06

 村の周辺に、見かけない野生動物の姿が現れるようになった。
 この地域にのみ群集する特別な白花が、いよいよ咲き始めるのだろう。

 顔なじみの村人たちは、今朝からそんな話で盛り上がっていた。気を付けなくちゃね、と言葉を交わすおば様方に混じっても頷いたが、今のところ目立った被害は出ていない。村の男性たちが見回りをしてくれているおかげだと思う。

 さて、そうなると村の一番外れにあるの家は、真っ先に被害を受ける危険があるのだが……。

 ――ナハトという青年の力は、凄かった。



「わあー?! どうしたのこれー!」

 野菜を取りに畑へ向かったの前には、野生動物が横たわり並んでいた。そのどれもが既に事切れており、その上しっかり血抜きも施されている。

「どうしたって、君の家の近くに来た奴らだよ。警告しても来るから、まあ止む無くね」

 ピキュ、と鳴いたイタチは、今日もあざとく可愛らしい。が、そこに並ぶ生き物の中には、彼よりも幅のあるどっしりと立派な猪もいるので、は驚くほかない。

「一体どうやって……」
「これでも傭兵だよ? こんな事は日常茶飯事だし、こういう作業も慣れてるしね」

 そう言ってぽんと叩いた彼の腰には、鞘に収まる短剣が装着されている。
 大きいとは言えないその剣で、この立派な猪を。
 こんなにシュッとしなやかな身体つきなのに……人は見かけによらない。

「ところで、白花だっけ、それが咲くと毎年こんなのがやって来るの?」
「うん、そうなんだけど、でも……」

 こんなに大きな生き物がやって来た事は、あっただろうか。白花の恩寵にあやかれずにあぶれた小型の生き物ばかりだったような気がするが……。
 なんとなく疑問には残ったが、思い悩むほどではなかった。今年はそういう年なのかなとが笑うと、ナハトも気にした風もなく「そう、不思議な地域だね」と呟く。

「あ、それより、これをどうにかしないと。ええっと確か、毛皮をはいで、燻製か生肉にするはず」
「君、できるの?」
「……出来ない」

 仕留めた後の工程は父の姿を見て覚えたが、さすがに自ら行う技術は盗み取っていない。

「あ! でも、大丈夫。すぐ隣の町にそういう加工をしてくれるお店があるから。そこに持って行けば」

 確か村にも荷車が、と考えたところで、ナハトが呆れたように笑った。

「一人で全部する気? 君のその細腕じゃ、猪を持ち上げられないでしょ」
「それは、そうだけど」
「雇った傭兵がいるんだから、使えば良いんだよ。気軽なお手伝い要員とでも思ってさ」

 ナハトの言葉に少し恐縮しながら、ありがとうと返す。
 先日の一件――鼻先をかじられたあれ――のおかげか、ナハトとの間の遠慮も薄れ、家主と客人というより友人のやり取りが増えた。としては、堅苦しいよりずっと良い。

「でも、いずれは……一人でやっていかなきゃならないよね」

 もう“一人”なんだから、自分だけで――。

 つぶらなナハトの黒い瞳へ笑みを返すと、は「さて」と両手を合わせる。

「朝ごはん食べたら、村で共有してる荷車を借りてくるね。そしたら、町のお店にまで運ぼうか」

 手伝ってくれるなら助かるよ、といつもの調子で笑いながら、は畑の野菜を収穫し自宅へ戻った。
 その後、とナハトは朝食を済ませ、猪などを積んだ荷車を押し町へ向かうのだった。


◆◇◆


 持ち込んだ獣の加工を請け負う店は、ここのところ繁盛しているようで作業料の半額セールをしていた。実に太っ腹である。
 けれど、荷車に乗せた立派な猪にはたいそう驚いたようで、を二度見してきた。今年の季節に入って一番の大物らしい。「あ、違います、私じゃなくてこっちです」と慌ててナハトを指差してたが、余計に困惑させてしまった。驚く店主の顔には、その細腕でやったのか、という念が透けて見えた。そこいらの傭兵よりも強面で屈強な店主と比べたら、ナハトは明らかに細く、しかもあざといイタチの頭だから仕方ない。

「おっちゃん、今年入って一番驚いちまったよ……それで、これを全部加工するのかい?」

 顔に似合わず気風のよい対応のもと、荷車に乗せたものは全て引き渡した。猪の処理は丸一日時間を取るが、他のものは今日の夕方頃には終わるらしい。食堂の仕事が終わり次第、再びこの店に来る事を決める。毛皮については、そのまま買い取って貰う事にした。

「ところで、この猪は森に入って獲ったのかい?」

 店の従業員が運んでいった後、店主からふと尋ねられる。は首を振り、自宅周辺に近付いてきたものだと答えた。

「ふうむ、そうか……」
「あの、何かありましたか?」
「いやな、ようやく白花が咲くってのに、こんだけ立派なやつが人里に来るのも妙だなってな」

 その言葉に、も神妙な面持ちを宿す。それは、確かにも不思議に思った事である。

「実はよ、俺んとこに持ち込まれるやつも、どうも雰囲気がいつもと違くてな。人里には滅多に近付かないようなやつが居たりして」
「滅多に近付かない……」
「考えすぎかもしれねえけどな!」

 店主はニカッと笑い、受け取り番号等を書いたメモ紙を差し出したので、たちはそれを握って店を後にした。



 身軽になった荷車を、ガタゴトと音を立てて進ませる。こうして眺める町の風景は、毎年やってくる季節の通りに賑やかで様々な人が行き交っているが……。

「今年は、いつもとちょっと違う気がするなあ」
「そうなの?」
「うん、うまく説明できないけど……」

 妙な違和感が、の胸の中に宿る。ただの気のせいだとは思うが……。

「……野山にいる獣が下りてくる時っていうのはさ」

 賑やかな空気にナハトの声が浮かぶ。

「食べ物が減った時だとか、人間がか弱く簡単に食べ物を奪える相手だと知った時だとか、色々あるけど。一番可能性があるのは、住処を荒らすやつが現れたとかかな」
「住処を荒らすやつかあ」
「野山の獣は、そういうのに敏感だからね」

 これは僕の考えだけどさ、とナハトは付け加えたが、納得できる言葉だった。彼が獣人という種族だからだろうか。もしそうだったとしたら恐ろしい事ではあるけど、願わくは杞憂であって欲しいものだ。

「長閑な雰囲気なのに、期間限定で危険なんだね。この辺りって」
「そうでしょー。長年暮らしてると慣れるけどね」

 だから野宿していたナハトの勇気は勲章ものなのだ。本人は相変わらず涼しい顔、いや可愛い顔をし、堪えた様子はまったくないが。

「今年は咲く前から大きな動物が出るし……ナハトはよく野宿できたね」
「ん? いや、そういう危ない事とは職業柄隣り合わせだし、それに」

 ふ、とナハトの目が細くなった。

「昔、過ごしていた場所が厳しかったからね。ちょっとだけ思い出すよ」

 呟いたナハトの横顔からは、しんとした空気が感じられた。
 そういえば、以前も彼はそのような事をこぼした気がする。
 はじっとイタチの横顔を見上げた。

「ナハトは……」
「――おーい、ちゃん!」

 開きかけた口を閉じ、はぱっと振り返った。父の友人である装飾品店の男性が、小走りで駆け寄ってくる姿が飛び込んだ。

「こんにちは、おじさん」
「ああ、こんにちは。良かった、たまたま見かけたから来たんだが」

 ちらりと、視線がナハトへ移動する。ナハトは空の荷車をその場に置き、軽く会釈をした。

「すまない、何か運ぶところだったのかな」
「ううん、運んだ後。今朝大きい猪が来てね、ナハトが仕留めてくれたから加工屋さん持って言ったところ。だから大丈夫です」

 途端、男性の目に、少しの驚きが宿る。きっと、今朝のと同じ心境を抱いているに違いない。

「えっと、ナハトくんだったね。ありがとう」
「いえ、宿を貸してもらっているから、これくらいは当然ですよ」

 そうか、と呟いた面持ちは緩んでいた。

「……ああ、そうそう、ちゃんに話があってね。こないだ頼まれた件だけど、引き取りたい仲間が揃ったと言っただろう? 全員都合がついたから、今日の夕暮れあたりに運ぼうかって事になって」

 今日の夕暮れ。
 その言葉は、の中に深く落ちていった。

ちゃんの用事はどうだろう。作業自体はすぐに終わるんだが」

 は少しの間呆けていたが、慌てて頷いた。

「大丈夫、仕事も少し早めに切り上げるんで。待ってますから来て下さい」
「……そうか、分かった」

 じゃあ、今日の夕暮れ、仲間を連れて行くからね。
 彼はそう告げると去って行った。その広い背を見つめながら、は小さく息を吐き出す。

「……いよいよ、なんにも無くなるなあ」

 残っていた道具が全て運ばれれば、もう。
 あの作業場は、何も――。

「……?」

 ハッとなっては顔を上げる。いつの間にか、隣にはナハトが並んでいた。しなやかな背を少し屈め、覗き込む茶褐色のイタチ。は頭(かぶり)を振り、にこりと微笑んだ。

「ううん、何でもない。大丈夫」
「……そう」

 ナハトは何も言わず背を戻す。は濁してしまった空気を取り除くように、明るい声で言った。

「今日の夕暮れあたり、作業場に人が来るから。ちょっとの間だけど、よろしくね」
「僕は別に構わないけど……作業っていうと」
「うん、作業場の中の道具をね、運び出すの」

 が歩き出すと、ナハトもそれにならう。空の荷車が、再びゴトゴトと音を立てる。

「二ヶ月前まで、父さんが使っていた道具なんだ」

 そのまま捨てる事は出来なかったから、良かった。は笑ってみせたが、声や仕草には寂しさが浮かんだ。
 ナハトは多くを言わなかったが、その黒いつぶらな瞳は、の細い背をじっと見つめていた。



 正午、いつものように食堂へ向かったは、店を営む夫妻から早めに切り上げる許しを貰った。事情をよく知る二人は大らかに了承し、帰り際もを見送ってくれた。
 彼らの温かい優しさに感謝しながら村へ続く道を進むの胸には、やはり安堵と寂しさが広がっていた。
 父に託された最期の仕事は終え、そしてもう間もなく、父が長年使った道具を譲り渡して作業場が空になる。父が居なくなって二ヶ月、身辺整理に明け暮れたからもようやく荷が降りるのだ。
 ほっとしながら、少し、胸がぽっかりと侘しい。

(最後の仕事、だね)

 ぐっと前を見据えるの頭上には、薄い夕陽色の滲む空が広がっている。


◆◇◆


 帰り際に加工屋から受け取った処理済みの肉を使い、夕食の準備を早めに終えた頃、辺りは夕暮れを迎え夜の訪れを匂わす静けさに包まれた。

 作業場に足を運んだは、ゆっくりと中を見渡す。あらかたの道具の整理はもう終えているので、そこにはがらんどうの空間が広がっている。道具たちが居なくなれば、ここはいよいよ無人の建物となるだろう。
 隅にまとめた道具の小山に近付き、被せていた布を取り外す。父の姿と共に昔から見てきた、職人の手足ともいえる大切な道具。鉱石などを削り、あるいは研磨するものから、細かな装飾を施す大小様々な小刀などが、そこに集まっている。触れる事はなかったけれど、何に使うのか、どうやって使うのか、仕事に打ち込む父の姿を見ては知っている。

「……父さんの友達が、大事に使ってくれるからね」

 同じ道を選ばなかった私が、持て余して埃を被せるより、ずっと良い。
 は最後の労いを呟き、そっと指先で撫でた。

「――

 作業場の入り口に寄りかかるナハトが、声を掛ける。しなやかな躯体のイタチの青年へ視線をやれば、彼は茶色い毛皮にくるまれた長い指を外へ向けた。

「昼間の人、来たみたいだよ」
「……あ、本当? ごめん、気付かなかった」

 はすぐに道具の側から離れ、外へと向かう。ナハトの横を過ぎ出入り口をくぐろうとした時。

「……大丈夫?」

 小さな声で、一言だけ。
 は振り返り、ナハトを見た。茶褐色の柔らかい毛皮を持つイタチの、黒いつぶらな瞳が、じっとを見下ろす。人間のような表情の変化はないけれど、その眼差しはとても柔らかく感じた。は微笑み、頷きを返す。

「大丈夫、ありがとう」

 その一言だけで、の心は軽くなった気がした。


 のもとへやって来た人々は、父の友人である装飾品店の男性と、その職人仲間だった。彼らの顔には覚えがある、確か父が死んだ後すっ飛んできた人々の中に居たのではなかっただろうか。
 彼らはを気遣い、また労い、父の道具を引き取る事を改めて願い出た。その姿を見て、は何処かほっとした境地だった。目の前にいる全員の指は、長年仕事に打ち込んできた事を表す武骨な外見をしており、父と同じ空気を確かに纏っている。
 この人たちなら、きっと、いや絶対に、父の道具を大切に使ってくれる。
 は頭を下げ、どうかよろしくお願いします、としっかり告げた。

 彼らは作業場に入ってゆくと、誰がどの道具を引き取るのか最初に話し合いをし、それから運び出していった。
 暮れる空の下、慌しく広がるその光景を、はじっと外から見守る。

 母がいた頃から、父の仕事場は日常の一部だった。
 母は身体が弱いために体調を崩しがちだったけれど、それを感じさせないよう常に朗らかで明るく振る舞う人だった。晩年は歩く事も難しくなってしまったが、それでも父の側に居ようとし作業場で日中を過ごしていた。そして母がいなくなった後は、その役目をが一身に引き受け、仕事に打ち込む父のもとへ食事を届け作業場を出入りした。

 他にも様々な場面が蘇り、あの場所は自覚していた以上に思い出が詰まっていたのだと、は改めて理解した。
 温かさと、少しの寂しさが、胸に広がってゆく。目尻に込み上げてくるものを時々指で拭いながら、しっかりと作業を見据えた。日常の一部だった父の道具を見るのも、これが最後なのだ。
 ふと、の隣で、ふわりと空気が動いた。しなやかに伸びた躯体の影を片隅に収め、は小さく口を開く。

「職人の大切な道具だからね、捨てるなんてそんな事は出来ないから、持っていってくれてありがたいよ」

 隣に佇むナハトの視線が、の頭へ注がれる。

「父さんの友達や、同じ職人仲間なら、絶対に間違いない。大切に、使ってくれる」

 でも、やっぱり、ちょっとだけ寂しいね――。
 はもう一度まなじりを拭い、笑みを浮かべた。

 父の古い友人たちが作業場から道具を運び出し、そしてそれらを携えて去ってゆくまで、は一度も背を向けず見送った。その隣にいたナハトも、何も言わなかったけれど、最後まで黙って付き合ってくれた。
 それがにとっては、励ましのひとつに思えた。




 作業が始まる前に見た夕暮れの空は、もうすっかりと夜を迎え、藍色を広げていた。涼しく吹く風も、夜の匂いを孕んでいる。
 自宅の敷地を囲んでいる木の柵に寄りかかって座るは、ふう、と静かな吐息をこぼす。道具が運び出される時は感慨深くこみ上げるものがあったけれど、落ち着いた今はすっきりとした気分だった。
 一番の心残りだった大切な道具が、埃を被らず新しい場所で活躍するのだ。それがなによりも嬉しい。

 ともかく、これで任された仕事は全てやり終えた。

 そう思うの胸に、夜風の涼しさが妙に響いた。

「――隣、良いかい?」

 不意に声を掛けられ、は斜め横へ顔を振り向かせる。背の低い柵に両手をついたナハトが、小首を傾げ覗き込んでいた。彼のつぶらな瞳を見上げ、は頷きを返す。
 ナハトはしなやかな躯体を屈めると、の隣へ腰を下ろした。そして、何かを乗せた手のひらをの前へ差し出す。ふわりと香った、甘い匂いのそれは。

「干した果物。夕飯前だけど、一つどう?」

 はナハトの顔と手のひらを交互に見て、ありがとうと呟き一つ摘んだ。口に運ぶと、瑞々しい果物とは異なる、弾力のある歯ごたえと凝縮された甘みが広がった。

「ん、甘くて美味しい」
「移動とかが多い職柄だからね、こういう簡単に摘めるものは何かしら持ち歩いてるんだ」

 そう言って、ナハトも一つ口へ放り投げる。
 少しの間、素朴だけど甘みの深い干した果物を、二人でもぐもぐと咀嚼した。

「――父さんが死んだのは、わりと最近でね」

 ごくりと飲み込んだ後、はなんとなしに語り始めた。これといった理由はなく独り言のようなものだったが、ナハトは耳を傾けてくれた。

「変な病気もなくて健康体そのものだったから、きっと、寿命ね。父さん、晩婚ってやつで六十歳超えてたけど、元気に働いて、元気に暮らして、それで寿命を全うして母さんのところにいった」

 二ヶ月前の事だったと、は付け加えた。

「――知ってたよ」

 少し間を置いた後、ナハトが呟いた。

「村の人たちや、君のその親父さんの友人から、少しだけど聞かされたからね。君が働いてる間に、ちらほらと」
「そっか……。もう二ヶ月前だし、きちんとお別れしてあるから気にはしてないんだ」

 残っていた道具を大切に使ってくれる人へ明け渡して、これでようやく最後の仕事も完了した。今はも、ほっと安堵している。

「ごめんね、びっくりしたでしょ? せっかく旅行に来たのに、重い話題と遭遇しちゃって」

 はおどけるように軽い調子で笑った。けれどナハトは首を振り、君が謝る事ではないでしょ、と静かな声で言った。

「大切なひとを看取って、そのひとが使ったものや場所をきちんと整理したんだ。立派な事だと思うよ」

 僕だから余計にそう思うのかな。呟くナハトの言葉を耳にし、は彼の横顔をじっと見つめる。
 少しの間、口を閉ざしていたナハトであったが、小さく息を吸いおもむろに語り始めた。先ほどのと同じ、独り言のような口調で。

「……面倒になって逃げてきた」
「え?」
「旅行のようなもので来たとは言ったけど、本当はね」

 驚いた表情を浮かべたに、ナハトは小さく口角を動かし笑う。「君が話したのに僕が話さないというのもね」そう言って、彼は続けた。

「僕、これでもそれなりに傭兵として成功してる方でね。名指しの依頼を入れてもらえる程度にはさ」

 だから、逃げてきた。呼び声が面倒になって、それが聞こえない場所に行きたくて――。
 淡々と響くナハトの声が、の耳に不思議と残った。

「傭兵になろうと思ったのも、これといった特別な理由があったわけじゃない。自分の性に合ってた、それくらいだからかな」

 そんな風に言ったら、必死に成功しようと下積みしてる人たちから恨みを買いそうだけどね。
 ナハトは冗談ぽく笑みをこぼしたが、の目に映るイタチの横顔は……深い静けさを宿しているように思えた。イタチという動物の頭そのものなのに、彼ら獣人は意外と表情が豊かである。

「……ナハトって、出身は何処なの?」

 ふとこぼれた言葉は、の初めての問いかけだった。それに険を浮かべる事もなく、ナハトはすんなり応じた。

「生まれは、ずっと北……北方の国だよ」

 暖かい季節は短く、寒い季節が長い、白銀に覆われる厳しい世界。
 大部分を雪で閉ざされる土地柄、そこで生きるものは人や獣、獣人問わず心身共に逞しく鍛えられる。厳しい環境で助け合いながら暮らし、あるいは他を退けて台頭する強者たちもいる、そんな場所だった。
 だからこそ、白銀に染められた世界は、緑豊かな土地には決してない張り詰めた美しさに満ちていた。

 そう語るナハトの横顔は、故郷の光景を思い出しているのか、とても穏やかだった。生まれてからずっと気候も穏やかで雪に閉ざされる事もない場所で暮らしているには、北方の地の厳しさは想像も出来ないが……ナハトの穏やかな様子には口元を緩めた。

「へえ、ナハトは北国育ちなんだ。ちょっとだけ意外」
「よく言われるんだよね、それ。でも、獣人も人間もそんな関係ないでしょ。人間だって雪国だとか山間だとか、海の側にだっているじゃない」

 それは、確かに。
 うんうんと頷くの横で、茶褐色のイタチは丸い小さな耳をピコピコと揺らす。

「ねえ、北国ってなると、やっぱりみんな白いの? あともっこもこ?」
「情報が偏ってるね」
「だってそんなイメージがあるから」

 ふわふわの白ギツネとか、もこもこの白ウサギとか。は可愛らしい生き物を思い浮かべ胸をときめかせたが、ナハトはおかしそうに笑った。

「この辺りとは比べられない大きな熊や大きな狼とかもウジャウジャいるけど?」

 しかもその血をくむ獣人もいるし、わりと弱肉強食の世界だよ――と、ナハトは告げる。
 の頭から真っ白なふわもこの動物が遠ざかり、牙を見せ唸り声をあげる捕食者たちが埋め尽くす。

「じゃあ、ナハトも冬になると白くなる? もふもふ?」
「一体何の期待を……。僕は白くならないよ、そういうイタチの連中もいるけど」

 ……そういうイタチ? が小首を傾げると、ナハトは合点がついたように笑って肩を竦めた。

「イタチっていったって、色んな奴がいるよ。一口に人間といっても色んな国の生まれがいるようにさ。僕は、普通のイタチと、北国だけで暮らしてきたイタチの仲間との間に生まれたから」

 いわゆるハーフというもので、しかもそのどちらも白くなる種ではない。外見こそごく一般的なイタチの姿をしているが、寒い冬になると残り半分の血が現れ、毛皮の色が茶褐色からガラリと変わる。
 広い意味ではイタチだが、厳密に言えばイタチの仲間だと、ナハトは言った。
 そういえば、彼は以前“ただのイタチ”と思っているのか、なんてに尋ねた事がある。なるほど、ハーフという意味を含んでいたのか。は勝手に納得した。

「じゃあ、ナハトは冬になると何色になるの?」
「しいていえば……黒?」
「く、黒?! ええー黒いイタチっているんだ……世界って広いねえ」
「いや、だからイタチの仲間……まあ、いいやもう、イタチで」

 ほのぼのとしているの隣で、ナハトは気の抜けた笑みをこぼす。

「……獣人の間なら伝わるけど、やっぱり人間だと認知度は低いな」
「え、なあに?」
「なんでもないよ。で、そこで生まれ育ったわけなんだけど、やっぱりそれなりに大変な場所でね」

 不満があったわけではないが、いずれこの地を離れもう少し日々を楽に生きていきたい。
 そう思うようになり、十歳を過ぎた頃、北の地を一人離れやって来たという。もともと身体能力の高さや腕っ節の強さには多少の自信があり、傭兵という職に就いたのは自然な事だった。そしてそれは、思った以上に自分の性に合っていた。

 けど、とナハトは呟く。

「逃げてきたんだから、あんまり説得力はないかな」

 そう明かす彼の言葉を、は笑わなかった。

「傭兵って、普段どういう事をしているの……?」
「まあ、一言で言えば、なんでも屋かな」

 傭兵という字面から、多くの人々は荒事を請け負う荒くれ者というイメージを根強く持つだろう。もちろんそれは否定しない。
 傭兵に届けられる依頼の大部分は、戦争の兵力であったり山賊や盗賊などの討伐だったり、力をもって成し遂げる事が多い。だが実際はそれだけでなく、旅や領地、館の護衛をしたり、失せもの探しに採取活動など……内容は多様で、雑用と言っても差し支えない。
 そもそも傭兵という職は、その昔未開拓な土地を開いてきた“冒険者”という人々の後任である。雑多な依頼を請け負うのは、歴史のようなものだろう。

 ただ、傭兵という職の実情は一般人には縁遠い事なので、荒事を請け負う荒くれ者、という認識が通る。結局のところはそれなので、誰も否定はしない。なんだかんだいって、力でどうこうする依頼を好む傭兵も多いのだ。

 そう語るナハトの言葉を、は関心して聞いていた。傭兵の世界なんて未知の領域そのものだ。想像もつかないけれど、そんな多種多様な依頼をナハトも請け負うという事だ。凄いなと、は素直に思っていた。

「大変な職だね、傭兵って。ナハトもじゃあ、剣を振ったりして身一つでやってるんだ」
「君が言うと柔らかく聞こえるのは何でだろうなあ……。まあ、そうだよ」
「そっかあ……凄いね」

 そんな職に、場所に、身を置き続けているという事が。

「……どうだろ、自分のためだけにやっているから、僕にはあまり実感がないよ。それに」

 ふっと、ナハトは笑った。

「一度だけ、手痛く失敗してるからね」
「失敗……?」
「そ、依頼自体は成功だったんだけどさ」

 もう五年以上は前だったかなあ。ナハトはぼんやりと夜空を仰いだ。

 貴族の末端にだが名を連ねる、とある良家の護衛依頼を受けた。道中は平穏だったが、目的地に到着する前に刺客の強襲に遭い乱戦となった。護衛対象は守りきって依頼は完遂したが、ナハトはその時、浅くはない怪我を負ったという。

「ちょうどその頃くらいから、傭兵の仕事の基盤も出来上がって、名指しの依頼も増えてきてね。色々と面倒なタチの依頼もあって……ちょっと冷静じゃなかったから。剣が刺さるなんて馬鹿な失敗をしちゃったよ」
「さ、刺さったの?! それ大丈夫だった?」
「大丈夫だったよ。そうでないと今も続けてないよ」

 軽く笑って、ナハトは片手を振った。

「でも、冷静じゃなかった頭にはそれがけっこう響いてね。端的に言えばやさぐれた、ていうのかな。なんで傭兵なんてしてんだろう、みたいな」

 そう思うのも無理はない。は頷いて、彼の横顔を見つめる。

「でも、傷の手当てに立ち寄った場所で……声を掛けてくれた男の人がいてね」
「男の人?」
「下ばかり見ていたから顔も覚えてない、名前も知らない、たぶん町の人。その人は、他人なのに話を聞いてきて、励ましたりなんだり気遣ってくれてね。それで最後は……ふふ、これで元気を出せとかいってパンまで持たせてきて」

 パン。
 あっと、は声を漏らした。おかしそうに笑うナハトは、を見やり頷いた。

「そう、あの町でね」

 話をしたのは、ほんの一時。けれど、その時に声を掛けてくれた事や気遣って食べ物を持たせてきた事、男性と別れた後に口にしたパンの味など、今も思い出すほどに何故か心に残り続けている。
 まったくの赤の他人なのに、一度煩わしさから逃げようかと思った時、どういうわけか浮かんできたのもその男性だった。
 しかし、その人がどういう人物なのか、どういう顔や格好をしていたか、それすらまったく覚えておらず、どうにか探そうとして……。

「だから、パン屋さん探してるなんて変な事……」

 の呟きに、ナハトは吹き出して笑う。

「ぷ、やっぱり変な事聞いてた? でもそれくらいしか思いつくのがなくてさ。まあ、そもそもパン職人だったかすら怪しいよね」

 この町へ再びやって来て尋ね回ったが、結局、その人の情報は一つも出てこなかった。そもそも、その記憶だけで辿ろうというのが間違いである。
 会ってどうこうしようというわけではないけれど、ただなんとなく、あの人は今度なんていうのか気になった。
 呟くナハトの横顔は、温かいものが浮かんでいた。

「珍しいというかなんか変なパンだったから、すぐ見つかると思ったんだけどなあ」
「そう……それで、この辺りにまでやって来たんだ」
「顔も名前も知らない人に会おうなんて、変な話だな」
「そんな事ないよ。でも……そっかあ」

 は座り直し、うん、と頷く。

「じゃあナハトは、自分を見つめ直しにやって来たんだ」

 私と同じだね。
 小さく笑うに、ナハトの顔が向き直る。そこには、少し驚いたような色が窺えた。言葉なく「君も?」と尋ねているような気がした。

「父さんが死んで、これからどうしようって、近頃よく思ってるから。私が出来る事はなんだろうって」
「……細工師だっけ? 君の親父さん」
「そう、けっこう仕事の受注もあったんだよ。最期まで、抱えた仕事をやり抜いた」

 そういう父の姿を、尊敬していたし、もちろん誇らしかった。けれど、はそれを継がなかった。

「私、食堂で働いてるでしょ? きっとそういうのが性に合ってるんだよね。母さんが死んでからずっと厨房の当番だったし、料理もわりかし好きだし。人と接するのも嫌いじゃないし」

 食を提供する場所で働けたら、携われたら。
 それが今のところの、のやりたい事であり、願いでもあった。きっとそれを感じ取っていたから、父も細工師の後を継げなんて言わなかったのだろう。

「……そう、君、料理上手だしね」
「! 本当?」
「うん、だって美味しかったし」

 その言葉に、は表情をぱっと明るくさせる。ナハトの食べるスピードから口に合っているのだろうとは思っていたが、そう言ってもらえると俄然やる気に繋がるというものだ。良かった、とこぼすの口元で上機嫌な微笑みが綻ぶ。

「別に店を持ちたいとかそういうんじゃないけど、そういう場所に関わっていけたら、楽しいんだろうなあって思う」

 その時、サア、と静かに夜風が動く。
 はおもむろに背伸びをし、大きく深呼吸した。少しの肌寒さの残る空気が、心地よく全身を伝う。

「誰かに声に出して言ったの、初めてかも」

 思い返せば、こんな話を、誰かとした事はなかった。
 笑いながら隣を見れば、ナハトのつぶらな瞳と視線が交わった。何となく気恥ずかしさがこみ上げ、は慌ててそらすと、ぽんっと自らの足を叩く。

「えっと、すっかり話し込んじゃったね、夕飯にしよ」

 座り込んだ身体を立たせようとした時、ナハトが素早く先に立ち上がった。しなやかな躯体が伸び、の横に佇む。そして、大きな手のひらをの顔の前へ差し出した。その意図を理解し、は少し躊躇いながらも自らの手をそこに乗せる。ナハトは軽々と、を引き上げ立たせた。

「僕も、初めてかもしれない」
「え?」
「身の上話なんて、誰かにするのはさ」

 そう言いながら、彼は少しおかしそうに肩を震わせた。そんな彼を見上げて、も笑みを浮かべる。

「一緒、だね」
「……そうかもね、案外」

 はにっこりと目を細め、「さ、夕飯にしよ」と歩き始める。その隣に、ナハトが並ぶ。

「自分の見つめ直し、うまくいくといいね。お互いに」

 静けさに包まれるのナハトの間を、夜風が過ぎ去る。背格好も外見も、種族も異なる二人の肩と爪先は自然と並び、歩幅を合わせて進む。

 ――条件のもとに宿を貸した主と、宿を借りた旅人。

 最初に築かれた二人の関係に、その時、確かに何かが芽生えていた。
 小さくささやかだけれど、明らかに最初とは異なる、特別な“何か”が――。



ついでにナハトの出生をパラパラとばらまきました。
動物に詳しい方なら、これでいよいよ特定も容易になったと思いますが、まだ内緒でお願いします。
後で必ず名前が出てきますので~


2016.07.28