14

 珍しく酒を振る舞って開かれた、祝いの宴。
 群れの仲間達の笑い声が朗らかに響いていた、その中央で――二人のハイエナ獣人が睨み合っていた。
 一方は、若き雄の狩人。もう一方は、群れの頂点に立つ、獅子を泣かせた女傑であり姉でもある長だ。

 ――とんでもない事になってしまった。

 ザナと想いを交わし、これでつがいになれると、は喜んだ。それがまさか、反対の声が上がるなんて思ってもいなかった。
 それも、一番祝ってくれると信じていた――姉のジルダに。

 空気がひりつき、乾いた風は焼けるような熱さを孕んでいる気がした。狼狽するが見つめる先で、ザナとジルダは無言のまま視線を交わしている。常にない緊迫した気配に、心臓が落ち着かない。
 だというのに、群れの仲間達ときたら。
 ザナとジルダの周囲をぐるりと円を作って取り囲み、楽しそうに囃し立てている。さながらその光景は、一騎打ちの決闘に逸る観衆のようだ。ザナとジルダの対戦に興奮し、今か今かと待ち侘びてすらいるようだった。

「群れの長と争うとは、雄の誉れだな!」
「良かったな、ザナ!」

 そして、この熱狂ぶりだ。どうやら、ハイエナ獣人にとって、群れの頂点に立つ長と争う事は栄誉であるらしい。男女問わず、ザナの“幸運”を持ち上げている。慌てているのは、一人だけだ。
 ハイエナ獣人の群れに入り、暮らす事およそ五年――十二分に学んだと思っていたが、まだまだ知らない事が潜んでいるのだと痛感する。

「大丈夫よ、は、どーんっと構えていて良いの」
「長と戦うなんて、滅多に出来る事じゃない。誇ってもいい、雄にとっても、雌にとっても、最高の喜びなんだから」

 同年代の娘達は、そう言ってはくれるが――とても、大らかに構えてはいられない。
 は、この決闘を止める事はおろか、短い言葉を掛ける事すら、既に出来ないのだ。ただただ、この戦いの行く末を、遠くから見届ける他ない。

「ザ、ザナ」

 は感情を隠しきれず、ハラハラとしザナを見つめる。小さな呟きは、彼の耳に届いたらしい。肩越しに振り返ったザナは、ニイ、と口角を持ち上げていた。怯えのない、不敵な笑みだ。怖気づいた様子は全くない。むしろ、奮起していた。まなじりの垂れた黒い瞳は、ギラギラと輝いている。不覚にも、の胸が高鳴った。

「ザナー! 認められなくたって、安心して良いからなー!」
「俺らの誰かが、をつがいにするからー!」

 そして、途端に決闘を見守る同年代の雄達からは、ある意味では熱烈な声援が上がる。
 に求愛し、そしてザナに破れた者達だ。
 ザナはビキリと眉間を震わせ「意地でも認められてやる。お前らにだけは死んでもやらねえ」と低い声を唸らせた。

「――さて、ザナ。準備は良いな」

 ヒュン、と音を立て槍を回すジルダ。取り回しの利く柄の短い槍は、無骨だが羽根飾りがあしらわれ、長が持つに相応しい造形を宿している。

「条件は、ただ一つ――私を、認めさせろ」

 短く言い放った言葉から、気迫が滲む。途端に、熱を帯びた空気は張り詰めた。
 ハイエナ獣人は、女性の方が強い。それだけではない、長の風格に、ひりつく静けさが広がる。

「――ザナ。お前は、少なくとも、群れのどの若手より、を想ってきただろう。馴染めないを率先して構い、幾度も外に連れ出してやった。が身体を壊した時、薬草を探しに飛び出し、泥だらけになって帰ってきた。ライオンの獣人にが蔑まれた時、お前は真っ先に先頭に立ち追い回した。数えればキリがないが……陰でお前は、群れのどの雄よりもを支えてきたな」

 懐かしそうに語りながら、ジルダの面持ちは、けして緩まない。

「だが、それはそれ、これはこれだ。荒野の国で生きていくなら、軟弱な雄に、可愛い妹は絶対に渡さん。あの子を守り、幸せであるよう願ってきたのが――お前ばかりと思うなよ」

 ジルダは、軋む音が響くほど、槍の柄を握り締めていた。勇ましい女傑の、群れを率いる長の心の中が、垣間見えた気がした。ああ自分は本当に大切に想われてきたのだと、は今更ながら実感が湧いた。

 鋭い切っ先が、ザナへ向けられる。それを見つめながら、ザナもまた、自らの手に握った槍を構えた。
 互いが穂先を突きつけ、静かに見つめ合う。僅かとも動かないが、その視線は激しくぶつかっている。ひりつくような無音の緊張が、迸っていた。
 それを取り囲む仲間達も、口を閉じる。かつて味わった事のない空気に、の心臓は既に激しく震えていた。まだ始まってもいないというのに。無意識の内に、ぎゅう、と両手を握り締める。その動向を、落ち着きなく見つめていた――次の瞬間、ザナとジルダは、互いに足を踏み出した。
 二つの無骨な槍の穂先が交わる。乾いた刃の音が響き渡り、火花が散った。
 は、辛うじて悲鳴は飲み込んだが、全身は飛び跳ねてしまっていた。
 二人が握る槍は、本物だ。獲物を狩るための、本物の槍だ。怪我の考慮など、無論、していない。下手をすれば、どちらも怪我を負うだろう。その上、二人の戦いは、儀礼に則った決闘とはまるで違う。槍を握ってはいるが、使うのはそれだけではない。獣人の最たる武器とも言うべき牙も遠慮なく使う。見た事はないが、エリオスの母国の決闘と、目の前のそれは、恐らく違う光景を描いているだろう。荒野に生きる獣人らしい、激しく、荒削りで――まさに、獣の本性そのものだった。
 狩りの時、力比べの時とは比べられない、いや全く異なる激しさが溢れている。はもう口から心臓を吐き出してしまいそうになる。

「軽いッ! そら、脇が空いているぞ!」

 ジルダは吼え、ザナの槍を弾くと、痛烈な回し蹴りを放った。ザナはそれをどうにか防ぎ、ジルダの足が脇腹にめり込むのを回避したものの、それでも彼の身体は勢いよく後退していた。ザナの両足は地面を滑り、土煙を上げる。
 ザナは、若いながら立派な狩人だ。は常日頃そう思っている。だが、ジルダという存在は、やはり別格だった。

 荒野の国でのみ見られるハイエナの、その獣性を濃く受け継いだ獣人は、総じて雌が強く、身体も大きい。事実、群れの力関係も、雄よりも雌が上位にある。完全な、女性優位の社会だ。そんな中で、群れを束ねる長ともなれば――その腕っ節は、語るまでもなかった。
 そして、ジルダは冷静な性格ではあるが、蓋を開けると歴代稀に見る気性の激しさの持ち主としても名高い。なにせ、あの“百獣の王”の異名を持つ大柄の獅子の獣人を泣かせた強者なのだから。

 ジルダは、優しい。優しく、大らかで、気風の良い女性で、の自慢の姉であり憧れだ。
 だが同時に、群れ一番の武芸者でもある。
 もしもジルダがその地位に胡坐をかいているようなら、とうの昔に、他の雌達が引きずり下ろしているだろう。ジルダは、自らが群れの長であると、今もなお多くの仲間に証明し続け、そして認められている。
 この群れの頂点は――間違いなく、彼女だ。

 それは、ザナも嫌というほど知っているに違いない。体勢を立て直し、果敢に向かうが、いなされるばかりで決定打を決められないでいる。ジルダの優勢は変わらず、このままでは競り負けてしまう。

「――ザナ!」

 は前のめりになり、たまらず叫んだ。
 人の言葉ではなく、同胞を奮い立たせる、ハイエナの声援を。

 一騎打ちを見守る群れの仲間達が、驚愕を露わにし、一斉に視線を向ける。熱狂していた空気が、一瞬消え去ってしまうほどだった。
 そう言えば、結局皆には伝えられていなかった。ハイエナ獣人達の鳴き声をなりに真似出来るようになった、と。
 ザナしか知らないその秘密を、ついうっかり、勢いでバラしてしまった。今の声はが出したのか、という仲間達の視線が、痛烈に突き刺さる。
 それは、女傑のジルダも、例外ではなかった。
 決闘の最中だというのに、彼女は動揺した視線をへ向けてしまうほどだ。

 ――その隙を、ザナはけして見逃さなかった。

 一瞬止まったジルダの槍を、大きく横へ弾く。体勢が崩れ、足元がふらついた。畳み掛けるように、ザナはジルダへ踏み込む。その鋭い穂先は、真っ直ぐとジルダへ向かった。

 ――ガキィ……ン……!

 一際大きな、甲高い乾いた音。見守る仲間の歓声が、しんと鳴り止む。
 ザナの一撃は――ジルダへ届く事は叶わなかった。
 寸前で持ち直したジルダは、ザナの槍を弾き飛ばし、防御の体勢も取れなかったザナの喉元へ穂先を突き付けた。

「――そこまで。十分だ」

 ジルダは息を乱しているが、変わらず厳格な声を響かせた。
 ザナは肩を激しく上下させ、やがて力なく地面に手をついた。項垂れるザナと、彼を前に仁王立ちするジルダ。二人の姿が、勝負はついてしまった事を痛切に物語っていた。

 ザナが弱かったなどと、思ってはいない。むしろ、彼なら勝てると、心から信じていた。だが、それ以上に――やはりジルダは、群れの頂点に立つ女傑だったのだ。
 その強さを、改めては、目の当たりにした。

 ジルダの槍が、ゆっくりとザナの喉元から離れる。彼女が静かに距離を取ったところで、はすぐさま駆け寄り、ザナの身体を支えるように抱きしめた。

「ザナ」

 伏せた彼の頬へ、そっと手を添える。ハイエナの顔には、暗く壮絶な落胆が宿っていた。あのザナが、そのような感情を見せる事は滅多にない。そして彼は、本気でジルダからを奪おうとした。それを嬉しく思いこそすれ、敗北をなじろうとは一切思わない。果敢に長へ挑んだザナを、は勇ましかったと、かっこよかったと、労いの想いを込め微笑む。
 そして、ザナと同じように膝をついたまま、はジルダに視線を向けた。

「姉さん……いえ、長」

 勝負は、もはやついてしまった。覆る事は、どうあってもないだろう。
 だとしても、にも譲れないものがある。

「私、私は、ザナが好き、です」
「……」
「人間でも、他の獣人の雄でも、なくて、ザナが良い。ザナだけが、良い」

 灼熱の陽射しが照り付ける荒野の真ん中で、捨てられていた骨と皮の痩せっぽち。それを救い、群れに迎え入れてくれたジルダは、にとって姉であると同時に母でもある。彼女を慕い、憧れ、そして迷惑はけして掛けまいとしてきた。
 群れの一人として、女長に立てつくのは――これが、初めてだ。

「長が、認めてくれなくても、私、ザナと、一緒にいる。この人と、つがいに、なります」

 決闘に負けた場合は、どうなるのだろう。もしかしたら、群れを追放だろうか。
 もしも、そうなるというのなら――私も、彼と共に追放されよう。
 それがジルダと決別する事になるとしても、ザナの側は絶対に離れない。数多くの獣達が暮らす荒野の国で、獣の群れで暮らすという事は、その掟にならうという事なのだから。

 決死の覚悟を、は全身に纏い、ジルダへ挑みかかる。彼女は、とザナを見つめたまま、何も告げない。互いに視線を逸らさず、無言の応酬を繰り返したが――不意に、ジルダは両目を伏せた。

「なるほどな……。あの小さく可愛い子ども達が、いつの間にかそこまで想い合っていたとはな……」
「長、私は」
「止めろッ。長だなんて、他人行儀な呼び方をするなッ」

 唐突に、ジルダが吼えた。両目は涙が滲み、ハイエナの顔がくっしゃくしゃに歪んでいる。情緒がぐちゃぐちゃになったジルダの顔の有様に、とザナだけでなく周りの仲間もギョッと驚いた。

「お前は! 私の! 妹だからな! いつだって!!」
「え、う……うん?」
「おい、ジルダ?」

 ジルダは一度、空を仰ぎ見て、深く息を吐き出す。それから再び、とザナを視界に映した。

「はあああ……まったく、二人揃ってなんだその顔は。今にも死にそうな顔をして」
「だって、ザナは、長……あ、えと、姉さんに勝てなくて」
「当たり前だ。そもそも私がザナに負けるなんて、万が一にもあってたまるか」

 ふん、と自信たっぷりにジルダは鼻を鳴らす。

「私は“勝て”とは言っていない。“認めさせろ”と言ったんだ」

 は、ハッと息を詰めた。そしてそれは、ザナも同様だった。

「荒削り、まだまだ未熟。子どもらしく、愚かで、だが迷いのない一撃。私にも――その想いは十分、通じたらしい」

 つい、とジルダは片腕を持ち上げる。露わになった脇腹には――刃が掠めた、一筋の残痕が走っていた。
 それは、ザナの槍が、ジルダの身体に届いた証だった。

「――ザナ」
「……はい」
は私の妹だが、群れの長を継ぐ資格は真にない。だから、をつがいにしようと、お前は長のつがいにはなれない。それは、十分に承知しているな」

 ジルダの問いかけに、ザナは口角を持ち上げる。その不敵な笑みは“荒野の嫌われ者”に相応しい獰猛さに溢れていた。

「当たり前だ。そんな立場、欲しいと思った事は一度もない。俺が、欲しいのは――」

 ザナは力強くの肩を抱き寄せる。

「……ふん。吹っ切れたと思ったら、急に良い雄になったか。今のお前なら、否やとは言うまい」
「姉さん……!」
「――認めよう。ザナ、お前は確かに、私の妹をつがいにする資格がある」

 困ったように、けれど晴れやかに、ジルダは微笑んだ。
 固唾を飲み見守っていた群れの仲間は、一斉に歓声を上げる。

「ザナ!」
「は……うおッ?!」

 は満面の笑みを咲かせ、ザナの首に飛びつく。そのまま横へ押し倒し、素っ頓狂に呆けるハイエナの顔に口付けた。


2021.03.03