鳴き声を、は見様見真似で練習し、ついに覚えるまでに至った。
 何か一つでも、群れの仲間と同じものを身に着けたいがために。
 未だに言葉が舌っ足らずなのは、ハイエナ特有の声の出し方にばかり気を取られてしまったせいでもあった。
 そしてこれは、この瞬間まで、誰にも明かした事のないだけの秘密だった。

「……驚いた、な。お前、何で言わなかった」
「もっと上手になったら、皆を驚かせようと、思って」
「いや、そんだけ真似られるんなら、十分だろ。お前、立派にハイエナの仲間入りしてんじゃねえか。マジで不安になる必要無かっただろ」

 ……確かに、そうかもしれない。
 しかし練習に明け暮れるの中には、早く群れに馴染まなければ、せめて同じものを身に着け仲間として胸を張れるようにならなければと、一種の使命感でいっぱいだったのだ。

「……ザナ、嬉しい?」
「……嬉しいなんてもんじゃねえよ。、もう一回」
「うん」
「もう一回、聞かせてくれ」

 は小さく微笑み、人間の喉から、ハイエナの歌を紡ぐ。必死に真似たその声は、正しくはハイエナのものとは違うだろうけれど、同等の意味を持たせる事は叶ったようだ。両目の熱く潤ませ、感極まった表情を浮かべるザナの様子を見て、はようやく誇れるものを得た。
 ザナも再び、求愛の歌を奏でる。それに重なるように、も同じ歌を響かせる。二つの音は乾いた風に乗り、微かな余韻を残し荒野の遠くへと運ばれる。
 ザナは猫背を震わせ、をもう一度抱きしめた。

「……他の雄のところには行かせない。人間が大勢暮らす西の国にも、行かせない」
「……ッうん」
「――つがいになって、荒野で一緒に生きてくれ」

 それが、ずっと、聞きたかった。

 は温かい歓喜をまなじりから溢れさせ、ハイエナの大きな背に目一杯腕を回した。



2021.02.14