10

 その時になって、はふと気付いた。
 “傭兵”の世界に身を置くという彼の、その力や姿を見る事は初めてだ、と――。





 静謐(せいひつ)な空気が引き裂かれ、無造作に散らされる葉が激しく踊った。

 屈強な背格好と、筋肉が盛り上がる強靭な四肢を持つ、獣のように荒々しい男たち。山賊という言葉に相応しい風貌を宿し、凶悪な大鉈を振るった。
 その姿は、何の力も持たない民間人が見たならば、立ち向かう気力を失くし呆然とするばかりだろう。がそうであるように。

 ――けれど。
 何の躊躇いもなく正面へ飛び込み牙を剥いたナハトは、骨肉を断ち割る凶刃にも、荒々しい男の気迫にも、一切怯んでいなかった。
 むしろ、大柄な男二人を相手取りながら、押しているようにさえ見えた。

 攻撃を避ける素早い身のこなしは、風が踊るようにしなやか。けれど、至近距離にある大鉈にも怯む事なく繰り出す猛攻は、その姿には似合わないほど、何処か蛮勇じみて凶暴。

 あれが、ナハトなのだろうか。大人びた一面と、茶目っ気のある一面を併せ持つ、傭兵という職についている事が不思議なくらいに柔和であざとく可愛い、イタチの青年なのだろうか。
 は、恐怖というより困惑を抱いた。目の前で男たちに牙を剥く口元がどう笑うかも、男たちを殴る手がどれほど温かくて優しいかも、は知っているのだ。

 ナハト――。
 呟いた彼の名は、口の中で消えてしまった。



「この……ッちっせえイタチの、分際で!」

 苛立ちを露にし、男が大鉈のような剣を振り下ろした。ナハトはそれを冷静に見据え、短剣で受け止めいなす。空を切っただけの剣の上、小ぶりな短剣を滑らせて踏み込むと、ナハトと男の距離がなくなった。

「――そのちっさいイタチを止められないなら」

 男の強面が、ハッとなって歪む。男の目の前には、獰猛な笑みを浮かべた裂けた口と、獣の眼が広がっていた。

「アンタはただの木偶の坊だな」

 跳躍すると同時に繰り出された飛び膝蹴りが、男の顎に炸裂する。
 かち上げられた衝撃で男はしばしふらつくと、力を失い崩折れる。使い手を失った剣は、ガランガランと音を立てて地面へ落下した。
 その様子を見て、もう一人の男は背を向けた。
 離れようとする背を、獰猛な光を宿した獣の眼が追いかける。倒れ伏した巨体を飛び越え、茶褐色の影が一息に木の幹を駆け上がる。三角跳びの要領で幹を蹴りつけると、男の頭上から強襲した。

「が……ッ!!」

 背中に衝撃が迸り、男はたまらず地面へ倒れ込む。

「……ほら、たかがイタチなんでしょう? どうしたの、僕はまだ息も切れてないのに」

 踏みつける足の踵が、男の背にゆっくりと沈み込む。ギシギシと骨が軋み、身体が悲鳴を上げる。声なく叫ぶ男の姿に、イタチは表情を変えず、さらに加重し容赦なく嬲った。

 もう少しで、その背骨を踏み砕く。イタチの瞳が残忍に瞬いた。

「――ナハト!!」

 は、ほとんど無意識に名を叫んだ。
 攻め立てた獣が、ハッとなって振り返る。動きが止まった彼へ、は身を乗り出し首を振る。

「ナハト……」

 男への同情ではない。自分が置いて行かれてしまいそうな、不安からの行動だった。
 離れていかないで欲しいと、の涙で滲む瞳が訴える。布切れにされた服をたぐり寄せ身体を抱きしめる彼女の頼りなさに、ナハトから急速に怒りが引いてゆく。歪んだ面持ちが、次第に平素のものへ戻っていった。
 踏みつけていた男の背から、ナハトは静かに退く。男はすでに気を失っているようで、地に伏したまま動かなかった。



 喧噪が鎮まり、緊張を帯びた空気が凪ぐ。豊かな緑の風景に、場違いとも言える穏やかさが舞い戻った。
 冷え切ってしまった自らの身体を抱きしめ、は震える息を漏らす。
 サクリ、サクリ。
 草を踏みしめ近付いてくる足音に、ハッとなって顔を上げる。の目の前には、ナハトが佇んでいた。

「あ……」

 見下ろすイタチと視線がぶつかったけれど、は自分から逸らした。
 頭が上手く働かない、けれど、自分が愚かな事をしたとは分かっている。心配してくれた彼の言葉を裏切って、このざまだ。言い訳なんて出来ないだろうし、彼も怒って……いや、呆れ果てている事だろう。
 不安、恐怖、情けなさ――様々な感情が巡り、は何度も口を開閉させてみたが結局黙り込むしかなかった。

「――馬鹿」

 唐突に降ってきたナハトの声は、抑揚が薄く淡々としていた。
 そう、だよね。そう言われても、仕方ない。
 ぎゅっと自らの身体を抱きしめ、は歪な笑みを浮かべる。

「う、うん……本当……そうだよね。ご、ごめんなさい」
「本当に、君は馬鹿だよ」

 さらに言い募られた言葉に、は身を縮ませる。

「――だけど、それ以上に馬鹿なのは、僕の方だ」

 ナハトはそう言うと、おもむろに自らの上衣を脱ぎ始めた。留め具を外し、左右に割って腕を引き抜く。現れた彼の上半身は、頭と同様、茶褐色の毛皮を纏っている。はぼんやりと見上げ、ふと、ある所に目を止める。彼の上半身の側面には、模様が走っていた。躯体のラインに沿って伸びる、明褐色の帯状の模様が――。
 なんとなしに見つめているの前へ、ナハトが膝をつきしゃがむ。そして、脱いだばかりの上衣を肩へ羽織らせた。

「ごめん、怖かっただろ」

 温かさにふわりと包まれ、はこみ上げるものを堪えた。首をぶんぶんと横に振り、貴方が謝る必要なんて何処にもないと言おうとしたが、上手く声にならなかった。

「さ、戻ろう。周りには他の奴は居ないし、大丈夫」
「あ、あの、男の人たちは……?」

 そっと視線を向ける先には、意識が戻らず昏倒している二人の男が転がっている。

「しばらくは起きないだろうけど……そうだな」

 ナハトは頷くと、男の側に歩み寄りうずくまる。彼はしばらく、ピクリともせずに転がる男に何か施し、それからのもとへ戻る。去り際、わざと踏みつけるという足癖の悪さも見せて。

「とりあえずは、あれでいいよ。起きたら村じゃなくて潜伏先に戻るだろうし。一応、あとで町の自警団にでも報告しとけばいい」

 そう言いながらナハトはへ両腕を伸ばし、座り込んだ身体を不意に抱え、立ち上がった。
 目線の位置が急に高くなり、は驚いて目の前の毛皮にしがみつく。何をしたのかと尋ねようとしていた言葉は、全て引っ込んでしまった。

「お、重いよ、ナハト……」
「いいから、大人しくしてなよ」

 静かな声で諭され、は口を閉ざす。
 背中と膝裏に回っている彼の腕は、見た目の細さに反してとても力強く、の重みなどものともしない。その足取りや身体の軸も、ひと一人を抱えているにも関わらず、しっかりと安定し頼りなさなんてない。

 肉球のついた大きな手と、力強い獣の腕を視界の片隅に納めた後、窺うように視線を上げる。ナハトはを見なかったが、その代わり、毛むくじゃらの手に力を込めた。

 は顔を下げ、一度だけ、小さくすんっと鼻を鳴らす。不安を拭う彼の手に、の心には感謝と謝罪が溢れていた。


◆◇◆


 村に戻ると、気遣わしげな面持ちを宿した住人たちに出迎えられた。先に戻った子どもたちから、すでに話は聞いているのだろう。ナハトに抱えられるの格好にも視線が集まり、いっそう痛ましげに表情が歪む。
 居心地の悪さを覚えながら、は必死に明るく振る舞い、何事もなかったと笑った。それがただの強がりである事は、誰もが知っているに違いない。それでもは、いっそ止めた方が良いだろう歪な笑みを、強ばる頬に浮かべ続けた。

「ごめんなざいィィィ!!」
「ぶわァァァん!!」

 涙と鼻水でとんでもない事になっている、泣きじゃくる子どもたちのためにも。
 二人の傍らに並ぶそれぞれの両親が、同じように何度も頭を下げ謝っている。きっと二人は、彼らに大目玉を食らった事だろう。はナハトに言って下ろして貰うと、二人の前へしゃがみその頭を撫でた。

「みんなに伝えてくれたんだね、ありがとう。偉いね」

 の穏やかな声に、緊張が弾けたのか、さらに勢いを増して二人は泣きじゃくった。「もうどこにもいがないィィィ」と叫ぶ姿が、ちょっとだけおかしかった。

「本当に、本当にごめんよ。ちゃん」
「いいの、おばさん。だからもう、怒らないであげて下さい。私は大丈夫だから」

 は立ち上がり、改めて村の周囲に賊が現れた事を伝えた。住人たちの顔色がさっと強ばり青ざめるその様子を、は眺めていたけれど、ぐいっとナハトに腕を引かれその場を遠ざかる。
 ああ、そうだ、いつまでもこんな格好をしていてはみっともない。
 自宅へ戻るまで、は何処かぼんやりとしていた。


 ナハトに先導され、辿り着いた自宅。
 扉を開け、住居に踏み入れる――その瞬間、ぐらりとの身体が揺れた。すぐさまナハトの腕が伸びたので転倒は免れたが、足に全く力が入らない事には狼狽えた。

「あ……やだ、わ、私ったら」

 足下がふらつく。膝が震え、力が抜けてゆく。
 先ほどまでは大丈夫だったに、何故急に。今になって、賊に襲われた恐怖が押し寄せてきたのだろうか。

「――邪魔するよ」
「え? あッ」

 ナハトは再びを抱えると、住居の中を進み、リビングの椅子へ下ろした。

「コップは? あと、水瓶」
「あ、そこの棚に……水瓶は、厨房の隅に」

 ナハトはスタスタと移動し、コップを取り出して水を注ぐ。それを片手にの側へ戻ると、目の前に差し出した。少しの困惑を覚えたが、は両手を伸ばしコップを受け取る。冷たい水を口に含んでこくりと飲み下すと、少し気分が落ち着いた。

「あ、ありがとう、ナハト」

 は微笑んだが、ナハトは何も言わずにコップを取り上げ、机へ置く。彼は椅子には座らず、机に寄りかかって視線を下げた。

「……どうして、あんなところに行ったの」

 抑揚の欠けた声で尋ねられ、は一瞬まごついた。

「あ、あの……村の、子どもたちを、追いかけて」
「それは何となく分かる。そうじゃなくて、君はどうして外に出たの」

 今がどんな状況なのか分かっているはずだと、言外でナハトは言っていた。

「連れ戻すため? 何かあったら大変だから? ――それでそんな目に遭ったんだろう、いい加減、お人好しが過ぎる」

 ナハトは険しさを露わにし、の身体を見下ろした。羽織った上衣の下にある惨状を、彼の目が示唆していた。はぎゅっと服を寄せ合わせ、押し黙った。

「……君の美点だろうけど、どうしてそこまでする。僕には分からないよ」

 ナハトの指がおもむろにの頬へ伸びる。指の腹で何かを拭う動作につられ、も自らの頬に触れる。ザラザラとした感触がし、指先を見下ろせばそこには土が付着していた。倒れた時に地面へ擦り付けてしまったのだろう。

「ご、ごめんね、本当……迷惑掛けて、み、みっともないよね」

 が小さく笑うと、ナハトの瞳がぴくりと動いた。

「そうしちゃう、性格なのかな……で、でも、私は、大丈夫だから――」

 そう口にした瞬間。
 机に寄りかかっていたナハトが、不意に動いた。
 椅子に腰掛けるへ、イタチの獣人が床を踏みつけ近付く。覆い被さるように佇んだ彼は、に影を落としながら睥睨した。

 突然の事に、は声も出せず驚く。視界の片隅で、しなやかな尾が翻る。

「……大丈夫だから?」

 影を帯びたイタチの顔に、感情が溢れる。怒りなのか呆れなのか、定かでない。しかし、射抜くような鋭さが、そこにあった。

「何をもって、大丈夫なの?」

 ナハトの手が、の手首を掴む。大きくて、肉球があって、鋭い爪も持つ、獣の手。強い力で引き寄せられ、は椅子から僅かに腰を浮かせた格好になる。

「ナハト……」
「まだこんなに震えてるくせに、大丈夫だって? 今にも泣きそうな顔をしてるのに、無理をしてまで僕の前で笑うな」

 何処か苛々とした様子で、イタチは憤りを露わにする。は困惑に暮れ、声を喘がせる。こんな風に彼が剥き出しの感情を見せたのは、この数日間、初めての事だった。

「……君と僕は、ほんの少しだけ似てる」

 一人で生きて、一人でどうにかしてゆき、そしてこれからも一人で何でも出来る――そう思っているところだ。
 真っ直ぐと見つめられたカテイは、無意識のうちに視線を泳がせた。

「わ、私、は……」
「――あの山賊は、また来るよ」

 ひっそりと呟かれた言葉に、は肩を揺らす。

「あんなに人里に近付いていたって事は、略奪の下見だろうな。近いうちに、都市部や街道でしてきた事を、この村でやる」

 必ず、とナハトは重く付け加えた。
 治まりかけていたはずの恐怖が再びこみ上げ、震えとなっての全身を包む。
 地面にその身体を縫いつけ、下卑た笑みをこぼし見下ろした、粗野な風貌の男たち。あれが、この村へやって来る。
 はか細い呼吸を繰り返し、どうしようもない恐ろしさを抱いた。

「まして、攻め込むには簡単すぎる村だ。障害物がなくて見晴らしもいい。夜中にやって来たら、どれほどの人が朝陽を拝めるかなあ」

 ――どうして、ナハトはそんな事を言うのだろう。

 近いうちに略奪が行われる事を告げられ、平常心で居られるひとなんていない。
 これから起きるだろう惨劇をほのめかし、それをどうするつもりなのだと突きつけ、彼は一体何を言いたいのだろう。どうしようもない事を認めさせ、私が馬鹿だと責めたいのか。

「わ、私……ッ」

 声まで震えてきて、はぎゅうっと身を縮めて顔を伏せる。
 結局、自分は震えるしかない村娘なのだ。どれだけ、奮い立たせても――。



 ――その時、握られた手首が、ぐっと力強く引き寄せられた。



「……どうして、僕に頼らないの」

 は、ハッとなって顔を上げた。激しい感情に満ちていたイタチの顔や声は、打って変わり、静けさを湛えていた。

「僕に頼ればいい。縋ればいいだろう。どうして、僕を見ない?」
「だ、だって……」
「僕は君にとって、そんなに頼りない存在か。信用ならない、いずれは消える存在か」

 そんな事はないと、は大きな声で反論した。頼りないなど、それだけは決して思っていない。
 けれど、手を伸ばしても、引っ込めてしまうのは。

「ナハトは、傭兵が嫌で……この辺りに、旅行に来て……」

 断片的な言葉をが小さく漏らせば、ナハトは呆けるような面持ちを一瞬浮かべ、溜め息をこぼした。

「僕は確かに逃げてきたけどね、それは傭兵稼業が嫌になったからじゃない。僕の人となりではなく名前や噂だけを聞いて詰め寄ってくる人たちから、遠ざかりたかっただけなんだよ」

 ふと、ナハトの黒い瞳が、をじっと見つめた。

「……自分でも、不思議なんだけどね」

 彼の指が握りしめる力を緩め、撫でるようにそっと指の位置を変えた。

「君だけは、僕に遠慮なんてしないで欲しいと、ここのところ思ってる。そういうの、好きな方じゃなかったはずなんだけど」
「ナハト……」
「僕と君は、最初から口約束だけでしか繋がっていない。寝泊まりする場所を貸した主と、それを借りた旅人。それ以上でもそれ以下でもない関係。それで、最初は良かったはずだったんだけど」

 ナハトは、ふっと自嘲するように呼気を漏らす。

「――何だか、駄目だ」

 慣れていたはずの口約束だけの関係が、今は酷く煩わしく感じる。いやむしろ、邪魔とすら思える。
 そんなものではない、もっと別の、上っ面ではないものが心底欲しい。

 何処か急いたように吐露するイタチの言葉に、は心臓を跳ねさせる。それはまるで、ここ最近、彼にだけは決して見せないよう隠していた、の本心によく似ていたのだ。あるいは、そのものだろうか。
 いや、でも、そんなはずは。
 跳ねる心臓から、抱いてはならない“期待”と共に熱がじわじわと広がる。は声を震わせ、何度も口を開閉させる。

「……だから、その約束は、捨てさせてもらうよ」

 そして、その代わりに。

「ただの人間の君へ、ただの獣人として願う」

 どうか、僕を頼って欲しい。
 いつ来るとも分からない騎士団や、別の傭兵などではなく、今こうして目と鼻の先にいる僕を。

 吐露されたイタチの声は、急いた熱を帯び、懇願も滲ませた。

「……僕はこれまで、生きるためだけに自分勝手にやってきた。傭兵の仕事はあくまで生きる手段、だから誰かに必要以上こき使われる事も、飼い慣らされる事も、死んでもごめんだった。だけど、君になら」
「ナ、ナハト……」
「僕を頼れよ、。僕だけを」

 微かな目眩が過ぎる。目の前のしなやかな獣に、どうしようもないほど感情が募る。

「で、でも、どうやって……」

 ずっと一人でやってきて、これからもそうだと思っていた。誰かに頼る方法など、は持っていない。

「た、頼り方なんて、私、知らな……」

 頼ってくれと言ってくれる彼に捧げる言葉が何なのか、には本当に分からなかった。

 すると、ナハトの双眸が笑みを湛えた。これまで見てきたものではない。凶暴性をも匂わす、危険なほどの甘やかさを滲ませる笑みだった。

「――さっきみたいに、言えばいいよ」

 男たちに捕まり、咄嗟に名を叫んだように。
 ただ一言、口にすればいい。

「僕だったら、君も、村も、助けてあげられる。誇張でもなんでもなく、本当に」

 さあ、どうする――。
 ナハトの瞳が、目の前で力強く瞬いた。

 しばらく押し黙り、堪えていただったが、それ以上は耐えきれなかった。
 無理に笑みを浮かべ強がってきた面持ちが剥がれ、少女のようにくしゃりと歪み、肩が小刻みに震え出す。

「……ナハト」

 震える唇からこぼれる声と共に、の眦からぽろりと雫が伝う。

「助けて――」

 それは間違いなく、歪な笑みで隠していた、の本心だった。

 その瞬間、ナハトは婉然と微笑み、の手首を強く引き寄せた。
 あっと思った時には、の顔とナハトの顔は距離を失い――音もなく、折り重なっていた。

 一瞬の沈黙が、二人だけの空間を覆った。
 折り重なっていた影が、ゆっくりと離れる。

 唇を覆う、柔らかな毛皮と、牙の感触。そして、ぺろりと舐めた、薄い舌――。

 涙を湛える目を見開き、呆然と見上げるの視界には、イタチの顔だけが広がっていた。
 酷く危険な風にさえ見える、甘やかで熱を帯びた、獣の笑み。
 イタチという獣そのものの頭部なのに、それがありありと読み取れて、はぞくりと震える。むしろ人間ではないから、余計にそう思うのかもしれない。

 ナハトの両手がふわりと伸び、濡れた頬を包み込む。優しく、けれど余所見を許さぬ強さで、を引き寄せる。

「――助けてあげるよ、

 再び距離を詰めるイタチが、甘く囁く。

「君が望むなら、いくらでも」

 微笑んだ獣は、の頬を伝い落ちる雫を舐め取った。



しっかり者になろうとし続けたの弱さや、上から目線でしか語れないナハトの不器用さが、出てたら嬉しい回でもありました。

告白めいた甘いシーンを入れたはずだったのですが、何故か危険な香りが漂っています。
甘いシーンとは……

次話、がつっと戦闘描写予定です。着実にラストにも近づいています~


2016.08.20