15

 照り付ける太陽は沈み、金色に輝く草原は暗闇に包まれた。光り輝いていた地平線も、深い藍色で染まり、無数の星が夜空に瞬く。
 日中とは打って変わり、静寂に包まれた荒野。しかし、その真ん中でたかれる炎は、夜が訪れてもなお目映く燃え盛っている。

「追加のお酒持ってきたよー!」
「今日は全部空にすっぞー!」
「ザナとの祝いだ、潰れるまで騒ぐぞー!!」

 荒野の嫌われ者と呼ばれるハイエナ獣人達は、陽が暮れていっそう笑い声を響かせる。
 ザナと、新たなつがいが誕生した祝宴は、夜を明かす勢いで続いていた。

 ジルダの妹であるを巡り勃発した、ザナとジルダの決闘。群れ最強の女傑から挑戦状を叩き付けるという、前代未聞のその決闘で、ザナは見事ジルダに認められた。
 群れの中で、新たなつがいが誕生した。しかもそれは、群れの頂点に君臨する長と戦い、認められた上で、その妹を堂々と獲得したのだ。
 雄にとっても、雌にとっても、これほど栄誉ある事はない。群れの歴史に残すべきこの出来事を、仲間は皆等しく喜び、そして心から祝福した。賊のような風貌をしたハイエナ獣人達が、楽しげに踊り、歌い合う。この時ばかりはきっと、賊だなんだと揶揄される事のない、賑やかな宴の風景に溢れているのだろう。
 それを見つめるの頬には、笑顔が咲いていた。皆、自分の事のように喜んでくれているのだ。この喧騒は、嬉しいに決まっている。

「――姉さんったら。もう、苦しいよ」

 ――女長ジルダから、息苦しいまでの抱擁を受けている状態ではあったが。

 夕暮れから始まり、なおも盛り上がったまま終わる事のないこの宴で、ある意味では当事者の一人でもあるジルダ。彼女はというと、にしがみついたまま離れないでいる。
 決闘が終わった後からこの調子で、もうすっかりと辺りは暗闇の中だ。どれほどの時間が経過しているのか、は数えるのを止めた。

「うええええん~~~~」
「はいはい」
「ザナとつがいになっても、私の妹なんだからな~~~~」
「分かってるよ」
「妹だからな! 長なんて他人行儀な呼び方は、もう二度とするな!」
「はいはい、分かったから」
~~~~お前は私の自慢の妹なんだ~~~~」

 まだら模様を描く屈強なハイエナの身体が、蛇のように巻き付く。何度もぐりぐりと顔を摺り付けられ、の黒髪はとうにボサボサに乱れきっている。少し前から似たような台詞しか口にしておらず、このやり取りもとっくに飽きてしまった。
 群れを率いる、勇ましく逞しい女傑――そんな自慢の姉が、まさかこのような姿を見せるとは。
 五年近く共に居るが、初めての事だ。は苦笑いをこぼす他ない。しかし酷い有様ではあるが、なにもジルダは、を祝っていないわけではない。むしろ彼女は、誰よりも喜んでくれた。喜んで、喜んで、ありったけの祝い酒を煽って――その結果、この状態に仕上がってしまった。

(お酒のせいだけじゃ、ないだろうけど)

 ザナとジルダの決闘が、終決した後。は初めて、ジルダへ真正面から挑んだ。例え彼女に逆らう事になってでも、伝えたかった言葉。精一杯にぶつけたの想いも、多少は理由に含まれているような気がしたが……それを尋ねるような、無粋な真似はしないでおく。

「――おい、ジルダ。いいかげんにしろ」

 唸るような低い声が、目の前から響く。ザナだった。ハイエナの顔には、明らかに怒気が滲んでいた。

「お前にとっては妹だろうが、俺にとってはつがいだ。いいかげん、を放せ」

 ザナの視線は、ジルダへ痛烈に注ぐ。だが、ジルダはザナを一瞥しただけで、ぷいっと顔を背けてしまった。

 ぷいって。獅子の獣人を泣かせた逸話を持つ女傑が、ぷいって。

 あまりの子どもじみた仕草に、は目を丸くし、ザナは鼻筋に浮かぶしわをいっそう深めた。

「良いだろう、今くらい。妹が嫁ぐんだ、大目に見ろ」
「十分、大目に見てやっただろうが! もう夜になってんじゃねえか! 長い!」
「ザナの手が出る前に、私の匂いを存分に付けていってやる!」
「ふざけんな! だから俺のつがいだって言ってんだろ!」

 猫背気味の巨体と巨体に、小柄なは文字通り挟み込まれてしまう。周囲の仲間達は、なんと程度の低い争いかと呆れながら、何処か優しい微笑みをこぼした。

「……なあ、ザナ」
「あ? なんだよ、ジルダ」
「こんな事、もう言うまでもないが」

 ジルダの黒い瞳に、不意に静けさが浮かび上がった。

は、私のかけがえのない妹だ。“掃除屋”だの“嫌われ者”だの言われる事を知った上で、西の国ではなく、私達と一緒に居る事を選んでくれた」
「……」
「この子を、荒野の真ん中に放り出すような真似は、するなよ」
「姉さん……」

 はジルダの腕の中で、その横顔を見上げた。

「……それは、心外だな。ジルダ」

 ザナは小さく鼻を鳴らし、ジルダの瞳を真っ直ぐと見つめ返す。

「俺がこいつをつがいにと望んだのも、あんたと戦ったのも、もう一度荒野に放り出すためじゃねえ。一緒に、ここで、生きていくためだ」
「……そうだな。そうだった。お前は、昔から、そういう奴だった」

 ジルダの顔に、安堵した微笑みが浮かんだ。群れの女長でも、女傑のものでもない、妹の平穏と幸福を願うただの姉のものだった。
 しかし、それもほんの一瞬の事だ。
 次の瞬間には、ジルダの顔にまたも威圧が滲み出した。

「ああ、信じるとも。牙が折れるまで、を守り愛せ。もしも反故にしたら、その首をねじ取り、亡骸を雨ざらしにしてやる」
「姉さん、過激過ぎ!」
「嘘じゃないからな! 良いか、本気だからな! 私の妹を二回も泣かせたんだ。また泣かせてみろ、槍で突き殺してやる!!」
「姉さん! なんて事、言うの!」
ー! 嫁に行っても私の妹だからなー!」
「だから、嫁に行くも、なにも、同じ群れでしょ」
「うわァァーん!!」

 ああもう、駄目だこりゃあ、酔ってる。

 ジルダの硬い胸に押し潰されながら、はジルダの旦那、つまりは義兄へ視線をやる。彼はと同様に、駄目だこりゃ、と諦めた風に力なく首を振っていた。
 群れの長、ジルダ。群れ最強の女傑でもある彼女の特技は、獅子の獣人をボコボコに伸す事である。
 そんな彼女が、ここまでかなぐり捨てた姿を見せるなんて。は呆れる一方で――本当に大切にされてきたのだと、改めて理解した。

「姉さん、大丈夫だよ」

 ジルダは、今もを心配してくれている。けれど、もう、大丈夫なのだ。人間である自分は、群れの仲間として相応しくない――この群れに救われ、受け入れてもらってから五年近く、の中に在り続けたあの黒いわだかまりは、もう何処にも無いのだから。

「私、もう、何も不安に思ってない」
「……」
「本当だよ」
「……分かっているよ、私だって。お前はもう、群れに相応しい女であり、私が心配する必要なんて無い事だって」

 それでも――呟いたジルダの声は、小さく、そして母親のように柔らかかった。

「いつまでも、私の可愛い妹だよ」
「……うん。ありがとう」

 ジルダは今一度、ぎゅうっとを抱きしめ、ゆっくりと身体を離した。他の雄よりも大きな身体を有した、強く逞しいハイエナの女傑の顔には、やはり優しい笑みが浮かんでいた。

 ジルダの腕から送り出されたは、迷わず足を進める。もちろん、ザナのところだ。地面にどかりと座った彼は、宴の主役の一人でありながら、不満を隠す事なく剥き出しにしている。
 が近付くと、待ち侘びていたように腕を引き、自らの膝の上に座らせた。ちょこんと収まってしまう小さな身体を、後ろからしっかりと抱き込み、細い肩口に顎を乗せる。やがての耳元で響いたのは、長い長い溜め息だった。

「誰のつがいなのか、分からなくなるところだった」
「ふふ、なにそれ」
「いや、マジでジルダの匂いしかしねえ」

 不満げに文句を口にするが、それでもジルダの好きなようにさせていたあたりに、ザナの優しさが窺える。はクスクスと笑みをこぼし、大きな胸板に寄りかかった。

「私は、よく分からないけど、でも姉さんの匂いは嫌いじゃないから、それも素敵」
「ッおい」

 背後のザナの空気が、動揺で揺らいだ。まさか、ザナではなくジルダを選ぶ、なんていう想像でも抱いたのだろうか。冗談に決まっているのだから、そう焦らずとも良いのに。

「でも、私は、ザナを選んだ。ザナも、私を、選んでくれた」
「……」
「分からなくなる事なんて、絶対に、ないよ。私は、貴方の、つがい」
「……そう、か」

 ザナの口数が、急に減ってしまった。つい、と斜めに見上げると、彼はそっぽを向き、丸みを帯びた黒い耳をパタパタと揺らしていた。照れているのだろうか。よく見れば腰の後ろの尻尾も、普段にない振り方を見せている。
 照れ方まで不器用だとは……。こうなると、逆に可愛らしく感じてしまう。
 は上機嫌に、喉を震わせる。言葉よりもずっと明瞭に感情を伝える、仲間達の鳴き声。それを真似ただけの音は、不格好ではあるが、ザナには届いただろう。やがて彼からも、喉の音が返される。その穏やかなハイエナの声が、とても嬉しくて、の胸は温かさで満ち溢れていった。

「……なんか、変わったか。
「そう、かな?」
「ああ、なんというか、どう言ったら良いか分からねえが」
「私は、前から、こんな、だよ。ただ、思っている事は、ちゃんと口にしようって、決めたの」

 獣人の群れに、ただ一人の人間。
 その事実は、何よりもに重く圧し掛かった。爪も牙も持たない脆弱な身で、彼らの仲間だと胸を張る事など、出来るはずがなかった。
 だが、今はもう違う。
 自分は仲間であり、家族なのだと、堂々と高らかに言えるのだ。だったら、自分の気持ちも素直に伝えよう。荒野の真ん中で尽きるはずだった命を救われたあの時から、皆にしたくても出来なかった事全部、うんとしよう。
 は、そんな風に、ただ純粋に決意したのだ。

「そうか。……俺も、そう決めていたところだ」

 ザナは微かに笑みを浮かべると、の頬を舐めていった。それは仲間同士でもする友愛の仕草であり、特別な事ではない。けれど、いつもよりずっとくすぐったくて、不思議な喜びをにもたらした。


◆◇◆

 訪れた夜が深まり、祝いの宴も徐々に落ち着きを見せ始めた。
 今夜ばかりは無礼講のためか、そこかしこでコクリコクリと舟を漕ぐハイエナ達が居て、さらには大の字になり寝落ちしている者まで居る。子ども達に至っては、抱き上げても身動ぎ一つしないほどぐっすりと眠ってしまっている。
 月の位置からして、もう真夜中を迎えるだろう。
 無事に起きている者で後片付けをしようとなった時、とザナにジルダの声が掛かった。

「後片付けは良い。それより、お前達に贈り物だ」

 足元がふらつくジルダに連れられ、宴の輪から外れる。仲間の声が遠ざかり、途端に静けさが広がった。
 いくつものテントが並ぶ場所から、さらに少し離れたところへと足を進ませると、そこには真新しい綺麗なテントが用意されていた。

「群れの新しいつがいに、贈り物だ。これからは、二人で大切に使うといい」

 私の時も皆が用意してくれたのだと、ジルダはしみじみと語った。

「姉さんが、これを……?」
「ああ。もちろん、他の女達も協力してな」

 は、テントを見上げる。二人だけで使うにはもったいないほど、大きくて立派だ。きっと手作りだ、大変だったに違いない。一体いつ準備していたのだろう。

「こんなに立派なもの……本当に良いの?」
「もちろんだとも。そのために、皆で繕ったんだから」
「あ、ありがとう、姉さん。すごく、嬉しい」
「ふふ、良かった。さあ、後は二人の時間を楽しむといい」

 ジルダは、意味ありげに笑みを浮かべた。

「――音漏れをよく防ぐ布を使っている。私達の事は気にするな」

 ジルダは囁きを残し、悠々と去って行く。足元がふわふわとしていながら、その後ろ姿は何処までも凛々しかった。

 さすがは獣人、生き物の本能がとりわけ強い種族だ。
 つがいの成立――すなわち、子作りという事だ。

 つがいとして認められ、結ばれたのは夕刻――数時間前だ。さほど時間は経っておらず、心の準備はまったく整っていない。の心臓は、思い出したように音を立てる。

「まあ、とりあえず見てみるか」
「あ、う、うん。そう、だね」

 ドキリと肩を揺らすとは違い、ザナの様子にあまり変化はない。気恥ずかしさの欠片もない猫背は、入口を押し上げ、テントの中へ吸い込まれる。緊張を隠せないまま、はその後に続いた。

 隅に置かれた角灯が、仄かに白い光を放ち、視界を柔らかく照らす。テントの内側は、広々とし、窮屈さを感じさせなかった。
 ジルダは、一通りのものを用意してくれたらしい。テントだけでなく、くるまって眠るための毛布や、吊り下げられた革袋、淡く照らす角灯など、全て揃っている。使い古されたものはなく、どれも真新しい品ばかりだ。揃えるのは大変だっただろうに、本当にありがたいとは思う。

「わあ……綺麗……」

 履物を脱ぎ、恐る恐ると敷毛布の上へ踏み出す。ふかふかと柔らかい、言葉にし難い心地好さが足裏に広がった。
 が腰を下ろし、しみじみとそれを撫でていると、テントの入口がパサリと閉じられた。途端に、中の空気は静けさを帯びる。後片付けに勤しむ仲間の声も、外の物音も、の耳にはほとんど届かない。ジルダが言った通り、遮音性に優れているらしい。

 真新しいテント。まっさらな匂い。そして、仲間の姿の見えない、二人だけの空間――忘れかけていた緊張が、再び胸の内に広がった。

「――なんだ、そわそわして。今さら緊張か?」

 いつの間にか側にやって来たザナが、の隣に座った。からかうような声に、は「別に」と返そうとしたが……否定は出来なかった。

「たぶん、そう、だと思う……」

 思えば今まで、常に仲間たちの姿が近くにあった。二人きりの時間は、あまり無かったように思う。彼と共に眠ったのも、果たしていつの事だったか。しかもそれは幼い頃の話で、今はもう、意味が違うのだ。
 ただ、嫌な緊張ではなかった。
 同じ場所で眠るのも、こんな風に時間を共有するのも、良いなと思ってしまうくらいには浮かれているようだ。それは――ザナも同じだろう。彼の感情は、忙しなく揺れる耳や細い尻尾に、分かりやすく表れているのだから。

「ふふ」
「何笑ってんだ」
「何でもない」

 はひとしきり笑い、ふっと、呟きを落とす。

「――もしも、西の国に行っていたら、どんな暮らしだったのかな」

 エリオスから差し出されたあの手を、拒む事なく取り、この地を離れていたら。
 多種多様な種族が、それぞれ独自的な文化を持ち暮らす、暑く乾いた荒野の国。西の国は、こことは違い緑豊で、赤い土も金色の草原もなく、きっと涼しい風が吹いている。見ず知らずの土地、風景、文化に価値観――想像すら出来ないが、きっとそれは見た事もない世界なのだろう。

「行っていたら……この幸せは、なかった、だろうね」

 獲物を追いかけ狩りをして、火を熾し地面に座って、全員で賑やかに食事をして、テントで身を寄せ合い眠る。目と鼻の先には大切な家族があり、いつでもその温もりに触れる事が出来る。
 これを手放して得られる幸福なんて、あるのだろうか。
 西の国へ誘ってくれたエリオスには、ほんのちょっぴり申し訳ないが、やはりこの場所が一番いい。
 この場所が、一番、自分らしく居られる。

「ザナ。私は、とても弱い。それは、どうやったって変わらない」

 の呟きに、ザナは何も言わず耳を傾けている。

「この国で暮らす獣人は、みんな強い。もちろん、群れのみんなも」
「……そうだな。ハイエナの雌は、とにかく強い。色んな意味でな。だから、みたいな小さくてひ弱で脆い雌は、初めて見た」
「ふふ、そうでしょ」

 ――だから。
 は、そっと手を伸ばし、ザナの大きな手を握る。

「これからも、たくさん、迷惑かける。だから……よろしく、ね」
「……ああ、好きに頼れ。だから俺は――お前の近くに居たんだ」

 正面から向けられるハイエナの眼差しは、柔らかく、そして熱を秘めていた。は一瞬狼狽し、瞳を逸らしたが、再びザナの顔を映す。惹かれるように、自然と距離が埋まり、額が重なった。それだけでの胸はくすぐられるような幸福に満ちたが、目の前のザナは顔を動かし、尖った口を薄く開くと、舌先を伸ばした。

「あ……ッ?」

 ぬるりと、唇を這ってゆく、ハイエナの舌。思わぬその熱さに、は驚いて背中を震わせた。

「……もしも、西の野郎のところに行くと決めていたら」

 がそうしたように、ザナの口からも空想が紡がれた。

「あいつをぶん殴って、無理矢理にでも連れ帰るつもりだった。泣かれようが、嫌われようが」
「ザ、ナ」
「でも、お前はここに残ると、俺とつがいになると言った。なら、もう、いいだろ――」

 毛皮を纏う黒い手が伸びる。待ち望んでいた獲物を捕らえるような、そんな渇望を滲ませるハイエナの手に、の身体は引き寄せられる。

「――全部、もらったって」



2021.09.04