09

 討伐を逃れた都市部の山賊の残党が、この周辺に潜伏している可能性がある。
 戸締りに用心し、不用意な外出は控えるように――。

 翌日、近隣の町や村には、速やかに注意勧告が行われた。
 そのおかげであれ以上の負傷者が出る事はなかったものの、白花の開花による盛り上がりは水を打ったように静まり返ってしまった。華やかなのは、風が通った後に感じられる、咲き誇る花の甘い残り香のみだ。
 だというのに、人里に現れる鳥獣は例年通りに元気よく出没し、余計に人々の頭を悩ませてくる。
 騒動が解決するまでは、この状態が続くのだろう。仕方のない事だが、あまり面白くはない。

 早く騎士団なり何なりが来て、捕まえてくれますように。
 例年の賑わいを願うは、大人しく自宅待機だった。

 ただ、そんな中、ナハトは――。




「何処かに出掛けるの?」

 尋ねたの視線の先には、短剣やポーチなどを身に着ける作業中のナハトが居る。
 もともと彼は、町民や村民が着るような簡素な服とは違い、質の良い丈夫そうな服――きっと激しい動きに対応出来るものなのだろう――を着ているので、旅人らしからぬ姿ではあったが、そうやって武器などを装備すると本当に傭兵に見えてくる。
 いや、最初から、彼は傭兵だったけれど。

「うん、ちょっと周りを見てくるよ」

 本当に都市部から討伐を逃れた賊の残党ならば、手負いの可能性もある。動かないでいてくれるなら楽だが、商隊を元気に襲っている手合いだ、今後大人しくしているとは思えない。
 ナハトはそう言った。

「獣と同じだよ、傷を負った奴ほど手が付けられなくなる。気が立ってるだろうね」

 彼の声は、何処か淡々として響いた。恐れなどの類を抱いていないのだろうか。は僅かな畏怖を覚える。

「だ、大丈夫なの……?」
「うーん……心配すべきは、僕より君の方じゃないかな」

 ナハトは肩を竦めると、不意に茶褐色の指先での額を弾いた。

「どうも君は危ういからね。僕が戻るまで、大人しくしてなよ?」
「むッこんな時にふらふら出歩いたりはしないよ」
「……そうだと思いたいんだけどねえ」

 ともかく下手に出歩かないように、とナハトは何度もへ言い聞かせ、支度を整えるとすぐさま出掛けていった。

 その後、時間が過ぎ太陽が中天に差し掛かっても、ナハトは戻って来なかった。




「本当に大丈夫かなあ、ナハト……」

 正午になりお昼時を迎えたが、ナハトの姿は相変わらず見えない。この一大事にもお構いなしに広がる、見事な青空ばかりが視界に映る。

 ナハトは明確な言葉を口にはしなかったが、残党の件で周囲の様子を見に行ったという事はにも分かった。それが嬉しくて心強かったが――何故だかとても、苦しく思う。
 ナハトはもともと傭兵という職に思うところがあり――嫌気が差したのかどうかは分からないが――この場所にまでやって来た。息抜きと、以前出会ったという名も知らぬ人を探すため。
 それなのに、こんな状況に遭遇してしまって。彼はどう思っているのだろうか。

「……考えるとモヤモヤする、何か作ってよう」

 は頭を振り、篭を抱え外の畑へ向かった。が、扉から出たその時、何か遠くで動いたような気がして、は視線をやる。
 民家の間をすり抜け、走り去る二つの小さな人影。それは村の外へ向かってしまった。

「あれって……」

 人影の正体は、おおよその見当がついた。


 ――僕が戻るまで、大人しくしてなよ?


 ナハトの言葉が脳内で甦る。篭を持ったまましばらく右往左往を繰り返しただったが、やはりどうしても放ってもおけず、篭を畑に投げ捨てた。
 誰も気付いていないようだし、何かあったら大変だ。
 言い訳がましく思ったが、後で確実にイタチの青年の怒りを買うだろうなと、は苦笑いをこぼした。

(大丈夫、連れ戻したら、すぐに戻るから)

 遠ざかってゆく人影を追いかけ、は村の外へ駆けた。


◆◇◆


 はたしてその正体は、村で暮らす二人の子どもであった。
 いつも一緒に仲良く遊ぶやんちゃな男の子たちで、も何度もその姿を見ている。時々、過ぎた悪戯をする事もあるが、性根はとても素直なので、今もが叱ると「ごめんなさい」ときちんと謝った。

「もう、お母さんやお父さんに言われたでしょ? 今はお外がとっても危ないから遊びに出たら駄目だって」

 それなのに、こんなに村から外れた林のただ中にやって来るとは。
 賊の残党も危険だが、忘れてはいけない、鳥獣の存在もある。

「おうちにずっといるの、つまんなくて……」
「ごめんなさい、もう帰る……」

 悪い事だとは一応分かっているらしく、二人はしょんぼりとする。は苦笑いをこぼしながら、下がり気味の丸い頭を撫でた。
 してはならないという事ほど子どもはしたがるもので、おまけに普段駆け回っている二人だ、自宅で大人しくしている事はなかなかに辛いものがあるだろう。分からなくもないが、それはそれ、これはこれだ。

「お母さんたちが気付いてなかったら、黙っていてあげるから。さ、帰ろ」
「うん……」

 は二人の手をしっかりと握り、村へと戻るべく踵を返した。最初こそしょんぼりとしていた二人だが、次第にいつもの調子が戻ってきたようで、の手をぶんぶんと振り「母ちゃんみたい」と笑う。
 まったく調子がいいんだから、と思いながらの口元は僅かに緩む。こんな状況だからか、子どもの笑顔が一段と眩しく感じ、束の間の安らぎを抱く。

 しばらく進むと、次第に緑の茂みが薄れてゆく。村の周囲に広がる長閑な草原の風景も現れ始め、林を抜ければ見慣れた村も遠目に見えるだろう。ほっと胸を撫で下ろし、林の終わりに真っ直ぐと向かった。


 ――ガサリ、と茂みが大きく揺れたのは、その時だった。


 の足が驚いて立ち止まる。
 今の音は、明らかに、自分たちのものではない。
 ぞくりと背筋が震え、弾かれたように振り返る。
 背面に広がる木々と緑の茂みの間に、粗野な風貌の人間の男が佇んでいた。
 偶然にも遭遇したという雰囲気はなく、男の方が後を追ってきたような気配が、揺れる屈強な肩から感じた。

「……なんでェ、女の声がするかと思えば、ガキ二人がついてやがる」

 背格好はかなり立派で、体格も分厚くがっしりとしている。その面持ちや言動には獣のような荒々しさが滲んでおり、腰にぶら下がった得物も無骨な存在感を放っている。とてもじゃないが、堅気の存在には思えなかった。

 たぶん、きっと、考えるまでもなく。
 この辺りに潜伏しているという、残党の――。

 こんなに近くにいるとは、正直思っていなかった。村はすぐそこで、手足を伸ばせば届く距離にいるなんて、誰も思わないだろう。はたじろぎ、子どもたちの小さな手を強く握る。

 その男の背面から、さらにもう一人、同じ風貌の男が現れた。

「女といっても、随分若いけどな」
「斥候を命じられただけだが、まあ手土産には良いんじゃねえか。頭領や他の連中もつまらねえだろうし、少し早い略奪の前祝いって事でよ」

 近付いてくる男たちの強面の顔に、下卑た笑みが浮かぶ。舐めつけるような眼差しが、の身体を這った。
 男たちの言葉の意味を理解するより早く身体が真っ先に動き、強ばった足が走り出す。
 しかし、男たちの方が早く、飛び越えるように距離を詰められる。賊の指先が、背筋に触れるところにまで伸ばされているのが、見なくとも分かった。

 は咄嗟に、繋いでいた子どもたちの手を前へ引き、放り投げるように大きく振り解いた。少年の小さな身体が前へ飛び、地面に打ち付けられる。

「村へ行って、みんなに伝えて!」
「あ、姉ちゃ……」
「早く!」

 地面に倒れ込んだ彼らが立ち上がって走り去るのと、の身体に男たちの手が絡まるのは、同時だった。
 は凄まじい力で地面に引き倒され、一切の身動ぎすら出来ず縫いつけられる。あまりの強さに、腕とは言わず全身に痛みが走った。

「おい、ガキはどうする?」
「放っておけ、どうせすぐ村は襲う予定なんだからな。田舎の自警団なんぞ、増えようが怖くもなんともねえ」

 村は、襲う予定――。
 頭上で交わされた野蛮な会話に、は鈍器で殴られたようだった。
 あの村を、襲うというのか。小さくて、長閑で、気の良い人ばかりが暮らす、あの村を。
 青ざめる肌に、冷たい汗が伝った。

「――そんな事より、だ」

 男たちの視線が、うつ伏せに押さえつけられるへ落ちる。肩越しに振り返ると、影を帯びた男たちの顔が広がる。薄ら暗い、ぞっとする何かが浮かんでいた。思わずの身体が恐怖で飛び跳ねる。

「手土産としては上等だが……頭領に差し出す前に、どうだ、先にちょいと」
「おい、恨まれんぞ?」
「ハハッ! んな細かい事を気にするお人かよ」

 品のない低い笑い声が降り注ぎ、は息を大きく飲み込んだ。抜け出そうと必死に身体を捻ったが、やはり僅かな身動ぎすら出来ず、地面に頬を擦り付けるだけだった。

 直後、男たちの手が、動きを変える。

 力任せに縫いつけるだけだった無骨な手が、地面に投げ出されたの両手を一つに束ね、もう一方ではの腰を掴みひっくり返したのだ。仰向けにされたの身体に、ギラギラとした視線が突き刺さった。
 明らかな意図をもった行動に、ザア、との思考が青ざめる。何をしようとしているかなど、考えるまでもない。いよいよ激しく暴れたが、娘の力なんて大した障害にはならず、むしろ男たちを助長させる結果となった。下卑た笑みをさらに凶悪に深め、音を立て舌なめずりをすると。

「ほら、お嬢ちゃん、これが見えるか」

 そういって腰から引き抜いた無骨な剣を、仰向けにされたの顔へかざす。目の前に突きつけられ、ヒッと、の白い喉がひきつる。剣なんて、そんな綺麗なものではなく、まるで大鉈のようだった。錆びついた色を纏い、肉どころか骨まで断ち切るだろう重厚な刃渡りを見て、の動きが止まるのは必然だった。
 怯えて青ざめる様子に気をよくし、男たちは充足した表情で剣を持ち直す。その切っ先をの胸元へ運ぶと、衣服に引っかけ力任せに引き裂いた。
 ビリビリと、あまりにも呆気なく衣服が布切れにされてゆく。は呆然とそれを見るしかなかった。

「や、やだ、や……ッんぐ、う!」

 固い手のひらが、口元を覆う。汗ばんだ、不快な臭いと感触がした。それだけで泣きそうになる。

「お、小娘かと思ったら、悪くない身体をしてるな」

 素肌の上を、無遠慮に手のひらが這い、は男の手の向こうで悲鳴を上げた。嫌悪感が全身を包み、は必死になって止めてくれと懇願したが、それは言葉にならず男の手の内で握り潰される。


 自分が、こんな風に弄ばれる未来なんて、想像していなかった。不用意に動けば、こうなるかもしれない状況だったというのに。
 何処か、遠い事だったのかもしれない。平穏に過ごし、それが当たり前であったから。

 理解するには遅く、自らの浅慮が招いた結果は変わらない。けれど、は叫びながら、必死に救いを求め続けた。

 村や町の住人か。
 気に掛けてくれる装飾品店の男性、食堂の夫妻か。
 すでに存在しない、両親か。

 ――いや、違う。

 が真っ先に思い浮かべたのは。
 助けてくれと声なく叫んだ先にいたものは。


 は口を覆う男の手に、思い切り歯を立て噛みついた。塞いでいた手のひらが剥がれた、その僅かな瞬間、は無意識に叫んだ。

「ナハト――!」

 再び口を覆われ、乱暴に押さえつけられる。のし掛かった男の無骨な手には、剣が掲げられていた。

「このガキ、よくも噛みつきやがって……!」

 剣の先端がギラリと光り、目の前へ持ち上げられる。は覚悟を決めるように、涙の滲む瞳を固く閉ざし、顔を逸らした。



 ――ざわりと、緊張を帯びて張りつめた空気が震えた。
 草木が揺れ、生い茂る緑が音を奏でる。林の中を通り過ぎてゆくそれは、風だった。
 強い、突風のような激しさの――。



 頭上を吹き抜けると同時に、の上にのし掛かった男の巨体が真横へ飛んだ。受け身を取っていない屈強な身体が、強烈な音を立て木の幹へ打ち付けられ、引き潰れたような声と共に崩折れた。

 突然の出来事に、はもちろん、手首を掴んでいる男も間の抜けた声を漏らし瞠目した。

 困惑するらの前に、ふわり、と人影が着地する。
 全体的にしなやかで細身の、茶褐色の尾を揺らす影。緑の風景がよく似合う、獣の横顔に、は小さな声を漏らした。
 けれど、何故か今は、柔らかさをまったく感じない。むしろ、正反対の――。

 降り立ったその人物は、しなやかな背を振り返らせ、逆光を受け鈍く光る双眸を下げる。衣服を引き裂かれ上半身を露わにしたと、その両手を奪い地面へ押さえつける男を、その目に収めると。

「てめえ、一体な――」

 躊躇なく、男の顔面を蹴り上げた。

 大気を引き裂くように鋭く放たれた回し蹴りが、男の頬に食い込む。
 “ゴキッ”なのか“ボキッ”なのか定かでない、強烈な恐ろしい音がの耳元で鳴り響いた。
 男は呻き声を漏らし、横へ倒れ込む。両手の拘束がなくなり、は慌てて身体を起こし距離を取った。引き裂かれた服はまったく原型を留めていないので、自らの腕で露わになる上半身を庇い、そうっと目の前に佇む背を見上げる。

 男性にしては細身の、しなやかな綺麗な躯体。そこに意外な力強さを内包している事は知っていたが……その足に、腕に、彼よりも屈強で大柄な男を吹き飛ばすほどのものがあるなんて、思ってもいなかった。

「……何って、それ、こっちが言いたいんだけど」

 沸々とする感情を湛えながら、ぞっとするほど抑揚のない青年の声。
 は、先ほどとは違う悪寒を抱いた。

「鼻の曲がりそうな臭いのついた手で触って、それ、喧嘩売ってんの」

 その声も、後ろ姿も、揺れる尾も、は知っている。
 けれど、つぶらな瞳を捕食者の形に歪め、鋭い牙を剥き出して、凶暴な唸り声をこぼす横顔は――知らない。

「……上等だよ、山賊の分際で」

 吐き捨てると同時に、しなやかな獣――ナハトが吼えた。


 そこに居たのは、凛々しくて可愛らしい、イタチではない。
 獰猛な本性を露わにした、爪と牙を持つ肉食獣だった。



イタチという生き物は、外見こそとても愛くるしいけれど、本性は極めて狂暴。
体格こそは小さいけれど、立派な肉食獣なのです。


2016.08.19