07
――パカン、パカン澄んだ青空に向けて斧が振り上げられ、勢いよく下ろされる。その真下にセットされていた木材を、外す事なく正確に捉えると、気持ちいいほど綺麗に半分に割った。
作業場の脇にて次々と薪を生み出し積み重ねてゆく光景は、なんて事はない薪割りの作業なのだけれど。
「わあ~やっぱり男の人がやると早いね」
は感心しきり、それを見守っていた。
軽快に薪割りをしていたナハトは、一度斧を置き、呆れた様子で振り返る。茶褐色の尾が、ふわりと揺れて翻る。
「君は危なっかしくて見てられないからね……」
あんなヨタヨタして薪割りされそうになったら、代わるしかないよ。溜め息をこぼすナハトに、は笑う。
「ごめんね。でも、助かっちゃった!」
おかげで当分は困らない量を備蓄する事が出来る。本当に大助かりだ。
ナハトは何でもないように「これくらいはするよ」と言うが――彼にとっては本当に大した事はないのだろう――、は頭が上がらない。
「君はしっかりしてるけど、こういうところがやっぱりちょっと緩いよ」
呆れながらも浮かべる笑みは、親しみが込められている。ナハトの背を叩くも、すっかり打ち解けて朗らかそのものだった。
宿の主と、借りた旅人。
最初に築かれたその関係が、変わり始めているからだろう。少なくとも、の中では、それまでとは異なるものになっていた。
外見こそ可愛らしくしなやかだが、中身は意外としたたかさで鋭い、イタチの獣人の青年。彼が生まれた場所や身を置く職業など、とは比べられないほど大変で、さぞ揉まれてきただろうと想像つく。けれど、言葉を交わして感じた、ごく当たり前に共感出来る迷いに、は確かに自らを見いだした。
イタチの獣人に、客人以上の何かを思ったのだ。
それを、どう言葉にしたら良いのか見当もつかない。ただ、特別だった。暮らし慣れた村に、町に、ある日ふっと現れたしなやかなイタチが、何故かとても――特別な存在に思えた。
散らばった薪はまとめられ、作業場から自宅脇へと移動した。やはりそこでもナハトが手伝ってくれて、は大変助かった。
「やっぱりこういう作業は、男の人がいると楽だね」
「昔っから力仕事はしているし。慣れてるから」
ナハトは肩に担いだ薪の塊を下ろすと、腕をあげて背を伸ばす。
「……でも懐かしいな、こういうの。いつからやらなくなったっけ」
呟く彼の横顔は、楽しそうに見えた。その言葉からも、彼が普段身を置く場所が平凡な日常から離れたところにある事を理解する。
「久しぶりに思い出せた。旅行しに来て良かったよ」
きゅっと閉じている口に笑みを浮かべるイタチは、ただひたすらにあざとく可愛らしい。同じように居心地よく思ってくれているなら、はとても嬉しく思う。
けれど、そう思うからこそ。他とは違う特別な存在だからこそ。
自分が宿の主であり、相手が宿を借りた旅人だと、余計に強く感じてしまう。
――どうしてだろう。自分で知っている事なのに、胸がチクチクする。
いつか彼は宿を去り、この場所から帰ってゆく。そして自分は、再び一人で暮らしてゆく。
最初からすでにあった事実が、何故かこの頃、胸の片隅をつねる。けれどそれを出さず、は微笑んでナハトの隣に立っている。
「そう思ってくれるなら嬉しいよ」
そして心軽やかなまま帰り、旅人から傭兵に戻っても、ひと時の楽しい思い出として振り返ってくれたら嬉しい。
それも確かに、の願いだった。
(でも、何だろう、この気分……)
初めての感覚に、は困惑するばかりだった。
そんな悩ましさにはお構いなく、のもとにある知らせがついに届けられる。
この地域にのみ群集する白花が、一斉に開花したという。
◆◇◆
白花が咲くという事は、いよいよ本格的に野生動物たちとの戦いが始まる事を表しているけれど、近隣の町村総出で採取活動が始まる事も告げている。
薬にもなり、甘味料にもなり、見目も美しく鑑賞用にも持って来い――そんな良いとこずくめの白花を求め、住人や遠方から集まった人々は群生区域に向かっているだろう。
も白花が咲けば家族と共に向かい、採集がてらピクニックし、後で薬なり甘味料なりに加工していた。この季節の一番の楽しみだった。
せっかくだから、ナハトにも見て欲しいな。
理由はなんであれ彼は旅行、観光でやってきたのだ。一年を通して長閑なこの土地が唯一盛況する空気や、噂の白花を、是非見ていってもらいたい。
そう思ったは、ナハトへ提案してみた。
「――白花を見に?」
「うん。せっかく来たんだもの、旅行っぽい事をしても良いと思うんだ」
色々と手伝いってくれて大助かりだが、ナハトの自由時間も取っているような気がして申し訳ないので。そうがこぼすと、ナハトは「けっこう自由に楽しませてもらってるけどね」と笑った。
「その白花ってやつ、そんなに綺麗なのかい?」
「綺麗だよー。地元民もそう思うんだから、ナハトもびっくりするよ」
「へえ」
「旅行の、思い出にでもさ。どう?」
ナハトは少し考えた後、こくりと頷いた。良かった、とは笑い、両手を合わせる。
「じゃあ、もうちょっと落ち着いたら見に行こうよ。お昼ご飯を持って」
「楽しみにしてる。色々と、ありがとね」
ナハトは笑っていたが、きっとそれ以上に楽しみにしているのは自分の方なのだろうと、は知っていた。
旅の思い出、と言いながら、その思い出を一瞬でも望んだのは他ならぬだ。
せめて彼がいる時間は、楽しく過ごし、そしてお別れしたい――。
ナハトがやって来て、もう五日ほどは経過している。彼が去る日はすぐそこなのではないかと、は痛む胸の奥で思う事が増えた。
けれどそれを出さないよう、は微笑むのだ。あの屈託のない柔らかな笑顔で。
村もそうだったが、あれほど賑わった町はすっかり閑散としていた。
見慣れない人々が行き交った通りや、人の出入りの激しかった店など、今は極端に人影が減り、日中でありながらまるで夜半のような静まりようだった。
白花が咲いたという知らせが朝一番に巡り、多くの人が早速出かけたからだろう。
「昨日までの賑わいが嘘みたいだ」
「極端でしょ。初日はこんな感じで、夜になったらまた賑やかになるよきっと」
言葉を交わしながら通りを進むが、二つの足音がはっきりと判別出来るほどに静かなので、妙な気分でもある。
「でもこれだけ人が居ないならお店も混んでいないだろうし、お買い物は楽だよ」
は懐からメモ紙を取り出し、買出しリストを見下ろす。小麦粉に調味料に、その他諸々の食材の名が並んでいるが、白花ピクニックの時に持って行く食事の材料である。
「気合入ってるね。何を作ろうっていうの」
「ふふん、仕事中の父さんによく持っていった、母さん直伝のお手軽パンもどきだよ」
「もどき……?」
ナハトは小首を傾げる。ただひたすらにあざとく可愛らしい仕草だ。これで食べ顔が野生的でなければ、愛くるしさの塊だろう。
「パンと言ったら、ほら、そこのパン屋さんみたいに焼いたままのを出すのが主流でしょ」
たまたま近くにあったこの町唯一のパン屋を指差し、ガラスケースに並ぶ商品を示す。この辺りに限らず、多くの家庭や店で並ぶものは何かを挟んだり他の味を足したりしないしないはずだ。
「うちだと作業の片手間に食べられ、なおかつメインとおかずを一度に全部取れるように、こう、ぎゅっと挟むの」
は両の手のひらを合わせ、ぎゅうぎゅうに押し付け合う動作をする。
ともかくなんでも種類問わず挟んでしまうので外見から王道のパンを外れているが、これがけっこう自慢の一品だった。
「……なんでも挟む……」
「そう、なんでも。もとは母さんが旅行した時に見かけたんだって」
「ふうん……でも君、今までパンとか出してなかった?」
「ごめんあれ貰い物。だってみんな妙に気を遣って持ってきたから、たくさんあって……」
「わー砕けてきたねえ、そっちの方が僕も楽だけどさ」
でもそれ言っちゃう? と笑うナハトにつられて、も声に出して笑うのだった。おかげでだいぶ在庫が減ったよ、と軽口を叩くうちに、目的の食品店へ到着した。
は扉へ駆け寄り中に入ろうとしたけれど、ふと貼り紙が目に入り、一度動きを止めた。
帯状の模様を持つ、熊のような獣が吼える絵――食堂にも貼ってある、あのひと探しの貼り紙だ。
「この貼り紙、まだ貼ってあるね。見つかってないって事なのかな」
いかにも凶暴そうで、迫力のある生き物。それが何なのかにはまったく見当もつかないけれど、ついた名が“凶獣”なのだから……そういう事なのだろうか。
この絵の通りの姿ならば、一目見れば記憶に残る事は間違いない。いまだにそれらしい人物を見かけた覚えはないので、この町にはさすがに居ないだろう。
――と思いながらが貼り紙を眺めていると、背面で気配が動いた。
「なにをもって“凶獣”なんだろうね」
振り返ろうとしたの肩が、とん、とナハトの胸にぶつかる。思っていたよりもずっと近い距離に彼が佇んでいて、は一瞬息を飲んだ。
「やり方か、性格か、気性か。渾名がつく習わしは嫌いじゃないけど、本人とは預かり知らぬところで付けられていつの間にか定着してるんだから、凄いよね」
上目で見たナハトは、陽が遮られ少し影を纏っていた。そのせいか、茶褐色の毛皮が濃く染まり、陽の下の彼とはまた違う印象を受ける。もっと単純に言えば、別人に見えた。
ナハトが不意に視線を下げ、を真上から見つめる。つぶらな瞳の、シュッとしなやかなイタチの頭部に、静かな何かが張り付いているような気がした。
「君は……」
ナハトは言い掛けて――口を閉じてしまった。
空気を払うように口角へ笑みを浮かべると、おもむろにその腕を持ち上げ、の顔の横から手を伸ばす。そして、無防備なの鼻先を、むぎゅっと摘んだ。
ふぎゃ、との声が漏れる。
「あはは、言ったでしょう、君は緩すぎるって」
「だ、だってナハトが今」
「気を付けて、またかじられるかもしれないよ?」
イタチの顔が近づき、見せつけるように牙を覗かせた。は慌てて離れると、あざとく笑うイタチを軽く叩く。もう、と細い肩を大きく上下させて、は店の扉を開いた。
あれ、なんだか誤魔化されたような気がする、ような……?
まあいいかと、は店に足を踏み入れる。それよりも必要な材料を揃えなければならないと、の中から貼り紙はすぐに消え去った。
「……本当、なんで“凶獣”なんだろう?」
ナハトは貼り紙を見やり、の後に続いた。
「――え、在庫がない?」
メモ用紙を握ったまま、は愕然とした。
店主の女性は、申し訳なさそうに視線を下げると同時に、不思議そうに首を捻った。
「いつも町に来てくれる商人さんたちが、いつまで経っても来やしないんだ。とっくの前に到着しているはずなのに」
だから店に並んでいるものだけが今のところの在庫だと、彼女は頭を下げた。
そんなあ、とは情けない声を漏らす。在庫がないなら手の打ちようがないけれど、それにしたって。
「どうして小麦粉……」
困った、我が家直伝のパンもどきが作れない。
いや、それだけではなく、他の人もきっと困惑するだろう。
あからさまに落ち込んだの頭へ、ナハトの手のひらと、何度目かの店主の謝罪が重ねられる。は首を横に振り、仕方ないと自らに言い聞かせた。
「でも……この季節にそんな遅れるなんて、今までなかったですよね」
この一帯の名物である白花を目当てにし、多くの人々が集まるのは毎年恒例の事。人が集まる分だけ物の売り買いも比例して増える事を、この一帯で商いをする人々なら知っているはずだ。
それだけではなく、何日も前から足が途絶えているなんて……人々の暮らしにだって影響が表れる。
そんな致命的な遅刻をした事はなかったはずだ。
「他の店のみんなも困り果ててるところだよ。とにかく隣の町とかに連絡を取ってみる事にはしたんだけど、今は在庫でしのぐしかないんだ。本当にごめんね、お嬢ちゃん」
「いえ、おばさんのせいじゃないです」
メインの小麦粉が手に入らなかったのはかなりの痛手だが、仕方ない。調味料や他の必要材料の一部を買い、店を後にするしかなかった。
「商人が来ない、ねえ。そんな事ってあるの?」
「まあ、たまにね。こんな田舎だし、遅れる事はあったよ。でも、この季節だけは絶対にそんな事しないはずなんだけど……」
は表情を曇らす。こないだから感じている違和感が、胸の内で大きくなってゆく。開花する前から人里へ近づく大きな獣といい、商品の仕切れの遅延といい、今年は何かが違う。何かが起きてる。そんな気配を、は確かに嗅ぎ取っていた。
「何もないといいんだけど……」
小さな溜め息をこぼし、は顔を上げた。
「それより、ごめんね。うちの自慢のパンもどきと一緒に、白花を見て欲しかったんだけど……これじゃあ片っぽだけになっちゃう」
「僕は別に気にしてないよ。それに、ただ単に遅れてるっていう事もあるじゃない? 待ってればいずれ来るよ」
「……うん、そうだね」
は不安を押し込み、ようやく微笑んだ。
旅人に励ましてもらって、これじゃあ本当に立場が逆だわ。
「じきにきっと新しい仕入れがあるよね。それまで、少しのお預けだね」
そう、たまたま、そういう事があっただけかもしれない。今までと変わらない白花の季節を迎えたのだ、不安に思う事なんてきっと起きない。
そう言い聞かせただったが――その不安感が払拭される事は、残念ながら叶わなかった。
結局その後、町に商人がやって来る事はなかった。
白花の開花で賑わう町村に、にわかに漂い始めた不穏な気配。例年とは明らかに違う事が起きようとしていると、全ての人々が抱き、囁くようになった。
そして翌日、その予感は的中し、さらなる凶事の知らせが舞い込む。
白花の採取に出掛けた人々の一部が、負傷して帰還したのだ――。
2016.07.30