05

 旅行にやって来たという不思議なイタチの獣人――ナハトの存在は、意外とすぐに受け入れられた。
 小さな村ゆえに古くからの付き合いが長い顔馴染みで、そのせいか外から来た人にはつい過剰に反応してしまうけれど、もともと村人はのんびりとした気の良い人たちばかりだ。よそよそしい妙な空気は、一日、二日経てばすぐになくなった。
 が、この時期に野外で寝泊りしていて可愛そうだった、一時の旅のお宿に作業場を提供した、普通に良いイタチの青年だ、などなど念入りに話をしたのもあるが、どうやら男衆から気に入られた事が大きいらしい。
 曰く、この時期に野宿するたぁなかなか度胸があるじゃねえか、と。
 大真面目に危険になる野外で過ごしたというところは確かにも仰天したが、度胸があるというより、怖いもの知らずが過ぎると言うべきだろう。

 当のナハト本人も。

「そう驚く事じゃないんだけどね。僕が生まれ育った場所の方がもっと凄かったし」

 と、非常にあっけらかんとしている。あまり危機を危機として見ていないのか。
 傭兵という職に就いているという事が本当なのかどうかと考えてしまうほど、彼は全体的にほっそりとしなやかな外見なのだが……その心胆はとても据わっている。
 白花に誘われて集まった野生の生き物を退ける役を、二つ返事で引き受けるくらいなのだから、そうなのだろうが……。

 ただ、彼が“イタチ”というだけで眉をしかめる人も、中には存在した。
 イタチという生き物は怖いのだと。恐ろしく、油断ならないのだと。
 確かにこの辺りは田舎で、畑仕事をする人も多いから荒らされた等の話はたびたび耳にするが、しかし。だからと言って、彼の事も等しくそう見る必要はないだろうに。にはよく分からなかった。

 目に映るナハトという人物は、傭兵という単語から遠い、険のない声と柔軟な物腰を感じる、不思議なイタチの青年だった。それは、旅先の宿を提供する今も変わっていない。

 変わっていないが。

「……君は素直だね。でも、僕は言うほど優しくはないかもしれないよ」

 時々、少し意地悪な言葉を口にする。


◆◇◆


 朝方の白い靄が晴れ、長閑な景観が広がる村に、今日も穏やかな陽が注いだ。
 はいつものように田畑の様子を見て、洗濯と掃除に勤しんだ。
 ついでにシーツとかも洗っちゃおうかな、とリネンを抱えて家の外に出た時だった。はふと遠くを眺め、その足を止めた。
 村はずれに佇む自宅は、周辺に広がる平原と隣り合わせで、背の低い木の柵を超えればその向こうは豊かな自然だった。その中に点在する木々の一つに、寄りかかる影を見つけたのだ。
 もしかして、と思ったはリネンを入れた篭を抱えたまま向かい、近づいて覗き見る。
 やはりそれはナハトだった。
 しなかな躯体を木に預けるようにして座る彼の横顔は、うたた寝をしているのか、瞼を下ろしている。イタチの頭も相まって、ちょっぴりと無防備さを感じた。
 さすが、この時期に野宿するだけはある。は苦笑いの感心をこぼしながら、ふと、ナハトをじっと見下ろした。
 人と獣の二つの性質を持つ、獣人という種族。その中でもイタチという種の血を持つ彼は、全体的にシュッとしなやかな外見で、柔らかそうな茶褐色の毛皮を全身に有している。地面に横たわる尾は豊かで、こうして見るとやはり彼はあんまり怖くない。現在、食堂を出入りする傭兵の面々や、いつだったかに見かけた虎や狼の獣人の方が、よっぽど恐ろしいだろう。
 食堂のおじさんや、ナハトを見かけた人々は、イタチというところに渋り顔を見せたけれど……。

(そんなに構えなくても良いって思うんだけどな)

 はそんな風に思いながら、少し背をかがめて距離を詰める。人間と同じ大きさのイタチの顔を、近くからぼんやりと見つめた。


 ――と、その時。

 閉ざされていたナハトの瞳が、勢いよく見開いた。


 前触れもなく突然彼の瞼が上がり、は驚いて身を引く。けれど、片腕を凄まじい力で掴まれ、は一瞬の内に地面へ引き倒された。全身に響く、鈍く重い衝撃。激しく打ちつけられた事を理解する間もなく、の身体は仰向けに縫い付けられた。

 今、何が起きたのだろう。

 は何一つとして分からず、微かに呻く。突然降りかかった衝撃によって、反射的に閉じた瞼の裏には、影と光が交互にちらついた。
 身動ぎをしようとしたが、出来なかった。まるで百、いや万の力が掛かったように、の身体は重く押さえ付けられていた。仰向けになる首や腹部に、息苦しさが重なる。
 は硬く閉じた瞼を恐る恐る押し上げた。

 真っ先に映ったのは、よく晴れた青空と、空に向かう木の葉の茂みと。

 逆光を受けて影を落とす、牙をむいた獣だった。

 の胸の奥で、心臓が歪な音を立てて跳ねる。身動ぎしようとした四肢は、ぴたりと動くのを止めた。
 仰向けになったの上には、ナハトが馬乗りになっていた。の細い腕を地面に縫いつけ、無防備に晒す細い喉に何かを突きつけ、明らかな意図をもってを睥睨している。

「ナハ、ト」

 上手く声が出なかった。

 この数日間、は少なくとも彼を怖いと思った事はない。あるとしても食事する時の顔つきくらいなもので、これからもそう思う事はないと何処かで思っていた。
 けれど、彼が獣人だという事を、獣人という種族の所以を、あまり真に理解していなかったのかもしれない。
 唐突に、それを垣間見た心地だった。
 頭上から睥睨するイタチは、鼻筋にしわを寄せ、小さいながらも非常に鋭い牙をむき出している。その顔つきは、“獰猛な肉食獣”を彷彿とさせた。いや、もしかしたら、そのものなのかもしれない。


 ――平原に吹く風が、強張る静寂を撫でて過ぎ去ってゆく。場違いなものに感じるほど凪いだ、優しい風の音がとナハトの間に響いた。

 数秒の間、そんな体勢で視線を交わしていると、鋭く光るナハトの瞳がハッと瞬いた。

「……?」

 眼光が薄れ、鼻筋に浮かんだしわがなくなる。獰猛そうな顔つきが、何度も見てきた可愛らしいそれに戻った。
 の身体の強ばりが解け、ほっと息を吐き出す。しかし、未だドクドクと跳ねる己の心臓の音を、確かに聞いた。それを隠して、はナハトをしっかりと見上げたまま、うん、と頷く。
 ナハトの拘束が、ぎこちなく緩んでいく。ようやく身動ぎが出来るようになったので頭を起こした時、視界の片隅に鋭利な光を放つ何かが飛び込む。それはよく見ると――短剣だった。
 喉元に突きつけられた短剣はすぐに離れ、ナハトの腰の後ろへ戻ってゆく。護身用に隠し持っていたのだろう。

 気まずい空気が、穏やかに吹く風へ混じる。バツが悪そうなナハトからは、特にそれが強く放たれている。はそれを和らげようとして、にこりと笑ってみせた。

「ごめんね、私ったら。なんにも言わないで、急に近付いたりしたから」

 彼は、傭兵だ。反射的にそうなってしまうと考えれば、が受けたものも納得がいく。
 ナハトは何か言おうとしたが、一度口を閉ざすと素早く立ち上がった。そして引き倒してしまったの前へ、その手のひらを差し出す。
 ふかふかの茶褐色の体毛で覆われた、男性らしい大きな手。
 つい先ほど、予期せぬ拘束をしたイタチの手だが、今はもうその気配はない。はそっと自らの手を置き、ナハトに引き上げられて立ち上がる。

「……悪かったね」

 呟いたナハトの声は少し低い。ぎこちなく紡ぐ言葉には、申し訳なさとバツの悪さが含まれている。
 はもう一度首を振り「いいよ、大丈夫」と微笑む。正面に佇むナハトは、様子を窺うようにちらりとへ視線を下げている。

「それにしても、びっくり! ナハト、すごく力があるんだね、全然動けなかったよ」
「……そりゃあ、これでも雄だし、鍛え方も君とは違うからね」

 仰るとおりである。ただの村娘が、力自慢で有名な獣人の、それも男性に敵うはずがない。
 イタチの獣性とはいえ、彼は男性で、間違いなく獣人なのだ。女と男、人間と獣人、その差異を見せ付けられたような気分になる。
 そんな事を考えるの前で、ナハトが不意に小さく呼気を漏らした。

「君は……はあ、なんだか、気勢を削ぐというか、毒気を抜いてくるね」
「そうかな?」
「そうだよ。……長年の癖みたいなもんなんだ、悪かった」
「いいよいいよ、気にしてないから。傭兵さんなら、仕方ないよね」
「いや、そっちもだけど、そっちじゃなくて」

 は小首を傾げる。ナハトは視線を横へずらし、あれ、と指差した。その動きを目で追いかけたは、ようやく思い出した。
 小脇に抱えていたはずのリネン類を入れた篭が、いつの間にかなくなっていた事を。
 放り投げてしまった篭から散らばった白いシーツなどが、風に煽られ緑の平原に広がってゆくその光景。ようやく視界に入れたは、わたわたと追いかけ始めたが、風はまたもふわりと吹き、リネンを遠ざけるように悪戯に運んでゆく。
 ああ、拾っていくそばから!

「……まあ、僕のせいだしね。ほら、篭を持ってて」
「え、あ」
「集めてあげる。君の足じゃ、余計に時間が掛かりそうだからね」

 ナハトは拾い上げた篭をに渡すと、その場で屈伸運動を軽くした。そして、茶褐色のしなやかな身体を低くし――疾風のように、駆け出した。
 平原に吹いた風を追い抜くように、緑の上を疾走するしなやかな姿。煽られた髪をそのままに、は横を過ぎ去ったイタチの背と宙を泳いだ豊かな尾を無意識に追いかけて見つめた。
 音を立てず、無駄を生まない、俊敏な身のこなし。風にも追いつきそうな速さには、イタチという種を裏付ける、鮮やかな美しさが放たれていた。

「……風みたい……」

 そうしてがぼんやりとしている間に、ナハトは散らばったリネンをあっさりと集め、脇に抱えて再び戻って来る。疲れた様子はなく、もちろん息も切れていなかった。




 ――リネン類を拾い集めた後、結局ナハトは洗濯から干し作業まで全て手伝ってくれた。
 邪魔したのは私なのに、ありがたいやら申し訳ないやら。
 洗い立ての白いシーツが気持ちよくはたはたと揺れる様子を、は作業場の窓の向こうに見た。

「お客様なのに、ありがとう。助かっちゃった」

 そして新しいシーツを住居から用意して、作業場のベッドを整える現在である。
 しわ一つ作らないよう丁寧にシーツを広げ四隅を折り込んでいると、の背にナハトの声が届いた。

「お客様、か」

 抑揚のない、静かな声音。振り返ったに、ナハトの視線が向けられていた。つぶらな瞳の、ふかふかしたイタチの顔。けれど、その中に冷ややかなものが宿っているような気がした。

「武器を向けられたのに、お客様と言ってくれるの? それは嬉しいけどね、、君は僕を切り捨てる権利があると思うよ」

 切り捨てる。
 思ってもいない物騒な台詞を聞いて、は仰天する。

「き、切り捨てるって」
「刃物を向けられたんだから、追い出す権利は君にはあるでしょ」
「い、言い方が怖いよー!」

 何故そんな言葉選びをしたのかと思いながら、は首をぶんぶんと横に振る。追い出したりなんてしないよと言えば、ナハトの丸い瞳がさらに丸く見開いた。
 あ、それ、ちょっと……いやかなり、可愛い。
 どうして、と無言で問いかけるナハトへ、は言った。

「だって、ナハトは傭兵で、身についた癖なんでしょ? 私が、驚かせたのが悪いんだもの」
「またされるかもしれないよ? 今のうちだと思うけどね、追い出すなら」
「でも、謝ってくれたじゃない。悪かったって、わざとじゃないって、それで、色々手伝ってくれたもの」

 それも嘘ではないと、は思った。
 頭一つ分ほど上背の伸びたナハトを、じっと見つめる。ナハトはしばし瞬きを繰り返すと、気勢をそがれたような笑みをこぼした。

「どうして、君の方がそう必死なの」
「え? あ……」

 ナハトに言われ、確かに力が入ってしまっていた事をは自覚した。
 確かに、何で私の方が必死に言い募っているのだろう。
 急に気恥ずかしさが押し寄せてきたが、ナハトは柔らかな雰囲気で佇んでいる。先ほどの冷ややかな気配は見当たらず、しなやかな体躯にもゆったりとした空気が寄り添っていた。

「……そうしたって悪くないし、俺は恨んだりしないのに。君はやっぱり、毒気を抜いてくるね。こっちが悪いことを言ったみたいだ」
「ええっと、ごめんね……?」

 首をかしげながら告げれば、ナハトは吹き出すように息を漏らし「こちらこそ、悪かった」と二度目の言葉を口にした。
 そこに居るのは、つぶらな瞳の、シュッと可愛いイタチの青年。豊かな尾を揺らし、不思議な気品を醸す柔和な居住まいの、しなやかな青年だ。
 冷ややかな気配は何処にもなく、はふわりと微笑む。ほら、そんなに怖い人じゃない。

「もしまた反射的にしたって、傭兵ってそういうものなんだって分かったから大丈夫。だから気兼ねなく、居てくれて良いからね」

 そしてこれから、白花が咲いて本格的に大変になるから、是非とも力を貸してね。
 そんな言葉も付け加えれば、ナハトは頷きぱたりと尾を揺らした。そして不意に、その黒い瞳を細めた。

「君は緩いね、でも……少しは自覚できたかな?」
「え?」
「僕が――傭兵だっていう事を」

 ふわりと、あまりにも自然な足運びでナハトが距離を詰めた。
 があっと声を出した時には、既に胸と胸がぶつかりそうなほど近い場所に彼が佇んでおり、を頭上から見下ろしている。

「それと、獣人だっていう事も」

 ナハトの足が、突然、の足を払った。
 なんで?! と心の中で叫びながら、はあっさりとバランスを崩し、作業場の床へ倒れてゆく。
 けれど、その身体を茶褐色の手が抱きとめた。
 膝がくず折れたような不格好な姿で、はなんとか踏みとどまる。けれど、正しくは、支えられていた。の腰に回った、ナハトの片腕によって。

「ナ、ナハトッ?」

 意図せずの声はひっくり返った。
 不安定な体勢を腕一本で支え、覆い被さるように身を寄せ至近距離からを覗き込むナハト。視界いっぱいに広がる黒い瞳や小さな鼻など、何処を見てもイタチのものなのに、の前に居るのは“人”でもあった。
 腰に回る、意外にもがっしりとしている腕。不安定な体勢でも危うさが全くない身体。そして、笑みを湛える、黒い双眸と口元。
 獣と人、二つの性質を持つ種族なのだから当然だけど、唐突にそう思ってしまったのは――。

「……獣人の雄がどういうものか、ようやく分かった?」

 困惑を露わにするへ、ナハトは笑みを含んだ声で言った。ハッと意識を戻すと、目の前でイタチの顔が笑っている。からかうような、悪戯っぽさを含んだ仕草に見えて、は慌ててナハトの胸を押す。

「ちょ、も、もう、からかわないでよ!」
「からかっていないよ。言ったでしょ、君は“ちょっと緩すぎる”って」

 ナハトはあっさりと佇まいを直すと、不格好な姿で踏ん張っていたを引き上げる。ようやく体勢が戻ったけれど、そわそわと心が落ち着かない。は視線をそらし、もう、と肩を尖らせた。

「気を付けてないと、横からかじられるよ」

 ほら――今みたいに。

 ふわりと空気が動いて、視界の片隅で茶褐色が動く。つられて顔を動かした、その瞬間――の鼻先に、かぷりとイタチがかぶりついた。
 もちろん本気の力はない。痛みらしいものはない。けれど、目を見開く程度には衝撃があった。
 呆然とするの正面で、ナハトがにんまりと口元を上げる。
 小首を傾げて可愛らしく、けれど、僅かな揶揄を含んだ悪戯なあざとさに満ちた仕草。
 は思わず、備え付けておこうと思っていた新しいタオルを持ち上げ、ナハトの胸に投げつけた。絶妙なところでかわされ、彼の腕に引っかかった。

「もう、馬鹿! からかわないで!」

 ずんずんと足を運び、は作業場を後にする。その背には、ナハトの楽しそうな空気が終始感じられ、ますます気恥ずかしいような腹立たしいような気分になる。


 作業場から自宅へ戻ったは、大きく息を吐き出して肩を竦める。腹立たしいけれど、むかむかする不快なそれではなかった。
 ……誰かと悪ふざけをするなんて、いつぶりだろう。
 はかじられた鼻先を指で撫でながら、ふと考える。

 冷ややかで鋭利な、傭兵の顔。
 人間の、それも女とは根本から違う屈強な、獣人の顔。
 それと、少し意地悪で悪戯っぽい、ナハト個人の顔。

 一度に色んな彼を目撃したせいか、少し頭が困惑する。つぶらなイタチの顔にばかり目を向けていた証拠なのだろう。
 外見こそはほっそりとしなやかだけど、職業柄でも種族柄でも、遥かに強靭な存在――それをも理解した。

 ――だって。

(腕、意外とがっしりしてたなあ……)

 回された腕の感触が、何故かとても熱く残っている。
 あれは、獣ではなく、確かに人のものだった。


◆◇◆


 大股で出て行ったわりに、扉を閉じるのは妙に丁寧だった。何気ない仕草からも家主の性質を感じる。
 扉の向こうへと足音が遠ざかり、広い作業場には静寂が戻る。ナハトは作業場の椅子に腰掛け、くつくつと笑みをこぼした。

「――かっわいいなあ」

 おっとりしてるかと思ったが、なんだ、ああいう表情もちゃんと出来るらしい。
 の困惑した真っ赤な顔を思い出し、愉悦に近いものが浮かび上がる。

「本当に、可愛い」

 明るくて、のんびりとして、しっかりしているようで隙だらけ。気を抜いているのか信頼しているのか、簡単に牙が届いてしまうのに彼女の空気は緩やか。

 ――そういうところが、僕とは違うって事なんだろうな

 上機嫌に、イタチは笑う。
 真っ赤になったの顔は、意外と、悪くはなかった。



今までのヒーローとはまたタイプの違う性格。
犬猫よりも遙かに肉食系になりました。
某狼獣人のお兄さんとはえらい差ですね!(明け透け)


2016.07.02