08

 それは正に、青天の霹靂と表現すべき凶事であった。

 白花の採取に出掛けた人々の一部が、負傷して帰還した――。

 誰かが叫んだ言葉は、食堂で働いていたの耳にも届いた。食事をしていた客や店主夫妻は飛び出してゆき、もそれに続いて通りへ躍り出る。走ってゆく人々の後を追って到着した広場には、騒然とした人だかりが既に出来上がっていた。

「なんて酷い……」
「一体何が……」

 は隙間から人だかりの中心を窺い、そして口を覆った。
 横たわり、あるいは座り込む、血塗れの人々がいた。
 白花を集めに出掛けたのだろう、彼らの傍らには摘み取ったばかりのそれが散らばっていた。傷口から止めどなく溢れる血が滴り、清楚な純白の花弁は深紅に染められ、どろりと重く残る甘い匂いを放っている。

 町の人々が駆け寄り、負傷した彼らへ布などをあてがい止血を施す。一体どうしたのだと尋ねれば、痛苦に満ちる掠れた声で答えた。

「突然……襲われ……どうにか逃げて、きたが……」
「誰にやられたって言うんだ」
「わか、らな……でも、あれは……賊かなにか……」

 その後、担架を担いだ人々がやって来たので、彼らは急いで運ばれていった。町の診療所に連れて行かれたのだろう。

 負傷した彼らの事も心配だが、それ以上に人々をざわつかせたのは。

「賊ですって」
「そんな、この辺りにそんな奴らはいなかったはずだ」

 人々の顔色がさっと青ざめ、ざわつく空気がいっそう厚みを増す。も動揺を禁じえなかった。
 どうして、そんな人たちが――。
 恐慌状態になろうとした時、広場に駆けつけた町の自警団員や町長が落ち着くようにと声を上げた。「事実関係を調べるから、まずは落ち着いて家に戻って欲しい。詳しい事はすぐに伝え、対策を立てるから」凛然と響く言葉に、集まった人々は次第に落ち着きを取り戻し、広場から去ってゆく。けれど、その表情はどれも強張り、隠せない不安を滲ませていた。

「おーいー」

 人波に逆らいながら近付いてくるのは、ナハトだった。しなやかな身体の向こうで茶褐色の尾を揺らし、の前に佇む。

「なんだか大変な事になってるねえ」
「うん……さっきの人たち、大丈夫かな……」
「たぶん大丈夫だよ。見た限り、深い創傷じゃない、手当てを受ければ問題ないさ。それよりも気にすべきは賊の人数かな」

 騒然とする空気や青ざめるとは違い、ナハトの様子は平素と変わっていなかった。むしろ、誰よりも落ち着いて周囲を見渡しているようにさえ見えた。

「賊の、人数……?」

 やはり、襲ったのものが賊という事は確定なのだろうか。
 信じられない思いでは見上げたが、ナハトはそれ以上は言わなかった。けれど、静かな彼の眼は、肯定しているような気がした。

「……いや、今は止しとこう。町長とか調べるだろうし、あとで詳しい事も分かるよ。それより、食堂に戻らないといけないんじゃない?」

 そう言って、彼はの腕を取り歩き出す。の足は滑らかとは言い難い動きであったが、ナハトに従い元来た道を戻った。
 けれど気になるのは、やはり先ほどの光景、そして町の空気である。白花の開花を喜ぶ、町全体のあの明るさは、もうすっかり消え失せてしまっていた。

「……今度は、何が起きるんだろう」
「さあね。でも、たぶん」

 ――これで終わり、なんて事は間違ってもないだろうな。

 その言葉が、ぞくり、との背を震わせた。怯えに反応してか、ナハトは小さな声でごめんと謝る。

「困った、職業病かな。ともかく、気を付けなよ、
「うん……ナハトもね」
「馬鹿、僕は傭兵だってば」
「あ、そうだった。ふふ」

 緊張が緩み、ようやくの顔にも笑みが戻る。いつの間にか自然と交わせるようになったこのやり取りが、今は最もを安心させてくれた。


 その後、は食堂に戻ったけれど、結局仕事を早めに切り上げ帰宅する事になる。ナハトが隣に居てくれたので、何事もなく無事に村へ到着したが……。

 暮らし慣れた場所に感じる不穏な空気を、花の香りを纏う風が運んでゆく。毎年、その香りを吸い込むたび、心を躍らせていたというのに。
 今が思い出すのは――赤く塗れた、白い花弁だった。


◆◇◆


 その翌日、は護衛も買って出てくれたナハトと共に、町へ再び訪れた。

 村もそうだったように、町の空気は重く垂れ込んでいた。それに加え、今日は人々の姿が多く残っているようにも見える。昨日は極端なまでにがらんどうだったが、無理もない、怪我人が現れては外へ踏み出せなくなるだろう。

「護衛を雇ったひとも居たけど……さすがに出てないよね」
「状況がはっきりしない内は出ないだろうね。それだけじゃなくても、傭兵とかきっと出たがらないだろうし」

 無償で行う慈善活動ではないから、契約外の事はやりたがらない。一般人には残酷と思われるかもしれないが、命の盾にされる分そういう面には厳しいのだと、ナハトは言った。

「本人がそれを望んだ場合は、また違うけどさ」

 は、そっか、とだけ返した。
 喉元まで出掛かっていた言葉は、何とか必死に飲み込んだ。

 ――なら貴方は、煩わしく思っていないのだろうか。

 そんな事を言ってしまう事の方が迷惑だと、は振り払うように足早に通りを進んだ。



 “臨時休業”の札が掛けられた食堂へ入ると、驚いた表情の夫妻と、装飾品店の男性が出迎えた。こんな時に出歩いたら危ないだろうと揃って口にし、わらわらとへ駆け寄ってくる。
 「大丈夫です、ナハトがいるんで」は背後を指さしたが、反応は何故か芳しくなかった。可愛いイタチ顔のせいだろうか、こう見えて彼はだいぶ剛胆な人物なのだが……。彼らも傭兵だという事を忘れているらしい。

「ごめんナハト」
「いいよ、慣れてるし」

 ナハトは気にするどころか楽しそうにしていたので、少しだけほっとした。

「あ、それより、昨日からどうなりましたか。何か分かりましたか」

 彼らは顔を見合わせると、その事を今話してたんだよ、とたちへ椅子を勧めた。




「――昨日の怪我した人たちは、みんな無事だったよ」

 まずはそう切り出した食堂の夫妻に、はほっと安堵する。

「見た目ほど酷い傷ではなくてね。きちんと手当てしたから命に別状はないと」
「それで、すぐに町長や自警団がその人たちから話を聞いて、詳しく調べたんだけど……」

 彼らは薬師などの職に携わる人々で、白花の噂を何処からか聞きつけ遠方から足を運んできたのだという。
 花が一斉に開花した昨日、多くの人と共に採取に出掛けたが、つい欲を出してしまった。もっと多くの白花を集めようと思い、離れてはならないという約束を忘れ、奥へ進んでしまったという。彼らはまだ人の手がついていない群生する白花を見つけ、夢中になって採取活動に励んだ。

 ――そのため、そこに潜んでいたいくつもの人影に、気付けなかった。

 突然の急襲を受けた彼らは、這う這うの体でどうにか逃げ切り帰還したが、採取した白花以外の全ての荷物を奪われたという。

 彼らは襲われながらも、しっかりと見ていた。
 背後に居たのは獣ではなく――盗賊か山賊かの、無法者だったという。

 ナハトの言葉が的中していた事より、本当に賊が出没したという事には衝撃を受けた。

 彼らはさらに続ける。
 その話を聞いて、町長は遠方からやってきた来訪者、さらにこの町だけでなく近隣の町などにも使いを出し、すぐに調べて回ったという。そして、ある事を知った。物資の流通が滞っていたのは、この町だけではなかった。最近、どの町でも一時仕入れなどの流れが途絶え、大変な事になっていたという。

 その要因を、ようやく到着したという商隊に問い正したところ、彼らは恐ろしい話を口にした。

 少し前に、中央の都市部近隣で、大規模な討伐作戦があった。
 都市部にほど近い山間を根城にし、かなりの大人数に膨れ上がった山賊の一団と、国の騎士団や集められた傭兵集団が、激しく戦ったらしい。
 以前からその一団によって人々の暮らしや周辺地域に被害が現れていたが、今回その討伐が大々的に行われたというのだ。
 だが残念な事に、よりにもよって山賊の頭領と、その側にいる腕利きの部下、合わせて十数名を取り逃がしてしまった。

「今はこの町に商隊が来ないだろう? どうやら、その逃げた山賊の残党が街道を襲撃したりして物資を奪っていったからだそうだ」

 そして、その逃亡した山賊の残党は、僅かな人数でありながらなお悪行を重ね、移動し続けている。

 その言葉を聞いた時、さすがのもすぐに理解した。
 つまり、その逃げた山賊の残党は、現在――。

「この近くに居ると……いう事なんですか……」

 食堂に、重い空気が流れる。
 町にやって来る商人が途絶えたのも、奥地から出てこないはずの獣たちが急に姿を見せ始めたのも、全てその山賊が荒らして起きた事だったのだろう。

「町長たちは断定をしていなかったけど、そうなんだろうなって町のみんなが話してるよ」
「時期が一致するしな……くそ」

 忌々しさを抑えきれずにこぼした声は、温厚な彼らにしてはとても乱暴だったが、それだけ大変な事なのだ。も机の上に置いた自らの手をぎゅっと握る。

「……騎士団とかには、連絡を取ったんですか」

 今まで会話を聞くのみだったナハトが、その時初めて口を開いた。険しさもない、苛立ちもない、イタチの静かな居住まいは変わっていなかった。

「もちろんだ。ただ、こんな田舎だ。一番近い駐在地に急いでも、一日、二日掛かる」
「町にいる傭兵たちにも、なんとか出来ないかとお願いしたそうだ。だが渋られて、いい返事はまだ貰えていないらしい」

 装飾品店の男性は、苦く表情を歪め、コップを握りしめた。職人の無骨な指に、歯がゆさが滲む。

「……町にいる傭兵は、たぶん見た限り、経験は浅い。採取の護衛任務だしね。討伐任務とはまた訳が違う」

 しかも、都市部で暴威を振るい台頭した一団の頭領と、その側付きの精鋭という可能性があるのなら、渋るのも無理はない。国のため忠誠を誓い殉職も厭わない騎士団と、何かあるたび命の盾にされる消耗品の傭兵とでは、残念だが考え方が根本的に違うのだ。

 そう話すナハトへ、食堂の夫妻などは何かを言い掛けたが、諦めたように口を閉ざす。きっと、頼もうとしたのかもしれない。このイタチの青年へ。けれど淡々と話す様に、無駄かと、あるいは頼りにならないと、思ったのだろうか。
 ナハトの言葉は、冷酷といえば冷酷。けれどには、それを口にし叩きつけるような真似は出来なかった。彼と過ごしたこの数日間と、彼のこぼした言葉を思えばこそ――。

「そ、それより! 駐在している騎士団のところに連絡をしに行ってるなら、きっと助けに来てくれますよね!」

 いっそう重く垂れ込む空気を押しのけるように、は明るい声で言った。

「ああ、まあ、問題はその騎士がどうにか残党を捕まえてくれればいいが」
「だ、大丈夫です! こういう時こそ一致団結して備えないと!」

 ほとんど口から出任せのようなものだったが、こういう時こそ、明るく前向きにいかなくては。は自らも奮い立たせ、そう高らかに声を張った。
 彼らの表情はまだ強ばっていたが、の明るく振る舞う意図を察したのだろう、目尻や口元をいくらか和らげ笑みを浮かべた。

「そうだね。町長たちも、無理に動かず、まずは防御や見張りをしっかりしようと言っていたし」
「騎士が来るくらいまでは、大丈夫だろうしな」

 彼らは顔を見合わせ、そしてへ視線を移した。

「やっぱり、君はレドの娘さんだね」

 あいつだったら、きっとそういうのだろうな――その言葉が、を勇気づけた。
 隣に腰掛けるナハトは、の横顔をじっと見つめていた。




 そろそろ食堂からお暇しようとした時、は夫妻に呼び止められ言い聞かせられた。
 戸締まりをしっかりし、無闇に出歩かないように。こんな状況だから賊が出るまでは仕事は休みでいい、ただし気を付けて。
 何度も告げられ、は苦笑いをこぼしながら頷きを返し続けた。


 そんな彼らの傍らで、ナハトは食堂の表口に貼られた貼り紙を眺めていた。


 ――凶獣、連絡を乞う。もしも見かけた場合はガルバインまで


 吼え猛る黒い生き物の側に添えられた文章に、今一度目を通したナハトは、小さな黒い鼻を鳴らした。なるほど、貼り紙を作ったのは。

「……そういう事」

 人知れず呟きをこぼす――その時、ナハトは不意に声を掛けられた。

「……ナハトくん、ちょっといいかい」

 振り返った先には、神妙な面持ちを宿す、装飾品店の店主だという男性が佇んでいた。ナハトはしばしその瞳を見つめて黙したが、静かに頷き彼へ歩み寄った。




 は夫妻に挨拶をして別れた後、食堂を離れた。いつの間にかナハトが居なくなっていたようだが、彼は何食わぬ顔でふわりと隣へ戻ってきた。

「おじさんと、何か話してたの?」
「まあね。でも、そんな大した事じゃないよ」

 隣を歩むナハトが、じっと、を見下ろす。どうしたのと首を傾げると、ナハトは首を振り、顔を前に戻した。

「何でもない。ただ」
「ただ?」

 不思議そうに眺めていただったが、不意に、自らの手を握りしめられる。ぱっと見下ろせば、の手を覆うようにナハトの手が包んでいた。

「――君は、よくよく他人を引き付ける人なんだなって、思っただけだ」
「……?」
「気にしないで、独り言。それより、早く戻ろう」

 そう言って、ナハトはの手を引き進む。細い指を握る彼の力は、自宅に戻るまで、決して緩む事はなかった。
 は困惑しながら、その温かい力強さに安堵を抱く。人間とは異なる毛むくじゃらな獣人の指を、そっと握り返した――。



恐らく、お父さんの古い友人であるおじさんは、ナハトの“何か”に気付いてるのでしょう。


2016.08.19